穏やかで暖かく、静かな微笑みはいつも俺の心を癒してくれた。
だから、いつもは優しげに浮かべられる笑顔が激しい苦痛に歪んでいるのを見て、俺は自分の胸がギリギリと締め上げられているような感覚をおぼえた。
自分の呼吸の音や心臓の鼓動までもが、いやに大きく聞こえる。
もしかしたら、ここまで自分の刻む音が大きく聞こえるのは、生まれて初めての事かもしれない。
それくらいに今の俺の世界は研ぎ澄まされたものになっていた。
辛いなら諦めてしまえばいいのに。
苦しいならやめてしまえばいいのに。
それでも隆くんは決してその辛さから逃げ出そうとはしない。
己の握り締めるラケットのグリップが血にまみれても、決してその手を離そうとはしなかった。
「隆くん………。」
俺はどうする事も出来ず、どこか遠いものでも見るかのように、目の前の光景をただ呆然と見続けるしか出来なかった。
本当はすぐにでも止めさせたいのに、俺の足は凍りついたように固まってしまって、動く事さえ出来ない。
それどころか、一歩でも動けばその場に崩れ落ちてしまいそうだった。
「どうして?どうしてそこまで出来るんだよ?」
自分でも気付かないうちに自然に零れ落ちてくる暖かな雫が頬を伝って流れていっても、俺はそれを拭う事も出来なかった。
隆くんが闘っている。
相手の選手と『戦って』いるというより、何か目に見えない何かと『闘って』いるかのようで。
そして、それはまるで己の中の何か熱い想いと向かい合っているようにも見えた。
『ああーーっ!!』
ふと湧き上がる観衆の驚愕の声に、俺はビクリと肩を震わせる。。
涙で歪んだ視界の先に見えるコートの中では、異変が起こっていた。
壮絶なリターンの応酬を繰り返していた相手選手の手から滑り落ちたラケット。
ネットぎわに転がるボール。
そして立ち尽くす隆くんの大きな後ろ姿。
その握り締めた大きな手から、血まみれのラケットが滑り落ちた瞬間――俺の中の時間が止まった。
そして、彼の握るラケットがコートに落ちて乾いた音をたてた時、俺は彼の本当の大きさを知ったような気がした。
強さと優しさと
「隆くん!!」
残念ながらノーゲームになってしまった、隆くんと氷帝学園の樺地くんとの試合が終わって、コートではいよいよシングルス2の試合が始まろうかという頃になって、俺はやっとの事で病院に向かおうとしている隆くん達を捕まえる事が出来た。
この会場の中を散々探し回ってしまったのには訳がある。
あまりのショックに暫く呆然として動けなかったというのもあったけれど、涙に濡れた情けない顔を隆くんに見られたくなくて、真っ先に水道に向かっていたというのも出遅れてしまった理由の一つだった。
「くん!来てくれてたんだ?!」
慌てたように俺が声を掛けると、さっきまでの試合中に見せていた辛そうな表情とはうって変わって、いつもと変わらない穏やかな笑顔を向けてくれる。
けれど、それが余計に痛々しかった。
「手、大丈夫なのか?!」
俺よりも大きく僅かに骨ばった手。
皮がむけ、血まみれになった右手が、僅かに腫れ上がっている。
辛くない筈は無いのに、隆くんは俺の言葉に何でもない事のように笑ってみせた。
「大丈夫だよ。先生も骨には異常なさそうだって言ってたし……。」
少し離れた所で、急に足を止めた隆くんを待っている顧問の先生を振り返って、隆くんは僅かに困ったように眉を寄せる。
「これから病院に行くんだろ?」
「あ、うん。念の為先生に診てもらうことになったんだ。樺地くんも一緒なんだけど。」
「そっか。じゃあこんな事してる場合じゃないよな。ごめんな、引き止めちゃって。」
俺は内心の湧き上がる不安を押し殺して、小さく笑ってみせた。
本当は隆くんの事が心配だから一緒に居たいけど、今はそんな俺のわがままなんて言っている場合じゃない。
何よりも隆くんの手の方が大切だから。
俺は隆くんの後ろの方に居る顧問の先生らしいジャージ姿の女性に、小さく頭を下げた。
「河村、こちらは?」
「あ、俺の従兄弟なんですけど……。」
「はじめまして、です。」
「ああ、はじめまして。顧問の竜崎です。」
もう一度ペコリと頭を下げると、竜崎先生は笑顔で片手を差し出してくれる。
その手を握り返しながらも、俺はすぐ隣に立つ隆くんの手の事が気に掛かって仕方が無かった。
「お忙しい所すみません。呼び止める形になってしまって。隆くんの事、よろしくお願いします。」
隣に立つ隆くんを見上げてから、俺はもう一度竜崎先生に深々と頭を下げる。
こんな時、俺じゃ何もしてやれないから。
しょせん高校生の俺には出来る事なんか限られている。
試合中の簡単な応急処置ならともかく、検査と治療を要する今の隆くんには、俺なんかが側に居ても何の役にもたたない。
こういう時ほど、自分の無力さを痛感する事はない。
俺は情けなさと歯痒さに押し潰されそうになりながら、微かに唇を噛み締めた。
「……って言ったっけ?あんたも一緒に来るかい?」
「えっ?!いいんですか?!」
俺は竜崎先生の突然の申し出に、いささか面喰っていた。
俺としては願ってもない申し出だけど、部外者の俺が同行して本当に良いんだろうか?
