人はよくあの人の事をわがままだとか、お高くとまってるとか、嫌な奴だとか、生意気だとか言うけれど、俺はそうは思わない。
そりゃあ、多少変わってるかもしれないけれど、それは頂点に立つ者なら少なからずある事だと思うから、それがおかしな事だとは一度も思った事はなかった。
常に俺達の先陣に立ち、遥か高みに存在するその人――。
跡部景吾。
それが俺の尊敬する人。
ただ一人の部長
「何ボンヤリしてやがる?」
いつも通り部活を終えて、何をするでもなくぼんやりとコートの中を見ていたら、聞きなれた声が耳に届いて、俺は勢いよく後ろを振り仰いだ。
「跡部部長!」
信じられないその姿に、俺はおもわず声をあげた。
明日でこの学校を卒業する事になる跡部部長が、コートに顔を出すなんて思いもしなかったからだ。
噂だと、もう既に高等部テニス部の練習にも参加しているらしい。
そんな人が、わざわざ中等部のコートに来る必要なんて無いはずなのに。
不思議に思いながらすぐ隣に立つ跡部部長を見上げていると、以前と少しも変わらない力強い瞳がスッと細められる。
そんな俺に、ククッと喉を鳴らして笑って、跡部部長は俺を横目で見下ろした。
「おいおい、俺はもう部長じゃないぜ?何ヶ月前に引退したと思ってんだ?」
「………………分かってます。」
「ん?どうしたよ?」
一言だけ答えた俺の言葉に、跡部部長が訝しげに眉を寄せる。
それにどう答えれば良いのか分からなくて、俺は跡部部長から視線をそらした。
まるで、そのもの自体に魔力でも宿っているんじゃないかと思う程、力強い何かを感じさせる瞳。
跡部部長のあの瞳に射すくめられてしまったら、全てを見透かされてしまうような気がする。
インサイト――とはよく言ったものだと思う。
けれどそれを恐いと思う反面、それに惹かれている自分が居る事に、俺は戸惑いを隠せなかった。
「………もう、部長じゃない………んですよね…………。」
そう、跡部部長……いや、跡部さんは、もう氷帝学園中等部テニス部の部長じゃない。
いや、それどころか明日になれば部員ですらなくなってしまう。
そう分かっているけれど、俺はこの人を部長と呼ぶ事に、少しの躊躇いも無かった。
「何だ?」
「分かって…るんです。でも………俺にとって氷帝テニス部の『部長』は、跡部部長だけですから………。」
呟くようにそう答えると、驚いたように跡部部長が目を見開くのが分かった。
そう、俺が今でもこの人の事を『部長』と呼ぶ理由。
これから先どんな人が部長の地位に就いたとしても、俺が氷帝テニス部の部長であると思えるのはこの人だけ。
それ程に俺の心を捕らえて離さない存在。
人の上に立つ者とはこういう者なのかと思い知らされた存在。
誰よりも強く、気高く、そして遠い存在。
だからこそ、一筋縄ではいかない者達の揃っている氷帝テニス部の『部長』たりえたのだと思う。
「すみません、変な事言って……。でも、これは俺の本心ですから……。失礼します。」
珍しく何も言おうとしない跡部部長の無言の視線にさらされて、俺はいささか居心地悪げに頬を掻いて、その場を立ち上がる。
素っ頓狂な事を言ってしまったという自覚が無い訳ではなかったから、これ以上おかしな事を口走る前に、この場を退散した方が良いと思った。
部活はとうの昔に終わって、ただぼんやりとしていただけだから、このまま荷物を持って帰ればいい。
そう…明日になれば跡部部長は居なくなってしまう。
俺達には新しい氷帝テニス部としての生活が始まる。
跡部部長も、高等部での新しい生活が、新しい世界が待っている。
