笑顔






ー?これ、3番テーブルなー。」


奥から聞こえてくるスタッフの声が俺を呼んだのに気付いて、俺は慌てて声のした方へと駆け寄った。
俺が中学生ながらもこの店でバイトしているのには訳がある。
もちろん学校に黙ってやってる訳じゃない。
きちんと特別に許可をもらって、許可の範囲内でバイトしている。
とはいえ、これでも一応中学生だから何かとうるさい事も多いから、普段は洗い場や事務所の方で裏方をやってる事が多い。
けれど、今日みたいに週末ともなると客も多くなるから、こうして必然的に俺もフロアに借り出されてしまう。
まあ幸いにして、俺は見た目が歳のわりにデカイから高校生に見られやすいから、今まで問題になった事は無いけれど。
そんなこんなで今日も俺はフロアの方の手伝いで店の中を走り回っていた。



ーっっ!これとこれも3番なーっ!」



もう一度呼ばれて奥に引っ込むと、さっき運んだ3番テーブルの分が2皿あがっている。

「了解!!あれ?昨日入ったバイトは?」

出来上がって湯気をたてているカルボナーラとタンドリーチキンの皿を受け取って、俺は辺りを見回した。
昨日から高校生のバイトが一人フロアに入った筈なのに、姿が見えない。
俺ばかり走り回ってるような気がして俺は少しだけ眉を寄せた。


「お前と入れ違いに3番に持って行ってるよ。何だ?3番ってそんなに人数多いのか?」

手を休めずに問い掛けるスタッフに苦笑して、俺は目前の伝票に目をやった。

「9名のお客さまだよ、学生さん。」


俺自身も学生なのにそういう言い方をするようになってしまったのは、ここでバイトするようになってからだ。
そんな俺に苦笑してみせて、奥に居たスタッフは別のテーブルから下げてきたシーフードグラタンの皿を洗い場へと引っ込める。

「なるほど、そりゃあ量が多いわけだ。」


独り言ともつかない言葉に小さく笑って俺は厨房の方を後にした。
確かに少ないと言える人数じゃない。
流石に4人掛けのテーブルを3つ繋げなければ足りなかった位だから。
あと何回3番テーブルと厨房を往復する事になるやら…と思いながら、俺は3番テーブルを陣取っている団体客の席を見やった。

と、視線を向けた途端、団体客のうちの二人が急に立ち上がって何やら口論をし始めた。
嫌な雰囲気だなーと思った時には遅かった。
俺の前にオーダーを運んでいた高校生のバイトと、立ち上がった内の一人の腕が接触して、手にしていたアイスミルクティーが宙を舞う。
そりゃあもう見事な位にしっかりとミルクティーをかぶってしまったのは、一番端に座っていた幹事らしい人だった。
学生なのに幹事ってのは変な言い方だけど、オーダーを取る時に全員のオーダーをまとめていた所を見ると、きっとこの団体のまとめ役なんだろう。
笑顔が酷く柔らかい印象を持つ人だなーとぼんやり思っていたから覚えている。
とにかく、被害者になってしまったのは、そのまとめ役みたいな人で、本当に上から下までといった感じに着ていた学生服は濡れていた。


「わわっ!大丈夫、大石?!」
「げげっ!!びしょ濡れじゃんか、大石~っ!」
「桃城!海堂!」
「やばっ!!」


幸いにして被害をまぬがれた他の面々も、慌てて手元にあったおしぼりを差し出したり、荷物をどけたりと、その場は大騒ぎになってしまう。
不可抗力とはいえ、肝心のこぼした本人であるバイトは――と見てみれば、真っ青な顔で固まるだけで、咄嗟の行動が取れていない。


(ダメだ、こりゃ……。)


俺は心の中で溜息をついて、慌ててその場に向かった。
幸いにして隣の席はまだ空いている。
この時間帯は、まだ夕方だから夕食のお客さまで混み合う時間と違って、比較的席の空きが多い。
俺は急いで隣の席を3つ分整えて、手にしていたオーダーをテーブルに並べた。


