優しさと厳しさ






「やめた方がいいよ~~くん~~。」

今にも泣き出しそうな弱々しい声で叫ぶカチローの声。
それを遥か眼下から受けて、青学男子テニス部一年、は小さく手を振ってみせた。


「大丈夫だって!……あと少し…っ!」


の伸ばした手の先には、枝に引っかかったテニスボールが一個。

がこんな体勢でテニスコート脇の大木の枝にしがみ付いているのには訳があった。
部長である手塚と副部長である大石が来る前に、リョーマと、同じ一年生レギュラー同士コートで軽い打ち合いをしていたは、白熱したラリーの結果、ふとした拍子に大ホームランを打ってしまい、ボールを思い切りフェンス越えさせてしまっていた。
コートから飛び出したボールは、大木の鬱蒼とした緑の枝の中に突っ込み、途中の枝に引っかかったまま落ちてこない。
責任を感じたは、こうしてあと一歩の所まで大木を登っている…という状態だった。



「あれれ?どうしたん??皆集まってさぁー?」



ザワザワとしている一年生達の様子に、ラケットを手にした菊丸と不二・河村が不思議そうに木の側へと近付いてくる。
それに気付いたカチローが、慌てたように3人の側に駆け寄って遥か上を指差した。

「ボールが枝に引っかかっちゃって、くんが取るのに登っちゃってるんです!」

「何だって?!」


カチローの言葉に一番過剰に反応したのは河村だった。
見上げれば確かにカチローの言う通り、の姿が枝の隙間から垣間見える。
の乗っている枝は決して細い枝ではなかったが、一歩間違えて足を滑らせれば転落するのはほぼ間違いない。
もしそんな事にでもなれば、良くて骨折、最悪の場合死――という事も考えられる。


「何してるんだ!!早く降りて来い!!!」
「そーだぞ!ボールなんかいいから降りて来いってば!」


下から聞こえてくる先輩達の声に、は大きく手を振って声を張り上げた。



「あとちょっとで取れるんです!取れたら降りまーす!!」



爪の先が掠るくらいまで近付いて、はそれまでになく大きく身を乗り出す。

「よっと……………取れた!!…ってうわあっっっ!!!!」

ボールを掴んだ瞬間、乗り出していた身体がよろけて、前に出していた足がズルリと滑る。




(落ちるっっ?!)




咄嗟に伸ばした手も枝には届かず、はどうする事も出来ずに落下していく身体をぎゅっと強張らせた。

っっっ!!!!!」


(ダメだっっ!!)


瞬間的に目を閉じる。
体を襲う衝撃にそなえて、はぐっと歯を食いしばった。

ドスン――という激しい落下音。



「ぐあっっっ!!!!」



その瞬間、河村の押し殺したような、くぐもった声がその場に大きく響いた。

「タカさん!!!」

間一髪の所で河村の腕が落ちてきたの身体を抱きとめる。
受け止めた瞬間その体を襲った凄まじい衝撃に、一瞬激しく顔を歪ませて、河村は苦しそうに呻き声を漏らした。


「大丈夫?!タカさん?!!」
くんっ?!」


バタバタと周りに居た部員達が慌しく駆け寄ってくる。
騒然とする部員達を片手で制して、河村は腕の中のの顔を覗き込んだ。

!大丈夫か?!」
「タカ……さ…ん?」
「大丈夫か?!どこか痛い所とかないかっ?!!」
「は、はい……。」

噛み付かんばかりの勢いで、腕から降ろしたの身体を確かめていく河村に、は暫く呆然と河村の顔を見返していたが、ようやく現状を把握して、すまなそうに小さく頷いた。
そのの様子に、河村はホッと胸を撫で下ろす。
しかし、次の瞬間には周りの部員達が驚く程に声を荒げて、目の前のを怒鳴りつけた。



「何でこんな無茶な事したんだ?!」



バーニング状態ではない河村の、彼らしからぬ大声に一瞬だけビクリと肩をすくませたは、恐る恐る目の前の河村の顔を見上げる。
厳しい声音にもかかわらず、河村の表情は悲しそうに歪められていた。


