少し大きな、俺の手の平くらいの大きさの四角い鏡。
何の変哲も無い、ただの鏡が俺の宝物――。
鏡
俺はもともと、どちらかといえば無愛想な方だったから、愛想笑いなんてものは、かなり苦手な部類だった。
にこやかに…と言われても、何をどうしたら良いのか、それ自体さっぱり分からない。
だから、高校に入ってから始めたバイト先の店長に言われた一言は、俺を困惑させるだけだった。
「くん、君さ……もう少し愛想よく出来ないもんかね?」
確かに店長の言う事は理解出来る。
俺のバイト先は町の小さな個人経営のファストフード店。
接客業…それも直接客と接する仕事をしている以上、無愛想なままで客受けが良くなるとは思えない。
けれど、俺だって何もわざとそんな風にしてるわけじゃない。
笑おうと思っても笑えない…いや、もっと言えば上手い笑い方を知らないんだ。
だから、バイトの度に必死で何とか笑顔を作ろうと試みてはいるのだが、結局失敗して客にはひかれてしまう…それがここ最近の俺の日課になりつつあった。
「表……出たくねぇなぁ……。」
ぼんやりと見やった店の外も、そろそろ夜の帳が降り始めてきている。
これからの時間は部活帰りの学生や、仕事帰りの一人暮らしの社会人なんかで混み始める時間帯だ。
それをを思うと、俺の気分は重くなる一方だった。
けれど、だからといってどうこう出来るわけも無く…暗くなる気持ちを引き締めて、俺はカウンターの前へと立った。
どれ位そうしていただろうか?
おそらく、そう長い時間ではなかっただろうと思う。
不意に目の前の自動ドアが開いて、俺は少しボンヤリとしていた気を引き締める。
「もう~~!今日だけだかんな!おごるのは~~!!」
ガヤガヤと賑やかな笑い声を伴ってやってくる数人連れの姿。
詰襟の学生服を着ている所を見ると、どうやら部活帰りの中学生らしい。
最初は高校生かとも思ったのだが、最後に店内に入ってきた小さな少年の姿は、どう見ても高校生には見えない。
「越前~お前何にすんだよ?」
真っ先にカウンターの前に並んだ少年にそう声を掛けられて、最後に店内に入ってきた越前と呼ばれた小さな少年がじっとオーダー表に視線を向ける。
「俺、チーズバーガーとポテト、ファンタグレープがいいッス。」
「うっし。じゃあ、俺はテリヤキバーガーと、ポテトとコーラと、それから……。」
「わわわっっ?!言っとくけど、それ以上はおごんないかんな~~!!」
「ええ~?いーじゃないッスか英二先輩。俺もう腹ペコで~。」
「ぜ~~~~っったい!ダメっっ!!桃におごってたら、俺破産しちゃうじゃんか!」
「ちぇーっ!」
「どーでもいいけど、早く頼んだ方がいいんじゃないッスか?」
そう言って越前と呼ばれた少年が俺の方を指差す。
その俺はといえば、少年達のあまりの勢いに気圧されて、マニュアル通りの言葉すら出てこないありさまだった。
「お!そうだよな!じゃあ英二先輩、俺達先に行って席取ってますんで、注文お願いします。行くぞ越前。」
「うぃーッス。」
桃と呼ばれた少年と、越前という名らしい少年とが、先輩らしい英二と呼ばれた少年のバッグを手に二階へ上がっていく。
その後ろ姿を見送ってから、俺はようやく我にかえった。
まるで嵐が去った後のような感覚に、俺は内心で大きく溜息をつく。
「あ、えと……い、いらっしゃいませ。ご注文は……お決まり……でしょうか?」
ようやく出て来たのは、情けなくも途切れ途切れの言葉。
そんな俺の姿に数回目を瞬かせた英二と呼ばれた少年は、決まり悪そうに苦笑して小さく頭を掻いて見せた。
「にゃははは……うるさくしちゃったみたいだにゃ~。ごめんなさい~~。」
てへへ…と笑ってみせる表情は、苦笑いと表現出来る部類のものだったけれど、俺にとっては酷く眩しく…そしてどこか好ましく感じられるものだった。
(どうしたらそんな風に笑えるんだろう?)
