クラスメイトの神尾の所に何か連絡事項でも伝えに来たのか、遠目に見慣れない3年生が教室に来てるな――くらいにしか思った事は無かった。
だってそれまで俺達には何の接点もありはしなかったから。
だからその時はあの人の名前も、それこそどういう人なのかも知りようもなかった。
そう、あの雨の降りしきる夜までは……。
触れた命の暖かさ
その日、俺は深い悲しみの中にその身を委ねていた。
出来れば今日という日は迎えたくは無かったのだけれど、そんな思いに反して現実は否応なくやってくる。
「もう………そんなに経つのか…………。」
今日は先月亡くなった父の四十九日。
久しく忘れていた――いや、必死に忘れようとしていた悲しみを否が応でも思い出させられる。
父が亡くなってからのこの一ヶ月半ほどは、ただ日々をやり過ごす事で精一杯で、父の居ない空虚な生活をこうして噛み締める暇など全く無かった。
けれどこうして四十九日という一つの区切りを迎えた途端、現実としてそれが目の前に広がっていて……俺は悲しみと共に、この不安とも苦しみともつかない思いに打ちのめされていた。
四十九日の法要を無事に済ませて、どこかやつれた表情の母とまだ幼い妹を家路につかせると、俺はぼんやりと夕暮れ時の住宅街を歩く。
まるで俺の内心を見通しているかのように、見上げた空はどんよりと曇っていて、俺は小さく息を吐き出した。
足を止め、何をするでもなく今にも降り出しそうな空をじっと見上げる。
内心で、何をやっているんだろう――と思わないでもなかったけど、何故か立ち止まったままその場を動く事が出来なかった。
暫くそうして佇んでいると、やがて空を覆っていた雲が厚くなりポツリポツリと小さな雨粒が落ちてくる。
最初の内こそ小雨程度だったその雨も、時間を追うごとに激しい降りへと変わり、俺がすぐ近くにある公園の存在に気付いた頃には、俺の全身はすっかりずぶ濡れになっていた。
トボトボと歩く度に、靴の中でグシャグシャと水音がする。
それをどこか遠く聞きながら、俺は人気の無くなった公園のブランコに腰を降ろした。
(このまま消えてしまったら楽だろうな………。)
雨で煙る景色をただボンヤリと眺める。
この時の俺は、自分だけがこの世界から切り離されたような、そんな感覚の中に居た。
そして――どれくらいの時間が流れたのだろうか。
ふと間近で感じた気配にゆっくりと背後を振り返る。
今まで容赦なく身体を打ち続けていた雨を遮る大きな紺色の傘。
そして、どこか見覚えのある心配そうな表情。
「こんな雨の中、こんな所でどうしたんだ?風邪をひくぞ?」
それは時々だけれど教室で耳にした事があるものと同じ声だった。
「あ…んたは………?」
「ああ、俺か?俺は橘桔平。テニス部の部長をしている。お前は確か…神尾のクラスメイトだったよな?」
「どうして……。」
俺を知っているんだ――という言葉は出なかった。
長時間雨に打たれ続けていたせいか、俺の身体は自分が思う以上に弱っていたらしく、カタカタと鳴る歯列と腹の底から湧きあがる震えとで言葉にならない。
「ともかく、いつまでもこんな所に居ると本当に身体を壊す。何があったか知らんが、とりあえずウチに来ないか?」
こちら側に差し出された傘と大きな掌。
そしてまっすぐで柔らかな眼差し。
俺はその差し出された左手に無意識の内に手を伸ばしていた。
半ば抱えられるようにして橘さんと共に歩き出した俺は、公園から5分ほど歩いた先に建つ、ある一軒家へと足を踏み入れた。
橘さんの言葉からすると、ここは橘さんの自宅という事らしい。
「すまんな。今タオルを持ってくる。その間シャワーでも浴びててくれ。」
俺を玄関から風呂場へと案内すると、橘さんはパタパタと家の中を走り回る。
その家の中の様子が…何となく想像していたものと違っていて、俺は無言のまま数回目を瞬かせた。
今の俺の家と違って、橘さんの家は人の活気に満ちているような…そんな気がしていたからだ。
「家の……人………。」
何となく気になって周りを見回しながらそう口にすると、笑顔で橘さんはひらひらと手を振る。
「ん?ああ、今日は家族全員出掛けているんだ。気を使う事は無いぞ?」
「すみま……せん……。」
「いいから早くシャワーでも浴びろ。少なくとも歯の根が合う位には温まってから出て来いよ?」
そう言って橘さんは苦笑いしながら俺の髪を撫でた。
俺はといえば、ただコクリと頷く事しか出来なくて、橘さんに促されるままバスルームへと繋がる扉を閉める。
