同じ時代に生まれて良かった。
君が俺を選んでくれて良かった。
だから俺は、君の為に今よりももっと強くなる――。
君の側にいられるように。
君がずっと笑ってくれるように。
君の為に強くなる
遠くから静かに雨の降る音が聞こえてくる。
窓ガラスを叩く小さなその音に、俺はゆっくりと首を巡らせて外の景色に視線を向けた。
小雨がいくつも窓ガラスに当たっては、静かに流れ落ちていく。
それをただボンヤリと見上げている、そんな俺に気付いた真田が、ふと訝しげに声を漏らす。
「どうした?」
少し掠れた、低くて優しい声音。
その声に小さく笑って、俺はすぐ隣の真田の肩口に頬をすり寄せた。
暖かな素肌の感触が酷く心地良い。
無駄なものなど少しも無い、引き締まった肉体が、筋肉の躍動が頬や掌を通して感じられる。
その俺より大きく力強いその腕が、俺は好きだった。
「何でもない………。」
「何でもない事は無いだろう?考え込んでいるように見えたが?」
「本当に何でもないんだって。」
「そうか…?」
俺の身体をぐっと抱き寄せて、真田は俺の肩を包み込むようにしてずり落ちていた毛布を掛けてくれる。
そんなさりげない優しさに、俺は我知らず口元が綻んでしまう。
こうして抱き合う時の真田は、いつもの真田からは想像も出来なくらい優しく、そして俺をこれ以上無いくらい気遣ってくれる。
己にも他人にも厳しい真田の見せる、ほんの微かな優しさ。
決してこれ見よがしではない、さりげない優しさがくすぐったいと思う反面、酷く心地良いものだった。
「本当だって。ただ雨を見ていただけ。このままずっとやまなけりゃいいのに…って。」
「雨?……ああ、降り出したのか。」
降り出した雨の存在にたった今気付いたらしい真田が、ふい――と窓辺に視線を向ける。
その精悍な横顔は、俺よりも大人びた表情を浮かべていて、俺は暫くその横顔に見惚れてしまった。
老け顔だとか何とかよく言われているけれど、決してそんな事はないと俺は思う。
時折目にするこんな顔は、同い年であるはずの真田を酷く大人びて見せて、戸惑いと共にどこか切なささえ俺に感じさせた。
「うん………さっきから降り始めたみたいだ。」
「そうか。だが何故は、雨がやまなければいい――などと思うんだ?」
「はは…っ……真田は困るよな雨やまないと。いくら屋内練習場があるとはいっても、雨が降り続いてたら外でテニス出来ないもんな。」
「それはも同じだろう?」
「俺は真田ほどテニスバカじゃねぇもん。」
ニッと口の端を持ち上げて見せれば、つられたように真田も微かに口元をほころばせる。
「テニスバカと言われるなら本望だな。」
「そういう所が本当にテニスバカなんだって分かってるか?」
そう言って舌を出すと、苦笑して真田は俺の頭を一つ軽く叩いた。
「しかし………実際早くやんでもらいたいとは思わんか?」
再び窓の方に視線を向けた真田がそう問う。
「………………。」
「?」
「俺は……………。」
「どうした?」
「………俺はやっぱり………やまなくても……いい……かな。」
暫くの沈黙の後そう答えると、真田は不思議そうに数回目を瞬かせた。
こんな表情は、どこか幼い子供のようにさえ見える。
可愛い――などと口にしたら、途端に不機嫌になるだろうから決して口にはしないけれど、そんな真田の年相応な少年らしい姿も俺は好きだった。
「何で俺がそう思うのか…不思議?」
「ああ。確かに雨は命の水……自然からの恵みだが、降り続けていれば害にもなる。それに……。」
「テニスが出来ない……だろ?」
「う…うむ……。」
「でも……それでも俺はこのまま降り止まないでほしいと思ってる………。だって、そしたらこうして……ずっと…真田の側に……居られるだろう?」
呟く言葉が段々と小さくなっていく。
これは俺の本音だけれど、それを真田が快く思わない事だってある。
それを思うと、漏れる言葉は少しずつ消え入りそうになっていった。
「……?」
「何?」
「………不安か?」
「え?」
「こうしている事……俺と共に在る事……。限られた時間しかこうして共に過ごす事は出来ない。その事はお前に不安を与えるだけか?」
大きくて骨ばった掌が、そっと俺の頬を包み込む。
長年ラケットのグリップを握り続けてきたその手が優しく俺に触れて、そして愛おしそうに何度も撫でていく。
「真田……。」
「安らぎや愛おしさ…暖かさ……俺はお前にそれを与える事は出来ないか?」
静かに紡がれていく言葉と、見詰めてくる瞳の柔らかな光。
俺は、夢心地でそれらの全てを受け止める。
「お前はという一人の人間だ。誰も代わりになどなれない、世界にたった一人の存在だ。そして俺は俺でしかない。どんなに望んでも、どんなに求めても俺達は一つの存在にはなれない。だからこそ相手を感じたいと思うのではないか?この手の中に求めようとするのではないか?」