屈託の無い笑顔に、俺は思わず目を細めてしまう。
俺の求める笑顔をこうもたやすく、それもニセモノくさい作り笑いではない鮮やかな笑顔を、自然に浮かべる事が出来るこの少年に、俺は惹きつけられずにはいられなかった。
「い、いえ……。その、ご注文は……。」
「あ、そっか注文だっけ。う~ん、でもなー……今月ピンチなんだよにゃー…。二人の分払うと、俺の分ろくに買えなくなっちゃうよ……。」
俺の言葉に、困ったように眉を寄せて、英二という名の少年は唸る。
どうやら、先輩として後輩の分までおごる事になったようだが、肝心の持ち合わせが少ないらしい。
暫くカウンターの前でうなっていた少年は、溜息をつくと意を決したように手にしていた財布を開いた。
「えっと、チーズバーガーとテリヤキバーガーを一つずつと、ポテト二つ。それとファンタグレープとコーラとメロンソーダ一つずつください。」
幾分暗くなった表情でそうオーダーして、英二という少年は千円札と五百円玉を取り出す。
結局自分の分の注文は、葛藤のあげく飲み物だけにしたらしい。
けれど、やはりその表情は何だか沈んで見えて、俺は胸の辺りがチリチリと痛むような感覚をおぼえる。
俺の惹かれた笑顔が曇るのは何だかいたたまれなかった。
「かしこまりました。少々お待ち下さい。」
オーダーを受け会計を済ませると、俺はすぐ後ろのポテトの方へと足を向けた。
3つ分のポテトフライを詰め、カウンターに戻る。
すぐに3つ分の飲み物を揃えてから、俺は既に作られてあったテリヤキバーガーとチーズバーガー、それにハンバーガーを一つそっとプレートに乗せた。
「お待たせいたしました。」
全ての注文分を一緒に乗せている為に、溢れんばかりになってしまった状態のプレートを差し出す。
少し重いそのプレートを受け取った英二という名の少年は、視線を落とした先のプレートの上の状態に、カウンターの前で目を丸くして立ちすくんでしまった。
「………あれ?頼んでないのがあるんだけど………?」
不思議そうに数回瞬きして、少年は俺を訝しげに見詰める。
そんな少年の姿に、俺はそっと唇に人差し指を当てながら、周りに聞こえないよう小声で彼の疑問に答えた。
「俺のおごりです。ナイショですよ?」
きょとんとした表情の彼にそう言って、俺はそっと片目を瞑ってみせる。
本当はこんな事するのはあまり良くないんだけど、俺がその分の支払いをすれば済む事だし、これくらいで彼の明るい笑顔が見られるんなら安いもんだと思う。
俺は個人経営店である事をいいことに、店長に気付かれないよう彼の分のハンバーガー代とポテト代を自身の財布から取り出した。
小さな個人経営のファストフード店だから出来た事だが、これがもし大手チェーンだったらこうはいかなかっただろう。
我ながらおかしな事をしていると思わないでもなかったが、俺はそうする事で、この初めて会った英二という名の少年の笑みを曇らせずにおきたかった。
「……………あ、ありがとう!!」
しばらく呆然と俺を見詰めていた少年が、事態を理解したのかパッと表情を明るくする。
曇り空に太陽の光が差し込んだような、そんな眩しい笑顔。
たったそれだけの事だったのに、俺は何だか舞い上がらんばかりに嬉しくなってしまった。
初めて会った、どこの誰かも分からない少年。
それも店員と客という普通とは違う状況での出会いだったのに、何故か俺の心の中には彼の存在が鮮烈に焼きついてしまって――。
俺は、トレイを抱えたまま何度も俺の方を振り返り笑顔を向けてくれる英二という名の少年の姿を見送りながら、自分の中に芽生えたまだ名も知らない感情の存在に、一人戸惑うばかりだった。
あれから数日後、俺は思わぬ所であの少年――英二と再会する事になった。
妹のテニスの試合を応援しに行くという両親に押し切られて、俺は久しぶりの休日を朝早くから近くの試合会場で潰す事になってしまって。
渋々それに付き合い、その会場内で何をするでもなくボンヤリとしていた所を英二に声を掛けられた。
それが、俺達の再会だった。
そしてその後、何回となく街で出くわしたり、英二が俺のバイト先であるファストフード店に顔を出してくれたりして…今では、こうして英二が俺の家に遊びに来るまでに親しい関係を築けるようになった。
これも全ては人懐こい英二の人柄によるものだろうと思う。
そうでもなければ、俺みたいに無愛想な奴と親しくなろうなんて思う奴、そうは居ないはずだから……。
