いつも自信に満ち溢れた表情が、歪む事はあるだろうか?
それが、たとえ幼なじみでなかったとしても……。
幼なじみ
跡部はいつだって『跡部景吾』だった。
氷帝男子テニス部員200人をまとめる最大にして最強の存在。
誰もが認める孤高の存在。
例えどんな状況下に置かれても、その輝きは失われる事はない。
そんな誰もが焦がれてやまない遥か遠い存在であるはずの跡部と、特に何のとりえも無い俺…が幼なじみだというのは、ごく一部のテニス部員しか知らない事のはずなのに――。
「……跡部の幼なじみだからって、でかいツラしてんじゃねぇよ!!」
ドカッという音と共に腹に蹴りを一発喰らって、俺は大きく咳き込んだ。
「ぐっ………ゲホッッ……ゴホッ………ッッ!!」
こみ上げてくる苦しさと異物感に、俺は肩で呼吸して目元に溢れた涙を拭う。
もうどれくらいこうしているだろう?
ボンヤリそう思いながら、俺は荒いままの息を整えようと地面に両手をついた。
跡部の部活が終わるのを、いつものように教室で待っていた俺は、跡部が呼んでいる…という数人のテニス部員の言葉を鵜呑みにして、ノコノコとこんな所――使われなくなって久しい体育倉庫――までついてきてしまっていた。
最近はこういう事も殆ど無かったから、少し油断していたのかもしれない。
少し前だったら怪しいと思った段階で、2・3発蹴りでも入れて逃げる事も出来たのだが、今回はこっちが反応する前に先手を打たれてしまって…結局はこのザマだ。
俺はフラフラする頭を数回振って、目の前の数人のテニス部員を見上げた。
「別に、でかいツラしてるつもりはねぇんだけど?」
「うるせえよ!じゃなきゃ、何でテニス部でもないお前が、平気でテニス部の合宿についてくんだよ?!」
俺の答えが気にくわなかったのか、一番前で俺を見下ろしていた奴がいきり立つ。
そんな相手をボンヤリ見上げて俺は小さく溜息をついた。
よく見れば、こいつは跡部の崇拝者のうちの一人だ。
跡部の存在をまるで神のように崇めているこいつらにとっては、俺は跡部の周りをウロチョロしている害虫か何かとしか思えないらしい。
跡部が自分達ではなく、俺を見る事が許せないのだろう。
気持ちは解らないでもなかったけれど、俺がそれに付き合ってやらなければならない理由なんか無い。
俺は、ものすごい形相で睨みつけてくる数人のテニス部員達を見回して、ニヤリと口の端を持ち上げた。
「気持ちは解るけど、男の嫉妬は醜いぜ?それも同じ男の事でよ。」
「なっっ?!!」
俺の言葉に、数人の顔がカッと赤くなる。
怒りなのか羞恥なのか、ここからではハッキリとは判らなかったが、少なくとも図星だったのは間違いないらしい。
やれやれと思いながら、俺は内心で溜息をついた。
「………言っとくけどな、俺がテニス部の合宿に参加するのは、跡部に言われたからだぜ。余計な言いがかりつけるんなら、直接跡部に言えよ。」
言った所で効果があるとは思えなかったけれど、事実なのだから仕方ない。
合宿期間内だけのマネージャーだと跡部は言っていたが、レギュラー専用の雑用係みたいなものだろう。
確かに楽な仕事じゃ無さそうだったけど、いつになく真剣な跡部の瞳に見詰められて、俺は跡部の申し出を受け入れた。
ただそれだけの事だったのだ。
「~~っの!デタラメ言いやがって!!」
案の定、奴らは俺の言葉に更に激昂する。
(これは……流石にもたないかな………。)
再び加えられる暴行に、遠くなり始めた意識を必死で繋ぎ止めながら、俺はギュッと目を閉じた。
(あと……べ…………。)
今ごろ跡部はどうしているだろう――?
教室に居ない俺の事をどう思っているだろう?
何も言わずに姿を消した事に腹をたてているだろうか?
それとも、呆れてさっさと帰ってしまっただろうか?