何だかくすぐったい想いと共に、心地良く感じる何かが俺自身を包んでいる。
「何……だろ…………。」
自分自身よく理解出来ない感覚を持て余しながら、俺はシャワーのコックを捻った。
「お?出てきたか。どうだ?少しは温まったか?」
リビングでスポーツ雑誌を見ていたらしい橘さんが、扉を開けた俺の方へ向き直る。
それに小さくペコリと頭を下げて、俺は借りたTシャツの裾を握り締めた。
「すみません借りちゃってコレ……ありがとうございます。」
「俺のだからちょっと大きいかもしれないが我慢してくれ。」
「いえ………。」
確かに少し大きいけれど、それは仕方ない。
毎日鍛えているテニス部員と俺とでは、体格そのものが全く違うのだ。
身長はたいして違わないようだけれど、いかんせん俺の方が細っこい分だけ服がブカブカに感じられてしまうのは致し方ない。
「………それで?」
ふと、戸惑いがちに橘さんが口を開く。
「え?」
「どうしてあんな所に居たんだ?それもこんな雨の中……。」
座るように促されたソファーに腰を降ろす。
その俺の向かい側に座って俺を見詰めてくる橘さんの視線が、まっすぐに俺を捕らえて離さない。
その真剣な眼差しに耐え切れず、俺はフッと目を伏せた。
「橘さんこそ……。」
「ん?」
「どうして俺を…知ってるんですか?俺、自己紹介もしてない…けど。」
「ああすまん。俺も神尾のクラスメイトという事くらいしか知らないんだ。名前を聞いてもいいか?」
困ったように笑って、橘さんは頬を掻いてみせる。
それに頷いて、俺は静かに口を開いた。
「……です。」
「か……いい名前だな。お前に合っている。」
「そうですか?」
「ああ、もちろんだ。」
ニコリ……と笑みを浮かべて橘さんが頷く。
それが何だか酷く嬉しくて、俺は微かに口元をほころばせた。
「…………………父が………。」
「??」
「父がつけてくれたんです………って名前………。」
不思議そうに見詰めてくる橘さんの視線に微かに苦笑して、俺は静かに俯く。
そう……今は亡き父がつけてくれたんだった。
というこの名前。
俺を身篭ったと知らされてから、何ヶ月も悩み続けた結果決められた名前だったのだと、以前そう照れ臭そうに話していた父の笑顔が脳裏をよぎる。
その笑顔は――もう無い。
俺は再び湧き上がってきた、えもいわれぬ感情の渦に、ぐっと拳を握り締めた。
「……………。」
いつの間にか俺の隣に来ていた橘さんの、大きく骨ばった手がそっと肩に触れてくる。
「橘………さん……?」
「すまん……何か俺はお前を傷付けるような事を言ってしまったんだろうか?」
「え?」
「その………泣いている……だろう?」
戸惑いがちに触れてくる橘さんの手が静かに目元に触れて、俺は初めて涙が溢れている事を知った。
「あ?あれ?」
自分の意識とは懸け離れた所で、俺の涙腺は勝手にその役目をこなしていて。
俺は必死に目頭をゴシゴシと擦る。
初対面のこの人に、こんな所を見せたくはなかった。
「そんなに強く擦ると腫れるぞ?」
「でも………。」
「無理に抑え込むな………ほら、真っ赤になっている。」
まるで壊れ物でも扱うかのようにそっと橘さんの指先が俺の目尻に触れる。
その指先の暖かさが、優しさが再び俺の涙腺を刺激して。
結局俺は涙を止める事が出来なかった。
「や………又………。」
再び橘さんの指先を濡らしてポロポロと零れ落ちていく己の涙の雫。
何とか抑えようと目を閉じてはみるものの、それは少しの効果も現さない。
「ご、ごめんなさい……俺……。」
何とか少しでも見られないようにしようと、橘さんの手を外し顔を俯かせる。
そんな俺に、橘さんは小さく一つ溜息をつくと、そっと俺の肩を引き寄せた。
「―――――――っ?!」
突然の事に息を呑む。
一瞬何が起こったのか理解出来なかった。
「見られたくないんだろう?」
額が触れている肩越しに橘さんの声が伝わってくる。
「嫌でなければ……落ち着くまでこうしてるといい。」
そう言って橘さんはそっと俺の背中をさすってくれる。
それは本当に囁くような小さな声だったけれど、その静かで優しい声は触れ合っている俺にはハッキリと聞き取る事が出来た。
「……………何で………?」
「どうした?」
「何で…こんなにしてくれるんですか?」
俺の中で渦巻く疑問。
嬉しいと思う一方で、会ってまだ間もない俺に何でここまでしてくれるのか不思議でならなかった。
「う~ん……何故だろうな?俺も……よく分からないんだ。」
俺の問いかけに、困ったように小さく笑って、橘さんは背中をさすっていた手をピタリと止める。