「…………でさぁ………聞いてる?さん?」
ボンヤリと手元の雑誌に視線を落としていた俺は、不意に掛けられた英二の声に、ビクリと大きく肩を震わせた。
「あ、え……?」
慌てて顔をあげると、僅かに眉を寄せた英二の顔が飛び込んでくる。
「俺の話聞いてた?」
「え?あ、ああゴメン。ちょっとボーッとしてた。」
ふくれる英二に、顔の前で手を合わせて謝ると、少し大げさに溜息をついて、英二は上目遣いに俺を見上げてくる。
大きな瞳が間近で心配そうに細められて、俺は思わず絡み合った視線をそらしてしまう。
あの大きな瞳で見詰められると、何故か全てを見透かされてしまいそうな気がして怖くなってしまうんだ。
俺は英二の瞳から逃れるようにして身体を硬くすると、静かに目を伏せた。
「ねえさん……何か心配事でもあんの?」
英二にしては珍しく元気の無い声で、英二は俺の手を握り締める。
その寂しそうな声につられる形でおずおずと顔をあげると、酷く辛そうな顔をした英二の顔が目に映った。
「英二………。」
「さん、何か凄く辛そう。何か嫌な事あった?それとも、どっか具合悪い?」
俺自身より辛そうな表情をして、英二が微かに首を傾げて見せる。
そんな英二を見て、俺の心の中は言いようの無い後悔でいっぱいになってしまった。
俺の好きな英二の笑顔。
俺には出来ない、本当に明るく暖かな笑顔を、俺自身のせいで曇らせてしまった。
「ごめん、何でもないよ。」
「ウソだ!俺、分かるんだからな!」
話を流そうとすると、ムッとしたように英二の眉がひそめられる。
「………英二には敵わないな。」
じっと俺を見詰める視線に耐え切れずに、俺は小さく溜息をついた。
やっぱり――と口を尖らせる英二。
そんな様子に、俺はもう完全に観念するしかなかった。
「……ちょっとな……どうやったら笑えるのかなーと思ってさ。」
「笑う?」
「ああ………英二の笑顔は相手を幸せな気分にさせてくれるよな。俺もそんな風に笑えたらな――って………。」
俺は不思議そうに首をかしげる英二に、ポツリポツリと事のあらましを語った。
ずっと俺が抱えていた思い、疑問…そして憧れ。
少し照れ臭さはあったけれど、こうして思いを吐き出すと、少し楽になったような気になる。
「どうしたら笑えるかな?英二みたいに……。」
「何言ってんのさん?さん笑ってるじゃん?」
掛けられたのは思いもしなかった言葉。
俺は英二の言葉に、目を瞬かせる。
「え?笑って……る?」
「うん。今だって微笑んでたじゃん。」
「俺……が?」
「そ。」
「………そんな…まさか………。」
俺は驚きで目を見開くしかなかった。
ずっと笑えないのだと思っていた。
唖然とした表情をされる度に、自分には笑顔など浮かべられないのだと思っていたのに。
そんな俺に、どこか呆れ半分の笑みを浮かべてから、英二はそっと片目を瞑ってみせる。
「少なくとも俺の前ではさん、何回も笑ってるよん?」
「……………でも………俺は自分の笑顔なんて知らない。」
「………………………………………そだ!ちょっと待っててさん!」
俯いた俺に、なす術無く眉を寄せていた英二が、ふと声をあげる。
訝しげに英二を見返すと、ニッと小さく笑って英二は自分のテニスバックの中をゴソゴソと探り始めた。
「えーと………確かこの辺…………と。……………あった!!」
勢い良く突き上げた英二の手に握られていたもの――。
それは手の平くらいの大きさの折りたたみの鏡だった。
「えっと、それからこれを……………………………できた!!!」
俺に背を向けたまま暫くガサゴソと何かしていた英二が、悪戯を企んでいるような目で振り返る。
そして先程取り出した鏡をスッと俺に差し出してきた。
「な、何?」
「へっへへ~★これさんにあげるよ。」
「………鏡?」
「そ。さんが俺が居なくても笑えるようにって、おまじない。これがあれば笑えるの間違いなし!だかんねー。」
そう言って英二はいつも以上に楽しげに笑う。
そんな英二の様子に、俺は何度も目を瞬かせた。
「あ、ありがと……。」
戸惑いながらも手にした鏡は、どこにでもあるような一般的な折りたたみの鏡で、特にこれといった特徴があるわけでもない。
不思議に思いながら俺は鏡を開いた。
「っっ?!!!」
その瞬間俺の目に飛び込んできたもの。
それに、俺は言葉を失った。
黒の油性ペンで書いたんだろうか?
