2002 ドラマ @

はいけい ばあちゃん (克哉 の場合)

 淡路島へ向かうフェリーの中で、父はじっと克哉を見ていた。 中学1年の夏休み。 克哉が中学生になって、初めての里帰りだ。

 「 もう2年ほど、俺とは口をきいてくれない。 いったい何を考えているのかな? 家族旅行にも、めったに付いて来ないし・・・。 しかし今回は、やけにあっさり 付いて来たが、あの背中のリュックは何なんだ? いつも手ぶらなのに。 まったく・・わからん やつだ・・・ 」

 そう、克哉はだいじそうにリュックを持って来た。

 やがて、ばあちゃんの家に着いた。 克哉はばあちゃんの顔を見るなり、リュックを開けた。 出て来たのは、もらったばかりの成績表だ。 小学校の時と同じ、3ばかりなのだが、ひとつだけ・・・

 「 ばあちゃん、僕は数学で 5 をとったよ! 」

 父は驚いた。 こんなに嬉しそうな克哉を、久しぶりに見たという・・・。

1 出会い



 もうすぐ中学だ。 克哉は迷っていた。 友達は皆、近所の 「進学塾 」へ行く。 そこへ行きさえすれば、成績は、見たこともない 5 ばかりになるらしい。 僕も 5 を取ってみたい・・・。 しかし克哉は、ひとつ、気になっていた。 父が言っていた 「 シュタイナー教室 」 だ。 進学塾ではないらしい。 けど、塾って、どこもバンバン勉強する 進学塾 のことじゃないのかな? 変だな。 勉強はするのかな・・・?

 「 両方とも、見て来たらええやないか 」

 父に言われ、どちらの塾へも行ってみて2週間後、克哉はシュタイナー教室を選んだ。

 おとなしくて真面目ではあったが、線は細く、考え方は硬い子であった。 父からは、三つの 「不安 」を聞いていた。 口をきいてくれないこと。 弟・妹の面倒をみてくれないこと。 数年前に長野に山小屋を買い、家族でスキーに行っていたが、2年前から付いて来ず、3日間の留守番を家にあるインスタントラーメンとお菓子で食いつなぎ、「 食費 」 の3000円は自分のこずかいにしてしまうと言う。

 「 こずかいは、やっているのに・・・ 」

 私はそれらの原因は、まったく追求しなかった。 私にだって子どもの頃、似たような事はあり、なんとなくその気持ちがわかったからだ。 そしてそれを直すのは 「 説教 」ではなく、その線の細さと考えの硬さを直し、育ててやることだともわかっていた。 思考の幅を広げ、それを人間の幅にまでつないでゆく数学。 私の願いはいつもそれだが、克哉の場合、特にそれを強く意識しなければならなかった。

2 中学の頃



 数学を絵や図にして考えを進めようとしても、克哉は図そのものを暗記しようとし、なかなか考えそのものへは進んでは行けなかった。 真面目に暗記する中での、1学期の5であったと言える。

 「 今の段階では、1も5もいっしょや・・・。 」

 私はそう考えていたが、克哉の学習意欲は明らかに変わった。 よほどうれしかったのだろう。 ますます勉強するようになり、こんな値打ちのある5もあるんだと感心させられた。 父も喜んでいたのだがしかし、 「 今のままでは、5は難しくなりますよ。 その硬さ・弱さが変わった訳ではない。 暗記に頼りすぎるのは、けっして良くはないのですよ。 」

 しかし私はあえて、克哉をそのままにしておいた。 この子にとって、「 考え方 」を「 理解する方向 」とは、今はまだ難しすぎるのかも知れない。 基本的なフォームを暗記するだけで、精いっぱいなのかも知れない。 ならば、基本をいっぱい憶えさそう。 それらがあふれて来る中で、「 自分のフォーム 」が固まって来るのを待とう。 この子に対する方針は決まった。

 2学期 ・ 3学期と、やはり5はなくなり、少しずつ成績は下がった。 父ともまだ口をきかない。 しかし私は手応えを感じていた。 その思考が少しずつだが、柔らかくなり始めていることを知っていたからだ。 今の克哉の「 器 」からあふれ出た基本が、その縁に固まり、器そのものを大きくしようとしている。 しかし親は不思議に思ったことだろう。 少しずつ成績は落ちて、オール3になったと言うのに、

