泣 き 顔
俺には従兄弟が居る。
強豪と言われ、この辺では知らぬ者の居ない氷帝学園中等部男子テニス部に所属しているそいつ――鳳長太郎は、人懐こい笑顔とスラリとした長身、そして一度見たら忘れられないような色素の薄い髪の持ち主だった。
従兄弟とはいっても、それまでろくに顔もあわせた事も無かったから、勿論あいつの泣き顔なんて今まで目にした事など一度も無いわけで。
いやそれどころか、下手をしたらお互いに氷帝学園に入学しなければ、言葉を交わす事すらも無かったかもしれない。
そんな俺達だから、普段の付き合い方も従兄弟同士というよりは、ごく普通の仲の良いダチ――という感じだった。
そんなだから、あいつとふざけてバカやったりして笑いあう事はあっても、長太郎の泣き顔なんてものに触れる事など本当にありえなかった。
入学してからずっと同じクラスだったのに。
ずっと側に居たはずなのに――。
けれど、長太郎と過ごす2度目の初夏に………俺は初めてあいつの涙を目にする事になった。
「長太郎……?」
泣き腫らした赤い目でボンヤリと窓の外を見ていた長太郎に、そっと声を掛ける。
その俺の声に気付いたのか、長太郎はゆっくりと俺の方へと視線を向けると、無言のままフワリと小さく笑みを浮かべた。
関東大会一回戦。
氷帝男子テニス部は、同じく強豪の青春学園中等部テニス部に、僅差で惜しくも敗北した。
歴代の中でも最強と言われた今年の氷帝学園テニス部の挑戦は、今日の試合の敗戦で幕を下ろした。
「ごめん。」
手にしていたマグカップを差し出すと、長太郎は少しだけ申し訳なさそうに眉尻を下げる。
それに微かに笑ってみせて、俺は長太郎の少しクセのある髪を乱暴に掻き混ぜた。
試合後のミーティングが終わり、解散の声がしてもその場を離れようとしなかった長太郎を、半ば強引に自宅に連れてきたのは俺の方だ。
だから、長太郎がここに居る事を申し訳なく思う必要などないのに。
けれど長太郎も、俺の行動が長太郎の事を心配してのものだと分かっているからか、ずっとすまなそうに笑うだけだった。
「別にいいってば。それに、そんな顔させるために連れてきたんじゃないんだぜ?」
「うん………分かってる……。」
「じゃあ、もう謝んなよ?」
窓際に置かれた俺のベッドの上に身体を丸めるようにして座っている長太郎のすぐ隣に腰を降ろすと、俺は俺より高い位置にある長太郎の頭をひとつコツンと叩く。
そう……別に俺自身、何の迷惑も被っていない。
謝られる必要など、どこにもないのだ。
ただ俺自身が、呆然と立ち尽くすままの長太郎の側に居たいと思っただけ。
一人にしておきたくなかっただけ。
だから申し訳なさそうに謝られると、俺の方がどうしたら良いのか分からなくなってしまう。
「うん……ありがと……。」
ポツリと呟くように答えて、長太郎は手の中のマグカップを握り締めたまま俯いた。
「…………………………………なあ、長太郎?」
「何?」
「連れてきておいて今更こんな事言うのも何だけどさ?」
「うん?」
「俺、居ない方がいいか?」
自分の分のマグカップをそっと握り締めると、その振動で中身のココアが静かに波立つ。
暫くの沈黙の後、長太郎の溜息が微かに聞こえた。
「そんな事ないって、分かってて聞いてるだろ?」
「そうか?んー…ならいいけどさ。一人の方が良かったのかなーとか。」
少しばかりの不安があったのは事実。
もしかしたら一人になりたいと思っていたのかもしれない――と。
でも、何となく長太郎を一人にしておけなかった。
いや、そうじゃない。一人にしておきたくなかったんだ…他でもない俺自身が。
「は……どうして俺を家に連れてきたりなんかしたんだ?いつもはそんな事しないのに……?」
俺の内心の思いを見抜いたかのようにそう言って、長太郎は不思議そうな表情で微かに首を傾げる。
その問いに一瞬詰まった俺は、大きな目でじっと見詰めてくる長太郎の視線から逃れるようにそっと目を伏せた。
言える訳がないじゃないか……一人にしたくなかったなんて。
ただ側に居たかっただけだなんて。
それに俺自身、どうしてそう思ったのか、どうしてそんな感情が湧きあがってきたのか…全く分からないままだった。
「?」
長太郎の柔らかな声が静かに俺の名前を呼ぶ。
相変わらずイイ声してるよな――なんて内心で思いながら、俺は長太郎の問いかけに曖昧に笑ってみせて、両手の中のマグカップの中身へと視線を落とした。
マグカップいっぱいに満たされた底の見えないココアが、まるで俺自身の心のようだ。
本当に……どうして俺は長太郎の側に居たいと思ったんだろう?
