一日の部活を終え、着替えの為にごった返している部室内に、菊丸の声が響いた。
「何、英二?そんなに疲れたの?」
「そんなんじゃないってば!」
クスクスと笑いながら尋ねる不二に反論して、菊丸は隣で着替えていた大石の方へ視線を向ける。
「なあなあ、大石~お腹減らない?ラーメン食べていこーよー?俺この間できた所行ってみたいんだよにゃ~~♪」
もう既に気分はラーメン屋なのか、嬉しそうにラーメンを啜る振りをして、菊丸は満面の笑みを浮かべる。
そんな楽しげに笑う菊丸にすまなそうに苦笑すると、大石は小さく頭を掻いた。
「ゴメン、英二。今日は予定があるんだ。悪いけど、又今度な?」
「ええ~~~?何だよー?!せっかく一緒に食べようと思ったのに~!」
「悪い、今日は人と待ち合わせしてるんだ。」
不満そうに頬を膨らませる菊丸に手を合わせると、自分の後ろで同じく着替えていた手塚に大石は手にしていた部室の鍵を差し出した。
通常なら大石が部室の鍵を管理しているが、今日のように大石自身に何らかの予定がある時は、たいてい手塚が戸締りを担当する事になっている。
以前一度菊丸に託した事があったが、次の日の朝練時に鍵を持っている菊丸がなかなか登校して来ず、部活開始が40分も遅れるという事件があってからは、手塚が鍵を預かるのが定番になっていた。
「すまない、手塚。戸締り頼むな?」
「ああ。」
差し出した部室の鍵を手塚が受け取ったのを確認して、大石はロッカーに置いてある自分の荷物を手に取る。
部室に掛けられている時計の針が6時を指しているのを見て、大石は慌てたように部員達の波をかき分け部室の扉を開けると、既に暗くなり始めた外へと足を踏み出した。
「じゃあ、お先に。お疲れ!」
「「「お疲れさまっしたー!!」」」
律儀にも着替え中の部員達に簡単に挨拶すると、大石はもう一度腕時計に目をやってから、慌てたように校門の方へ駆け出して行った。
そのいつもの大石らしからぬ慌てぶりに、菊丸をはじめ部員達は一様に首を傾げる。
3年生でさえ、こんな大石の姿は目にした事が無かった。
「何慌ててるんスかね?大石先輩?」
「さあ~?」
桃城の問いに答えられる者は、その場には誰も居なかった。
騎士(ナイト)
「さん!!」
急に掛けられた声に、は手にしていた本を閉じた。
顔を上げると、向かいがわの歩道から大石が駆けて来る。
息を弾ませながらこちらに向かって来る大石の姿に、は笑顔で片手を上げた。
待ち合わせに決めたこの場所は人通りは多いけれど、待ち合わせに使う人はあまり居ない為、待ち合わせの場所には最適だった。
「待ちました?!」
「大丈夫だよ。俺もさっき来たんだ。」
不安そうな表情の大石に、小さく笑って見せては首を振った。
そんなの様子にホッと胸を撫で下ろして、大石はあがった息を整える為に大きく息をついた。
「何か慌てさせちゃったみたいだな。ちょっとそこの店にでも入ろうか?」
斜め前にあるモダンな佇まいの喫茶店を指差して、は大石の顔を覗き込む。
本当はこの後食事に行こうと思っていたのだが、こんなに慌ててここまで来た大石を、まずは休ませてやる事が先決だとは思った。
「お茶くらいして行かないか?久しぶりに会ったんだし。」
「でも、いいんですか?俺が急に来てもらったのに…この後予定は?」
「ああ、平気だって。どうせ大学のコンパに出て来いっていう誘い位だからさ。それなら秀くんと話してる方が楽しいよ。」
そう言っては大石の背中を軽く叩いた。
「さん~~俺もう子供じゃないんですから、『秀くん』ってのは……。」
「悪い、悪い。でもあの秀くんがこんなにイイ男になってるとはね、驚いたよ。まあ、3年振りだしな?」
からかうように笑っては大石の顔を下から覗き込む。
見上げてくるの視線に照れたように視線を逸らすと、大石は小さく咳払いした。
「と、とにかく!秀くんは勘弁して下さいよ。」
「はいはい、分かったよ。じゃあ、行こうか『秀一郎』?」
大石の様子に笑いを堪えながらそう言って、は先に店の方へと歩き出す。
