何時から自分はあの気持ちを忘れてしまったのだろう。
悔しいと思う気持ち、誰にも負けたくないと思う気持ち、いつか夢を叶えようとする気持ち。
自分が失ってしまった感情…そして想い。
あいつに会って、それに気付いた。






失っていたもの






初めて彼に会ったのは、中等部の夏休みの部活練習の時だった。
2年前に中等部を卒業した俺が、何で中等部男子テニス部の練習に参加しているのかと言えば…。
何の事は無い、俺――が青学男子テニス部顧問である竜崎スミレの孫だからだ。
今中等部に在籍している桜乃は、俺の従姉妹にあたる。
桜乃の父親と俺の母親が兄妹だから、正式にいえば俺はばあさんにとっては外孫って事になるんだけど。
夏休みのバイトがわりにと、マネージャー業をやらないかと言われたのが、夏休みに入った直後。
中学でテニスを止めた俺としては、別に高校での部活があるわけでもなかったから、結局ばあさんのその誘いを受ける事にした。
そんなこんなで初めての顔合わせの時に、紹介されたのが俺達の出会いだった。

海堂薫――。

青学テニス部レギュラーとして憧れのレギュラージャージを着る事を許された2年生。
最初の印象は酷く無口な子だと思った位だった。
才能はあるようだけれど派手さは無く、不二や手塚、桃城といった華のあるプレイヤーに比べて堅実なテニスをする、どちらかと言えば努力家タイプのプレイヤーだというのが第一印象だった。
普段は人との関わりを避けるタイプのようで、他のレギュラー達と違って自分から進んで俺に声を掛けてくる事は無く、俺の方から声を掛けなければ会話する事すらも無い。
しかしそんな彼と接触する機会のない俺に、ある日ふとしたきっかけが訪れた。
全ては、選手達の練習に付き合ううちに、鈍っていた身体を真剣に鍛え直そうと思い始めた朝のマラソンがきっかけだった。



「さてと!少しは身体を鍛えなおさないと!まずはマラソンで基礎体力作りからだな!」


軽く準備体操をして近くの川べりを走り始める。
朝の清々しい空気をいっぱいに吸って、俺は気持ち良く風を切って走り続けた。
中学の頃のように毎日部活で身体を動かすと言う事は流石に無くなってしまったけれど、今でも時間があれば身体を動かしている俺にとって、走る事それ自体は決して苦にならない。
流石に昔のように頻繁に…とはいかなかったけれど、それでも時々無性に身体を動かしたくなる事があったから、そこまで急激な体力の衰えは感じずにすんだようだった。

しばらく気持ち良い風に吹かれながら走っていた俺の視界に、ふと見慣れた人影が映る。


「あれ?海堂…?」


トレードマークのバンダナにTシャツ、ハーフパンツという格好で俺の少し先を走っている、見慣れた姿。
こんな朝早くに海堂に会える機会がある事を喜び、俺は海堂に追いつく為に一気にペースを上げた。


「おはよー海堂!!」

「?!!」


不意に後ろから声を掛けられて、海堂は驚いて無言で振り返る。
後ろから走ってくるのが俺だと分かると律儀に足を止め、ぺこりと小さく頭を下げてくれた。


「っス。」
「ロードワーク?毎日やってるのか?」
「…そうっス。」
「そっか。あ、悪いな止めちゃって。走りながらにしよっか?」

急に走る事を止めさせてしまった事を詫びて、一緒に走り始める。

さんもロードワークっスか?」
「う~ん、まあね。ちょっと鍛え直そうと思ってさ。」

滅多に人に興味を示さない海堂が自分の事に多少でも興味を持ってくれた事が嬉しくて、俺はにっこりと笑みを浮かべた。
このまま何も無かったように別れて折角の機会をフイにしてしまいたくなくて、俺は隣を走りながら海堂に一つの提案をする。


「なあ海堂、せっかくだしオレとちょっと競争しない?」
「は?」
「単純だよ、どこかゴールを決めて先にゴールした方が勝ち、どう?」

「……くだらねぇ………。」


ニコニコと楽しげに笑う俺の言葉に呆れたようにそう呟くと、海堂はぐん――と走るスピードを上げた。
そのボソリと呟かれた言葉を聞き咎めた俺は、その態度と言葉にカチンときて眉根を寄せる。
確かに自分でも少し子供っぽいかな…と思わないでもなかったが、海堂と一緒にいられる機会を活かしたいと思っただけなのに、ここまで相手にされないとは思わなかった。
本来俺は比較的温厚な方だが、やはり負けず嫌いな面もあって――ここら辺はばあさんの血を引いているなと思わずにいられない――こんな時はその負けず嫌いの面が頭をもたげてしまう。
俺は一つ気合を入れるとぐっとペースをあげて、少し離れてしまった海堂との距離を一気に詰めた。
そして、そのまま海堂を追い抜くと、そのペースのまま無言で走り続ける。
何故か…海堂には負けたくないと思った。



