ONLY ONE







最初はほんの少し目を閉じるだけのつもりだった。
いつもと同じように部活を終え、自主トレを終わらせてから、バスに乗る。
普段と何も変わらない行動だったが、一つだけ今日の海堂には普段と大きく異なる所があった。
それは、今日実施された小テストの為に昨日の夜遅くまで復習をしていて、今日一日朝からかなりの睡眠不足だった…という事。
けれど、いくら眠いからといっても、その性格上授業中にうたた寝する事も出来ず、海堂は眠い目をこすりながら一日の授業を何とか終えていた。
その上、普段と変わらないハードな部活に自主練とくれば、流石の海堂の身体も限界に来る。

(やべぇ…瞼が落ちてきやがる。)

幸いにして乗ったバスは帰宅ラッシュの時間を過ぎていた為に空席がいくつもあり、疲れた身体を座席に投げ出しながら、海堂は時折大きく揺れるバスに揺られながらも、かろうじて意識を保っていた。

(少しだけ…目を閉じてれば……。)

寝るつもりは無かったが、ほんの少しの間だけ…と眠気に従ってしまったのがいけなかった。
心地良いバスの振動に、海堂はいつしか完全に意識を手放していた。



「……………ん………だよ……。」

(うるせぇ……。)

「………だ…じょ……ぶ………。」



すぐ側で何かが聞こえてくる。
ぼんやりとした感覚の中、心地良い眠りの中に居た海堂は、段々と大きくなってくるその何かに意識を向ける。
それが人の声だと気付いて、ようやく海堂はぼんやりする意識を現実へと引き戻した。


「大丈夫か?」


すぐ横…というよりも、すぐ真上から透き通るような耳に心地良い声が聞こえてきて、咄嗟にビクリと身体をすくませる。
何だろうと思いながらゆっくりと顔をあげると、いささか困ったような表情の少年が、海堂の顔を覗き込んでいた。

「気持ち良く寝てたのにごめんな。終点だから………。」

そう言って小さく笑う少年の顔を見て、海堂はそこでようやく事態を理解した。



「すっ…すんませんっっ!」



横に座る少年に完全にもたれかかり、あろうことか肩に頭を乗せた状態で眠りこけていた自分に気付いて、海堂は真っ赤になって頭を下げる。
終点の青春台駅前に着いた事にも気付かない程熟睡していたというのもあったが、それ以上に見ず知らずの少年にもたれかかっていた…というのが海堂にとっては一番の問題だった。

「ううん、別に構わないって。疲れてたんだよな?」

少しも責めるような素振りなど見せずに、少年はニコリと笑みを浮かべる。
決して高くは無いけれど、透き通った静かな声に、海堂は更に恐縮して下を向いた。

「本当にすんません……。」
「いいよ、気にしないで。じゃ、気を付けてな。」


気まずそうに俯く海堂に、もう一度笑みを向けて、少年は軽く手を挙げる。
殆ど人気の無くなったバスを降りていく少年の後ろ姿を見送りながら、海堂は小さく溜息をついた。



「やっちまった……。」

片手で軽く頭を抱えて床に置いたテニスバックを手に取る。
料金を払って降りていく他の乗客達の列の最後尾に並んで、海堂は隣に座っていた少年の姿を目で追った。


「……あ?どこに行くつもりだ?」


バスを降りてから青春台の駅に向かわず、すぐに向かい側のバス停の方へと歩いて行く少年の姿に、海堂は首を傾げずにはいられなかった。
青春台駅前で降りたのなら、駅を利用するか、そこから家に帰るかのどちらかの筈なのに、これでは又元来た道を戻る事になってしまう。
不思議な行動をする少年の様子に、海堂は自分の前に居た乗客が全て降りていった事にも気付かず、呆然と少年の行き先を見詰めていた。