その後ろ姿を見ながら溜息をつくと、大石は急いでの後を追った。
結局、その後その喫茶店で軽く食事を済ませた二人は、昔話や他愛も無い話で盛り上がった後、の家へ向かう為に喫茶店を後にした。
「やっぱりさんって大人ですよね。」
並んで歩きながら先刻のように他愛も無い話をしていた二人だったが、ふとした拍子にそう大石が口を開いた。
「そうかな?何で?」
「何となくですけど…やっぱりオレ達とは違うなーって。精神的に強いっていうか…大人なんだなーと。」
上手く説明出来ないと言いながら大石は苦笑する。
久々に会って色々と話をしていくうちに、考え方や価値観の違いを感じる度、との差をまざまざと感じさせられたように思う。
それと同時にに比べて自分が如何に未熟な存在なのかを思い知らされた。
「…オレだって何も変わらないよ…失敗もすれば、恐怖も感じる、ただの一人の人間だから……。」
黙って大石の話を聞いていたが、ふとポツリと呟くように言葉を漏らす。
その意味深な言葉に反応した大石は、ほんの一瞬だけ淋しげに歪められたの表情を見逃さなかった。
「さん…。」
の言葉の真意を問おうとして足を止める。
しかし、その瞬間横道から急に飛び出してきた人影が、縋り付くようにして大石にぶつかった為にその問いは言葉にされなかった。
「うわっ?!」
「お願い!助けて!!」
大石の後ろに隠れるようにして、一人の少女が縋り付いてくる。
その表情は何かに怯え、瞳は恐怖に見開かれていた。
突然の事に驚く二人が何事かと少女に問い掛ける間もなく、同じく横道から数人の金髪の少年達が飛び出してくる。
「待てよ!逃げる事ねーじゃん!」
「んだよ、こいつ?」
「つーか、こっち来いよ。」
隠れている少女を連れ出そうと一人の少年が少女に手を伸ばす。
その様子に事の次第を把握した大石は、少年達から庇うようにして少女の前に立ち塞がった。
「成る程ね…そういう事か…。」
大石同様、事の次第を理解したは、呆れたように大きくため息をつく。
「何だよ、てめえ?!退けよ!」
「やめろよ!その子嫌がってるじゃないか。」
少女を後ろ手に庇いながら、大石は一歩も引かず少年達を睨み付けた。
「るせーんだよ!何なんだよ、てめーは!」
邪魔が入ったとばかりに毒づく少年達と大石の間に一触即発の空気が流れる。
今にも掴みかからんとしているその両者を止めたのはの一言だった。
「はいはい、そこまで。両方ともやめな。」
「さん!このまま放っておく訳にはいきませんよ!」
「分かってるよ。だからってここで今お前が問題を起こす訳にはいかないだろう?分かってると思うけど今問題をおこしたら大会出場は絶望的だぜ?お前だけでなくテニス部全体が迷惑を被るんだ。お前も副部長として全体を見なくちゃならない立場だから分かるな?」
先程までとはまるで違うの表情に大石は息を飲む。
大石自身が先程口にしたように、大石の知らない大人の顔をしたがそこには存在していた。
「こっちの坊や達もこの子に逃げられて不満たらたらなんだろう?俺が相手してやるからこの子の事は手を引きな?」
静かだが圧倒されるようなの迫力に、少年達も息を呑んだ。
鋭い瞳は相手の少年達の動きを止めるには充分だった。
「よし、じゃあ、お前はこの子を連れて早く逃げな、いいね?一人で戻って来ようなんて思うんじゃないぜ?」
大石の耳元で小さく呟くと、自分達が歩いてきた方へ大石の背中をぐっと押し出す。
「走れ!!!」
の言葉に我に返った大石は、瞬間的に少女の手を取り、全力で元来た喫茶店の方向へと走り出した。
「待ちやがれ!」
ワンテンポ遅れて反応した少年達が二人の後を追おうとするのを、は全身で立ち塞がり行く手を塞ぐ。
「言っただろう?俺が相手してやるって。」
二人が完全に逃げ切ったのを確認すると、そう言っては身体の力を抜いた。
「ったく、いかにも…ってカンジの所だな…。」
周りを見渡しては大きく溜息をついた。
あの後少年達に取り囲まれたは、少年達が出てきた裏道の先にある廃工場跡に連れて来られて、薄汚いソファのようなものの上に荷物のように無造作に転がされていた。
