暖かな微笑み、何者にも負けない心の強さ、皆を思い遣る優しさ、全てを見通す聡明な瞳、俺を見詰める柔らかな眼差し、全てが俺の心を捉えて離さない。
だからこそ君の未来、君の人生のその道の先に、立っていたいと思った。
君に恥じないように、君に相応しい男であるために。
そして、いつか君が先に居る俺を見つけてくれたら。
君の目に映る未来に、俺を映してくれたら―。
その日を俺は心焦がれて待っている。
その為なら俺は何にでも耐えられるから。
そこに、俺を待っていてくれる君が居てくれるなら。
未来の君が欲しいよ。
重なりあう未来の為に
「どうしたのさん?」
斜め上から声がして、俺はテーブルに伏せていた顔を上げた。
会社で終わらなかった仕事を片付けていたはずが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
手に二つのコーヒーカップを持ったまま俺の顔を覗き込んでくる乾に小さく笑ってみせて、俺は小さく溜め息をついた。
最近気付くといつも乾の事を考えている。
自分より遥かに幼い少年と人生を共に歩みたいと思っている自分が居る。
そんな事許される事ではないし、そんな事は無理だと解っていても、乾を求める俺の心は止まる事が無くて。
こうして優しく俺を見詰めてくる乾の顔を見ていると、酷くやるせなくなる。
「疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
「ああ、平気だって。」
乾の瞳を見ることが出来ない。
これは俺が乾の事を意識しているから。
以前はこんな事無かった。
どんなに乾が俺に絡んできても、何でもないように笑って受け流せていたのに。
いつの間にか俺の心を占める大きな存在になっていた。
「本当に大丈夫?顔色悪いみたいだけど?」
「大丈夫だって。気にしすぎだよ。」
「でも…。」
「平気だってば!!」
肩に手を乗せてきた乾を振り払うようにして背を向ける。
お願いだからこれ以上優しくしないで欲しい。
俺は弱い奴だから、そんな事されたら今すぐ君を抱きしめてしまう。
全てを投げ出してでも君と共にある事を望んでしまうから。
言ってはいけない言葉を伝えてしまうから。
「…さん……。」
少し掠れた低い声。
声変わりを過ぎた、少年から大人へと変わりつつある落ち着いた声音にぞくりとした色気を感じる。
本当にイイ男だと思う。中学生にしておくのはもったいないくらいに。
俺がこんな風に君を見ているなんて、きっと想像もしていないだろう。
俺の言葉に寂しげに細められたその瞳は一体何を思っている?
急に態度を変えた俺への戸惑い?それとも理不尽な態度に対する怒り?
たとえどんな感情でも、俺をその瞳に映してくれるなら、嬉しいとさえ思ってしまう自分が酷く滑稽に思えた。
「心配ないって。な?」
俺はゆっくりと手を伸ばして、困ったように俺を見詰める乾の少し癖のある固めの髪に触れた。
乾は何も言わず、ただ俺にされるがまま、じっとしている。
俺が乾の髪に触れる時は、決まって乾を子ども扱いして頭を撫でる時だったが、今日は違っていた。
梳くように短い髪を指に絡めると、パラパラと指の間を黒髪が流れる。
この感触も好きだなあと思いながら、俺は乾に気付かれないよう小さく息をついた。
「なあ、ありきたりだけどさ、お前将来の事って考えてる?」
「どうした?急に…?」
「ん…お前もさ、3年生だろ?そりゃー青学は高等部があるから、今すぐ将来の事って言われてもピンとこないかもしれないけどさ。時間なんてあっという間に過ぎるもんだぜ?後でああしてれば良かったとか、こうしてれば…なんて事ザラだし。」
俺のエゴだけれど、出来るだけ早く乾には自分の道を見据えて欲しかった。
じゃないと、いつまで俺がこの想いを抱えたまま、それを隠していられるか分からないから。
いつ乾を抱き締めてしまうか分からないから――。
「でも、まあ…子供のうちからあれこれ将来を周りの大人に固められちゃ、たまらないか……。」
乾には乾の人生がある。
誰もそれを邪魔する事は出来ないし、乾の進む道を指図する権利も無い。
俺のエゴで、乾を縛り付ける事は出来ないはずなのに。
「子供のうちは、少し位無理しても、やりたい事やっておかないと後悔するもんな……慌てる事もないか。悪い、変な事言って。」
俺は内心の想いを押さえ込んで、笑ってみせた。
そう、笑わなければ。
そうしないと、このままの関係ではいられなくなるから。
俺の中にある乾への想いが俺を壊してしまうから。
「子供……なんだよね、さんにとって。」
ふと、視線の先の乾の笑顔が、自嘲気味に歪む。
俺の言葉の一部分――「子供」という言葉に、乾の中の何かが引っかかったみたいだった。
「いぬ…い?」
「さん、俺の気持ち……本当は知ってるよね?でも、ずっと気付かない振りしてくれてる…俺の為に。」
「なに…言って………。」
「分かってたんだ、俺もね。でも、それが俺一個人を受け入れられないというなら…まだ良かったんだけど。」
そこまで言って、乾は俺の手首を痛い程にぎゅっと握り締めた。
まるで、このまま二度と離すまいとするかのように。