「お客さん、降りないの?」


暫く立ち尽くしていた海堂に、運転手の声が掛かる。
その声に慌ててタラップを降りようとした海堂に、苦笑を含んだ運転手の声が再び向けられた。

「お客さん、ちゃんにもたれて寝てた人かい?」
「え………ちゃん?」
「あれ?違った?」
「いや、寝ちまってましたけど……。」
「やっぱりそう?よくお礼言っときな。ちゃん、4つ前で降りる筈だったの、そのままにしてくれたんだからさ。」

そう言って、バスの運転手はさっきまで海堂の隣に座っていた少年を指さす。
向かい側のロータリーのバス停に立つ少年――運転手の話によれば『』というらしい――が、左腕を覗き込んでいる。
どうやら、目の前の時刻表と時計とを見比べているようだった。


「4つ前?」
「そう。お客さん、ぐっすり寝てただろう?起こしちゃかわいそうだと思ったんだろうなぁ…ちゃん優しいから。」


そう言って運転手が苦笑いする声を聞きながら、海堂はちょうどタイミング良くロータリーに入ってきた戻りのバスの中に消えていくの姿をじっと見送った。
4つ前のバス停で降りる筈だったという事は、ここまでかなりの時間をロスしてしまった事になる。
その上、料金だってバス停4つ分は確実に高くなっている。
そこまでして海堂の睡眠を優先させるなんて、どうしても海堂にはそれが理解出来なかった。
運転手に礼を言ってタラップを降りると、向かい側のバスがゆっくりと走り始めるのが目にとまる。



「『』か………。」



ポツリと呟いた海堂の言葉に気付くものは誰も居なかった。
















「あ…………。」


見ず知らずの少年に寄りかかり熟睡するという、海堂にとって不本意極まりない事件から数日後、偶然に海堂はその時の少年――と再び顔を合わせる事になった。

「え?」

ポツリと思わずこぼれた海堂の声に、が伏せていた顔をあげる。
そして、自分の目の前に立つ海堂の存在に気付くと、はパッと表情を明るくした。

「ああ、あの時の……。」

目の前の座席に座るに、ニコリと微笑まれて、海堂は困ったように視線をそらす。
普段から相手に与える印象が必ずしも良いものばかりではない海堂にとって、少しも臆する事無く、それどころか無条件で笑顔を向けてくるの視線はいささかくすぐったいものがあった。


「この間はすんませんでした。バス停で降りそこねたって……。」

「いいって気にしなくて。何だか凄く気持ち良さそうだったから起こせなくてさ。俺が勝手にした事だから、そんなにすまなそうにしなくていいよ。相当疲れてたんだろ?眠い時に起こされるのっていい気分じゃなもんな。」


バスの揺れって気持ちいいんだよな――そう言っては楽しそうに笑う。
全く気にしていないといったの様子に、海堂はホッと大きく胸を撫で下ろした。

「あ、でも……いくらっスか?余分に払った料金。払います。」
「だからいいってば。」
「そういうわけにはいかないっス。それじゃ俺の気が済まないんで……。」


気にするなとは言うけれど、海堂はそれでは納得出来なかった。
借りを作ったままのような気がして、どうにも落ち着かない。
善意なのは分かっているのだが、もって生まれた性分なのか、このまま何もせずに行為に甘んじるのは潔しと感じられなかった。