「別々の存在……。」
「だから触れ合えるこの時は、何よりも愛しい時間になると……俺は思う。」
「真田……。」
「別々だから……離れているから……だからこそ俺はとのこの時間は何より大切だと感じる事が出来る。片時も離れない事が悪いとは言わん。だが、そうしている内に……当たり前の事になってしまったら、そんな感情すらなくしてしまうのではないかと……そう思うのだ。」
力強く、それでいて柔らかな光を宿した瞳が、見慣れたはずの真田に更に強く大人びた印象を与える。
一つ一つ慎重に言葉を選びながらそう口にする真田の姿は、いつも以上に真剣で、まるで俺の知らない真田がそこに居るかのような気さえした。
「たとえこの一時しか触れ合う事は出来なくとも、俺は今のこの満たされた想いがあるからこそ……このままでなくとも居られる。再びの温もりを感じる事が出来ると信じているから変わらず歩き出す事が出来るのだと……。」
決して強くは無いけれど、紡がれる言葉は触れている掌から俺の全身に染み渡っていく。
その暖かさに俺は一つ大きく息をついた。
やはり真田は俺が思っていた以上に遥かに大きく、そして強い存在だと思う。
それに比べて今の俺は、ただ目の前にある現実や想いに甘えきっていただけだった。
そう――べったりと依存するだけの関係なんて真田も俺も望んでいなかったはずなのに。
それをいつの間にか俺は忘れていた。
心地良い世界に酔ったまま、己の足で歩く事を忘れていた。
「ははは…っ……なっさけねー…俺。」
俺は自嘲気味に口の端を持ち上げた。
「?」
俺の呟きに数回目を瞬かせた真田に、俺は無言のまま小さく首を振ってみせる。
これ以上真田に情けない所は見せたくなかった。
何より特別な真田だから……。
そして――俺はさっきまでの俺と決別する事を誓った。
「よっと…!」
真田の腕の中から擦り抜け、勢い良くベッドから飛び起きると、俺はクローゼットの中の引き出しを開けて、一枚の真っ白なハンカチを取り出す。
不思議そうに俺を見詰める真田の視線を背後に感じながら、俺は使い古したバンダナを丸めて白いハンカチでそれを包むと、机の上にあった輪ゴムでそれを止めた。
「何をする気だ?」
「ん~?コレ。」
訝しげに俺の手元を見ていた真田に、俺は手の中の物を差し出して見せる。
「………てるてる坊主?」
「そ。」
戸惑いがちな言葉に簡潔に答えて、俺はどこか不恰好な姿のてるてる坊主をベッドで横たわる真田の方へと放った。
俺の手から離れた真っ白な塊が、緩やかな放物線を描いて真田の掌の中へ吸い込まれていく。
「どうしたんだこれは?」
「どうした…って……コレ作るのはどういう時?」
「それは決まっているだろう?晴れて欲しい時のまじない…いや、願掛けか?」
「分かってるじゃん。」
手の中のてるてる坊主と俺とを交互に見比べて首を傾げている真田に笑ってみせると、真田は一瞬戸惑ったような複雑な表情を浮かべる。
何となく真田の考えている事が分かった気がして、俺は小さく頬を掻いた。
「俺が雨やむの願っちゃいけないわけ?」
「いや、しかしお前……さっき……。」
「もういいんだ。真田の言う通りだしさ。それに、雨なんかに頼らないといけないなんて何か情けないし?」
「……。」
俺の言葉にほんの一瞬真田の表情が和らぐ。
その柔らかな表情に、俺の心臓はドクン――と大きく跳ね上がった。
本当に無意識なんだろうけど、こういうのは本当に心臓に良くない。
たまりかねて俺は真田からフイと視線をそらした。
「?」
途端に掛けられる耳に心地良い声。
おそるおそる声の方へ視線を向ければ、俺の好きな力強い両腕がこちらへ差し出されていて。
俺は無意識に、まるで夢遊病者のようにフラフラとその腕の中にこの身を預けてしまった。
まったく、これじゃ何の為に一大決心したのか分からなくなってしまう。
俺は真田の腕の中で、心地良さと決意の狭間で葛藤するしかなかった。
でも……やっぱり俺は男だから。
心地良い腕の暖かさに、世界に溺れるだけの存在ではいたくない。
この誰よりも強く大きい存在の隣に居る事が許されるくらい強くありたいと思う。
「真田?」
「ん?どうした?」
「……………俺、強くなるから。」
「………ああ。」
ゆっくりと見上げた先の真田が小さく頷く。
そのまっすぐな眼差しと共に静かに下りてくる触れるだけの口付けに、俺はそっと微笑んだ。
君や他の誰かが思い描くような、俺では居られないかもしれないけれど。
時には自分一人で歩く事に疲れて、歩みを止める事があるかもしれないけれど。
それでも俺は強くなってみせるから。
君に甘えるだけの小さな自分じゃなく。
少なくとも、胸を張って君の隣を歩けるように――。