掴まれる腕の痛みは、乾の痛みのようだった。
「さんは俺を一人の子供として見てる……。俺を一人の人間として、一人の男としては見てもらえないんだよね?」
「だって、俺とお前は…っ!」
俺は酷く動揺していた。
俺の不用意に発した一言が、ここまで乾を追い詰めた。
そして、今…こうして自分自身をも追い詰める結果になっている。
乾の瞳は今までになく悲しげに揺れて俺の姿を映していた。
「最初から俺は対象外だった…。でも、年齢以外に俺とさん……何が違う?」
「え……?」
「何が足りない?」
そこまで言って、乾は握り締めたままの俺の腕を取って、身体ごと俺を床に押さえ込んだ。
「ちょっ!乾っっ?!」
「俺、身体的にはさんに負けないつもりだよ………ほら。」
大きな乾の手が、鎖のように俺の身体を縛り付ける。
ゆっくりと近付いてくる乾の吐息が微かに耳元に掛かって、俺はぎゅっと目を閉じた。
見ちゃいけない。
今乾の瞳を見てしまったら、囚われてしまう。
そう思うのに、俺の瞳は自然に乾の姿を求めていた。
ダメなのに――このままじゃいけないとわかっているのに。
俺の身体は乾を押しのける事も、拒絶の言葉をこぼす事も出来なかった。
「さん、分かってる?俺確かにまだ子供だけど、さんを押さえ込むくらい出来るんだよ?」
酷く真剣な瞳で乾が俺を見詰める。
こんな乾は見たことが無かった。
苦しげに、切なげに俺を見下ろすその姿は大人の男のものだった。
「いつだってこうしたかった。本気にしてもらえないのは分かってたけどね。」
「い……ぬい…………っ。」
酷く胸が苦しい。
でもこれは、押さえ込まれているからなんかじゃない。
俺は胸いっぱいに広がるこの苦しさに叫び出しそうだった。
本当はいつも嬉しかった。
乾が俺という存在を求めてくれる事が嬉しかった。
すぐにでも、あの大きな身体を力いっぱい抱き締めたかった。
でも俺は乾と同じ男で、あいつより遥かに年上で…。
だからあいつの想いを受け入れちゃいけないってずっと思い続けてきた。
少なくとも乾が自分で自分の事に責任を取れるようになるまで、自分の力で人生を歩いていける年になるまで、決してこの想いは乾に告げるつもりはなかった。
そうしなければいけなかった筈なのに。
でも…俺はやっぱり弱いから。
自分の想いに、乾への想いに負けてしまう。
俺には乾を想う気持ち以上に強いものなんてなかった。
「乾……いぬ…い……乾……っ!」
涙の溢れてきた俺を見て慌てたのか、乾が俺を押さえ込んでいた腕に込めていた力を緩める。
急激に力の抜けた乾の手を振り解いて、俺は自ら乾を抱き寄せていた。
「さん?!」
「バカやろう……ずっと我慢しないといけないって思ってたのに…っ!お前が自分の将来をきちんと決められるまでこの想いは封印するつもりだったのに!!」
情けないけど涙が止まらなかった。
「さん……。」
「俺の努力…全部ダメに…しやがって……っ!」
「じゃあ、嫌じゃない?」
嗚咽の混じった俺の言葉に、信じられないと言うように乾は目を見開く。
恐る恐る伸ばされた指先が、そっと目元に触れた。
「触れても嫌じゃない?」
「ああ……。」
「抱き締めても…いいかな?」
「ああ………。」
「……キスしても……構わない?」
一つ一つ確かめるように紡がれる言葉に、情けなくも俺は短い言葉しか返せない。
俺は最後の乾の問いに答えるかわりに、自分から乾の頭を引き寄せて、そっと唇を重ねた。
触れるだけの、微かな口付け。
一瞬の逢瀬とも思えるような、ほんの僅かの温もり。
押さえ込んでいた想いの大きさに比べたら、全然足りない位だけれど、想いを乾に伝えるには充分だった。
「俺の事……好き?さん……?」
「って呼べよ………。」
問いには答えずにそう言うと、乾は少しだけ困ったように笑った。
大人びた、どこか達観したような静かな微笑み。
見上げた乾は俺が思っていた以上に大きく、そして逞しかった。
「……答えて?」
ぞくぞくとする低くて甘い声が、俺の耳元で小さく囁く。
思わず身をよじると、微かに笑う気配がした。
「バカ…!こんなんで答えられるかよ。」
「の言葉で聞きたいだけだよ。何でもいい…。」
言葉を求めるのは乾も不安だから?
ずっと俺の曖昧な態度に苦しい想いをしてきたから――?
でも、俺には最も単純な「好き」という言葉は言えなかった。
そう……俺は乾を「好き」なんじゃないから。
それじゃ足らない。俺の気持ちは表せない。
どうしてこの世にはもっと相応しい言葉がたくさん無いんだろう。
「いつかお前の未来と俺の歩く道が一つになればいいと……そう思ってた。お前が俺の事を忘れる事が出来ないくらいの存在になって、お前を縛り付けたかった。そして………。」
そっと手を伸ばして、暖かな頬に触れる。
「ずっとお前が欲しかった……お前という存在が。お前の存在すべてが……。」
未来の君が欲しかった。
共に歩いていきたかった。
心も身体も魂さえも、乾の全てが欲しかった。
「お前が……お前の未来が欲しいよ………。」
「過去だけは無理だけど、現在と未来ならいくらでも。」
俺の言葉に満足そうに微笑んで、乾はその大きな手で俺の頬を包み込む。
もう一度触れた乾の唇は、何より温かかった。