卒業間近の跡部部長に、おかしな事を口走ってしまった一人の後輩の事など…記憶の片隅に消える筈だから。
俺は相変わらず無言で立ち続ける跡部部長に、一度だけペコリと会釈して、観客席にもなっている石段の方へと足を向けた。
「おい、待てよ。」
数段のぼりかけた時、ふと跡部部長が俺を呼び止めた。
「え?」
その声に何事かと振り返ってみると、相変わらずコートの方を向いたままの後ろ姿が視界に入る。
呼び止められた事に微かに緊張している俺とは正反対に、跡部部長はゆっくりと俺の方を振り返った。
「氷帝テニス部の部長は俺だけだって……?」
「あ………えと………。」
「ふん……面白い事を言うじゃねぇか。」
怒られるのかと思った俺の内心とはうらはらに、跡部部長が真剣な顔で俺を見詰めてくる。
いつも自信たっぷりに余裕の笑みを浮かべていた、あの跡部部長が……見た事も無いくらい神妙な表情を浮かべていて、俺は大きく息を呑んだ。
「跡部……部長………。」
「今までそんな事口にした奴なんか一人も居ないってのに……なぁ?」
「…………………。」
思いもしなかった跡部部長の様子に、俺は何と答えて良いのか分からずに口を閉ざす。
けれど、あの魔石のような瞳からは目を離せない。
吸い込まれそうな錯覚をおぼえながら、俺はゴクリと息をのんだ。
「、お前俺を越えられる自信があるか?」
「えっ?!」
「どうなんだよ?」
「…………………それは…っ!」
俺という存在を見極めようとするかのように、跡部部長の瞳がじっと俺を見据える。
その痛いほどに真剣な眼差しに、俺は小さく息をついた。
「今は………無理です。」
「………………。」
「でもっっ!!!」
何も言わない跡部部長の視線に負けないよう、半ば睨むようにして俺は勢い込んで拳を握り締める。
言わなければいけない気がした。
「いつか…………いえ、1年後には跡部部長を越えてみせます!!そして、全国制覇をこの手にしてみせます!」
おこがましい事かもしれない。
俺なんかに跡部部長を越える事なんか出来ないのかもしれない。
でも、そう思いたくなかった。
「そして、跡部部長、あなたと同じ舞台に立ってみせます!あなたの見た世界と同じものを、それ以上のものをこの目にしてみせます!」
あなた以上の存在などありはしないけれど。
あなたを越える事など出来ないかもしれないけれど。
でも、せめてあなたに追いつきたいと思う事は許して下さい。
俺は握り締めた拳が汗ばんでいるのを、どこか遠く感じながら、それでも誰よりも偉大な部長の力強い瞳を見詰めた。
「…………くっ…!………はははははは!!」
暫く無言で俺を見詰めていた跡部部長が、急に耐えられないといったように声を上げる。
久しぶりに聞いたその笑い声に、俺は何度も目を瞬かせた。
「本当に面白れぇ事言うじゃねえか、ああよ?」
一通り笑ってから、跡部部長は俺達がずっと目にしてきた、あの自信に溢れた表情を浮かべる。
氷帝テニス部の『部長』の顔だった。
俺が尊敬してやまない最強の、そして誰よりも偉大な氷帝テニス部部長、跡部景吾の姿だった。
「俺様を越えるって?甘いな!俺を誰だと思ってんだ?!」
スッと俺に人差し指を突きつけてみせて、跡部部長がニヤリと口の端を持ち上げる。
「跡部景吾だぜ、俺は。お前なんかに越えられるような壁じゃねえよ。」
「跡部部長……。」
「だがな、その度胸は気にいったぜ、?……ま、少しでも俺に追いつけるよう、せいぜいあがいてみるんだな。」
そう言って跡部部長はゆったりと腕を組む。
名前を呼ばれた事に俺は驚きと戸惑いを感じて、呆然と目を見開いた。