「お客さま、大変申し訳ございません。こちらに席を整えましたので、お移り頂けますでしょうか?」


まずは被害の無い客を座らせてからだ。
新人バイトに3番テーブルにある皿を隣に運ばせて、俺はミルクティーをかぶった客の服に手を伸ばした。


(これは拭いてどうにかなるレベルじゃないな……。)


表向き濡れた部分をタオルで拭ってはみるものの、かぶった量はハンパじゃない。
完全に中まで濡れている筈だ。
俺は内心で溜息をつかざるをえなかった。

「申し訳ございません、お客さま。当スタッフの不手際で、お客さまには多大なご迷惑をお掛けいたしました。お召しものはいかがでしょうか?」

ダメとは分かっていても、一応聞いてみる。
これは完全にクリーニングだな…と思いながら、俺は頭を下げた。


「あ、いや、まあ…ちょっと着替えないとダメかな…これは……。」


自分の服を見て苦笑する客は、それでも怒った様子は見受けられない。

「失礼致しました。クリーニング代等の費用はこちらでお支払い致します。大変申し訳ございませんでした。」

隣のテーブルを整え終わった新人バイトを呼んで頭を下げさせると、俺はもう一度深々と頭を下げた。
幸いにと言うべきか、タイミング悪くと言うべきか、今日は店長が居ない。
失態が店長にバレないというのは確かにラッキーかもしれないけれど、もし「責任者を出せ」とでも言われたら、どうにも対処のしようが無いというのが正直な所だった。
まあ、どうみても学生だから、そこまでするとは思えないけれど。


「いえ、こちらも騒いでいてご迷惑を掛けましたし……な、手塚?」

苦笑いしたまま、隣のテーブルから心配そうに見ている二人の少年を見てから、ミルクティーをかぶった客は隣に立つ手塚と呼ばれた眼鏡の人に視線を向けた。

「そうだな。店内で騒ぎを起こし申し訳ありません。」
「いえ、お客さまにご迷惑をお掛けしましたのは当スタッフの不手際です。本当に申し訳ございませんでした。」

まさか逆に謝られるとは思っていなかった俺は、少なからず動揺していたけれど、とりあえずもう一度頭を下げた。
まあ、そういう見方もあるけど、やっぱり客商売である以上、客に責任をなすりつける訳にはいかないし。
でも、被害者になったにもかかわらず、一方的にこちらを責めようとしない客のその姿は、一人の人間として凄く好感を持てた。



「でもさー大石、そのままって訳にはいかないんじゃん?」
「そうだね、そのままだと帰れないし、風邪ひくよ?」

隣でこちらの様子を窺っていた同じテーブルの客の内の二人が、濡れた服を指差して首をかしげる。

確かにその通りではあった。
いくら拭き取ったとはいえ、濡れた跡はシミとしてハッキリ分かるし、中まで濡れてるんなら幾ら店内が暖かいといっても、そのままだと風邪をひきかねない。
とは言うものの、普通は着替えの服なんて持ってるわけもないし。
どうするべきか考えあぐねていると、ミルクティーをかぶった当の本人が、隣のテーブルに移動したバック――よくよく見るとその場にあるのは全部テニスバックだった――を手元に取って、中から何かを取り出している。
暫く中をゴソゴソ探っていたその客は、中から一枚のジャージを取り出した。
取り出したジャージを見ると、背中の部分に『SEIGAKU』と大きくロゴの文字が入っている。


(へえ、こいつら青学のやつらか……。)


その文字を見て、俺は内心驚いていた。
学生だというのは見れば分かるけど、殆どが俺くらいデカかったから、てっきり高校生だとばかり思っていた。


「いいよ、レギュラージャージ着て帰るから。」
「でも、まさかそれ一枚って訳にはいかないでしょ?」
「そうっスよ。中まで濡れてるんじゃないんスか?」
「ああ…でも何も無いよりマシだし…。」
「かといって、練習で着てたシャツを着るわけにもいかないだろうしな。」


