もちろん、色々と便利になったというのが一番だけれど、ただそれだけじゃない。
人と話す事があまり多い方ではなかった俺に訪れた、会話を楽しむという時間。
そして初めて感じた暖かな感情。
全ては、俺の携帯のメモリのNo.1に登録されている奴が原因だけれど。
携帯電話
「そろそろかな……。」
俺は宿題の為に動かしていたシャーペンを止め、壁に掛けてある時計を見上げてポツリと呟いた。
ベッドサイドに置かれている携帯に手を伸ばし、そっと液晶画面を覗き込む。
着信履歴を見返してみれば、同じような時間帯の同一人物からの履歴が数件続いている。
俺は携帯電話に表示されている正確な時間を確認してから、未だ鳴る気配の無い携帯を再び充電器へと戻した。
俺がいつの間にかこうして楽しみに待っているもの――。
それは、俺よりも明るく、俺よりも人懐こく、俺よりも人気者で…俺なんか遠く及ばないような輝く存在――そう、千石清純からの電話だ。
ほぼ毎晩、決まって同じような時間に掛かって来る千石からの電話を、俺は心待ちにしている。
正直、俺自身こんな風になるなんて想像も出来なかった。
俺達は通っている学校は違うし、共通するような趣味があるわけでもないし、所属する部活が同じわけでもない。
知り合ったのは、たまたま見に行った従兄弟の景吾のテニスの試合で、絡まれていた千石を助けたのがきっかけだ。
その時の俺は、少しムシャクシャしていたから、鬱憤晴らしもかねて千石を助けたに過ぎなかった。
ただそれだけだったのに、どういうわけか千石は俺の事を気に入ってくれたみたいで、よく電話を掛けてくれるようになった。
最初は戸惑うばかりで、ろくな話も出来なかったけれど、少しずつあいつの事を知るようになって、俺の事を知ってもらえるようになってからは、本当に千石からの電話は俺の毎日の生活の中で、無くてはならないものになっていた。
「たまには俺の方から掛けてみるかな……。」
机の上に広げたままだったノートを閉じて、勢いよくベッドの上に大の字に寝転がる。
横になりながら再び携帯を手に取って呟いた時だった。
「っ?!」
ディスプレイの点灯と共に、軽快なメロディーが手元の携帯から流れて、俺は慌てて液晶に触れる。
誰からの電話かなんて確認するまでも無い。
この時間にかかってくるのも、この着信メロディーに設定しているのも一人しか居ないんだから。
「はい、です。」
『やっほー!くん、こんばんは~。』
「ああ、千石か。」
いつもと変わらない明るい声が電話越しに聞こえてきて、俺は微かに口元をほころばせる。
そんな俺の様子が伝わったんだろうか?
何だか嬉しそうな声音で千石は小さく笑った。
『あ、何かいい事でもあった?声が明るい気がするけど?』
「べっ別に………何も無いよ。」
『そお?……あ!分った!!俺の声が聞けて嬉しいんだ?いやぁ~俺ってば罪な男だよねぇ~?』
「………バッカじゃないの……。」
千石の言葉に内心で動揺しながらも、口から出るのはこんな言葉ばかり。
素直に、電話を待っていたんだ――と言えない自分自身が情けない。
でも、そんな俺を、千石は決して突き放したりしないでくれる。
俺はそれに甘えきってしまっているんだ。
千石の優しさにつけこんで……。
『うわ!酷っっ!!俺はくんの声聞けて嬉しいのにー。』
自己嫌悪しながら俯いていた俺は、不意に聞こえた、笑みを含んだその言葉に大きく息を飲む。
普段と変わらない会話の一部だというのに、いつもの千石の軽口だと分っているのに、俺の心臓はドクン――と大きく跳ね上がった。
『くん?』
「え?あ……いや…何でもない……。」
『ん~やっぱり俺の美声に聞き惚れてたんでしょ~?』
「自分で『美声』とか言うか?普通……。」
『照れない照れない!存分に俺の美声に酔ってくれたまえよ、うん!』
「……………その言い方、景吾みたいで、かなり微妙…………。」
『………俺もそんな気がしてきたよ………。』
