俺のちっぽけなわだかまりなんて、全部包み込んでしまうくらいに深くて大きくて暖かい。
あの人の最強の武器はパワーでも何でもない。
優しさと、そして誰よりも暖かな笑顔だ。
俺は一生この人には適わないかもしれない。
小さな僕と大きなあなた
本当はいつだってテニスが一番だった。
でも、ここは名門と言われる青春学園で。
入学した当初ならともかく、入部して一年も経てば、初心者の中からでも俺くらいの実力だったら何人も芽が出てくる。
だから、ほんの僅かばかりの自尊心なんて、すぐに泡のように掻き消えてしまった。
それでも、何よりも好きなテニスだったから、今日まで自分なりに頑張ってきたつもりだった。
でも――。
俺はいつも後一歩のところでレギュラーになる事は出来なくて。
いつも桃や海堂の後ろ姿を、輝かしいばかりのレギュラージャージを見つめるしか出来ない。
確かに何振り構わずがむしゃらに、必死になったか?と聞かれれば、イエスとは答えられる自信はないけれど、少なくとも家での自主練習は欠かさないくらいは頑張ってきたつもりだった。
そして結局はいつも同じ事の繰り返し。
落ち込んで、そして必死にあがいて、又落ち込む。
突きつけられた現実の痛みは、少しずつ俺の弱い心を蝕んでいって。
俺はもう何度目になるか判らないほど繰り返されたそれに、心底疲れ果ててしまった。
そして――。
「辞める?部活を辞めるっていうのか??!」
困惑したような大石副部長と、苦虫を噛み潰したような手塚部長の視線に晒されながら、俺は無言のまま小さく頷いた。
散々葛藤した挙句、俺が選んだ答えはテニス部を辞めるというものだった。
「何でまた急に?何かあったのか?」
「いえ…なにもありません。ただ外部の高校への進学に向けて、今からでないと間に合わないというだけです。それに……急じゃありません。ずっと……考えていた事ですから。」
そう言いながら、俺の心はチクリと痛んだ。
違うのに。
辞めたくはないのに。
進学は言い訳でしかないのに。
俺の口は想いとは別の言葉を紡いでいて。
なんだか酷く胸のあたりが重かった。
「進学?でもはまだ2年生になったばかりじゃないか。俺たち3年生が夏で引退してしまった後は、達2年生が中心になって部活を盛り上げていく事になるのに。こんなに早く、俺達よりも先に辞めてしまうのか?!」
困ったように俺を見下ろしてくる大石先輩の視線が痛い。
手塚部長は無言だけれど、きっと大石副部長と思いは同じなんだろう。
向けてくる視線には、やはりいくらかの困惑が感じ取れた。
「………すみません。俺にはもう……テニスは………。」
そこまで言うのが精一杯だった。
俺は二人の前に置かれている机の上に、手にしていた退部届けを置くと、何か言いたげな二人を振り切るようにして、その場を走り去った。
振り返ってしまったら、自分の想いと自分の現実とに押し潰されてしまう気がした。
胸の重さはずっと取れないままだったけれど。
退部届けを出して数日後、俺は思いもしない現実を知る事になった。
「退部届けが受理されてない?!」
偶然知ったその事実に、俺は驚愕する。
確かに一方的ではあったかもしれないけれど、きちんと退部届けは自分の意思として部長と副部長に提出したはずなのに。
俺は予想外の事実に困惑を隠せなかった。
もう一度顧問か部長に確認するよう言われて、俺は小さくため息をつく。
今更どんな顔してテニス部に行けというのだろう。
俺はどうしたらいいのか分らないまま、フラフラと教室の方へと足を向けた。
退部届けを出してからというものの、俺は毎日教室で一人参考書を開いては進学のための勉強を続けている。
おかげで少しずつ成績も上がり始めたけれど、俺の心は満たされる事はなかった。
時折聞こえてくるテニス部の練習の声に気を取られては、慌てて頭の中からテニスの事を追い出すために大きく首を振る。
そんな事を繰り返しながら、テニス部の練習が終わるより少し早くに家路に着く。
それがここ数日の俺の放課後の過ごし方だった。
「結局今までと変わらない……中途半端なままだ。」
ポツリと呟いた声が小さく廊下に響く。
まだ明るいとはいえ、帰宅してしまった生徒や部活に出ている生徒達が殆どの校舎内は、酷く静かに感じられる。