暫くやり取りを見ていると、俺にも何となく状況が理解出来てきた。
ここに居る全員がテニスバックを持っている所を見ると、こいつらは青学のテニス部かなんかだろう。
だから、一応練習用のシャツやらジャージやらを持っていた……というわけらしい。
でも、いくらまだ夕方とはいえ、この寒空にジャージ一枚で帰る訳にもいかず、かといって練習で着ていたシャツは汗で濡れていて使い物にならない…と。
そこまで考えて、俺はハタと一つの事に気付いた。
俺はこの店のスタッフの使うロッカールームに、スウェットの上下を置いてある。
以前、学校からこの店まで来る時、傘が無くてズブ濡れになった事があって、それ以来予備に一着ロッカーに置いておくようにしていた。
それがあれば、とりあえず家に帰るまでの場つなぎにはなるはずだ。


「誰か、替えのシャツかなんか持ってないのか?」

一番背の高い四角い眼鏡を掛けた人が、その場の全員を見回すけれど、誰も頷く者は居ない。


「仕方ないよ。とりあえず先にトイレでコレに着替えてくるから。」

もう一度苦笑して、被害にあった客――どうやら大石と言うらしい――はその場で立ち上がった。




「あ…あの、お客さま?」

「はい?」



俺は思い切って声を掛けてみた。


「失礼ですが、そのままではお風邪を召されます。私のものでよろしければ、一着スウェットが予備に置いてありますので、そちらをお使い下さい。」


これが一方的に怒鳴りつけるような奴だったら、こっちも願い下げだけど、こっちの失態よりも自分達の不始末を詫びるような人だから、風邪なんかひかせたくないなぁと思う。
店の店員としての対応以上の事をしようと思ったのは、客の一人というより、一人の人として好感の持てるタイプだったから…と言っても間違いは無かった。


「え………?」

「サイズも変わらないと思いますので、ご迷惑でなければ…。」

大石と呼ばれていたその人は、突然の俺の言葉に驚いたように目を瞬かせる。
確かにマニュアル以上の事だから、戸惑うのも無理はないと思う。

「でも……。」
「いいじゃん、大石。借りちゃいなって!風邪ひくよりマシだって。」
「英二…。」

口ごもった大石さんに、英二と呼ばれた人がニッと笑ってみせる。

「そうだよ。せっかくの店員さんの厚意なんだしさ。」
「とりあえず、食べ終わるまでだけでも借りてればいいんじゃない?」
「大石……。」
「え…う、ん……。」


他の人にも勧められて、大石さんは困ったように俺を見た。
本当に良いんだろうか……って顔に書いてあるような、複雑そうな表情。
でも、別に借りる事を嫌がってるわけじゃないらしい。
俺は営業用じゃない笑顔を浮かべて、目の前の大石さんを見返した。


「じゃあ、すみません…お借りします。」
「はい。それではどうぞこちらへ。」


本当はお客様を通すべきじゃないんだけど、従業員用のロッカールームのある方へ大石さんを促して、俺は彼の少し先を歩いた。
出来ればスウェットなんかじゃなくて、きちんとしたものを貸してやりたいけれど、こればかりは仕方がない。
俺はスタッフルームの扉を開いて大石さんを中へと招き入れた。

「こちらへどうぞ。今お出しします。」

扉の前で立ち止まった大石さんに、スタッフの休憩用に用意されているパイプ椅子を勧めて、俺は『』というプレートの入っている自分のロッカーに駆け寄る。
ロッカーを開けて、まずは学校の制服を隣のロッカーの外側にかける。



「あれ?」



今着ている店の制服の予備の隣にかけてあるスウェットを手に取った時、驚いたような大石さんの小さな声が耳に入った。

「何か?」
「え?あ、いや……その制服……山吹中のものじゃ…?」
「ええ、そうです。」
「って事は君……山吹中の生徒?!」


俺の制服を指差して大石さんは声をあげた。
俺が大石さん達が青学の生徒だという事に驚いたように、大石さんも俺が中学生だって事が驚きだったんだろう。
確かに俺の学校の制服は特殊だから、すぐにどこのものか分かる。
何たって白ランだし。
ここらへんで白ランって山吹中しかないからっていうのもあるかもしれないけれど。
俺は身長だけはデカイから、きっと高校生のバイトだとでも思ってたんだろう。

「別に学校に内緒でバイトしてる訳じゃないですよ。」

言葉こそ無かったけど、目を見開いている大石さんの考えている事は何となく分かった。
苦笑する俺につられるようにして、大石さんも苦笑いを浮かべる。


「驚いたな、中学生だなんて。てっきり高校生かと思ったよ。」
「よく言われます、図体だけは高校生並だって。」
「いや、そういう意味じゃないよ。凄くしっかりとした対応をしてくれたからさ。」


差し出したスウェットを受け取りながら笑う大石さんの表情は、決してそれが嘘でもごまかしでもない事が確信できる程爽やかなものだった。


(うわ……!)


