1997 ドラマ @
果てしなき者 (英語講師 小林邦雄の場合)
シュタイナー教室の初期は、もちろんすべての教科を私一人でやっていた。しかし、少しずつ生徒が増えて忙しくなり、一日だけ講師募集を新聞に載せたところ、のっそりとやって来た。6年半前の10月、小林邦雄との静かな出会いであった。
小林は一橋大学を卒業後3年間日産へ勤め、退社して1年間ケニアへ語学留学した。そして出会ったときは京都大学の聴講生であった。当時教授をしていた河合隼雄の講義を聴いていたようだ。生活費のために塾講師をいくつかやったが、絶望していた。
「あれは教育ではなく、ただのブロイラーだ。もうやめよう。やめて、次は夜警でもやろう・・・」
と、入った食堂の新聞で私の求人広告を見つけた。
私と小林の教育観は、かなりの部分で一致していた。それは短い会話の中でも直感的に分かり、私はすべての英語を彼に委ねた。
彼は私の期待通りに、各学年の生徒の個性と能力を探り、教材を研究・決定し、授業を進め始めた。
すべての授業がマニュアル化され、生徒にも教師にすらも、定められたテキストが与えられるだけの進学塾を、もし正常とするならば、私や小林は明らかに異常であった。毎日のように本屋へ行き、教材を調べ、自分の手で作る。頭の中で生徒の姿を思い浮かべては、授業のシュミレーションを何度も繰り返す・・・時給2000円の仕事ではない。
何が我々をそんなにも駆り立てたのだろう?子を育てるため・・・いや、それは実は小さかった。「学ぶこと、生きること」とはどういう事なのか、生徒との係わりの中で確認したかったのだ。もちろんまだ言葉には出来ず、どう伝えればいいのか、何をすればいいのか、小林と私はその方法を果てしなく探し求めていた・・・
「打ち合わせ」と称して、月に1〜2度酒を飲んだ。ひたすらすべての生徒の話をする。
この子はどんな子なのか。現時点の力はどれほどで、正しい方向を見ているのだろうか。何が問題で、何をどこまでやるべきなのか。それは出来るのだろうか・・・・毎度2〜3時間そんな話ばかりでは、飲み屋の親父があきれてしまうのも無理はなかった。
その話し合いは、生徒には申し訳ないほどに、実は、我々を成長させた。一時的に生きる方向を見失っていた小林は、正式に学部生となり、大学院、ドクターへと進んでいった。カウンセラーという方向がはっきりしていったのだ。
小林の英語からそのスケールの大きさを感じ取れた生徒は、精神的に安定し、全体的に実によく伸びた。それは私にも真似の出来ないほど、その子を良くしてしまった。しかし、その数は決して多いとは言えない。その原因の一つは、小林が人間くささを今ひとつ授業に出せなかったからではないだろうか。
彼は高度な意味で、孤独で、自信もなく、不安だった。
『京大まで来てみたが、生徒も教授もバカが多い・・・いや・・・ひょっとして皆が賢く、バカは自分だけか・・・俺みたいな人間に何かできるのだろうか・・・そもそも、人は俺を受け入れてくれるのだろうか・・・』
このような人間には、授業の中に自分という「弱き者」は出せないのだ。小林も私も生徒に「強さ」を求め、「賢さ」を求めた。すべては・・・自分がそうありたいからだ。その果てにあるであろう美しいものを見てみたいし、生徒にも見せたいから、必死に研究し、方向性を重視した。
出会いから7年、小林は神戸の大学講師と大阪のカウンセラーに就職が決まった。しかし大学講師には不満のようだ。
「大学みたいにつまらないところで教えるくらいなら、この教室で生徒と共に学ぶ方がよっぽどいい。来年からも週1〜2回ならここで・・・」
このように最近の彼は授業にも人間くささを出すようになり、私は精神が安定している。求めたものに果てなど無いことがはっきりしてきたのだ。それが分かれば腹も据わるし、自信も出てくるものだ・・・ただ進むのみと。
小林は生徒のみならず、最も揺れ動いていた時期の私の、最高のカウンセラーであった。カウンセラー・・・共にあり、共に成長する者のことを言うのだろう。
「このやり方では、なかなか点は取れないね。いっそ、点取り操作をしようか?」
「それはダメです!点がほしい生徒は、そういう塾へ行けばいいだけのことでしょう!」
小林の一番弟子であり、最も成長した生徒とは・・・私であっただろう。