そんな所が余計に今の自分には空しく感じられてならなかった。
とぼとぼと廊下を歩き、無意識のうちに自分の教室の前に立つ。
俺は教室に入る前に一度大きくため息をついた。
「あ、。」
疲れたように肩を落としたまま教室に足を踏み入れると、聞きなれた声が耳に届く。
俺はビクリと身体を震わせて、俯いていた顔をあげた。
「か、河村先輩……。」
俺の目に映ったのは、まだ制服のままの河村先輩の姿。
窓際の俺の席に腰を降ろし、頬杖をついていた河村先輩は、俺の姿を見てパッと表情を明るくした。
「良かった!いつも放課後教室に居るって聞いてたのに居ないから、どうしたのかと思って心配しちゃったよ。」
「な、何でこんな所に?」
立ち上がった河村先輩の隣に立ち、そっと顔を見上げる。
戸惑いがちに見上げた俺の視線に微かに苦笑して、河村先輩は静かに目を伏せた。
「あ、うん………退部届け……出したって聞いたからさ。」
河村先輩のその言葉に、一瞬肩がピクリと震えた。
「本当なんだね?」
「…………はい……。」
「そっか………。」
そう言って河村先輩は口を閉ざした。
「さっき……退部届けが受理されてないと聞きました。でも、河村先輩は知ってるんですね?」
「ああ、うん。俺が手塚と大石に頼んだんだ。」
「えっ?!」
思いもしなかった言葉に、俺は呆然と目を見開く。
未だ受理されていない退部届けの理由が河村先輩にあったなんて、想像だに出来なかった。
「と話をしたくてね。少しいいかな?」
静かに微笑んで河村先輩は、その大きな手で俺の腕をつかむと、それまで自分が腰掛けていた俺の席に俺を座らせた。
大きくて少し骨ばったごつごつした手。
けれど、暖かくて優しい感じがした。
「退部届けはね、手塚に預かってもらってるんだ。良かったらの心の一部分を……少しでいいから聞かせてもらえないかな?それで、どうしても退部届けがいると解ったら、俺が責任持って手続きするから。ダメかい?」
俺をイスに座らせたまま、自分はすぐ目の前で床にひざを落として、俺の顔を覗き込んでくる。
そんな河村先輩の真摯な瞳に、俺はふるふると首を振ってみせた。
河村先輩にそんな事を言われて、断れるわけがない。
決して無理強いしようとはせずに、俺の意思に任せようとしてくれる、そんな河村先輩の思いが、優しさが、暖かさが、少し痛かった。
「はさ……テニス、好きかい?」
「え?」
「好きかい?」
「………………………好き…………だと思います。」
「分らない?」
「…………………。」
あいまいな俺の答えに、河村先輩が小さく苦笑する。
けれど、それは呆れたりバカにしたりするような響きは少しもなかった。
「今は分らなくなってしまったのかな?………じゃあ、少し前は?半年前は?一年前は?その前は?いつでもいい、テニスが好きだと断言できた『時』はあるかい?」
「あ……あります……。」
「そっか良かった!じゃあ、今は無理でも、その嬉しさや楽しさ、大好きだっていう想いは、思い出す事が出来るかもしれないね。」
「思い出す?」
「うん。きっと今のは、テニスを好きだった時の思いとか感覚とか楽しさとか、そういうのを心のどこかにしまいこんでしまっているんじゃないかと思うんだ。だから、今すぐは無理でも、いつかそういったあったかい感じを思い出して、テニスが好きだと言えた自分を思い出せたら……いい顔してたにもう一度戻れるんじゃないかな?」
そう言って河村先輩は、泣きたくなるくらい優しく静かに微笑んでくれる。
決して責める事無く、問い詰める事無く、呆れる事もなく……こんな俺に、ただ微笑んでくれる。
それが何故か苦しくなるほど嬉しくて、本当に泣きそうになってしまった。
「には……テニスを好きでいて欲しいんだ。どんな事情があっても、が好きなテニスを、が大切に思っていたテニスを、辛さや悲しさと一緒に心にしまって欲しくなかった……。だって、俺達はテニスというかけがえのないものを通して知り合う事が出来て、こうして共に過ごす事が出来たんだからね。」
河村先輩の大きな両手がスッと俺の頬に伸びる。
そして、そのまま俺の頬を、その大きな両手で包み込むと、もう一度小さく笑ってくれた。