(おそらく後者だろうな……。)
呆れたように口の端を持ち上げて笑う跡部の姿が容易に想像出来る。
でも、それでいいのかもしれない。
こんな事、跡部が知る必要もない事だから。
俺は何となくおかしくなって、微かに口元をゆるめた。
「てめぇ!何がおかしいんだよ?!!」
暴行を加えていたうちの一人が、俺の表情に気付いて胸ぐらをつかみあげる。
もう、その瞳は完全に正気を失っているように見えた。
「くたばれぇっっっ!!!!!」
俺をつかみ上げている反対側の腕が、目の前で大きく振り上げられる。
覚悟を決めた次の瞬間、不意に体育倉庫のドアが開いて、薄暗い室内に眩しい光が差し込んだ。
「てめぇら!何してやがるっっ?!!」
「な……に……?」
唐突な出来事に、つかみ上げられていた胸元が急に解放され、倒れこんだ俺は壁越しにズルズルと崩れ落ちる。
「跡……部……………?」
段々と遠のいていく意識の中、最後に俺の目に飛び込んできたのは、今まで見た事も無いくらい頼りなげな表情の跡部の姿だった。
どこまでも続く真っ白な道。
決して他には何も無いその道を、俺はただゆっくりと歩いていた。
どこに行こうとしているのか、何をしようとしているのか、それすらも分らない。
ただ、この先に大切な何かがあるような気がした。
「……………?」
ふと、何かが俺を呼んだ気がして、立ち止まる。
ぐるりと周りを見渡すと、少し先にぼんやりと小さな光が灯っている事に気付いた。
「暖かい………。」
近付く度に伝わる、ほんのりとした暖かさ。
心地良いその光に惹かれて、俺はそっとその光に手を伸ばした。
「っっっ?!!!」
耳元であがった叫びに、俺は一瞬自分が置かれている状況が理解出来なかった。
「あ、あれ?」
ボンヤリとした思考のまま、ゆっくりと辺りを見回す。
さっきまでの単調な世界と違い、鮮やかな色彩が目に飛び込んでくる。
その鮮やかな色の洪水の中にあって、なお強烈な存在感を感じさせるその姿を目の端にとらえて、俺はそっと目を細めた。
「よぉ……跡部ぇ……。」
驚いたように目を見開いたまま俺を見詰める跡部の姿。
ほんの少しだけ視界がボンヤリとしているのは、身体のダメージが大きいからかもしれない。
「何、呆けてんのさ?」
笑おうとして、瞬間的に唇の端に走った痛みに顔をしかめる。
どうやら、あいつらに殴られた時に唇の端を切ったらしい。
そんな俺の姿に、跡部はぎゅっと眉間にしわを寄せた。
「いいザマだな………。」
「へへ……ちょっと遊びすぎちまったぜ……。」
そう言って笑うと、更に険しく跡部の表情が歪んだ。
「…………いつからだ?」
「は?」
「いつからこんな事があったのかって聞いてんだよ。」
スッ――と細められた跡部の瞳。
いつも自信に満ち溢れた光をたたえるその瞳が、押さえ切れない怒りに揺れている。
その姿に、俺はゆっくりと溜息をついた。
俺の為に……そう、間違いなく俺の為に怒ってくれているのは分かるけれど、俺はそんな跡部の姿が見たいんじゃない。
俺の幼なじみは、常に堂々とした姿で先を見据え、自信と力強さが溢れ出る…そんな輝く姿こそがふさわしいから。
「……………ふん………最近ボケが激しくて忘れたね。」
「………てめぇ………。」
「そんな事より、何情けないツラ…してんのさ?跡部景吾さまともあろう者が。」
「ああん?誰が情けないツラだって?そりゃお前の方だろうが。」
「またまた~無理しちゃって。あ!俺が居なくて寂しかったかなー?景吾ちゃん★」
「……お前な……。」
俺の言葉に、跡部の顔に呆れたような表情が浮かぶ。
そう、それでいい。
少なくとも、怒りにその身を委ねる跡部を見るよりは、遥かにマシだ。
やっと普段と変わらない表情をみせた跡部に、俺は静かに笑ってみせた。
「………へへ……そっちの方がいいって。情けないツラするよりな。」
「……。」
「でも……ありがとな跡部、来てくれて。」
そう言うと、珍しく跡部は何か言いよどんで、ふいっと視線をそらした。
「跡部??」
痛む身体を引きずりながら、上半身だけ動かして跡部の顔を覗き込む。
ほんの少しの振動でも、必要以上に身体に響いてくる痛みに、俺は再び顔をしかめた。