どうして長太郎を一人にさせたくなかったんだろう?
確かに長太郎は、俺にとって大切な存在だ。
従兄弟でもあるし、大事なダチだから他の奴らよりも特別なのは間違いない。
でも――。
でも、何となくそれだけが理由ではない気がする。
何か……何かが俺の心の琴線に触れたんだ。
長太郎の言うように、いつもの俺ならたとえ負け試合の後でも、あいつがボンヤリ惚けていようが落ち込んでいようが自宅まで引きずってきたりはしない。
けれど実際俺はそうしていて、何をするでもなくただこうして長太郎の隣に居る。
確かにいつもの俺らしくない。
こうなると、あの時――ミーティングが終わり部員達が散り散りにその場を離れていった時――に、俺の中で何かが変わったのだとしか思えない。
とはいえ、一体何が普段と違っていたのか――?
そう考えた瞬間、ふと――長太郎の泣き顔が頭をよぎった。
「泣いてた………。」
「え?」
無意識にポツリと呟くと、長太郎が訝しげに数回目を瞬かせる。
まだ少し赤みを残している瞳が、あの時の長太郎の姿を思い起こさせて、俺は静かに長太郎の目元に手を伸ばす。
「俺も何でこんな事したのか分からなかった。確かにお前の言う通り、いつもの俺だったらそんな事しないしさ。何でいつもと違う事したんだろうって思った。普段と何が違うんだろうって。そしたらさ、気が付いたんだよな……。」
「…………………。」
「長太郎さ、泣いてたじゃん。」
「―――っ?!」
「泣いてるお前見てたら………何か俺も泣きたくなった。一人にしておきたくないって思った。だって長太郎、まるでこの世の全てが終わっちまったみたいな顔してたから……。」
全てを投げ出してしまったような、絶望にさいなまれているような…そんな表情。
流れる涙の数だけ長太郎の心が冷えていくような気がした。
悔やんでも悔やみきれないといった様子で涙を流すその姿は、酷く痛々しくてたまらなかった。
「だって……本当に全て終わっちゃったんだから……。」
「長太郎……。」
「はくだらないと思うかもしれないけどさ……。」
そう言って長太郎は微かに自嘲気味に笑う。
その笑みは小さいものだったけれど酷く苦しそうで、俺は自分の胸元がぎゅっと締め付けられたように感じた。
こんな顔の長太郎は見たくなかった。
「気持ちは分からなくもないけどさ、でも来年があるじゃん?これから先いくらだってリベンジの機会はあるだろ?」
「そうだね…………俺はね………。」
「え?!」
俺の言葉に、長太郎が呟くように言葉をもらす。
どこか投げやりな感じのするその声音を聞きとがめて、俺は僅かに眉を寄せた。
「の言う通り俺には時間がある、機会もある。でも……先輩達には無いんだ――。」
悲しげに眇められた赤銅色の瞳が段々と曇っていく。
あの時の事を思い出したのか、再び絶望の淵に立たされたような表情で長太郎は己の手をぐっと握り締めた。
「たとえ俺にだけ時間があっても意味無いんだ。先輩達が居なきゃ……意味無いんだ……っ」
胸に詰まったものを吐き出すかのようにそう言って、長太郎は静かに目を伏せる。
その目元からひとすじ透明な雫が頬を伝って流れ落ちた。
「跡部部長が居て、ジロー先輩が居て、忍足先輩、向日先輩、宍戸さんが居る………当たり前だと思ってた。もっとずっと一緒に戦っていけると思ってたんだ!」
「長太郎……。」
「ただ勝てればいいんじゃないんだ。先輩達と……先輩達となら、どんな相手にだって勝てると思ってた。先輩達とどこまでも行きたかった………あと……もう少しだけ………!」
噛み締められた唇が微かに震えている。
必死で泣くのをこらえようとしているのは明らかだった。
「もう……全部終わっちゃったんだ………。」
自分の発した言葉に耐え切れなくなったのか、再び長太郎の瞳からとどまる事無く涙が溢れ出す。
大きな身体をぎゅっと丸めて、長太郎はズボンを力いっぱい握り締めた。
俯いた長太郎の頬からポロポロといくつもの雫が零れ落ちては、制服のズボンにいくつもの染みを作っていく。