「…………………河村先輩っ……俺……俺、本当はテニス辞めたくない!テニスを嫌いになる事なんて出来ない!」
「……。」
「本当は解ってた…どんなに言い訳したって、どんなに本心から心を背けてみたって、俺にテニスを忘れる事なんて、テニスを捨てる事なんて出来ないって。でもっ!……俺はこんな人間だからっ!こんな弱くてちっぽけな奴だからっ……!」
どうして河村先輩には話せるんだろう。
手塚部長にも、大石副部長にも俺の本心は話す事が出来なかった。
他の誰にも話せないと思っていたのに。
でも河村先輩は、まるで魔法のように簡単に俺の心を解かしてしまった。
「は弱くなんかないよ?」
「弱いんです!別の言い訳をしないと、テニスから離れる事も出来ない、そんな人間なんです。ダメだからと、すぐに音をあげて、現実に立ち向かう事も出来ないようなダメな奴なんです俺はっっ!!」
全ては俺の弱さが原因。
分っていたけれど、俺にはこれ以上耐えられなかった。
俺の弱い心を支えるのはもう限界だった。
「………、お前は弱くなんかないよ。本当に弱い人間は自分を弱いなんて認められない。自分の弱さを認められるは、もっともっと強くなれる。」
「お、俺が……?」
「ああ、は俺の言う事信じられないかい?」
「そんな……っ!」
河村先輩の言葉に、俺は大きく首を横に振った。
「じゃあ、自分を弱いなんて思わなくていいだろう?」
「……でも…………。」
「う~ん……は自分を信じてあげられないんだね。」
「え?」
「自分を好きになれない……違うかい?」
「っっ?!!」
俺は河村先輩のその言葉に、言葉がなかった。
自分を信じる――。
確かに今の俺は自分自身を信じる事も出来ないし、だからこそ、そんな自分を好きになどなれなかった。
「自分の力を、自分の強さを、自分の心を信じてあげられないから、自分はダメな奴なんだと思ってしまう。でもね、それじゃ悲しいよ?」
「悲しい?」
「うん。もちろん、その事自体が悲しいのも確かだけど、俺も悲しいよ?俺が好きだと思うが、そんな風に自分の事を思ってしまう事がね。」
「かっ河村先輩っっ?!!」
思いもしない言葉に、俺は大きく目を見張る。
今、河村先輩は何を言ったのか?
頭の中がグルグルして、何がなんだか分らなくなりそうだった。
「が自分を好きになれない分、俺がそんなを好きでいるから。弱さも脆さも、全部まとめてじゃないか。だからという一人の人間を大切にして欲しいんだ。自分をダメな奴だと責めないで欲しいんだ。」
呆然と見つめた先の河村先輩は、顔こそ紅かったけれどその瞳はまっすぐで、俺は何も言えずに、ただじっとその瞳を見返す事しか出来なかった。
「辛くなったら、耐えられなくなったら俺の背中を貸すから。一人で苦しまなくていいから。だから、休んだら又歩き出せるかい?が目指すものに向かって?」
再び伸ばされた大きな手の平が、再び俺の頬を包み込む。
暖かなその感触に、俺は胸の中に溜め込んでいた全ての想いが弾けていくのを感じた。
「…………河村先輩……一つだけ…お願いしていいですか?」
「うん?何だい?」
「今だけでいいから……背中じゃなくて、胸を借りてもいいですか?今だけだから………。」
「……ああ、いいよ。」
そう言って笑った河村先輩の笑顔は、今まで俺が目にした中で一番優しいもので。
俺は、その笑顔にひかれるようにして、ゆっくりと河村先輩の逞しい胸元に己の額を預けた。
今はまだ河村先輩の言うように自分を信じる事は出来ないかもしれないけど、弱い自分をそのまま受け入れてくれた河村先輩の言葉は信じたいと思う。
何も言わずに顔を胸元にうずめていると、ぎこちなく伸びた腕が、ぎゅっと俺の肩を抱き寄せる。
「河村先輩?」
「何だい、?」
「俺……強くなります。自分に負けない男になってみせます。」
「うん。なら大丈夫だよ。」
「だから、俺が自分を好きになる事が出来たら、その時…もう一度言ってくれますか?俺を好きだって……。」
「…………ああ、もちろんだよ……。」
そう答えて、河村先輩は俺を静かにその大きな腕の中に抱き締めてくれる。
俺はその逞しい背中を抱き締め返しながら、退部届けを取り下げようと堅く心に誓った。