「タカさん……。」

「無事だから良かったものの、一歩間違えば怪我してたかも知れないんだぞ?!」

辛そうに更に眉を寄せて、河村はの両肩に、その大きな手の平を乗せる。
その両手にギュッと力が込められて、は改めて深くうな垂れた。
いつも温厚な河村がここまで怒るほど、自分は考え無しな行動をしてしまったのだと思うと、情けなさと申し訳なさで消えてしまいたくなる。
実際、河村が助けてくれなかったら、本当に骨折の一つでもしていてもおかしくない。

「すみませんでした…………。」

爪が喰い込むほど強く拳を握り締めて、はぎゅっと目を閉じた。


「本当に……心臓が止まるかと思ったよ………。」


不意に耳元で溜息をつく気配がして、は閉じていた瞳を開く。

「た…タカ……さ…ん……?」

すぐ側にある河村の逞しい肩に、は驚いて何度も目を瞬かせる。
壊れ物を扱うかのようにそっとを抱きしめて、河村はもう一度大きく息をついた。


「もう、こんな無茶な事しないって約束してくれるな?」
耳元で紡がれる声は先程までと違い、酷く静かで暖かい。


「……はい……ごめんなさい………。」


優しげに背中を擦ってくれる大きな手と、包み込むような優しげな声に、は溢れ出す涙を抑える事が出来なかった。
本気で自分の事を心配してくれるからこそ、こうして本気で怒ってくれる。
そう思うと、声を荒げてまで自分の事を思ってくれる河村の存在が嬉しくて嬉しくてたまらなかった。


「ごめ…な……さ…い……タカさ……っ!」


河村の逞しい肩に顔を埋めて、は何度も謝罪の言葉を口にする。
その度に河村は抱きしめたの背中を擦りながら、「わかってるよ」とだけ口にして、擦り続ける手を止めようとはしなかった。
河村の優しさと暖かさに、知らず知らず嗚咽が漏れる。
の涙が枯れるまで、河村は静かに小さな背中を擦り続けた。


















「ま、まあ…とりあえず、二人とも大きな怪我が無くて良かったよにゃー。」

「そうだね。でも念の為保健室行った方が良いかもしれないね。特にタカさんはを抱き留めたんだから、腕に負担が掛かってるはずだし。手塚と大石には僕から事情を話しておくから、二人とも保健室に行ってきなよ。」


ようやく落ち着いたの涙が止まった頃、様子を見守っていた菊丸と不二が思い出したように声をもらした。
その不二の言葉に、目元の涙の跡を拭っていたがハッとしたように河村の腕に視線を向ける。
不安そうな視線に僅かに微笑んでから、河村は不二と菊丸にも笑顔を向けた。

「俺は大丈夫だよ。ほら、身体だけは鍛えてるしね。」

そう言って両腕を動かしてみせる。
確かにその両腕には怪我らしい所は見受けられなかったが、そんな河村に不二と菊丸はお互い顔を見合わせて大きく溜息をもらした。

「そんな事言って……ほら、だって心配そうにしてるよ?安心させてやるのも必要じゃない?」
河村らしいその言葉に小さく苦笑して、不二はへと視線を向ける。
その視線を追うようにして、河村も又じっと自分を見詰めるへと視線を向けた。


「……タカさん………。」


困ったように見下ろしてくる河村の視線に、はポツリと小さく呟く。
考え無しな自分のせいで河村に怪我をさせてしまったかもしれないと思うと、の心は押し潰されそうだった。
自分にとって尊敬する先輩であり、大切なパートナーであり、そして何にも変えがたい程かけがえのない存在である河村。
もし本当に怪我をしていても、優しい河村の事、に負担をかけないよう怪我の事は隠してしまうに違いない。
もしそんな事にでもなったら、申し訳なくてもう二度と河村に会わせる顔がなくなってしまう。
は知らず知らずの内に、河村のジャージの裾をぎゅっと握り締めていた。


