こんな自分が先輩達の後を継いで行く事が出来るのか。
先輩達の期待に応えていく事が出来るのか。
今のままで自分で本当にいいのか――と。
Magic of a smiling face
「っっ!つっかまっえた~~!!」
「ぐえええっっ?!」
いつも通りに部活を終え、さっさと着替えを済ませて部室を出た俺は、ドアを開けた途端に急に肩に降りかかってきた重みに、思わず潰れたカエルのような悲鳴をあげてしまった。
「、捕獲ぅ~~★」
「きっ…菊丸先輩っっ?!何ですか、いきなりっ?!」
俺の肩口に後ろから抱き付くようにして腕を回しているのは、3年生の菊丸英二先輩。
もう部活を引退した身とはいえ、こうして部室に顔を出しては俺達の相手をしてくれている。
「おいおい英二、が苦しそうだから、早くどいてやれよ。」
「ちぇーっ!せっかく久しぶりにの反応を楽しもうと思ったのに~。」
「やれやれ……大丈夫か?」
「あ、ありがとうございます、大石先輩。」
もがいていた俺の、クシャクシャに乱れた髪を直してくれる大石先輩に、俺はいささか照れながらペコリと頭を下げた。
大石先輩も菊丸先輩ほど頻繁ではないにしろ、時々部活に顔を出しては俺達の面倒を見てくれたりしている。
本当は俺達以上に勉強や進路などで忙しいはずなのに、この間なんかは自分の勉強を後回しにしてまで、俺の課題を見てくれたりもした。
「遅くまでご苦労さん。頑張ってるみたいだな?」
「えへへ……そりゃあ来年も全国優勝、したいですから。まあ、えらそうな事言っても俺に出来るかどうか分らないですけど。」
自分でも大口たたいているような気がしないでもなかったけど、それくらい言えるようじゃなけりゃ常勝青学なんて、夢のまた夢だと思うし。
俺は苦笑しながら小さく頭を掻いた。
「そんな事無いって。なら大丈夫だよ。」
「えっっ?!」
不意に後ろから別の声が掛けられて、慌てて振り返る。
「河村先輩!!」
「やあ。」
軽く手を上げながら穏やかな笑みを浮かべてこちらに近付いてくる河村先輩の姿に、俺は目を見開いた。
「珍しいですね、河村先輩が部室に顔を出してくれるなんて…嬉しいなぁ。でも家の手伝いはいいんですか?」
「はは…何か久しぶりに皆の顔が見たくなってさ。ついね…。」
そう言って照れ臭そうに笑う河村先輩に、側に居た大石先輩が小さく頷く。
「気持ちは分るよ。俺達も似たようなもんだしな。」
「そうかい?…………うん…そうだよな。ああでも、それって俺達だけじゃないみたいだよ?」
「え?」
意味ありげにニコリと笑う河村先輩の言葉に視線を巡らせれば、向こうからこちらに歩いてくる3つの人影が。
頭一つ分近くある身長差の見慣れた三人連れは、すぐに誰か判別する事が出来る。
「手塚先輩!乾先輩!不二先輩!!」
「……顔をあわせるのは久しぶりだな。」
「やあ。今帰りかい?」
「お疲れ様、。」
以前と少しも変わらない迫力の手塚先輩に、にっこりと笑みを浮かべる不二先輩、そして相変わらず分厚い眼鏡で表情の隠されたままの乾先輩とが、こちらに気付いて声を掛けてくれる。
珍しい取り合わせだなぁと内心で思いながらも、俺は久しぶりに先輩達と顔を合わせる事が出来た事を素直に喜んだ。
部活引退後も何だかんだ言いながらもよく顔を出してくれているとはいえ、今まで毎日部活で顔を合わせていたのが途端にピタリと無くなれば、たとえ数日姿を見ないだけでも、かなりの間会っていないような気にさせられる。
それが受験を控えている3年の先輩達ならなおさらだ。
確かに青学には高等部があるけれど、無制限に進学出来るという訳じゃない。
だからこそ、進学に向けて忙しい毎日を送っている3年生の先輩達とこうして顔を合わせる事が出来たのは、幸運な事だとしか思えなかった。
「ふふ……何か久しぶりにの顔を見たような気がするよね。」
「そうだな。実際は先週も会っているんだがな。部活で顔を見ないと、ずいぶん会ってないような錯覚が起こるものらしい。」
