1997 ドラマ A

5年後の説明  (サチエ の場合)



戸を開けると、母一人がポツリと立っていた。

「どうか娘を入れてやって下さい」

5年前の2月、サチエがもうすぐ中学2年になろうとする頃だった。

この時中1のクラスは満員であり、私はたいした説明もせずに断った。説明するほどに受け入れられないことに、心がうずくだけだ。どこかはかなげで、線の細そうな母はすぐに帰っていった。ところが2日後、母はまたやってきた。

「やっぱり入れてほしいのです」

私は教室の現状と、一人一人をきちんと見たくて生徒をむやみに増やせないことなど、自分の教育観を説明し、

「ごめんなさい、今はもう取れないのです」

と伝えた。

じっと聞いていた気の弱そうな母は、コクンとうなずき、帰っていった・・・次の日、玄関のブザーが鳴り、出てみると・・・母が立っている・・・サチエは3月から通ってくることになった。

「なんて目の澄んだ子なのだろう」

私の第一印象だ。じっと話を聞き、よく考える。楽しげに英語と遊ぶ。去年は他の塾へ行っていたようだが、その塾は何故この子を放したのだろう・・・

「前の塾は、私のこと笑わはんねん。アホや言うて・・・」

アホ?・・・どこが?確かに「力」は弱いとはいえ、ごく平均的であり、まだ中1にすぎないこの子の何を笑ったのか、私には全然分からなかった・・・

この頃のサチエはブラスバンド部に熱中しており、時折家業も手伝った。母はたこ焼きやをやっており、大学の文化祭などに出店すると手伝うのだ。

「へ〜、どんなことやるの?楽しいか?」

「まだ焼かせてはもらえんけど、ソース付けをやる。お兄さんやお姉さんと話すのは楽しいけど、同い年くらいの子に見られるのは、少し恥ずかしい・・・」

少し不憫に思った・・・

あまり手のかからない子であり、少しは勉強もしていた、夕食の最中なのに、

「今日はテスト勉強するし、夜食作ってや!」

「まだ食べる!」

と、母に笑われるくらいのものだが、それで精一杯であり、十分であった。この子もまたガラスのようにもろい部分を持っており、早くから無理に受験のテクニックなどを詰め込めば、パリンと壊れてしまう。この子の良さを育てなくてはならないのだが、私の中では、サチエの高校以後の進路は白紙状態であった。いや、大学は無理かもしれない・・・しかし公立高校へは無事進学できた。

シュタイナー教室では中3から高1にかけて、教科の姿勢が少し変化する。考え方の構造が広がり、生徒は動く範囲が広くなる分だけ、自分で問題点を見つけ、自分で解決する量が増える。あまり甘やかさなくなるのだ。そこで必要になるのは、今の自分は何が分かっていて、何が分からないのかをより正確に知ることだ。そんな作業はサチエにとってはしんどいことではあったが、ゆっくりではあっても進んで行けた。

この子の思考に広がりと深さを与えたものはしかし、教科と言うより、日常生活であったと思われる。家庭、学校、ブラスバンド部などで出てくる問題のまとめ役をやるようになり、思い悩み、その時々の結論を出すうち、幅を広げたのだろう。そして高3になる頃、大学へ進んで歴史をやりたいと言い出した。

そ、それは大変だ。そもそも歴史科を持つ大学が少なく、定員も少なく、公立校からは受かる例がほとんど無い。しかしサチエは、

「歴史以外なら、大学でやりたいことはないのです」

と退かなかった。

私と小林はサチエに話が及ぶたび、今ひとつ点を取れるようにしてやれないことに頭を抱えた。今のままでは危ない・・・しかし結論は毎度同じだった。

「やはり今のままがベストだ。多少不器用ではあっても、その方向性は正しい。まともに育って、良い顔をしているではないか。今時こんな娘は少ない・・・」

それは、うまく点を取らせてやれない我々の言い訳だったかもしれないが、本心だった。

点が足りないことはサチエも十分自覚していて、自ら考え、私の知らないところですでに動いていた。12月の半ば、龍谷大学の歴史科に合格したと言ってきた。

「・・・え?・・・試験は2月だろ・・・え?龍谷の歴史は、今年はかなりハイレベルだぞ・・・」

どうやら12月に、英・国2教科の入試があったらしい。それによれば、まず英語で60点未満の者が落とされ、残った者はその点数に無関係に、次の国語の論文で合否が決定された。

英語を62点と、ギリギリでパスしたサチエは論文へ進んだ。テーマは「知能障害者に対する差別について」と指定された・・・そこまで話して、サチエはクスリと笑った。

「知恵遅れなんて、小学生の時の私や。足し算も良く分からんかった。毎日毎日、放課後の補習で残された・・・でも、何ともなかった。人よりアホな分がんばろう・・・人よりたくさん教えてもらえるのはありがたい・・と思っていたわ。

ところが中1の時の塾では、ろくに教えてもくれず、ただ笑われた・・・許せんかった。自分がアホなことくらい知ってた。だから親に無理にお金を出してもらって塾まで教わりに行ったのに・・それをアホやと笑うなんて・・・」

ろくに論文の練習もしていないのに、この子の合格した理由が分かった。このような背景と、その後鍛えた観点から書かれたものは、大人の文章だったに違いない。そこには合格せんが為のテクニックも、媚びも、知ったかぶりもなかっただろう。それ故、合格したのだ。

サチエは「観のタネ」は、初めから持っていた。そして芽を出そうと、自ら努力してきた。私はじっと見つめているだけで、何もしてやれなかったようにも思える。手のかからなかった、この教室を象徴する娘であった・・・