「で、どうしたいわけ?いくらでも相手してやるけど?」
「るせえよ!テメエのせいであのアマ逃がしちまったじゃねえか!」
「骨の1・2本は覚悟できてんだろうな?」
の胸倉を掴んで一人の少年が凄んでみせる。
それを無表情で見やるとは再びため息をついた。
「う~ん、仕方ないから早く済ましてくれよな。」
「なんだと?!」
思ってもいないの言葉に少年達が一瞬浮き足立つ。
それもそうだろう。
脅しの為に出た台詞とはいえ、怯えて許しを乞うだろうと思っていたの口から出た言葉が、興味が無いと言わんばかりに「さっさと済ませて欲しい」という一言だったのだから。
「てめえ!嘗めてんのか!!」
「待てよ!いい考えがあるぜ。」
胸倉を掴んでいた少年がの言動に絶えかねたように殴りかかろうとした時、一人の少年がニヤリと下卑た笑みを浮かべて、その少年の動きを止めた。
「こいつ、フクロにされる事には何も感じないみたいだからよ、こいつをさっきのアマの代わりにマワしちまおうぜ。」
「えっ?!」
少年の言葉に一瞬の無表情が崩れる。
「その方がこいつにはキクんじゃねえ?」
ニヤニヤといやらしく笑って、少年は羽織っていた上着を脱ぎ捨てた。
「マジで言ってんのかよ?!」
「俺の兄貴がさ、男ヤった事あるらしいんだけどさ、結構イイって言ってたぜ。」
「へぇ~いいじゃん、確かに男にヤられたなんて恥ずかしくって誰にも言えねえだろーし。」
顔を見合わせて少年達はニヤリと笑みを浮かべると、全員でを押さえ込んだ。
「好きにすれば?別に抵抗しねーし。こっちは抵抗して暴力沙汰にはしたくないんで。」
一枚ずつ剥ぎ取られていく己の衣服をぼんやり見ながらは力なく呟いた。
の瞳から光が消える。
身体の上を蠢く少年達の手がワイシャツをはだけ、素肌に触れた瞬間は大きく身震いした。
不快感と屈辱感が全身を走る。
感情が暴走しそうなのを、かろうじて抑え込む事しか出来なかった。
首筋に生々しい感触がして、舐め上げられているのだと気付くと、は絶えかねたようにぎゅっと瞼を閉じ、唇を噛み締める。
そうでもしないと叫び出してしまいそうだった。
「お前達、何をしている!!」
不意に声がして、廃工場の鉄扉が勢いよく開かれる。
「げっ!サツだ!逃げろ!!」
どかどかと駆け込んでくる警官の姿を見て、少年達は慌てたようにを放り出すと、警官たちが入ってきたのと反対側にある扉に向かって走り出した。
「待ちなさい!!」
逃げ出した少年達を追って走っていく警官の姿を目の端で認めて、は何が起こったのか分からずにその後ろ姿を呆然と見送る。
助かったのは確かだが、何がどうなっているのか理解出来なかった。
「さん!大丈夫ですか?!」
ふと、声がして大石が駆け寄ってくる。
「…しゅう…く…ん…?」
「しっかりして下さい!」
仰向けに倒れているを抱き起こし、背中についた埃を払う。
大石は抱き起こしたの姿を見て愕然とした。
はだけられた胸元に点々と散らばる無数の赤い跡、ずり下ろされかけたスラックス。
暴行されかけたと一目で分かるその姿に、ぎゅっと眉を寄せる。
「もう大丈夫ですから。さ、帰りましょう?」
呆然と自分を見詰めてくるに、不安にさせないよう優しげに微笑んで大石は自分の制服の上着をそっとの肩に掛けてやる。
その暖かさにやっと事態が把握出来たは、気が抜けたように大石の腕の中に倒れこんだ。
「さん?!」
「ごめん……少しだけ…こうさせて…。」
そう言って縋り付くの肩が微かに震える。
大石の笑顔を見た瞬間、張り詰めていた想いが解けて、不覚にも涙が頬を伝っていた。
「…さん…。」
大石の大きな手がゆっくりと優しく背中をさする。
本当は嫌で恐くて仕方が無かった。
大石を守る為には仕方ないと分かっていても、心が悲鳴を上げてしまいそうだった。
「すみません、俺達を逃がす為に…。」
「そんな事無い。ありがとな、助けに来てくれて。」
心配を掛けまいと微笑んでみせるに、大石は小さく首を振ってみせる。