「とりあえず、全国制覇…してこい。いいな、?」
間違いない。
跡部部長は俺を名前で呼んでくれている。
そして、俺の実現するかも分からない全国制覇の言葉を、そのまま受け止めてくれている。
俺は、もう何と言ったら良いのか分からなかった。
「おい、どうした?全国制覇、するんだろうが?」
「あっ!はいっっ!!」
「俺に追いつくって言うんだったら、それくらいは当然だよなぁ?」
心底楽しそうに笑って、跡部部長は俺の髪に手を伸ばす。
「あっ、跡部部長っ?!」
「くっくっく……まあ、楽しみにしてるぜ、その時をよ。」
髪を掴んでぐっと引き寄せられる。
驚く俺の目の前に、あの輝くばかりの魔石を思わせる瞳が間近でさらされて、俺は動揺のあまり声がうわずってしまった。
跡部部長が、あの常に先を見据える瞳が俺を映し、俺を『』として見てくれる。
信じられない現実に、頭の中がパニックになりそうだった。
「おい、。お前俺しか氷帝の部長は考えられないって言ったよな?」
「は、はい……。」
「だったら、お前がいずれは部長になれ。」
「っっ?!!」
思いもしなかった言葉。
本当にどこまで計り知れない人なのだろう。
俺は改めてこの人の大きさを知ったような気がした。
「跡部、何ガラにも無い事しよるん?」
「ああん?うるせーよ。」
「ま、ええけど。……あいつ、大きゅうなるで。お前かて気付いとんのやろ?」
遠ざかっていくの背中を遠く見詰めながら、忍足が呟く。
それに小さく溜息をついて、跡部は同じようにの方へと視線を向けた。
「知らねぇよ。あいつがどうなるかなんてな。」
「またまた……えらい気に入ってるみたいやったで?期待しとんのとちゃう?」
「くだらねぇ事言ってんじゃねえよ!」
「くだらない事ないと思うで?俺達かてあいつには期待しとんのやから。」
「ああっ?!」
「せやから、俺らかてん事気に入ってたんや。あいつやったら全国行くいうのも、あながち夢とは言い切れんやろ?」
ニッと笑って忍足が跡部の顔を覗き込む。
それに僅かばかり嫌そうな表情を浮かべて、跡部はフイと視線をそらした。
「ま、跡部がを気に入ったのとは…ちょっとばかし違うんやろうけど。」
「何だよ、それ。」
「うわ!分かってて言わせたいん?……ほんまに気に入ってるんやろ?ただの後輩として…とはちゃう意味で。」
「ばっ!何言ってやがる!」
「ちゃうの?せやったら俺にもチャンスあるって事?俺かて気に入ってるんやからー。」
どこか悪戯っぽく笑って、忍足は横に立つ跡部に視線を向ける。
「……………ばぁか、ありえねえよ…そんな事はな。」
「えらい自信たっぷりやなぁ?」
「あいつは俺しか追って来ねぇんだよ。『部長』の俺だけな……。」
忍足に勝るとも劣らない悪戯っぽい笑みを浮かべて、跡部は静かに瞳を閉じた。
「俺はあいつにとって、たった一人の氷帝テニス部の部長なんだからな。」
口元に自信たっぷりの微笑みを浮かべて、跡部は忍足を見上げてみせる。
「はぁ……やれやれ。当てられてもうたわ。」
忍足の溜息に、満足そうに頷いて、跡部は今はほとんど見えなくなったの小さな後ろ姿を静かに見詰める。
その表情はいつになく楽しげで、そして酷く幸せそうだった。
尊敬している人が居た。
その人はもう俺達の側からは離れてしまうけれど。
でも、その人との誓いが俺達を繋いでくれている。
だからこそ俺は、いつかその人に追いつく為に、追い越す為に遥か高みを目指す事を決めた。
誰よりも強く、気高く、大きなその人に追いつく為に。
俺にとっての、ただ一人の部長。
その人の名は跡部景吾――。