その全身をこわばらせた姿は泣く事すらもこらえようとしているようで、俺の目にはただ苦しんでいるだけにしか映らなかった。
涙で全てを洗い流すのではなく、溢れ出てしまう全ての感情を涙と一緒に必死で抑え込もうとしているようだった。
そのいつにない姿に、俺は言いようのない苦しさを感じて胸元をぎゅっと握り締める。
悲しさと悔しさ、やるせなさに身体を震わせている長太郎を見るのは辛くてたまらない。
そしてそれ以上に、それをどうにもしてやれない不甲斐ない自分にどうしようもなく腹が立つ。
辛い思いなんかさせたくないのに。
笑っていて欲しいのに。
俺なんかじゃ長太郎の抱えている苦しさや悲しさ、悔しさをぬぐってやる事は出来ないかもしれないけれど、ほんの少しでもいいからその辛さを、痛みを軽くしてやりたかった。
たとえそれがほんの一時の事だとしても。
「泣いちゃえよ長太郎。思いっきりさ……。」
「――っ?!…っ?!」
長太郎の目元に溢れる涙に静かに唇を寄せる。
こんな事しても何もならないのは分かっていたけれど、長太郎の悲しみを、涙を吸い取ってやりたかった。
悲しい事なんて忘れるくらい包んでいてやりたかった。
「何も考えないで思い切り泣いちゃえよ。我慢する事ない……俺が全部隠してやるから。」
「え…?」
「俺が側で守るから。こんなちっぽけな俺だけど、お前の泣き顔くらいは隠していてやれるから。」
「………………。」
驚きと戸惑いとが入り混じった複雑な表情。
どうしたら良いのか分からないといった様子の長太郎が何だか酷く愛しく感じられて、俺はじっと見詰めてくる長太郎に小さく笑って見せると、戸惑いに揺れている長太郎の頭をそっと胸元に掻き抱いた。
「…………長太郎は……本当に先輩達が大好きなんだな………。」
短い髪を梳きながらそう言うと、胸元の長太郎が小さく息を飲む。
「なっ…!」
「大好きだろ?」
「~~~~~~~~っっ!!」
確信めいた俺の言葉に絶句すると、困ったように長太郎の眉尻がヘナヘナと下がる。
どうやら予想通り図星らしい。
何か言いたげに俺を上目遣いに見上げてくる長太郎の姿に、俺は知らず知らずのうちに表情が緩んでいた。
「長太郎にとって先輩達は、それだけ大切な存在なんだな。」
「いや、それは…っ!」
「何も慌てる事ないだろ?いい事じゃん?」
「う………。」
「ただ………………。」
そこまで言って言葉に詰まる。
俺は一体何を言おうとしているのか――。
「…………ただ?」
急に言葉を詰まらせた俺に、長太郎が訝しげに問う。
「あ、う…いや…何でもない。」
「何でもない事ないだろ?そこまで言いかけて?」
「あー…えーと………別にたいした事じゃないんだって。」
「?」
「……ちょっとばかり…………羨ましいかな…って………思っただけ。」
半ば自棄になりながらそう答えると、長太郎の瞳が零れ落ちんばかりに見開かれる。
それもまあ当然の反応だろうとは思う。
小さな子供じゃあるまいし、ダチが先輩の事を大切に思ってるのを聞いて、羨ましいと思うなんて。
どこか悔しい――なんて感じているなんて。
確かに長太郎にとってテニス部の先輩達は『先輩として』大切な存在だろうと思う。
でもそれは俺には向けられる感情ではないと解っているのに。
なのに『長太郎に大切に思われている』という、たった一点の事だけで、俺はテニス部の先輩達を羨ましいと感じている。
俺は、長太郎の戸惑いや困惑といった感情の波に揺れる瞳を見返して、小さく苦笑いするしかなかった。
「、あのさ?」
「ん?」
「…………もしかして……先輩達の事を…っっ?!!」
「はぁ?」
どこか不安げな表情でそう言う長太郎に、俺は素っ頓狂な声を上げる。
「いや、俺が羨ましいなんて、誰か特別に思ってる先輩がうちのレギュラーの中に居て、それで俺の事が羨ましいのかと……。」
「~~~~っっ!!」
あまりといえばあまりの言葉に、俺は思わず言葉を失ってしまう。
今の俺の言葉のどこをどう取ったら、こんな結論になるというのだろう?