 「 いい感じです。 理想どおりに進んでいますよ。 」

 なんて、私は言うのだから。 「 成績が落ちて、何が理想や! 」なんて怒られても仕方ないのに、幸い父は、そのことは何も言わなかった。

 「 中3くらいから点が取れればいいや 」 なんて考えていた私の予想より速く、克哉は成績を上げはじめた。 中2の2学期には、いちいちばあちゃんに見せていられないほど5が並ぶようになった。 学ぶ姿勢はもうこれでいいのだろう。後はその方向性だが・・・・もう少し、しなやかさというか、伸びやかさが出ないだろうか。私が願うような「克哉らしいフォーム」は、なかなか出てこなかった。あくまで私の教えたフォームをかたくなに守り、きちっと走ろうとする。それが克哉らしさだと言ってしまえばそうだが、どこか私には物足りない。将来それが、この子の弱さにならないだろうか・・・・・。

 少しずつ精神的にはたくましくなっているようだが、やはりそのままのフォームで、菟道高校人文U類へとかけていってしまった。

3 高校にて



 入学を決めた春、克哉の顔が見る見る柔らかくなっていった。どうやら入試が相当なプレッシャーだったようだ。私にすれば「何の心配があるねん?」と思っていただけに、そんな克哉の気の小ささが 微笑ましかった。 そんなとき、私が出ている卓球の試合会場に克哉の父が、ひょっこりと顔を出した。もうお父さんはずいぶん卓球から離れているのに、なんで?

 「いや〜、今日は河原さんに会いに来たんや。うれしゅうてな〜」

 「何があった?」

 「この前、夫婦で出かける用事があった。克哉に弟と妹のめんどうを見とけと言うたんや。今まではいつも、なんで僕が見んなんねんや!と言うとったのに、初めて、ああええよ、なんぼでも見てるし、ゆっくり行っといでえなと言うてくれた・・・・俺、うれしい・・・」

 克哉の父は 、全国でも珍しい 「障害を持つ子の父親の会」 の立ち上げに尽力し、少年院の教官としても日々、教師としての在り方、父としての在り方・・・・など、思い悩んでいる。そのひょうひょうとした性格ゆえ普段の表情からはうかがい知れないが、その悩みは、ある面で、私よりもはるかに深い。 子育てとは、家族とは何だろうか・・・・お父さんは、そんな誰にも答えられないような巨大な問題の答えに迫りたくて、山小屋を買い、スキーも始めたのだろう。・・・・・しかしそうやって、絆を深めようとすればするほど、子どもは離れていく・・・・・そんなことがある。それは、私と生徒の関係でも同じ事がある。 いっそ、一度くらい張り倒して 「ばかもの!好きにするな。俺の言う通りにして、俺のそばにいろ。そして・・・いつまでも、父さんのことを好きでいろ!」

 なんてやれればいいのだが、それはテレビドラマの世界で、実際にはただ思い悩み、くよくよ、うじうじし、弱気になるばかりで、何をすればいいのかわからない・・・・。たぶん、この頃のお父さんの想いはそんなことの連続であり、克哉のちょっとした変化がとてもうれしかったのだろう。

 そんな父の気持ちを知ってか知らずか、克哉はよく勉強した。・・・・この子の進学だけを考えるなら、それでいいだろう。しかし私の願いはそれだけではない。考え方に厚みと柔らかさのある 「大人」 に育てたい。その想いはどの子にも同じだが、克哉のように、どこか不器用である事を自分で知るがゆえ、ストイックに、かたくななまでに 「真面目に勉強」 せざるをえない子・・・に対しては、特に強く意識する。そしてそのような子とは、少し勉強を離れた場で行動を共にし、語り合うという、ある意味 「遊びの場」 を持たなければならないのだが・・・・・・。 悲しい事かも知れないが、私はそんな 「遊びの場」 で、今や未来を語り合える 「兄貴」ではなくなってきたようだ。少し前まで、男の子は全て弟であり、女の子は恋人であったのに、いつのまにか 「息子と娘」 になってしまった・・・。 ならば、すさまじい頑固おやじになってやろうと昔は思っていたが、その年になってみると、どうもそのタイプでもないし、それがカッコ良くも思えなくなった。 どうしたものか・・・・と考える私を助けてくれたのは、三谷と大山の存在であった。

 彼ら2人こそ理想的な兄貴だった。大山の一間のマンションへ皆で行ったときには、パソコン類や本のすさまじい散らかりように度肝を抜かれ、全員で掃除してから座る場所を確保したようだ。 三谷の家へも遊びにゆき、その時は夜遅くまで話し込むうち、雑魚寝になったのだろう。それらの 「遊びの場」 での何気ない語り合いは、どれほど克哉達を勇気づけ、大人に近づけたことだろう・・・・・。ちょっとうらやましく、悔しくもあるが、ま、講師それぞれの立場とポジションがあるのだろう。

4 受験



 結局克哉は6年間、自分の都合では一日も塾を休まなかった。40度の熱があっても休まなかった。これは克哉の 「僕は勉強が出来ない」 というコンプレックスの裏返しであったのだろう。黙々と、淡々と学びを積み上げてゆく生き方しか、この6年間、克哉には出来なかった。 クラブで楽しく汗を流し、皆で戯れてだべり、自由に生きる・・・今は親も子もそれが多数派のようだ。楽しく、戯れ、自由・・・・なんと心地よい言葉なのだろう。 しかし、幸か不幸か、その言葉に隠された現実を見、感じてしまったらどうだろう?その実体に楽しさを感じる事が出来ず、だべることが好きでもなく、それが自由だとも思えない若者は・・・どう生きれば良いのだろう?