「ただ………。」
「……ただ…何ですか?」
「何となくがこのまま消えてしまいそうに見えて……ついな。」
おかしいだろう――?そう苦笑してみせる橘さんに、俺は無言のまま大きく首を振って見せた。
「?」
「おかしくなんか……ないです。だって俺…………雨の中で、このまま消えてしまったら楽だろうなぁって……そう思ってたから……。」
「……………それは………。」
「分かってるんです。いくらああしていたって消える事なんか出来ないって。でも、本当に消える事が出来たら…いいのにとは……思ってました。」
何だかこの人には聞いて欲しいような気がして。
俺は少しずつ己の中にある思いを口にし始めていた。
「……………名前……。」
「ん?」
「って名前、父がつけてくれたって……言いましたよね?」
「ああ。」
「………今日は…………父の四十九日法要だったんです。」
「っ?!」
俺の肩を抱き寄せている橘さんが微かに息を呑んだのが分かる。
俺はそれに気付かないフリをして、目の前の橘さんの胸元をキュッと握り締めた。
「今までは、毎日バタバタと忙しくて、父が居なくなってしまった事を考える暇も無かったけど……こうして法要を済ませたら……本当に………本当に父がもう居ないのだと……気付かされて…………。」
「……………。」
「悲しいのもあるけど、それだけじゃなくて……何か色んな事が頭の中をグルグルしてて…………そしたら見上げた空も何だかグチャグチャして見えて、それで………。」
「もういい……。」
「このまま動きたくないなぁって思ってる内に雨が降ってきて……そしたら何だか全てがどうでも良くなってきちゃって……そのままボンヤリしてたんです。だって本当にあの時はこのまま雨に打たれてたら全部綺麗に消えられるような気が――――」
「もういいから!!!」
最後まで口にする前に、俺の身体は強い力で抱き締められていた。
「橘…さん?」
「すまない……辛い事を口にさせてしまった。」
「ううん、そんな事ない。」
「いや、悪かった。俺が悪かったんだ。人にはそれぞれ事情というものがあるのに、お前の悲しみを掘り起こすような事を聞いてしまった……本当にすまない。」
腕の中の俺をあやすようにしながら、橘さんは俺のまだ半乾きの髪に顔をうずめてきた。
その息遣いが、この人が生きている事を教えてくれる。
そう、この人は手の届く所に居る。
こうして触れ合う事も抱き締める事も出来る。
生きている命に、暖かな想いに、優しい言葉に触れる事が出来る。
それだけで何故だか楽になったような気がした。
「ありがとう…橘さん。俺、今は大丈夫だから。」
「?」
「本当に……大丈夫。橘さんに聞いてもらったら少し……楽になりました。」
「本当か?無理はするなよ?」
「大丈夫ですって。」
「………本当なら……いいんだが。」
釈然としない様子の橘さんに俺は小さく吹き出す。
何度も繰り返しそう訊ねてくる橘さんの顔を見上げて、俺は微かに目を細めた。
「橘さん、心配性ですね。」
「いや、そんな事もないが………。」
「絶対心配性ですよ。それも心配性のお兄ちゃんってカンジだ。」
活発な弟や妹に振り回されて溜息をつく姿や、懐いてくる小さな子達を可愛がる面倒見の良い姿が、容易に想像出来る。
俺は似合いすぎるその想像した姿に、笑みを浮かべずにはいられなかった。
「別に言われるほど心配性でも無いんだがな……まあ、いいか。」
「……?どうしてですか?」
やれやれといったように微かに笑って、橘さんは俺の髪をガシガシと掻き混ぜる。
照れ隠しのようなその仕草に俺も苦笑しながら首を傾げると、橘さんはドキリとするような柔らかな笑顔を見せてくれた。
「が笑ってくれるなら………それも悪くない。」
そう言って微笑みながら、橘さんは両手で俺のまだ涙に濡れたままだった頬を静かに包み込んでくれて。
俺はただ、その口説き文句にも受け取れる言葉を呆然と受け止めるしかなかった。
「橘さんって……タラシだ………。」
「ん?何か言ったか?」
「いえ。別に……。」
慌てて笑ってみせると、首を傾げながらも橘さんはもう一度微笑んでくれた。
ポツリと零れた呟きは橘さんには聞こえなかったみたいだけれど。
でも、それが俺の思い込みではない事を、俺はすぐに実感する事になる。
「ああ、やっぱりな……。」
「橘さん?」
「やはりお前は笑っている顔が一番だ。」
やっぱりこの人は天然のタラシだ――と頭の片隅で思いながら、俺はガラにもなく火照った頬を隠す為に目の前の逞しい胸に顔をうずめたのだった。