「先輩達、色々忙しいみたいですね?」
不二先輩と手塚先輩の言葉に、しみじみとそう言うと、先輩達は苦笑しながらお互いの顔を見合わせる。
「まあ、それなりにはね。と言っても、今まで部活に費やしていた時間がポッカリと空いたわけだから、もしかしたら今までよりは、時間的には楽になったのかもしれない…とは思うけど。」
「でもその分、今までやってなかった事をやるようになったわけだから、部活の時間がそのまま切り替わっただけって気もするよな……。」
「やっぱり大変ですね、3年生って……。」
乾先輩と大石先輩の言葉に、自分には分からない大変さを垣間見た気がして、俺は大きく溜息をついた。
2年後には自分も同じ立場になるんだと思うと、更に憂鬱になる。
そしてそれ以上に、3年の先輩達が本当にもうすぐ卒業してしまうのだという事を、否が応にも実感させられてしまって、俺はしゅんとして眉尻を下げた。
「何そんな泣きそうな顔してんだよー?」
菊丸先輩の言葉に、俯いたまま上目遣いに先輩達を見やれば、先輩達は何やら心配そうに顔をしかめて俺を見ている。
先輩達のいつにないその様子に、俺は慌てて頭を振って表情を緩めた。
「ご、ごめんなさい!何でもないです!!」
「、無理する必要は無いんだぞ?」
「そうだよ。俺達で力になれる事があったら、何でも言ってくれよ?」
大石先輩と河村先輩が俺の言葉に微かに眉を寄せる。
その顔は、本当に俺の事を心配してくれているのだと分かる。
そして、それは大石先輩と河村先輩だけのものではなかった。
俺より大きな先輩達を見上げてみれば、言葉にはしないけれど他の先輩の眼差しも酷く暖かく、そして優しい光をたたえていて。
俺は何か胸にじんわりとこみ上げてくるものを感じて、思わず俯いてしまう。
今にも泣きそうな、情けない顔なんて先輩達に見せたくは無かった。
「ちょっと先輩達、久しぶりに顔見せたと思ったら何やってんスか?いびるなんて。」
どうして良いか分からずに俯いていた俺は、不意に後ろから聞きなれた声が聞こえて慌てて伏せていた顔を上げる。
「リョーマくん!」
振り返った俺の視界に映ったのは、何やら酷く不機嫌そうな表情で先輩達を斜めに見上げているリョーマ君の姿。
そしてそのすぐ後ろには、海堂先輩と桃ちゃん先輩がテニスバッグを手に顔をしかめたまま立ち尽くしていた。
「おい…仮にも先輩なんだからその言い方はやめろ越前。」
「そんな事言ってるけど、海堂先輩だって先輩達の事睨んでるじゃないッスか。」
「……………………。」
「あ、あの…っ!違うんだってばリョーマくん!別に俺は…っ!」
何だかとんでもない誤解をしている様子のリョーマ君に、俺はワタワタと両手を顔の前で振ってみせる。
「あー…いいんだぜ?3年の先輩だからって気ィ使って庇わなくてもよ?」
「も、桃ちゃん先輩まで!」
うんうん――と頷きながら俺の頭を撫でていく桃ちゃん先輩の言葉に、俺は更に跳び上がる。
俺は、あまりの事に血の気が引いていく音が聞こえるような気さえした。
「何だよ桃、その言い方ーっ?!それじゃまるで俺達がを苛めてるみたいじゃないかー!」
「違うんスか英二先輩?」
「んなわけないだろーっ!!」
「どう見たって、そうとしか見えないッスよね桃先輩?」
「やれやれ…何だかえらい言われようだな俺達。」
「ああ、とんだ濡れ衣だな。」
リョーマくんと桃ちゃん先輩、それに菊丸先輩の言い合いを聞いていた乾先輩と手塚先輩が小さく溜息をつく。
まあ、でもそれも仕方が無い事だろう。
俺のとばっちりで、言い掛かりをつけられてしまったようなものなのだから。
俺はもう顔面蒼白の状態で必死に両者の間に割り込んだ。
「だ、だから違うんですってば!!先輩達は何もしてないんです!俺が………俺が勝手に…っ!!ごめんなさい!!!だから止めて下さい!」
情けない俺の行動で、大切な人達が諍いを起こすのは耐えられなかった。
そう、俺の大切な大切な人達。