「っっ痛っ!!」
「おい、っ?!」
痛みに耐え切れずグラリと体制を崩すと、慌てたように伸ばされた跡部の腕が俺の身体を抱きとめる。
その腕は俺が思っていたよりも遥かに力強く、そして逞しかった。
「悪ィ………。」
「動けもしないのに、無理してんじゃねえよ。」
「ははは……流石に今回は死ぬかと思ったね、ホント。」
「…………お前が、そう簡単にくたばるタマかよ……。」
「おお!信じられてんなー、俺。」
「バカか、お前は。」
苦笑いしてみせれば、身体に響かないくらいの力でコツンと頭を叩かれる。
けれど、その顔は決して笑ってはいなかった。
いや……笑わないんじゃない。
きっと笑えないのだ、今の跡部は。
何となくだけれど…そう思った。
「あと……べ?」
「…………………。」
「なあ、跡部?」
「……………………………。」
「跡部ってば…!」
「うるせえな。ちょっと黙ってろ!」
「っっ?!!」
不意にそう言われて、俺は息を飲む。
跡部が………あの跡部景吾が……すがるようにして、俺の肩を抱き締めている。
まるで失う事を恐れているかのようなその様子に、俺はそれ以上掛ける言葉を失った。
「こんな事は二度とごめんだからな……。」
耳元で呟かれる小さな声。
今まで耳にした事の無いような掠れたその声に、俺はグッと胸元を締め付けられるような感覚をおぼえた。
気を失う前に見た跡部の、悲しげで頼りなげな表情が頭をよぎる。
いつも俺様な跡部だけれど、あの時の跡部はまるで迷子の子供のような……そんな不安を抱えた目をしていた。
そしておそらく今も――。
「ごめん、跡部………。」
抱き込まれた状態のまま呟くと、スッと腕の力がゆるむ。
そっと見上げた先の跡部の表情は、もういつもと変わらなかったけれど、向けられた瞳だけは、やはりどこか不安そうなままだった。
「………俺様の寿命を縮めたんだ、それなりの覚悟は出来てんだろうな?」
「ごめんってば。……………でも……………。」
「何だ?」
「……怒るなよ?」
「……………?」
「…………………でも、さ……俺の為に怒ってくれたり、俺の心配してくれたのってさ…………ホントはすげー嬉しい………かも。」
へへへ……と笑うと、跡部は今度は驚いたように目を見開いた。
「ちょっと期待しちまったりして。」
「……………。」
「あ!いやっ………もし俺が死んだら……ちょっとくらいは泣いてくれるかなー…とかさっ!」
慌てて付け足した言葉に偽りは無いけれど…。
頼むから黙り込まないで欲しい。
本当に、余計な期待を……してしまうから。
あの瞳で切なそうに俺を見ないで欲しい。
その視線にとらわれて、動けなくなってしまうから。
俺が俺でなくなってしまわないように――。
「な、何だよ?何か言ってくれよ………。」
いたたまれなくなって、俺はあたふたと視線を彷徨わせる。
真剣すぎる跡部の視線を向けられると、どうしたら良いのか分からない。
どうにも困り果ててしまい、俺はガラにもなく泣きたい気分になってしまった。
「………そんな泣きそうな顔すんじゃねぇよ。」
「う~~~~………。」
「あのな……この俺様が居て、を死なせるような事があるわけねーだろうが。」
くしゃりと俺の髪をかき混ぜて、跡部はニヤリと不敵に口の端を持ち上げる。
そしてそのまま俺の頭を自分の肩口に引き寄せた。
「俺様が生きている限り、が死ぬ事なんて無いんだから、その仮定は無意味だろ?なぁ、?」
「…………跡部、それって………。」
「『嬉しい』だろう?」
そう言って跡部は嬉しそうに笑って……そして、静かに俺の身体を抱き締めた。
あれから再び痛みによって気を失った俺は、何故か跡部の家に担ぎこまれ、結局数日間跡部の家で手厚すぎる看護を受ける事になってしまった。
その後聞いた話だが、俺に暴行を加えた奴らは、数日後には氷帝学園を出て行ったらしい。
忍足の話だと、裏で理事長関係者に、秘密裏に圧力が掛かったんじゃないかとの事だ。
何となくその圧力の出所が分かってしまった気がしたけれど、俺はあえてその事には触れなかった。
そして今日も俺は、跡部の部活が終わるのを教室で待っている。
幼なじみとしてではなく、この間までとは少しだけ違う関係で……。