俺はクラクラする頭を抱え込んでガクリとうなだれた。
「あ、あれ???」
「こんの…大バカッ!何で俺が『長太郎を』羨まなきゃいけねえんだよ?!!」
「え?じゃあ…?」
「俺は!『先輩達が』!羨ましいって言ったんだよ!」
半ギレ状態で叫べば、途端に長太郎の顔にパアッ――と満面の笑みが浮かぶ。
その表情を目の当たりにしてしまえば、もう俺はそれ以上何も言えなくなってしまう。
だってそうじゃないか。
泣いている長太郎を見るより、何万倍もマシだ。
反応に困って頬を膨らませたまま視線を逸らせば、それを追いかけるようにして長太郎が俺の顔を下から覗き込むように上目遣いに見上げてくる。
何だか嬉しそうなその表情に、俺は心底困って眉尻を下げた。
「何だ、そうかー良かった~!」
「……何笑ってんだよ!」
「だって何か嬉しくてさ!」
「………バカ。」
「へへ…………えへへへへ…………!」
顔面土砂崩れ状態と言ってもおかしくないほど大きく長太郎が破顔する。
暫くそうしてバカみたいに笑っていた長太郎だったけれど、それは長くは続かなかった。
ハタ――と何か思い当たったのか、長太郎が急にピタリと動きを止める。
「どした?長太郎??」
突然の変化をいぶかしんで逆に長太郎の顔を覗き込む。
しかし何やら考え込んでいる素振りの長太郎は、俺の行動にも問いかけにも暫く無言のまま。
不思議に思って更に顔を近付けてみると、次の瞬間まるで爆発音でもしそうな位急激に長太郎の顔が真っ赤に染まった。
「なっ…何だよ?」
「~~~~~~っ!」
「?????」
コロコロと変わる長太郎の表情と顔色に、俺もただ呆然とするばかり。
長太郎の中で何が起こっているのか、さっぱり分からなかった。
「どうしたんだよ長太郎?黙ってちゃ分かんないって。」
「………………どうしよう………。」
「は?」
「今気付いた………。」
「だから何が?」
どうにも要領を得ない長太郎の言葉。
たまりかねて俺は大きく溜息をついた。
「俺………の事………凄い好きかもしんない!」
突然落とされたのは、思いもしなかった爆弾発言。
それに、俺は呆気に取られて金魚のように口をパクパクと動かす事しか出来なかった。
「が先輩達の誰かの事を特別に思ってるんじゃないかって思ったら凄く嫌な感じがしたし、そうじゃないんだって分かったら、何か嬉しくなって……で、どうして嬉しいのかなって思ったんだ。そしたら俺………。」
紅い顔のままだけど、どこか真剣な光をたたえて、長太郎は俺の目をじっと見据える。
戸惑いと混乱は俺の思考を一瞬硬直させたけれど、それは長太郎自身も同じようで。
向けられた赤銅色の瞳は微かに揺れていた。
「長太郎………。」
「俺…が好きなんだ…って……気が付いた。」
「……………。」
「あ……いや、ごめん……急に変な事言って………。」
「……………。」
「でも俺……気付いちゃったから……その……ごめん。」
無言の俺に、何を思ったのか長太郎は肩を落として視線を逸らす。
その様子からして……唐突な告白に、俺が気分を害したとでも思っているのだろう。
まるで飼い主に叱られた犬のようなその様子に、俺は長太郎に気付かれないよう口元を緩めた。
「…………あのさ、長太郎?お前、さっきの俺の話聞いてた?」
「え?き、聞いてたに決まってるだろ?」
「じゃあ何で解んない訳?俺『先輩を羨ましいって思った』って言ったよな?」
「うん。」
「先輩に嫉妬したんだって事………分かってるか?」
「分かってるよ!………………………………………………あ。」
そこまで言って、長太郎はピシ――と固まった。
このニブチンにも、やっと事の次第が分かったらしい。
何で俺がテニス部の先輩達に嫉妬なんかして、先輩達が羨ましいなんて思ったのか。
どうしてそんな子供っぽい独占欲みたいな感情が湧きあがってきてしまったのか。
そして――長太郎の側に居たいと、長太郎の涙を、痛みを癒したいと思うのは何故なのか。
ちょっと考えりゃ分かりそうなもんなのに。
何というか、自分の事で精一杯だったって感じだ。
「もう分かるよな?俺がどう思ってるか?」
「た、多分……。」
「さて、じゃあここで問題です。俺が特別に思ってる相手は?」
「………………………………………俺?」
「ご名答。」
恐る恐る答える長太郎に、照れ隠しもあってニッと笑ってみせる。
その俺の言葉が終わるや否や、長太郎はまるで飛び掛るようにして、俺をその大きな腕の中に抱き込んだ。
そうして俺は――。
この日三度目の長太郎の泣き顔を目にする事になった。
それは、今までとは違った、そして初めて目にする、これ以上無いくらいの『嬉し泣き』だったけれど………。