「う~~~ん……………じゃあさ、この後ヒマ?」
「??ヒマ……といえばヒマっスけど……?」
「じゃあ、次でちょっと降りられるか?」

そう言って首を傾げてみせるに、海堂は微かに眉を寄せた。



「………お茶しよう?おごってくれる?」

「!!」



思いもしなかったの言葉に、海堂は大きく目を見開く。
そんな海堂に小さく笑ってみせて、は目の前のブザーへと手を伸ばした。
















「何だ……お茶ってこういう事かよ………。」

プシュッという音がして、の手にしている缶ジュースから僅かに空気の漏れる音がする。
それをすぐ横で聞きながら、海堂は同じようにプルトップへと手を伸ばした。


「じゃあ、ごちそうになるよ。えーと………?」
「あ、海堂ス。海堂薫。」
「ああ、海堂くん?遠慮なくいただきます。」


ニコリと笑うに無言でコクリと軽く頷いて、海堂は自分も手の中にあるスポーツドリンクの中身を大きくあおった。

結局に促されるまま次のバス停で降りた海堂は、降りたバス停のすぐ目の前にある公園へと誘われて、こうして缶ジュース片手にベンチに座っている。
当初はどこへ連れて行かれるのかと半ば緊張していた海堂だったが、予想外の展開に緊張の糸が切れて、何だか酷く脱力していた。


「本当にこんなんでいいんスか?」
「ああ…バス代?これでチャラね?」
「あんたがいいんなら……構わないんスけど……。」

いまいち釈然としないといった様子の海堂に小さく苦笑いして、は手にしていた缶ジュースをベンチに置く。
そして暫くゴソゴソとバックの中を探っていたは、取り出したカードケースの中から、一枚の小さな紙片を抜き出すと、ニッと笑ってそれを海堂に差し出した。

「はい、これ。」
「?何スか?」
「俺の名刺。この間作ったんだけどさ、使う機会無くって。もらってくれる?」

そう言われて、咄嗟に海堂は差し出された名刺を受け取る。
手にした名刺を覗き込むと、そこには薄いブルーの紙にシンプルなデザインで名前と携帯番号・メールアドレスだけが記されていた。


?」

「そ。考えてみたら自己紹介してなかったなーと思って。俺、。ちなみに高校2年生。よろしく?」


にっこりと笑っては海堂の顔を覗き込む。
その鮮やかな笑顔に海堂はビクッと身体を震わせた。



(何て無防備な顔すんだ、この人は――?!)



同じ部活の先輩の中にも、穏やかな笑顔や優しい笑顔、人懐こい笑顔など色々居るけれど、のは少し違っていた。
初めて会った時から、第一印象のあまり良くない海堂に臆する事無く話し掛けてきたし、こうして無条件に明るい笑みを向けてくる。
自分のせいでバス停で降りそこね、その上余計な出費をさせてしまったのだから、普通なら第一印象は最悪の筈なのに、不満を漏らすどころか逆に笑顔さえ向けてくるなんて、海堂にはどうしても理解出来なかった。


「あの………。」
「ん?何?」
「いくつか…聞いてもいいっスか?」
「いいよ。何?」

どう切り出すか戸惑っている海堂が、ソワソワと視線を彷徨わせているのを見て、はそっと口元をほころばせる。
決して嫌なものではないその微笑みに後押しされて、海堂は静かに口を開いた。

「何で笑えるんスか?この間の事……本当に怒ってないんスか?」
「別に?言っただろ、気にすること無いって。」
「本当にこんなんで良かった……んスか?缶ジュース1本なんかじゃ降りそこねた分のバス代になんねぇし……。」
「いいんだって。俺がそれでいいんだから、これでチャラ!」

「…………じゃあ、何で叩き起こしてバスを降りなかったんスか?余計な時間も金もかかっちまうのに?」


予想外に食い下がってくる海堂に、は不思議そうに首をかしげる。

「ん~?だから言ったろ?疲れてるんだなーと思ったら起こせなくってさ。」
「それは聞いた。そうじゃなくて………いや、俺が疲れてるかどうかなんて見ただけじゃ分かんないじゃないスか。ただ単に寝こけてるだけかもしれねえし。」

半ばムキになってそう言うと、困ったように眉を寄せては小さく頭を掻いた。


「まいったなぁ…………えと……本当はさ、結構前から海堂君の事知ってたんだ。ああ、もちろん名前までは知らなかったけどさ。よく同じバスに乗るから……何か良く見るなぁって。」