(何やってんだよ…ガキみたいだ、俺……。)



年下の中学生相手に、何をムキになっているんだろう。大人気ない事このうえない。
俺は子供っぽい己の行動に自己嫌悪しながら、ほんの少しだけ走っていたスピードを落とした。
しかし、そんな俺の自己嫌悪など、ほんの一瞬の事で、すぐにそんな感情は吹き飛んでしまった。

(やっぱり俺がくだらない事言ったんだよな…。)

そう思いながら肩を落とした俺の脇を、ふっと何かが通り過ぎる。
不意のそれに、何事かと視線を向けた俺の視界に飛び込んできたのは、チラリと視線だけで意味ありげにこちらを見ながら追い越していく海堂の姿だった。



(~~~っっ!!)



その海堂の行動に、先程までの自己嫌悪は何処へやら、再び俺の中でメラメラと対抗意識が膨れ上がる。
俺はもう一度抜かしていった海堂を捉えるべく、スピードを上げた。
しかし、さすが天下の青学でレギュラージャージを手にするだけの事はある。
一気に追い上げて再び海堂を抜いた俺を、暫くしてまたスピードを上げた海堂が再び追い抜いていく。
結局この後もお互い抜きつ抜かれつを繰り返し、いつの間にか二人とも全力疾走並のスピードで先を争っていた。


「何だよ!競争しないんだろ?!何で一緒に走ってるんだよ?!」
「俺の行き先にさんが居るんス!さんこそ何で一緒に走ってるんスか?!」
「いいだろ!俺だってこっちに行くんだから!」


息を弾ませながら怒鳴りあって走る姿は、早朝とはいえ同じようにランニングをしている人々が振り返るほど、かなり人目を引いていた。



「くうう~~~!」

「んにゃろうっっ!」



激しいデッドヒートを続けながら、俺達は川べりから住宅地の方へとなだれこむ。
このまま走り続ければ、ナイター設備のあるテニスコートがある公園へと向かう事になるだろう。
俺は荒くなる呼吸のまま、込み上げてくる苦しさを懸命にこらえて、最後のラストスパートに入った。


「こうなったら絶対、海堂には負けないからな!!」
「返り討ちっス!!」
「望む所だ!公園の水飲み場がゴールだ!」

お互いを牽制しながらスピードを緩める事無く、ゴールである公園の中に飛び込んでいく。




「「負けねぇ!!!」」




水飲み場に向かって二人揃って同時に転がり込むようにして地面に倒れこむ。
ゴールしたとたん、足がもつれるようにして、ガクリと俺の膝が崩れ落ちた。
急激な酸素不足に、はあはあと荒い息をついて俺は倒れこんだ姿勢のまま、ペタリと地面に座り込んでしまう。
しばらく起き上がる事は出来なそうだった。


「くっ……くるしい~~っっ!!」


地面に座り込んだままゼイゼイと荒い呼吸を繰り返す俺の横では、俺程ではないけれど呼吸を荒くした海堂が、膝に手を着いた姿勢のまま、大きく肩を上下させている。
久しぶりの長い距離の全力疾走に、比較的体力には自信のあった海堂も、流石にへばってしまったようだった。

「はあっ……はあっ………はあっ…………も…死ぬかと思った…………。」

どれくらいそうしていただろうか?
暫く無言で呼吸を整えていた俺の前に、ふと骨ばった大きな手が差し出される。


「え?」


それがどういう意味なのか、未だへたばっている俺には一瞬理解できなかった。

「いつまでも座ってるわけにはいかないんじゃないスか。」
「海堂……。」

そこまで言われてやっと、俺は海堂が力が抜けて座り込んだままの俺に、手を差し伸べてくれたのだと気付いた。

差し出された大きな手。
思わず不思議なものでも見るかのように、俺はそれを見詰めてしまう。
何で海堂はそんな事してくれるんだろう?
俺に呆れていたはずなのに。
俺と張り合っていたはずなのに。
そんな思いが、その手を取る事を一瞬遅らせた。


さん?立たねぇんスか?」

「あ、え?ゴメン!!」


訝しげに掛けられた海堂の声に、ハタ――と我にかえる。
慌てて俺は差し出された海堂の手を取った。



(うわ!大きい手――!)



