教育観 と 願い

 この教室には「選抜テスト」はありません。よって「ごく普通の子」達が
一クラス10人集まってきます。中学1年で集まった子達は、その後3年間ほとんど顔ぶれが変わりません。極端にやめる子が少ないのも、この教室の特徴でしょう。
 それでも高校へ上がるとき、多少は入れ替わります。(まったく入れ替わることなく、6年間同じメンバーと言うこともありますが) そして他の塾などで育った子と、この教室の「中学の部」から上がってきた子を比べたとき、その「性質の違い」に、ほとんどの場合愕然とさせられます。

 高1で両者を比べた場合、「テストでの得点能力」には差がありません。
「公式の暗記や暗算能力」は、他塾の子の方がやや高いようです。
しかし「考え続ける忍耐力」、「思考の深さと整理の方法」に関しては、この教室の子の方が「圧倒的」に能力が高まっています。
 
 これはたぶん「教育観の違い」と、さらに「子どもを育てることとは」という観点の違いでしょう。
 塾とは、その性質上どうしても目先の「点取り」に重点を置いています。
「内申は上がったのか」「どこの中学、高校、大学に入ったのか」などです。
教科はそのための道具にすぎません。それを望む親や生徒が多くいる以上、そういう塾を私は否定しません。あっていいのでしょう。
 しかしそれ故、「数学とはどういうものか」や、「語学の感触」などは軽んじられ、粘りが無く、少しつまずくとポキリと折れてしまいます。
「解き方のパターン」しか知らず、「考え方」がないのです。

 それで良いのでしょうか?
数学は本来、とてもおもしろい教科です。生き生きとしており、ダイナミックで、繊細でもあり、子どもの人生を支えてくれるものに満ちあふれています。
学校も塾も余裕を無くし、そのことを忘れているだけではないでしょうか。

 高校や大学などは通過点にすぎず、子ども達はすぐに大きくなり、社会という大海へ出てゆきます。その中で自分を見失わず、支え、進むべき方向を示してくれる「羅針盤」を、せめてその手に持たせて送り出してやりたいと願います。 「羅針盤」・・・遠山啓はそれを、人生観、価値観などを総称した「観」と呼びました。この教室では「観」に迫る道具として、教科があるのです。それが他塾との最大の違いでしょう。

 他塾ほど「こなす量」は多くはないようです。それでも子ども達はこの教室で懸命に学び、学校や家庭とのバランスや折り合いを考えています。
 そんな子ども達と共に、私もまた教科の中の「観の世界」に、どっぷりと浸ります。楽しいこともありますが、苦しいことだって負けないくらいにあります。しかしそれが子ども達の手のひらに「羅針盤」を作る作業であるならば、私は子ども達と共にやり抜きましょう。
そう、数学や自然科学や語学の中には、「観」が充ち満ちているのです。

その子の数年後、さらに学校を卒業した後に何が必要かと言うことに、常に視点を置いている・・・シュタイナー教室とは、そういう塾です。