そこまで言っては照れ臭そうにはにかむ。

「海堂君が青学なのはすぐに分かったんだ。俺も中学は青学だったから。」
「高等部には行かなかったんスか?」
「うん、やりたい事があったからな。だから高校は外部にしたんだ。で、俺も青学だったから海堂君が青学テニス部だって気付いてさ。それで思ったんだ、相当疲れてるんだろうなーって。テニス部の練習は厳しいからなぁ。」

竜崎先生は相変わらずだろ?――そう言っては肩をすくめてみせる。
そんなの言葉に海堂は大きく目を見開いた。


「何で……?」
「ああ?俺、テニス部だったんだよ。だから分かったんだ、海堂君が疲れてる事。これで納得?」
「あ…いや……でも、いくら疲れてるからって何の面識もない奴に、何でそこまで……?」

訝しげに首をかしげる海堂の言葉に、はほんの一瞬小さく息を飲んだ。


(何だ――?)


予想外のの反応に、海堂も瞬間的に言葉を失う。
別におかしな問いをしたつもりは無かったけれど、の過敏な位の反応を前に、聞いたらマズイ事でもあったのかと海堂の内心に不安と後悔の念がよぎった。


「あ、えっと………。」

言いにくそうに言葉を濁すをじっと見詰める。
気分を害したようだったら、すぐに謝罪するつもりだった海堂は、次のの言葉に再び目を見開いた。



「海堂君、いつも頑張ってるから…応援したくなるんだ。ただ…それだけ。」



そう言っては、照れ臭そうに頬を染めて、そっと目を伏せる。

(――――――っ?!)

「あ……あはは…何か恥かしい事言ってるよな、俺っ!気にすんなって!」

驚いたようにじっと自分を見詰めてくる海堂の視線に、はあわてて苦笑いすると、少し乱暴に己の髪をガシガシとかきまぜる。
そのはにかんだような姿に、海堂の中で何かがプツリと音をたてた。

「あ、あれ?海堂くん?」

の声をどこか遠いもののように聞きながら、海堂は自分の中に生まれた不確かな感情の波に戸惑うしかなかった。
会って間もないに、言いようのない『想い』を感じる。
それが何なのか、未だ人生経験も乏しい海堂には分かる術もなく。


「何でもないっス………。」


結局、そう答えるだけが精一杯だった。
















公園での不思議なひと時を過ごして以降、海堂は自分でも驚くほど頻繁にとの時間を持つようになっていた。
不器用な海堂にしては珍しく自分からの携帯に電話をしたり、の高校の学園祭に顔を出すなど、今までなら考えられない行動を自然に行っている。
そんな自分に驚きながらも、海堂はしだいに自分の心を占めていくという大きな存在に惹かれずにいられなかった。



「どうしたんだよ海堂~?何か嬉しそうじゃん!いいことでもあったの~?」



レギュラーの特別メニューを終えて休憩に入っていた海堂は、珍しく隣に座った菊丸に不意にそう言われて、ビクリと肩を震わせる。
自分では普段通りにしていたつもりだったが、どうやらそうでもなかったらしい。
人の感情の起伏に鋭い菊丸が相手だったとはいえ、思わず漏れてしまっていた己の感情に、海堂はコホンと一つ小さく咳払いした。