判断がつかなくて隣の隆くんを見上げると、僅かに困ったように肩をすくめて隆くんは苦笑した。
「河村の事が心配でここまで来たんだろう?病院に着いてからは、あたしも色々と手続きが必要になるし、樺地くんの方もついてやらないといけないしね。良かったら河村の方についててやってくれるかい?」
腕を組んだ状態で僅かに口の端を持ち上げて、竜崎先生は俺と隆くんに交互に視線を向ける。
「………分かりました。お願いします。」
大きく頷いてからもう一度隣を見上げると、隆くんの暖かな視線が俺の姿を捉えていた。
結局、俺は竜崎先生の厚意に甘えて、隆くん達と一緒に会場の近くにある病院に来ていた。
この病院には俺も以前通っていた事がある。
出来る事なら思い出したくない思い出と共に、ここの事は忘れようとしていたけれど――。
そういえば、あれから3年たつんだなぁ…とボンヤリ思いながら、俺は隆くんが診察室から出てくるのを待った。
消毒液の匂いと独特の雰囲気に包まれた場所。
俺がテニスをやめることを決めた場所に、こうして隆くんが来ている。
俺と同じように『怪我』をしてしまった身体を抱えて。
段々と沈みがちになる思考を振り切る為に大きく首を振ると、近くを通り過ぎた看護婦が訝しげに顔をしかめた。
「くん、ごめん!終わったよ。」
俯いたまま座っていた俺の姿を見つけて隆くんが駆け寄ってくる。
俺の目の前に立った隆くんの手が、ちょうど俺の目線の高さで晒されて、俺は分かっていた事とはいえ、小さく息を呑む。
彼の右手には、真っ白な包帯が幾重にも巻かれていた。
「………痛いだろ?」
痛々しいその姿にポツリと呟くと、スッと目を細めて隆くんは俺の顔を覗き込む。
「何だかくんの方が怪我したみたいだね。痛いって顔してるよ。」
「痛いのは隆くんだろ?」
「まあ、そうなんだけど……俺より辛そうな顔してるよ?」
そう言って隆くんは微かに首を傾げた。
いつもと同じ、俺を癒してくれる暖かな笑顔を浮かべたままで。
「………………………んだよ?」
「え?」
「どうして笑えるんだ?」
「くん?」
「どうして…どうして耐えられるんだよ?!辛いのに、苦しいのに、こんな風になってまで…どうして頑張れるんだ?!どうして笑えるんだよ?!俺には分からない!」
俺の中で何かが切れた音がした。
何に対して苛立ちを感じているのか自分でも分からない。
でも、自分の中に湧き上がる衝動は押さえられそうもなかった。
「辛そうな顔してた!苦しいって顔してた!なのにどうして………っ!」
メチャクチャな事を言っているのは自分でも分かっている。
でも、あの時の苦しそうな隆くんの顔を思い出すと、胸が押し潰されそうになって、自分が自分でいられなくなる気がした。
「俺の代わりに苦しんでくれてるんだね、くん……。」
笑顔はそのままに、ほんの僅かだけ眉を寄せて、隆くんは座っている俺に無事な方の手を差し出す。
「隆……くん?」
「ここじゃ他の患者さんに迷惑掛かるからさ、外に行こう?」
差し出された手をそっと握ると、思ったより強い力で引き上げられる。
戸惑いがちに俺より大きな隆くんを見上げると、隆くんは小さく笑って俺を廊下に面した中庭の方へと促した。
外来と入院棟との間に設けられた小さな中庭は、建物の中の喧騒とうって変わって穏やかな静寂が流れている。
少し先にある木製のベンチを目で示して、隆くんはゆっくりとそちらに向かって俺の手を引いて歩き出した。
つながれたままの手が酷く温かい。
「そういえば、こうして最後に手をつないで歩いたのってずいぶん前になるよなぁ。」
「うん……まだ隆くん小学生だったよな………。」
「あー…そうだったっけ?良く憶えてるね?」
照れ臭そうにはにかみながら、隆くんはつないでいた手を離してベンチに腰を降ろす。
大の男が二人も座れば、随分せせこましく感じてしまうようなベンチだったけれど、そこに座って小さく息を吐き出すと、さっきまでの苛立ちはかなり収まっていた。