いつでも俺を見守ってくれて、時には俺を励まし、時にはくじけそうな俺をたしなめ、そして気付けば戸惑い立ち尽くす俺を待っていてくれる優しくて暖かな人達。
皆好きだった。
だから俺なんかの事で、誤解なんかで大切な人達の笑顔が曇るのは嫌だった。
「あ…っ……いや…分かったって!な??」
「そーそー!だから泣くなってば!!」
必死に縋りつく俺の様子に驚いたのか、先輩達がスッと肩の力を抜く。
その様子に、俺自身もやっとの事でホッと胸をなで下ろす事が出来た。
けれど、途端に襲い来る不安と情けなさ。
こんな風にさせてしまった、不甲斐ない己自身に涙が滲んでくる。
慌てふためいている先輩達の姿が、少しずつ涙でぐにゃりと歪んで見えなくなって。
俺は、改めてこの人達が俺にとってどれだけ大事な存在なのかを思い知らされた。
「ごめんなさい……俺が悪いんです。3年の先輩達が本当に卒業しちゃうんだなぁって思ったら、何だか凄く苦しくなって………そんな情けない俺を先輩達は気に掛けてくれてただけなんです。そしたらそれが凄く嬉しくて…それで俺、余計にどうしたらいいのか分からなくなって………っ!だから…っ!だから誰も悪くないんです。こんな事でクヨクヨしてる、情けない俺が悪いだけなんです!」
「………。」
「ごめんねリョーマ君、こんな俺のせいで嫌な思いさせて。先輩達もごめんなさい……余計な心配させて……。」
情けなさと不甲斐なさとでいっぱいになりながら、やっとの事でそこまで言葉を紡ぐ。
けれど、湧き上がる涙は拭っても拭っても溢れてくるばかりで。
俺は何度も何度も、真っ赤になるまでゴシゴシと顔を擦った。
ただでさえこの人達には情けない所や、どうしようもない姿を見られているのに、これ以上みっともない所は見せられない。
なのに、そう思うのに何故か俺の涙腺は俺の思い通りにはなってくれなくて。
それどころか、こんな俺に向けられる暖かな視線を感じる事が出来て、涙は止まるどころか次々と溢れ落ちていくばかり。
「あ、あれ?何で………?ご、ごめんなさい……っ俺………何でもないんです!」
「……?」
「ど……どうしたんだろ…?止まらないや………。」
少しでも何とかしたくて、無理に笑ってみせるけれど、涙でぐしゃぐしゃのみっともない顔にしかならない。
まるで涙腺が壊れてしまったかのように、涙は頬を伝うばかりだった。
無言の、けれど決して居心地の悪いものじゃない静けさが続いて。
何度も拭っていた袖口が大きなシミのようになってしまった頃、ふと暖かな手が俺の頬に伸びた。
突然の事にビクリと肩が跳ねる。
「――――えっ?!」
気付けば、そこには笑顔で静かに俺の涙を拭い取ってくれる不二先輩の手。
驚きに目を見開くと、そのすぐ後ろで海堂先輩が小さなタオルを差し出してくれていた。
そして、大きな河村先輩の手が、まるでなだめるようにして俺の頭を撫でてくれる。
桃ちゃん先輩は嗚咽に震える俺の肩を抱き寄せてくれて。
大石先輩は、俺を落ち着けようと何度も俺の背中を擦り続けてくれた。
困ったように目を伏せれば、下から覗き込むような体勢で菊丸先輩が俺を元気付けようと、これ以上無いくらいの笑顔を見せてくれる。
乾先輩も何も言わないけれど、俺の肩を数回優しく叩いてくれた。
慌てて視線を巡らせれば、手塚先輩は無言のまま、けれど何も心配する事は無いと言わんばかりに力強く頷いてくれる。
そして、リョーマ君はトレードマークでもある帽子を、まるで俺の泣き顔を隠そうとするかのように深々と被せてくれた。
「……っく…………っっ……!」
そんな大好きな人達の暖かさに触れてしまったら。
もう、我慢なんて出来るわけなかった。
必死に涙を止めようとしていた俺の努力なんて、脆くも崩れ去ってしまって。
俺はただ――声も立てずに泣いた。
もう、簡単に涙を止める事は出来そうも無かった。
「ねえ?一つだけいいかい?君は自分が情けない男だって思ってるみたいだけど、そんな事はないんだよ?」