「いや、なんでも……。」

「英二…それは愚問じゃない?海堂の手元を見れば分かるよ。」

慌てて取り繕う海堂に小さく苦笑して、不二が海堂の手元を指差す。
その先を目で追って不二の言葉の意味に気付いた菊丸は、とたんにニヤッと笑みを浮かべてみせた。


「なあ~んだ。海堂、先輩と会ってたんだ、昨日?」

前日の練習終了後、普段なら自主トレで比較的帰りが遅い海堂が、珍しく慌てて部室を飛び出していった事を思い出して、菊丸は更に笑みを深める。


「な、何でそれを?!」

ニマニマと半月眼で見てくる菊丸に、驚いたように目を見開く。

「それさー先輩のドリンクケースだよにゃ~?俺、見覚えあるもん。昨日もらったんだろー?」
きしし……と笑って、菊丸は赤くなる海堂を軽くこずいた。


「そ、それが何だっていうんスか?!」


動揺を隠し切れない海堂は、墓穴を掘っている事に気付かず、更に顔を赤らめる。
不二や菊丸、そして他の3年レギュラー陣がと海堂という奇妙な取り合わせに気付いたのは、海堂がと知り合ってからすぐの事だった。
そのそもそものきっかけは、何の前触れも無く母校である青学にが顔を出した事からだった。
久しぶりの懐かしい顔にざわめく3年生をよそに、が最初に声をかけたのは3年生でもなければ顧問の竜崎でもなく、初対面であるはずの海堂で。
それ以降、何故かたびたび顔をみせるようになったの目的が海堂にある事は、すぐに誰の目にも明らかになっていた。



「本当に海堂は先輩が好きなんだね?」

「なっっ?!」



海堂の様子に、ふふっ…と笑って不二が眼を細める。

「だとしたら、暫くは寂しいんじゃないか?会えなくなるのは?」
「え?」

不二の隣で話を聞いていた乾が、ふと思いがけない言葉を漏らす。
その言葉に海堂は小さく驚きの声をあげた。
聞き間違いだと思う一方で、鼓動が激しく鳴り響いている。
ごくり…とのどが鳴る音さえも聞こえるほど、海堂の神経はピンと張り詰めていた。


「あれ?先輩から聞いてないのか?先輩、今週末イギリスに行く事になってるんだが。」
「い、イギリス?!何で?!」
「本当に聞いてないのか?……海堂も聞いてないか?先輩はプレイヤーではなく、指導者になる道を選んで外部の高校に進学したんだ。そこで、海外留学の話が来たんだそうだ。その出発が今週の土曜日らしい。」

「そんな……留学なんて聞いてねぇ!」


海堂は、手にしていたドリンクケースをガンッとベンチに叩きつける。
その勢いでストロー口から僅かにスポーツドリンクが数滴飛び散った。


(確かに今週末は出掛けるとは言ってたが、留学なんて話、聞いてねぇ!)


頭の中をさまざまな想いがグルグルと交錯する。
信じられないというより、信じたくなかった。
が自分にだけ何も言わずに行こうとしていた事も、本当に会えなくなってしまうという事も。



「…………………………………………。」

「なあ海堂、先輩ん家知ってる?」
「知らないっス………。」


菊丸に言われて、海堂はさらに深く沈み込む。
確かにとはよく出かけたり会ったりしていたけれど、肝心のがどこに住み、どんな生活をしているのか、全く知らないままだった。
いつも連絡は携帯でついていたし、家まで押し掛けるような事は無かったから、今の今まで菊丸に指摘されるまで、その事に気付きもしなかった。
自分はそれだけの存在だったのだろうか――?
その想いが海堂の気持ちを、心をさいなむ。
海堂は、自分でも驚くほどに茫然自失していた。
その海堂のあまりの姿に、その場に居合わせた乾、不二、菊丸の3人はお互い顔を見合わせる。



「仕方ないな………海堂、ほらこれ………。」


暫くの沈黙の後、小さくため息をついて、乾が手にしていたデータノートの1ページを切り離す。
それを無意識に受け取った海堂は、その紙面に目を落として大きく息を飲んだ。

「乾先輩!これって?!」
「見ての通り、先輩の住所。行ってケンカするなり、話するなりしてくるといい。」
「で、でもっ!!」
「正直、今の海堂じゃ、いくら練習しても何も身にはつかないよ。」
「……………っっ!」
「そうだね、乾の言う通りだよ。このままじゃ練習どころか、試合にだって集中出来ないだろうしね。テニスはそんなに甘いもんじゃない事は、海堂だったらよく解ってるはずだよ?」