俺は大石さんの素直な賞賛にどうしたら良いか分からず、思わずその笑顔をじっと見詰めてしまう。
本当にこういうのを『爽やか』って言うんだろうなーと心の片隅で思いながら、俺はただぼんやりと大石さんを見るしか出来なかった。


「だから山吹中の制服を見て、ビックリしてしまったんだ。本当に中学生なのかなと思ってね。」
「ええ、山吹中の2年です。」
「えっ?!2年?!」

俺の言葉に大石さんはもう一度声をあげた。

「俺より年下とは思えないな。あんなにしっかりしてるのに。」

大石さんの眼差しに、驚きと感嘆が混じる。
俺は急に照れ臭くなって小さく頭を掻いた。

「そ、それじゃこちらで着替えられたら、こちらからフロアの方へどうぞ。本当に今日はご迷惑をお掛けしました。」



「あ、ちょっと待ってくれ!」



慌ててその場を離れようとドアに手をかけた俺に、同じく慌てたような大石さんの声が掛かる。

「今更で何だけど……名前聞いて良いかな?」
「え?」
「名前だよ、君の。」

です……。」

くんか……ありがとう!じゃあ、ありがたくお借りするよ。」


優しげに細められた大石さんの瞳を見た瞬間、今度こそ俺は慌ててその場を飛び出した。
お客様の前だというのに、挨拶もそこそこに。



(何なんだよ、あの笑顔は~?!)



あれは正直言って反則だと思う。
何と言うか……男の俺が見ても一瞬ドキッとするような優しげな笑顔。
あの様子じゃ本人無意識みたいだけど、もしあれが地なら、無意識のタラシだ。

「とはいうものの、男の笑顔にグラついてる俺の方がタチ悪いかも……。」

俺は知らず知らずの内に熱くなった頬をおさえて、思わず廊下で大きな溜息をついてしまった。


















あの事件があってからというもの、何故か青学の人達はよく店に顔を出してくれるようになった。
最近ではすっかり常連客になってる人もいる位だ。
大石さんに聞いたのか、俺が同じ中学生だと知ってからは、店でも外で偶然会った時も皆が気軽に声を掛けてくれる。
そのおかげで、俺は今では青学のテニス部の人達とかなり親しい関係を築くまでになっていた。
そう、こうして部員の誕生日パーティーに呼んでくれる位には。



「うめえー!!本当にお前が作ったのかよ、?!」



俺の作った春巻を口の中に放り込んで、桃城が声をあげる。
それに無言で笑ってみせて、俺は目の前に置かれたグラスを手に取った。
今日が乾さんの誕生日だって事で、皆で色々持ち寄ってパーティーをするって聞いたのが昨日の夕方。
流石に昨日の今日じゃ、ろくなプレゼントは用意出来なかったから、俺は店の厨房をちょっとだけ借りてパーティー用のオードブル一式を手土産に、会場になった越前くんの家にお邪魔する事にした。
もちろん、今日もバイトはあったけど、今日だけはバイトを少しだけ早く切り上げさせてもらって。


「悪かったな。大変だっただろ、これだけ作るのは?」

楽しそうに騒いでいる皆をぼんやり見ながら、何気なくグラスの中身をあおっていると、左隣に困ったように苦笑した大石さんが腰を降ろす。
さっきまで菊丸さんに絡まれてたみたいだったけど、どうやら抜け出してきたらしい。
ほんの少しだけ上気した頬が、大石さんもこの騒ぎに興奮しているんだ――という事を感じさせる。
俺は大石さんに応えて小さく首を振った。