平気で「俺様の美技に酔いな!」とか言ってしまう従兄弟の姿を思い出して頭を抱えると、同じ人物に思い当たったらしい千石が、乾いた笑いを漏らした。
『ま、それはそれとして……くん、今度の土曜日って暇?』
「土曜日??」
『そう!土曜日から公開する映画あっただろ?ほら、くん見に行きたいっていってたやつさ……良かったら一緒に行こうよ!』
「ん……行きたいのはやまやまだけど………。」
『え?何か予定でもあるの?』
少しだけ残念そうに小さくなった千石の声に、俺はいたたまれない気持ちになる。
出来る事なら俺も千石と出掛けたいけど、そうもいかない事情があった。
「土曜日は練習試合が組まれてるからな……流石にサボれないし…。」
『そっかー……うん、それじゃ仕方ないよね。じゃあ、日曜日は?』
「悪い、日曜は部活終わった後、皆でカラオケ大会だって……。」
『う~ん……日曜日もダメかー。』
「来週の土曜日なら空いてる……けど。」
重い声音になってしまった千石に、何だか不安を感じて、俺はボソリと呟く。
いつまでも千石の優しさに甘えるばかりじゃ、いつかきっと見限られてしまうかもしれない。
そんな不安が俺を支配していた。
『ごめん!その日は、うち1日部活なんだ。』
「……そっか。」
『日曜なら午後から空いてるけど。』
「……………日曜は俺、部活休んで母方のじいさん家行かなきゃいけないんだ。」
『そうかー………何か全然予定合いそうも無いなぁー…。』
少し元気が無くなった千石の声。
電話越しに小さく溜息をついたのが聞こえてきて、俺はぎゅっと胸元を握り締めた。
せっかく誘ってくれているのに、こうもダメ出ししたのでは、千石も気分が悪いだろう。
人脈の広い千石の事だから、俺なんか誘わなくても他にいくらでも色よい返事をしてくれる友達が居るはずなのに、あえて俺に声を掛けてくれた。
その結果がこれじゃ、気分も悪くなって当然だ。
いいかげん、俺に関わる事に疲れてもおかしくない。
俺じゃなきゃいけない必要なんて……あるわけもないだろうから。
いつになく重苦しい雰囲気になってしまった会話に、俺はとうとう来るべき時が来てしまったと思わざるをえなかった。
「……………あ……その…………俺、日曜日空ける……から………だから…その…………。」
震えそうになる声を必死で絞り出して、俺は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
失いたくない――。
初めてそう思った。
もう、甘える事など許されないから。
千石の優しさに甘えて、つけこんでいた今までの分の報いを、今受ける時かもしれない。
失いたくないから、なりふりなど構っていられなかった。
今度は俺が自分で、自分から千石に手を差し伸ばすしかなかった。
『え?だって予定、あるんだろ?』
「いい………出ない。」
『どうして?あ……何か気分悪くさせちゃった?』
「俺は……そんな事ない。それは千石の方だろ?」
『え?!俺?』
「……いつも俺こんなんで………。分ってるんだ、千石…気分良くないよな?でも……俺上手く喋れなくて………どうしていいか分らなくてキツイ事言ったりした。お前が許してくれるから、それに甘えてるんだって分ってる。……だから……俺………っ!」
『くん……。』
言いたい事がたくさんあるのに、上手く言葉にならない。
こんなんじゃ、本当に千石に見放されてしまうじゃないか。
そう分っているのに、やっぱり俺の頭は気の効いた言葉一つ浮かびもしなかった。
「今までごめん…。これからは嫌な思い…させない……から……っ!だから…その………俺を嫌いに………ならないで………くれ。」
バカみたいに途切れ途切れに言葉を紡いでいくしかない、ダメな自分。
でも、今の俺にはこうするしか出来なかった。
「もう、嫌に…………なった……か?俺に関わるの?」
暫くの沈黙の後、千石が、はぁ――と盛大な溜息をつく。
もう遅かったんだろうか?
