1998 ドラマ @
一度だけの受験 (トキヒロの場合)
その時私は、数学の質問に来ていた高2の生徒に解説しているところだった。ドアの小窓からヒョイとトキヒロの顔が覗いた。どこか恥ずかしげで、遠慮気味な笑顔は6年前と同じだ。ただ、当時は背が足りず、その小窓から覗くことは出来なかったけれども・・・
1 中学での出来事
中1の頃、トキヒロは明るく笑う子であったが、まだどこかに
「点を取れる人は、それだけですごくて、僕なんか・・・」
と言うような弱さがあり、意見も言えず、そっと人の後ろをついて行くところがあった。心の方向性と共に、精神的な強さを育てる必要があった。
幸いにもこの子は、時間をかけて考えることを苦にしなかった。
「おかしいな、何でかな、ようわからんな・・・」
ぶつぶつ言いながらも楽しそうに考えており、中2の半ばには、
「分かってもおらんのに点数だけほしがるのは、やっぱりおかしい。アホのままでも嫌やな。賢くなろうと、一つずつ進められたら、それでええな」
などと言えるようになっていた。それはまさに、この子の歩みそのものだった。
ちょうどその頃、苦難が始まった。バブル崩壊による父のリストラ。その後無理がたたり、母も内臓の病に倒れた。元々裕福でもなく、たちまちお金に困る。子どもの塾どころではないはずなのに、少し体調がよいとき、母はやって来た。
「トキヒロに三教科は無理だからと言うと、理科は我慢すると言ってくれました。これからは二教科で・・・」
せめて中学の間はと言う親の思いだ。が、私は反対した。
この頃トキヒロの方向性は型を成し始めており、一番好きな理科を外すのは良くなかった。また、この子のキャラクターはクラスの中心的なものになっており、いてくれるだけで教師は助けられていた。お金のことで歪められてはいけない・・・
「分かりました。一教科千円ください。三教科で三千円です」
「・・・でも、それではあまりにも・・・」
「いいえ、それでかまいません。トキヒロの状況を変えたくないのです。遠慮もしないでください。お金はいただくのですから。払えるようになったら、またちゃんといただきますから・・・」
とても恐縮されてはいたが、そのまま育てさせてもらうことになった。
2 高校へ
その後トキヒロか身につけ始めた思考スタイルは、手で触り、においをかぎ、味を見、じっと考えるというものだった。思考方法としては正しいスタイルではあるが、時間はかかり、限られた時間のテストには不向きであった。幸いにもトキヒロはそんな有利・不利は考えなくなっており、自由に考えを深め、ぎりぎりではあったが公立U類へと進学していった。
進学後すぐ母がやってきて、これからは正規の費用を支払うという。・・・まだ支払える状況にないことを、私は知っていた。父はアルバイトであり、母の病は癒されていなかった。ほとんど寝たきりのはずなのに、今日はどうやって起き出してきたのだろう?
「払えるだけでいいのです。お金が増えたからと言って、トキヒロを育てる気持ちに変わりはないのですよ」
私はムッとしていたはずだ。
「先生が変わられないのは、トキヒロの中学時代に見せていただきました。昨日家族で話し合って決めたのです。今度は私たちが、それに応える番だと・・・」
もう私は何も言えなかった。
トキヒロの進路方向ははっきりしていた。家から通える国立大学。可能性があるとすれば、教育大学だ。それしかなかった。
この子は以前から虫などの生物が好きであり、理科の教師にすればおもしろそうだ。大学では奨学金を取らせる。月4万として、4年で200万円。それだけあれば卒業でき、教師として10年も勤めれば返さなくてすむ。それが最善で唯一の道に思えた。問題は、入学できるかどうかである・・・
この子の思考スタイルはおそらく今後も変わらず、その方向性は大学での研究や、人生そのものを支えてくれるものではあるが、センターテストのスピードや、2次テストの深い思考などについていけるようになるだろうか・・・正直自信はなかった・・・一歩一歩進もう、そんな当たり前のことしか私には思いつかなかった。
平凡な高校時代であった。じっと足元を見て歩を進め、ふと顔を上げ先を見る・・・まだ何も見えず、また足元へ目を戻し、歩き続けた。
「トイレは学校ですませろとまで、親は言う・・・」
愚痴ることもあった。
解法について数ヶ月も教師と激論を繰り返したこともあった。それらはすべて、この子の心の糧となっていった。
3 大学へ行く
高3の半ば、トキヒロが言う。
「先生、僕は教師に向いているでしょうか・・・それより、環境学の方へ進もうかと思うのですが」
てっきり虫が好きなだけと私は思っていた。しかしトキヒロの思いは、虫のいる「場」へと進んでいたのだった。
しかし厳しい選択をしてくれる。教育大の学科の中でも、環境学は一番難度が高かった。何度模試を受けても「D」(ちょっと無理)、「E」(まったく無理)ばかりであった・・・
センターテストが始まる。願いが届いたのか、初めて点が取れた。滋賀なら「確実」、奈良は「ボーダーライン」、京都は「ちょっと厳しい」となった。
うれしかった!進学できそうなのだ。トキヒロも、喜んでそれぞれの下見に行った・・・が、2日後浮かぬ顔でやって来た。
「滋賀はデスクワークが主だそうです。しかし僕はフィールドワーク、外へ出て自分で見、さわり、調べたいです。それが出来るのは奈良か京都・・・奈良は7人しか取ってくれないし・・・」
ナイフを突きつけられる思いがした。私立大はダメ、浪人もダメ・・・2次に失敗すれば、この子は働きに出るより無いのだ。しかし、この子の言うフィールドワークとは、自ら創り育てたスタイルそのものではないか・・・え〜い、ままよ!死なば諸共・・・
「よし、前期は奈良の論文で行くぞ。お前の観をぶつけるだけでいい。後期は京都で逆転をねらう・・・最後まで補習だ」
トキヒロはずっと補習に来ていたが、ある日突然来ない。論文の練習でもしているのかな・・・翌週も来ない・・・後期が迫っており、私は焦り始めていた。
「何してた!京都が始まるじゃないか!」
トキヒロの顔が小窓に見えるや、私は怒鳴った。
「あ・・・すみません連絡もしなくて・・・論文の練習をしていて・・・風邪引いて・・・そ、その・・・今日、奈良の合格通知が来ました」
「な、何だって〜!」
飛び上がっていた。握手していた。高2の子の質問など、どこかに吹っ飛んでおり、6年間のことを色々話していた・・・そして、腰が抜けた・・・
「肩の荷が下りたよ。やっとお前の親にも、顔向け出来るよ・・・」
トキヒロは、笑った・・・
「今回の結果がどうであれ、僕や両親の先生に対する感謝には、何の変わりも無いのですよ」
止めようと思うのに、熱いものがどんどんこみ上げてきて、止まらなくなった。声が震えるから、話せなくなった。この子は6年も私ごときの話を聞いてくれたのであり、一歩一歩歩いてくれたのであり、今でもまっすぐに立ってくれているのであり・・・・私こそが幸せ者であった。