たしなめるような乾と不二の言葉に、海堂は深くうなだれる。

「そうそう!モヤモヤしてるんだったら、さっさと解決しちゃえばいいんだって!」
「先輩……。」
「まあ、これをどうするかは、海堂次第だが……。」

「…………っス。ありがとう……ございます。」


ペコリと頭を下げて、海堂は少し離れた所に居る大石の方へと駆け出した。
会ってどうするかなんて解らなかったけれど、今は乾や不二の言う通り、この胸の内にある何かに従うしかない。
今はその想いしかなかった。




「………ずいぶん思い切った事したね、乾?大事なデータノート切っちゃうなんて。」
「ああ、あれか?一番後ろのページに書き写して切り取ったんだ。一番前は表紙として1枚書き込まない部分があるからな。万一切れても問題は無い。」
「さ~っすが乾!抜け目ない~~。」


走り出した自分の後ろで、このような会話が交わされていたなど気付くはずもなく、海堂は手にした紙片を握り締めて、ただひたすらにの家を目指して走り続けていた。
















週末の出発に向けて荷物の整理をしていたは、不意に階下から聞こえてきたインターホンの音に、せわしなく動かしていた手を止めた。

「誰だろ、こんな時間に?」

新聞の勧誘や訪問販売の類だったら居留守を使おうと思いながら、静かに階段を下りリビングのインターホンからモニター越しに外の様子を伺う。


「っ?!」


そのモニターの向こうに映る姿に、は大きく息を飲んだ。
思いもしなかった姿。
ありえないはずの姿がそこにはあった。

「海堂くん!!」

慌ててリビングを出て、転がるようにして勢いよく開けたドアの先には息を切らしたままの海堂の姿。
ここまで走ってきたのか、海堂の全身には珠のような汗がしたたっていた。

「話…………あるんス………いい……っスかっ!」

じっと睨むようにして見つめてくる海堂の勢いに、は思わず無言でコクリと頷く。


「………………あ、ゴメンあがって?散らかってて悪いけど。」
「お邪魔…します。」


暫く呆然と見詰め合ってしまっただったが、ハタ――と我に帰り、慌てて海堂を家の中へと促す。
それに素直に従った海堂は、初めて足を踏み入れたの部屋の様子に、思わず大きく息を飲んだ。
部屋中に広げられた衣類の数々。
机の横に置かれた大型のトランク。
そして、机の上に置かれたままのパスポート。


「……………………っっ!」


何も聞かなくても、この部屋の状態を見ればが海外に行く事は火を見るより明らかだった。


「海堂………くん?」
「…………………やっぱり行くんだな、イギリス。」
「え?ああ、これ?何だ知ってたのか。」

小さく苦笑してはすぐ横にあるトランクをポンと一つ叩く。

「………やっぱり本当だったのかよ。」
「か、海堂くん?どうしたんだよ?何か……。」


「俺っ!俺はっっ!!」


ぐっと拳を握り締めて、海堂は苦しげに叫ぶ。
何を言えばいいのか分からなかった。
行かないで欲しいと言いたいのか、それとも何で自分に教えてくれなかったのかと問いただしたいのか?
頭の中がグルグルといっぱいになって、思うように言葉が出ない。
興奮しているのか、怒りが込み上げているのかさえも判別出来ない位に頭の中が混乱している。
海堂は、取り乱しているとしか思えない自分自身の姿に、情けなくも涙が出そうだった。


「大丈夫?深呼吸してごらん……。」

不意にそっと視界が遮られ、それと同時に暖かな何かがまぶたに触れる。

「?!」

海堂がそれがの手の平だと気付くのには、暫くの時間が必要だった。



「目を閉じてゆっくり深呼吸して?俺の声に意識を向けてごらん?」



静かで優しい響きの声がすぐそばで聞こえてきて、海堂は息を飲む。

「力を抜いて………大きく深呼吸するんだ。」

促されるまま、海堂は大きく息を吐き出す。
何度か繰り返していくうちに、力のこもっていた腕から自然と力が抜けていく。
の静かで透き通る声音が、少しずつ海堂の中に渦巻いているモヤモヤしたものを解きほぐしていくようだった。