「そりゃ憶えてるさ。俺が初めて隆くんの前で涙を見せた時だもんな…。」
そのときの事を思い出すと、ズキンと胸に重い痛みが走る。
俺が二度とテニスが出来ないと知ったあの時。
突然俺を襲った不慮の事故で、ラケットを握れなくなった、そのときの事を思い出して俺は小さく息をついた。
3年前――俺が今の隆くんと同じ歳のとき。
階段で足を踏み外したクラスメイトを受け止めて、一緒に踊り場に転げ落ちた時に俺のテニス人生は終わった。
誰も責められない事故だった。
それは分かっていたけれど、二度とラケットを握れないのだと知り、その現実に耐え切れなくなって俺は病室を飛び出した。
そんな俺を、誰より先に見つけてくれたのが、まだ小学生だった隆くんだった。
力のこもらない手を投げ出して、ただ泣き続けていた俺を、隆くんは何も言わずに一度だけぎゅっと抱き締めて、それから包帯の巻かれた俺の手をずっと握りしめ、そっとさすり続けてくれた。
それは今でもハッキリと憶えている。
「……くんが……テニスをやめた時だっけ……。」
「そう…3年前だったかな………。」
そう言って俺は隆くんの右手をそっと両手で包み込んだ。
「こうして…俺の手をずっとさすってくれてたよな………。」
「そ、そうだった?」
俺の行動に、いささか戸惑った様子で、隆くんは微かに頬を染める。
昔から照れ屋だったなぁ…とボンヤリ思いながら、俺は隆くんが昔してくれたように、静かに彼の大きな手を擦った。
肌を通して伝わる隆くんの体温。
けれど、直接触れるのは包帯の布の感触で、俺はぎゅっと眉を寄せる。
「……くん、さっき…どうしてこんなになるまで頑張れるんだって聞いたよね?」
「ああ……。」
「負けたくないから……負けられないからっていうのじゃダメかな?」
そこまで言って、隆くんは俺から向こう側の外来の方へと視線を向けた。
「負けられないから?」
「そう。俺、中学でテニス……やめるんだ。だから本当に悔いの残らない試合をしたい。それに、負けてしまったら本当に俺の中学でのテニスは終わってしまうからね。だから少しでも長く皆とこの時間を過ごしていたいから、終わりにしたくないから……負けられないんだ。だからどんなにきつくても諦められない。諦めたら、投げ出したら本当に俺の時間は終わってしまうから………。」
「…………それが自分の身を削る事だと分かってても…?」
俺の問いに、隆くんは僅かに微笑むだけで、口を開こうとはしなかった。
そんな隆くんの姿に、何だか胸が苦しくなって、俺は静かに目を伏せた。
同じようにテニスから離れようとしていても、隆くんは俺とは違う。
俺が絶望と諦めの中で、自分の中の想いから目を背けたのと違って、隆くんは最後までずっと前を見ようとしている。
未来も可能性も希望も見ようとはしなかった俺とは、全てが違っていた。
「強いな……隆くんは……。」
本当に心底そう思う。
俺が隆くんの試合を見て、己の中にある想いと向かい合っているように感じ取ったのは、どうやら間違いではなかった。
負けたくない、負けられないという思いに、隆くんは立ち向かっていたんだ。
そして――『負け』なかった。
そう、少なくとも自分の想いや、現実の辛さからは。
「俺には選ぶ事が出来たから。選ぶ事さえも出来なかったくんに比べたら、俺は大したことないよ。」
「そんな事ない。俺には……俺には隆くんみたいに諦めない強さは無かった。ただ…受け入れるしかなかっただけなんだ。」
「くん、受け入れるって事は、凄く勇気のいる事だよ?俺もね、勇気を持てずにいたんだ。でも、少し前の試合で後輩と幼なじみに少しの勇気をもらった。そして、一歩を踏み出せたんだ。その点で言ったら、くんの方が遥かに勇気があったって事だよ。」
ね?と言って隆くんはニコリと笑みを浮かべた。
優しい隆くんの言葉に、眼の奥がじんわりと熱くなる。
やっぱり隆くんは、誰よりも優しい。