そう思うだけで、心が悲鳴を上げそうになる。
俺は耐えられなくなって、ギュッと目を閉じた。
『…………分ってないなぁくん。俺がそれ位でくんの事嫌いになるわけ無いじゃん!』
「え?!」
『でもまあ、くんの本音が聞けて、ラッキーだったけどね♪』
思いもしなかった明るい声に、俺は数回目を瞬かせる。
訳が分らなくて、俺は暫し言葉を失った。
『別にこんな事位でくんを嫌いになったりしないから、日曜日は予定通りにしなよ。』
「千石……。」
『それに!無理に自分を変える必要なんか無いって。だって俺、こうやってくんと話すの、凄く楽しいしね!何か無理に俺に合わせたりしたら、くんじゃないみたいで、ちょっと嫌だなぁ…。』
そう言って千石は小さく笑った。
「せ…んごく………?」
『今まで通りのくんでいてほしいな。俺の好きなくんのままでさ。』
「でも……本当に?」
『不安?』
「……………うん。」
千石の言う事が信じられないわけじゃなかったけど、どうしても不安が付きまとう。
千石は優しいから、たとえ嫌でも笑ってくれるかもしれないから。
だから、今はまだ大丈夫だと思える何かが欲しかった。
『う~ん……じゃあさ、これから毎日俺の為にモーニングコールと、おやすみコールしてくれる?』
「そんなんで………いいのか?」
『もっちろん!これで毎日くんの声が聞ける~~!俺ってラッキー!!』
「…………ばぁーか……。」
何だか照れ臭くなって、俺はそう小さく呟く。
次の瞬間、またやってしまった――と顔をしかめた俺は、けれど、すぐにホッと胸をなで下ろした。
何故なら……楽しそうに笑う千石の声が耳に届いたから。
『ははっ!やっといつものくんらしくなってきたね?』
「う…………。」
『ともかくさ、こうやって携帯で話せるんだから大丈夫!俺達ちゃんとにつながってるからさ。不安な事とか、心配な事とかあったら連絡してよ?』
「うん…………でも今度は……。」
『うん?』
「俺も…普通に連絡する。いいか?」
『………うん、待ってるよ。』
一瞬息を飲んだ千石が、予想外に小さく言葉を漏らす。
何故かその声は、酷く優しく暖かかく感じた。
『いや~それにしても、会いたくても会えないなんて、俺達まるでロミオとジュリエットか、織姫と彦星みたいだねぇ…うん。』
「何それ?」
ふざけた様子で、そうおどけてみせる千石に微かに笑う。
まるで俺を元気づけようとするかのように、もったいぶった言い方をしてみせる千石が、酷く大きく感じる。
こういった所が、本当に優しい千石らしい所だと思った。
『ほら、青学と山吹じゃ平日に会おうとしても会えないし、それこそお互い部活があるから休日の予定だって噛み合わないだろ?』
「そうだよな。」
『会いたくても会えないってのは同じじゃないか。きっとロミオとジュリエットや、織姫と彦星は会えない間、色んな不安とか感じてたんだろうねぇ…。俺達、携帯がある時代で本当に良かったよ~。』
「…………?」
『さっきも言っただろ?俺達はこうして携帯でつながっているから大丈夫だって。ロミオとジュリエットや織姫と彦星にも携帯、あったら良かったのにね~。そうしたら離れてる間感じる不安とか、結果的な悲劇もなかったかもしれないのにさ。』
「―――――っ?!」
俺は千石の言葉に完全に言葉を失った。
そんな言葉が返ってくるなんて思いもしなかった。
本当に千石清純という男は、どこまで大きな奴なんだろう。
そんな風に思えるなんて、そんな風に言ってしまえるなんて。
「……………ぷっ……くっ………ははっ………!」
流石に、素直じゃなくてひねくれ者だった俺の心を惹きつけただけのことはある。
『え?くん??』
突然笑い出した俺に、戸惑いがちな声が返ってくる。
千石にはきっと解らないだろう。
俺が笑ってしまう意味なんて。
でも、それでいい。
それでこそ、俺の大事な千石清純だから。
「大好きだ…………清純。」
電話の向こうで大きく息を飲んだ音がする。
そして、俺は何年かぶりに、心の底から笑う事が出来た喜びを噛み締める。
千石じゃないけれど、本当に携帯があって良かった。
俺は自分の口元が緩んでしまうのを感じながら、それを嬉しく思う事の出来る幸せを感じながら、静かに目を伏せる。
いつか、携帯電話の機能に、全ての会話を残す事の出来る機能がつかないだろうかと、そうボンヤリ思いながら……。
「おい、千石。」
「お!跡部君じゃないか。いつの間に居たんだい?」
「てめえの電話が長いから10分前から待ってたんだよ。」
「はは……盗み聞きなんて趣味悪いぞー?」
「うるせえ。ここに来たら勝手にてめえが電話してたんじゃねえか。待っててやっただけありがたいと思いな。」
「いやあ、相変わらずだねぇ…跡部君。」
「………ところで千石…お前、の奴にちょっかい掛けてるらしいな?」
「何だい?文句があるとか?」
「言っておくがな、あいつを泣かせたら後が無いと思えよ?」
「へえ?跡部君にしては珍しいねぇ?そんな風に言うなんて?もしかして……。」
「とりあえず言っておいたからな。忘れんじゃねえぞ?……じゃあな。」
「……………やれやれ。言いたい事だけ言って帰っちゃう所なんか、本当に変わらないねぇ跡部君は。でも…………………悪いけど跡部君にも負けるつもりは無いから。くん狙いだって事くらい…解ってるしね。」