「…………どう?少し落ち着いたか?」
「………っス。」
「良かった…!」
「すんません、俺頭に血がのぼって…。」
「いいって。俺に何か言いたいことがあって来たんだろ?全部聞くから。いや、違うな……全部聞かせて欲しい…かな。」
……さん……。」


どこか少し困ったようにも見える微笑みを浮かべて、はそっと海堂の目頭から手を離す。


「聞かせてくれるか?」


戸惑いがちに差し出されたの手をおずおずと握り返して、海堂は覚悟を決めたように大きくため息をついた。



「あんたが……あんたがイギリスに行っちまう前に…言っておきたい事が……あって……来た……。」
「うん?」

「俺、あんたに憧れてた……あんたはいつも前向きで、自分の夢や想いに正直で、一歩一歩着実に歩いてて……俺にはあんたが凄ぇ眩しかった。無愛想な俺にも、あんたはいつも笑ってくれたよな?あんたがまっすぐに俺を見てくれるのが……………その……何だ……励みっつーか……嬉しかったっつーか……っ!」


一言一言確かめるように、噛み締めるように紡がれていく海堂の言葉に、は大きく目を見開く。
まさか海堂の口から直接こんな言葉を聞ける日が来るとは思ってもいなかった。


「俺っ…不器用だし、あんたみたいにはなれねぇ!けどっ……絶対負けねぇから!俺も俺の進む道を、夢を諦めねえからっ……だからっ……だからあんたもっっ!!」

「海堂………くん……。」
「だからっ……その……っ俺はっ!」



(何言ってんだ俺は?!)



言いたい事はそれだけじゃないはずなのに、それ以上上手く言葉が出ない。
海堂にとって、こんな時ほど不器用な自分を恨めしく思ってしまう事は無かった。


「?」
「いや…その……っ俺…!」
「………………。」
「……だからっ!!……あんたに認められるような男になってみせるから、その時は……俺を……っっ!!」



「…………俺のオンリーワンにしてもいいの?」



「っっ?!」


不意のの言葉に、海堂はとっさに言葉を失う。

「違う?」
「……っ?!違わねぇっ…けど!」

そこまで答えるのが海堂の限界だった。
もう、海堂の頭の中は完全に真っ白になってしまって、気のきいた言葉一つ思い浮かばない。
こんな時どうすればいいのか、こういった事に疎い海堂にはさっぱり分からなかった。


「そっか………光栄だな。独り占めできる権利が俺にはあるって事だろ?嬉しいよ………。」


フワリとが微笑む。
それは、初めて海堂がと出会った、あの時と同じ柔らかな微笑みだった。



(―――――っ!)



握り締められたままの右手はそのままに、は左手で海堂の柔らかな黒髪に指を絡める。
暫くその滑らかな感触を楽しんでから、はそっと海堂の頭を己の胸の中に抱き込んだ。


「ありがとな……薫……。」


海堂にだけ聞こえるくらいの小さな囁き。
それに応えるように腕の中の海堂の腕が静かに背中に回る。
そのぎこちないながらもしっかりとした腕の力を肌で感じながら、はゆっくりと瞳を閉じた。
腕の中の暖かな、そして愛しい温もりを感じながら――。
















「そういえば乾、先輩留学するって言ってたけど、一週間の超短期の話なんでしょ?」
「ああ、よく知ってるな不二。」
「やっぱりね。海堂、絶対誤解してたよ?」
「だろうな。その為にわざと言葉を濁したんだから、誤解してもらわないと困る。」
「へえ?やるじゃない乾。でも、海堂怒るんじゃない?」
「俺は長期留学だとは一言も言ってないが?」
「やれやれ、君もとんだ策士だね。」
「お前に言われたくないぞ、不二?」




↑ PAGE TOP