そしてその優しさは、俺には無かった人としての本当の強さを持っているからだと思った。
強くて優しくて懐深く、包み込むように俺を癒してくれる大きな存在。
昔も今も、俺にとって心の支え、魂の癒しとなってくれる。
「俺、隆くんの優しさは、どこからくるんだろうって思ってた。こんなに強いから、優しくなれるんだね。」
「俺なんか強くも何とも無いよ?」
「強いよ。そして優しくて暖かい。笑顔でいられるのは…強いからだよ。強くなければ笑っていられない。そして、その強さが、笑顔が人を惹き付ける。人を…俺を癒してくれるんだ。」
微笑んでみせたつもりなのに、俺の視界は再びぐにゃりと歪んだ。
涙が溢れて止まらない。
辛いのも苦しいのも痛いのも、全部隆くんの方なのに、俺は情けなくもポロポロと涙を零してしまう。
「くん………。」
「この手は強さと優しさの象徴だよ。」
俺の頬を伝って落ちた涙の雫が、一粒隆くんの包帯の巻かれた右手に落ちて弾ける。
俺は隆くんの右手を捧げ持つようにして、傷付いた指先に唇を寄せた。
「ちょっ!くんっっ?!!」
あの時隆くんが癒してくれたように、俺も隆くんを癒したかった。
俺なりのやり方で――。
静かに何度も唇を触れさせると、ピクリと微かに指先が震える。
上目遣いに隆くんを見上げると、困惑と緊張と羞恥の入り混じった複雑そうな表情を浮かべて、隆くんは俺を見下ろしていた。
「早く隆くんの怪我が治りますように。少しでも長く皆との時間が、幸せな時間が続きますように………。」
小さく呟くと、隆くんが驚いたように目を見開いた。
「俺の分の幸せをあげるから――自分の想いを貫いて。」
「…………くん………。」
「俺の大好きな、強くて優しい隆くんでいて………。」
俺の『時間』は終わってしまったけれど。
隆くんの時間はまだ止まってはいないから。
弱かった俺が貫く事の出来なかった想いを、ほんの少しでいいから君の中に見させて――。
涙混じりのぐしゃぐしゃになってしまった顔で笑うと、隆くんはスッと顔を引き締める。
俺の見たことの無い表情。
隆くんがいつも見せる困ったような顔とも、優しげに綻ぶ笑顔とも、照れ臭そうにはにかむ顔とも違う、静かな落ち着いた表情。
その真剣な眼差しに俺はドキリとした。
「俺に分けてくれるかい?くんが抱えていた想いも苦しみも淋しさも……そして喜びも………?」
そういって隆くんは力強い腕で、俺の肩を抱き寄せた。
「っっ?!」
「やっとくんに届いた。俺の手………。」
「なに……言って…っ?!」
「3年前のあの時から、ずっとくんの痛みを減らしたかった。少しでもくんに近付けばそれが叶う気がしてたんだ。やっと触れられた…くんに。」
耳元で、低くて優しい声が囁く。
俺はただ呆然と隆くんの逞しい肩口を見るしか出来なかった。
背中に感じる隆くんの腕と、すぐ側に感じる温もり。
そして、俺の手の中の右手がそっと俺の手を握った。
「今だから言うとね、俺がテニス始めたの…くんに近付きたかったからなんだ。」
「俺に?」
「うん。あ、でも今は純粋にテニスが好きだよ。」
笑いを含んだ声に、俺は僅かに緊張していた身体の力を抜く。
ホッと息をつくと、こうしている事が自然な事のように思えて、俺はゆっくりと隆くんの肩に頭を乗せた。
「俺はまだ夢を見てもいいのかな?隆くんと一緒に……。」
もしかしたら、そうする事で隆くんの負担になってしまうかもしれないけど。
優しくて強い隆くんの側にいられたら、自分も少しは近付けるような気がするから。
隆くんが俺に近付こうとしてくれたように、俺も隆くんに近付きたい。
隆くんの側に居られる位強くなりたいから。
「俺なんかで夢を見せてあげられるか分からないけど。」
クスリと小さく笑って、隆くんは俺を更にぎゅっと抱き寄せる。
その暖かな腕に包まれて、俺は何年かぶりに泣きたくなる程の幸せを感じながら、隆くんの力強い腕の中にその身を委ねた。