不二先輩の優しい声が、まるで俺を諭すかのようにそう言ってくれる。
「でも………。」
「不二の言う通りだよ。お前は情けない男なんかじゃない。いつでも頑張り屋で努力家な、強い奴さ。だからお前が謝る事なんてないんだよ。」
「そんな事ないです!俺いつも皆の足を引っ張るばかりで……っ!」
河村先輩の過大評価に、俺はブンブンと大きく頭を振る。
そう言ってくれるのは嬉しかったけど、俺は河村先輩が言うほど努力家でも頑張り屋でもない。
ただ先輩達やリョーマ君に着いていきたくて、置いていかれたくなくて必死だっただけ。
少しでも大好きな人達に追い付きたいと、側に居たいとそう思って、がむしゃらに走っていただけ。
「おいおい、本当に足を引っ張ってる奴が全国大会決勝の最初の試合で、あっさりと勝ちを決めたりするかっての。」
「そーそー!桃~たまにはいい事言うじゃん!」
「『たまには』は余計ッスよ~英二先輩!」
「日頃の行い…ってやつだよなー?な?~?」
「おいおい、そんな事言われたらが困るだろう?けど…、こんな言い方してるけど、皆が言ってるのは本当だぞ?……お前は何も悪くないんだよ。」
俺を気遣って、明るく振舞ってくれる菊丸先輩と桃ちゃん先輩。
それを苦笑いしながら制してくれる乾先輩。
皆が俺を、俺自身以上に評価してくれている。
認めてくれる。
思ってくれている。
「でも俺……今だってこんな……心配ばかりかけてるし……それに、こんな事で泣くなんてみっともない………。」
「…お前、何か誤解をしているようだな。泣くという行為はみっともない事ではない。それを誤解するな。」
「手塚……先輩……。」
「そうだな。それに、それは俺達を思ってくれた涙だろう?嬉しくはあっても、情けないとかみっともないとか思うわけ無いじゃないか。」
な?――そう言って大石先輩が笑う。
「…………俺、こんなで本当に情けなくないですか?本当に俺、このままでいいんですか?俺……ずっとこんなんじゃ皆に呆れられるって……そう思って………。」
「だから無理して笑うってのか?それこそみっともねぇだけじゃねぇか。自分を偽ってるって事だろ?その方が許せねぇ。」
「か、海堂先輩……。」
言葉はきつくても、海堂先輩の瞳は酷く優しくて。
ぶっきらぼうだけど、俺を思って言ってくれているのだと解る。
「いいのかな…俺?このままで………このままの俺で………構わないのかな?」
俺は、小さく弱い俺を包んでくれる先輩達の優しい言葉と力強い眼差し、そして暖かい思いとに、ただただ戸惑うしかなかった。
「…………………あのさ、ちょっといい?」
「リョーマくん?」
「も先輩達も、さっきから色々言ってるけどさ?いいじゃん、別に情けなくったって、みっともなくたって。まあ、俺は今のを見ても、全然そうは思わないんだけど。でも、がどうしても自分をそう思ってしまうっていうなら、それでもいいんじゃない?少なくとも俺は……そういう所のあるの方がいいと思ってるから。」
「―――――っっ?!」
リョーマくんの言葉に、先輩達が皆一様に頷いてみせる。
俺は思わず与えられた爆弾に、今度こそ完全に言葉を失ってしまった。
どうして、こんなにも俺の欲しい言葉をくれるんだろう。
何で、こんな俺にここまで優しい世界をくれるんだろう――。
けれど、どんなに考えても、いくら皆をじっと見詰めてみてもその答えは分かるわけもなくて。
俺は本当にこれ以上無いくらいの困惑した表情を浮かべる事になってしまった。
リョーマ君をはじめ、先輩達は心底満足そうに笑っていたけれど………。
本当はいつも不安だった。
こんな自分が先輩達の後を継いで行く事が出来るのか。
先輩達の期待に応えていく事が出来るのか。
今のままで自分で本当にいいのか――と。
けれど、今はそんな事思う必要も無いのだと思えるようになった。
だってそうだろう?
俺なんて遠く及ばない人達が、俺にとって何よりも大切な人達が『今の俺』を、ありのままの俺を――笑顔で見詰めてくれるのだから………。