……。」
「ね?だから保健室行っておいでよ、タカさん。」
「そーそー。それで何でもなければオッケーじゃん?」
「……でも………。」

なおも言い募る河村に、呆れたように小さく溜息をつくと、不二はニッコリと笑って後ろを振り返ると、離れて様子をうかがっていた桃城へと声を掛ける。


「仕方ないね……桃、いいかい?」
「何っスか?不二先輩?」
「タカさんと、保健室に強制連行ね?」
「了解っス!!」


不二の言葉に悪戯っぽく笑ってみせて、桃城は河村の後ろに回りこむ。

「お、おい…桃?!」

ニヤリと笑う桃城に何か嫌なものを感じて、河村は僅かにたじろいだ。

「おい、越前!の方はお前の担当だぞ!!」
「何で俺が……。」
「つべこべ言うなって!行くぜ?!」
「やれやれ……仕方ないね……。」

桃城の言葉に小さく溜息をつきながらも、リョーマは桃城同様にの後ろに回りこんでポンとの肩を軽く叩いた。


「そういう事だから。」

「ええっ?!リョーマくん?!!」


思いもしなかった展開に、は目を白黒させる。
確かに河村には保健室に行ってもらって何でも無い事を確認してもらいたいとは思ったが、自分自身が保健室に行く必要性など全く考えていなかったから、自分まで強制連行されるとは思いもしなかった。


「じゃあ、行ってきます、不二先輩!!」

うろたえる河村とをよそに、桃城とすっかりその気になってしまったリョーマとが、顔を見合わせてからニヤリと笑みを浮かべる。



「えっ?!こ、こら桃っ?!!わああああああ~~~~?!?!」

「ちょっ!リョーマくんっ?!うわあっ!!!」



背中を押された状態で保健室へと強制連行されていく二人の背後には、二人の悲鳴が長く尾を引いていた。


















結局不二の思惑通り保健室へと連れて来られた河村とは、保健医の問診と触診を受けて、問題無しとの太鼓判をもらうと、お互い張り詰めていた緊張を解いてホッと胸を撫で下ろした。


「良かった!タカさんがどこも怪我してなくて…。」


校内放送で呼ばれて出て行ってしまった保健医の帰りをぼんやりと待ちながら、は隣に座る河村の横顔を嬉しそうに見上げた。

「だから言っただろう?俺は大丈夫だって。それより、も何ともなくて良かったよ。心配したんだぞ?」

向けられるの視線に照れ臭そうにしながらも、河村は見上げてくるの髪をその大きな手で何度もガシガシとかきまぜる。
その自分より大きく温かな河村の手の感触に、は微かに頬を赤らめて、くすぐったそうに首をすくめた。


「えへへへへ……。」
「ん?どうしたんだい、そんなに笑って?」


何をされても緩みっぱなしのの表情に、河村もつられるように笑顔を見せる。
頬を染めたまま気持ち良さそうに目を細めるの姿は、まるで撫でられて喉を鳴らす子猫のようだった。

「恐かったけど、こんなに心配してもらえるんなら、又こんな事があってもいいかなーなんて♪」
っっ?!!」
「冗談です♪もう、そんな事しません…絶対に。」

一瞬驚いたように声を荒げた河村にも動じる事無く、はすぐ隣にある自分より高い位置にある河村の顔を笑顔で見上げる。
その表情は酷く幸せそうだった。


「………?何だい?変な顔して?」

「変な顔って…酷いなあ。タカさんが本気で怒ってくれたのが、凄く嬉しいだけですよ。」


不思議そうに首を傾げる河村の言葉に、はほんの少しだけ苦笑してから、照れ臭そうに頬を染めた。
普段の優しい河村を知っているからこそ、感じる事の出来る想い。
こんな事でもなければ気付く事さえ無かったかもしれないその想いは、酷く暖かくを包んでくれる。
無茶をして心配をかけてしまった河村には悪いとは思いながらも、その心地良い想いを噛み締めては更に笑顔を深めた。




「タカさん?」

「ん?何だい、?」




ためらいがちに掛けられた言葉に、いつもと変わらぬ優しい眼差しを向けて、河村は自分より遥かに小さなの顔を覗き込む。
どんな小さな事でも受け止めてやりたいと思う程、河村にとってもの存在は大きなものになっていた。



「本気で怒ってくれて…ありがとうございます。」



そう言って、今日最高の笑顔では誰よりも大切な存在であり、今日一番のヒーローとなった河村に微笑んでみせた。




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