予想していたとはいえ、想像以上に大きく暖かな海堂の掌の感触に、俺は内心で驚きの声をあげる。
正直言って俺よりも遥かに大きいとは思いもしなかった。
下手をしたら、指の一関節分くらいの差があるかもしれない。
思わず俺は握り締めたままの海堂の手をじっと見詰めてしまった。

「何スか?じっと見て……。」

力強い力で地面から引き上げられた俺は、再び向けられた訝しげな海堂の声に咄嗟に答えられずに、困ったように苦笑いする。

「あーえっと………ゴメン、何でもないよ。」
「何でもないって感じじゃねえ……。」
「……たいした事じゃないって。」
「そう言われると、よけいに気になる……。」
「う………又呆れるなよ?」
「内容にもよるっス。」


鋭い視線にじっと見詰められて、俺は内心でホールドアップするしかなかった。


「手……大きいなって思ってさ。ちょっと……な。」
「ちょっと?」
「悔しい……のかな?ははは……よく分んねぇや。」

そこまで言って俺は静かに目を伏せた。


俺と海堂は目線が殆ど同じ位置にある。
今は僅かだけ俺の方が上だけれど、ほぼ同じと言って構わないだろう。
殆ど変わらない海堂だから、どこかで他の全ても俺とあまり変わらないような気がしていたのかもしれない。
そんな海堂と俺の違いを見せつけられた様な気がして、驚きと僅かばかりの悔しさを感じてしまったようだった。


(だからかな……海堂には負けたくないって思ったのは……。)


久しぶりに感じた負けたくないと思う気持ち。
海堂と競い合っている間、何だか本当に久しぶりに昂揚感と爽快感を感じる事が出来たように思う。
俺が久しく忘れていたこの感覚を、海堂はあっさりと俺に思い出させてくれた。
たった一回のがむしゃらな競い合いによって。
俺は改めてじっと俺を見詰めたままの海堂に小さく笑ってみせた。

「……いーんじゃないっスか?悔しいって思う事は悪い事じゃないだろ?」

ふと、そんな言葉が耳に届いて、俺は思わず目を見張る。
まさか海堂が、そんな言葉を漏らすとは思わなかった。

「え……?」
「悔しいから、負けたくないから、必死にあがくんだろ?俺だって同じっスよ。」
「か…いどう………?」
「俺だっていつもそう思ってる。だから……呆れたり、ましてやバカにしたりはしねえ……あんたの事を。」

最後の方は微かに呟かれたものだったけれど、俺はハッキリとそれを聞き取る事が出来た。


「………………あ、ありがと…な……。」


何と言ったら良いのか分らず、そう答えるのがやっとの俺に、海堂も微かに照れ臭そうに頬を染める。
しかし、そんな事にも気付かないほど、俺自身驚きと混乱の世界に居た。
そして何故か…無性に嬉しくてたまらなかった。


「な、何笑ってんスか?!」
「え?!俺…笑ってる??」

「…………あんた、自分が笑ってるかどうかも判らないのかよ?」


やれやれといったように海堂が大きく溜息をつく。
けれど、それはもう俺にとって不快なものなどではなくなっていた。
そう、海堂は人をバカにしたり、本気で呆れて突き放したりするような奴じゃない事を知ったから――。


「ま、いいや。海堂が言うんなら、きっとそうなんだろうな。」
さん、あんた変わってるって言われるだろ?」

今度は不思議そうな表情を浮かべて、海堂は僅かに首を傾げた。

「ええ?…う~ん、そんな事ないと思うんだけど……。」
「ま、さんらしいっスけど。」

そこまで言って小さく息をつくと、海堂はくるりときびすをかえす。




「あ、海堂?」

「もう時間っスよ。さんも帰った方がいいんじゃないっスか?」


そう言われて左手の腕時計を見れば、確かにかなりの時間が経過していて。
俺は慌てて先を歩き出した海堂の後ろ姿を追った。
今はまだ俺と殆ど変わらないその後ろ姿だけれど。
でも、いずれは俺なんか遥かに追い越して、もっと大きくもっと逞しくなっていくんだろう。
俺だけ取り残されるような気がして、何だか悔しいような淋しいような…そんな気がした。


さん?」


思わず立ち止まってしまった俺に気付いて、海堂がピタリと足を止める。
振り返ったその瞳が、ほんの一瞬だけ酷く優しく細められた。



「置いていきますよ?」



「っっ?!!」


俺を見詰めた、たった一瞬の優しげな光。
すぐにそれはいつもの力強い眼差しの中に消えてしまったけれど。
何だか、見詰められたあの瞳に「待っているから早く来い」と言われているような気がして、俺は知らず知らずのうちに駆け出していた。


「なあ海堂、また俺と………走ってくれるか?今度こそ負けないから!」


今はまだ、そうして海堂に近付く事しかできないけれど、いつかまっすぐなお前と本当に競い合えるようになってみせるから。
忘れていた思いを、熱さを、感情を取り戻して見せるから。


「構わないっスよ?そのかわり、容赦しないっスから。」


そう言って海堂は、初めて満足そうに幸せそうな笑みを浮かべて見せた……。




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