 安易に人と流れることの出来ない自分とは何者なのか・・・克哉の6年間とは、そんな自分探しの旅であった。だからこそ私は、もっと力強く自分を表現するすべを、自分のフォームをと、この子に求めてきた。 残念ながらついに、それは充分には得られなかった。しかし私には、そのかたくななフォームでも充分に、国立大学を突破できる力をつけたと思えた。が、克哉にはそんな自分など見えていなかった。

 「・・・僕なんかが、国立大・・・・」

 「バ〜カ。どこでも楽勝やんけ!2〜3の大学、見てこい」

 私にそそのかされ大学を見てきた克哉は、神戸大学に強く心を引かれた。あんなところで学んでみたい・・・・・・・

 センターテストの結果は、神戸大なら17点のマイナスであった。立命館大学は、その結果だけで合格していた。 「・・・・マイナス17点?ふん!思ったより良くはないが、こんなもの2次ではねかえしてくれるわ!おい克哉、前・後期とも神戸で行くぞ!」

 ところが克哉はすっかりびびっていた。追い討ちを掛けて高校側からは、呪文のように、「志望を落とせ〜、志望を落とせ〜」 うるさく言って、なんとか前期だけは神戸にさせ、2次に送り出した。しかし・・・・・

 「おっさん」 の私には遠慮があるのか 「あんまり出来ませんでした」 としか言わなかったが、「兄貴」 の大山・三谷、自分のとうちゃんには本音が出た。 「あかんわ!ぼろぼろや。英語は易しすぎて差が出えへんやろし、国語は元々苦手で、あってるやらまちごうてるやら・・・・頼みの数学はほとんど解けへんかった。もうあかん!絶望や!」

 まもなく発表という頃、克哉の父から一杯飲みの誘いがあった。お父さんは、今は医療少年院の教官をしている。 しばらく教育談義に花を咲かせていたが、そのうち天野さんの本音が出てきた。

 「・・・・・立命館の入学案内がず〜と机の上に置いてあったんで、そろそろ手付けを打とうと思てたのに、今朝見たら無いんや。変わりに予備校の案内がどっさりと・・・・。克哉に聞いたら 『私立には行かん、後期の滋賀大学落ちたら浪人する。手付けの30万円払うなら、俺にくれ!』やと。 どうやろ、あいつ滋賀には受かるやろか?」

 お好み焼きをつついていた私は突然酔いが回り、天井がくるくるしはじめた。こんな酒はずいぶん久しぶりだ。

 「バ、バカ言っちゃあいけにゃいよ!(舌は回っていない) 俺は、克哉は阪大でも通ると思ってるんらよ。 あいつに数学出来んかったら、他のやつらはマイナスの点らぜ。やつは神戸に、絶対受かってるんら〜〜!」

 発表当日、いっしょに受けに行った徹も心配だからと、三谷も教室に来て2時間待っている。どたどたと人が入ってきた。戸を 「半分」 開けると、徹の姿だけが見えた。

 「受かってました!」

 「お、おう!そうか、よかったな!」

 と言いながら、私の背中に冷たいものが走った。

 「と、ところで、克哉は?」

 「え?・・・ここに・・・」

 戸を 「全部」 開けた。・・・・そこに克哉が立っていた・・・・

 「受かりました。なんで、なんで受かれたのか、わかりません・・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

はいけい ばあちゃん

  小さい頃、はだしで淡路の地を走りまわり、中学時代には新聞配達で家計を助けたあなたの息子は、迷いながらも、こんなに立派なあなたの孫を育てました。 克哉は、過ぎるほどに真面目な子です。それゆえまだ、世の中と自分は遠すぎ、父や家族との距離は近すぎて、どう接してよいのかわからないところもあります。しかし、今時誰もが無視してしまうようなそんなことを考える事が、人を大人にしてゆくのだと思います。 克哉は、まだ言葉にならないところで、それを考え続けてきました。そして、大好きなあなたのいる島が見えるような、とっても素敵な大学で学び、答えに近づいて行く事でしょう。 あなたの息子は、このドラマを淡路に持ってかえると言っています。6年間の中の、ほんの少しだけ、息子と孫の成長の姿を書かせてもらいました。このドラマを手にされましたら、どうぞ誉めてあげてください。なんて素敵な父と子だろうと・・・。