鏡の部分に特徴のある字で一言『大丈夫』の文字。
そして1枚のプリクラ――。
「これは……。」
何の変哲も無い、ただのプリクラ写真。
英二が笑って写っているだけの、ただのプリクラが貼られているだけだけの鏡を俺は呆然と見下ろした。
プリクラの中で屈託無い笑みを向けてくる英二に、自然と身体の力が抜けていく。
俺は大きく息をついてから、そっと指先でそのプリクラを撫でた。
「あ!ほらさん、鏡見てよ!」
俺の横顔を見ていた英二が、不意に瞳を輝かせてそんな事を言う。
俺はその言葉に従って鏡に視線を移した。
「………………………。」
「ね?笑ってるでしょ?」
そう言って俺の顔を覗き込んでくる英二の表情が、いつにも増して嬉しそうに見えたのは、きっと錯覚なんかじゃないと思う。
そして、自分が目にした鏡の中の自分の姿も――。
「ほらね、俺のおまじない…効いたでしょー?」
「英二………。」
「…でもさ、本当は無理に笑わなくたっていいじゃん?――とかって思うんだけどねん。無理に笑ったって、ぎこちないだけで作り笑いってカンジするしさ?」
にゃはは…と笑って英二はテーブルの上に頬杖をつく。
「そうだよな……でも英二はぎこちない作り笑いなんかしなくても、自然に笑えて自然に皆を明るい気分にさせられるだろ?俺もそうなりたかったんだ。」
「ふぅ~ん…そっか。」
「……少しだけ……俺も近付けそうな気がする。ありがとな、英二。」
そう言って俺は静かに目を細めた。
気負う事無く、自然に口元がほころんだのが、自分でも分かる。
鏡を見る事は無かったけれど、英二が驚いたように目を見開いたのを見て、俺は何となくだけれど、自分が英二と同じように笑えているような気がした。
「鏡……ありがとう………。」
再び視線を落とした先の鏡の中では、俺の知らない俺とプリクラの中の英二が、確かに微笑んでいて。
俺はようやく『笑う』事が出来た。
それは、俺の手の平に納まる宝物……まだ小さな鏡の中だけの事だったけれど――。
「………本当は他の奴にあんな風に笑ってほしくないんだけどにゃー……。」
「んあ?どしたんっスか、英二先輩?渋い顔して?」
「桃~…良く行くファストフードの店に、って人居るの知ってるー?」
「ああ!結構イケてる人っスよね?」
「あの人どう思う?」
「え?あ…えっと……最近、時々笑ってくれる事あるんスけど、何つーか、こう……ドキドキするっスよねー?あの人男の俺から見ても、かなりイケてるから………。」
「……………………。」
「え、英二先輩??」
「…………桃、今日おごるって言ったの取り消し。」
「えええっ?!何で急にっ?!!」
「うにゃ~~~っっ!やっぱり鏡なんかあげなきゃ良かったーー!!」