「無理に笑わないで下さい。」
必死に笑みを浮かべてみせるの表情は見ていられないほど痛々しくて、大石は微かに眉を寄せた。
本当ならあんな奴ら相手に逃げる事も出来たのに、自分の為に屈辱に、恐怖に耐え少年達のされるがままになっていた。
そんなの姿を目の当たりにして、大石は胸が痛くなるのを感じていた。
「さっきさん自分で言ってたじゃないですか『失敗もすれば恐怖も感じる、ただの一人の人間』だって。本当は辛かったでしょう?だったら俺の前で無理に笑ったりしないで下さい。」
「秀一郎……。」
「俺なんかさんから見たら、まだまだ子供で何もしてあげられないし、逆に助けられてばかりだけど、気持ちまで偽らないで居て欲しいんです。無理は…しないで下さい。」
そう言って大石は壊れ物でも扱うかのようにそっとを抱きしめた。
自分より遥かに年上で、少しだけ大きいが今は酷く小さく感じる。
すこしでも楽にしてやりたくて、大石は出来るだけ不安にならないよう静かに背中を擦り続けた。
一瞬だけビクッと肩を竦ませたも、優しげな大石の抱擁に小さく息を吐き出すと、暖かな大石の腕の中に身を任せた。
この温かさが自分を恐怖から、闇から救い上げてくれる。
今はただ、この腕の温かさが何より心地良かった。
「秀一郎、わがまま…言ってもいいか?」
「何ですか?」
「暫く…一緒に居てくれるか?」
「ええ、俺なんかでよければ。」
抱きしめたの腕がそっと自分の背中に廻されたのを確認して、大石は安心したように小さく笑みを浮かべた。
「それと…。」
「はい?」
「も少しだけ抱きしめててくれるか?」
の言葉に一瞬だけ驚いた表情を浮かべた大石は、彼らしくもなく不安そうに自分を見上げるの姿に今日一番の優しげな微笑みを向けた。
「ごめんな、こんな遅くさせちまって。」
警察での事情聴取も終わり大石を家まで送り届けて、は心底すまなそうに頭を下げた。
「そんな事…元はと言えば俺達を逃がす為だったんですから。」
「ありがとな、そう言ってくれると気が楽だよ。」
いつもと変わらぬ大石の優しげな微笑みに、ほっと息をついては小さく笑みを浮かべる。
大石のおかげで、やっと普通に笑えるようになったと思う。
本当なら未成年の大石をこんな遅い時間まで付き合わせるのは忍びなかったが、結果それが自分にとっては心を落ち着ける良いきっかけになった。
「こちらこそ、すみませんでした。わざわざ家まで送っていただいて。」
「それ位させてくれよな?そうじゃないと俺の面目丸潰れだからさ。」
大石の前で見せた己の醜態を思い出して、は今更ながらに恥ずかしくなり、僅かに顔を赤らめる。
7歳も年下の少年に縋り付き慰められたなんて、とてもじゃないが人には言えない。
大石がそんな事を人に話すような人間ではない事は分かっているし、それをどうこう言うような事もないのも分かっているのだが、恥ずかしい事には変わりはない。
そんなに苦笑してみせて、大石は小さく首を振った。
「そんな事無いですよ。」
「そうか?」
「ええ、俺たちを逃がそうとしてくれた時のさん、カッコ良かったですよ?」
「……ま、いいか……。」
恥かしげも無く賞賛する大石に、何だか脱力してしまい、は小さく息をついた。
この様子なら、心配するだけ無駄らしい。
「じゃあ、俺帰るな?色々ありがとう。」
「はい、気を付けて下さいね?」
大石の言葉に無言で笑みを浮かべると、そっと小さく手をあげる。
「そうそう…秀一郎、人生の先輩として一つ忠告な?」
別れ際、ふと思い出したかのように足を止めて、は後ろで見送っていた大石を振り返った。
「俺にしてくれたような事、誰彼構わずしないほうがいいぜ。特に、女の子には。」
「え?」
の言っている意味が理解できずに、大石は小さく首を傾げる。
「優しいのはいいけどさ、女の子なんかは誤解しちまうよ?自分を特別扱いしてくれるんじゃないかってね。優しい優しいナイト様☆」
振り返った先の今日のヒーロー、にとってのナイトは、これ以上無いという位に真っ赤な顔で固まっていた。