「そんな事無いですよ、俺料理好きだから。」
「そうか?ならいいんだけど……。」

俺の言葉にホッとしたように大石さんが息をつく。

「逆に、こんなので良かったのかなーって心配だったんだけど……。」
「大丈夫だって!いつでも嫁にいけるぜ~?」

照れ臭くなって手の中のグラスをクルクルと弄んでいると、目の前の桃城が茶目っ気たっぷりに片目を閉じてみせる。

「何だよそれ……。」


桃城の言葉に俺は苦笑するしかなかった。


「やられたな、。」
「そうですね。」

俺と桃城を見ていた大石さんが、おかしそうに笑う。
その笑顔に、やっぱり俺は呆然と見とれてしまった。

相変わらず爽やかで優しい笑顔。
俺は、もう何度目になるか分からない胸の高鳴りを自覚するしかなかった。
そう、俺は……大石さんの優しげな笑顔に、完全にヤラレてしまっている。
笑顔を向けられるだけでドキドキしてしまうなんて、これじゃまるで女の子みたいだ。
俺は情けなくも紅くなってしまっているであろう顔を見られたくなくて、そっと目を伏せた。



「どうかしたかい?」

「あ、いえ別に…っ!」

不意に視線をそらした俺に、大石さんが訝しげに首をかしげる。
心配そうに俺の顔を覗き込んでくる大石さんに、俺は慌てて首を振って笑ってみせた。


(うひゃあ~そんなに顔近付けないでよ~~!!)


そんな近くで見られたら、顔が紅くなってるのもバレてしまうし、ますます動悸が早くなってしまう。
そんなの見られたら、変に思われてしまうじゃないか。
とにかく俺は何とか話題をそらそうと、辺りを見渡した。


「そ、それより…料理ですけど、大石さんの口には合いました?やっぱり店で出すみたいにはいかなかったし…。」
「ああ!凄く美味かったよ!桃の言い草じゃないけど、いつでも嫁にいける位には上手いんじゃないか?料理。」
「大石さんまでー……。」
「あはは!まあ、の恋人になる人は幸せ者って事だな。」


そう言って大石さんは、目の前の皿に盛られたスナック菓子を一つほおばった。
店で出すみたいに上手く出来るわけないのは最初から分かってた事だったけど、出来るだけ気に入ってもらえるようにと頑張って作ったから、大石さんにほめられたのは正直凄く嬉しかった。
まあ、社交辞令も混ざってるってのは分かっているけれど。



「それにしても、これ誰が持ってきたんだ?凄く辛いぞ?!」

さっき口にしたスナック菓子をもう一度手にして、大石さんは小さく眉を寄せる。
ペロリと出してみせた舌は、スナックにかけてある香辛料のようなもので真っ赤になっていた。

「そういえば、いやに赤い色してますね?」
「まさか…不二か?これ持ってきたの……。」
「さあ…でも、そんなに辛いんですか?俺ので良かったら、コレ飲みます?」

顔をしかめたままの大石さんの表情があまりにもキツそうだったから、俺は自分の手にしていたグラスを差し出した。
グレープフルーツ味だけど、何も無いよりはマシなはずだ。

「悪いな、俺あっちにグラス置いてきたから……。」

菊丸さん達の方を指差して苦笑すると、大石さんは俺の差し出したグラスを取って一口だけ口に含む。



「ん?」



ふと漏らされた小さな呟きに、俺は皿の方に伸ばしかけていた手を止めた。

「え?どうかしました?」


「これ……何かアルコールっぽくないか?」


「ええ?!だって、ただのグレープフルーツジュースでしょう?!」


思いもよらなかった大石さんの言葉に、俺は思わず大石さんの手の中にあるグラスを覗き込んでしまう。
どう見たってコレは普通のグレープフルーツジュースとしか思えない。
飲み物を配っていた桃城が「メロンとリンゴとグレープフルーツとブドウとどれにする?」って言ってたのだって俺はハッキリ覚えている。

そこまで思い出して俺は一つの事に気付いた。
そういえば…………一言も桃城は『ジュース』と言わなかった……。
という事は、まさか――。
俺は急いで桃城の横に転がされている空き缶を手に取った。



「グレープフルーツサワー?!」



アルコール6%。
完全にこれは酒だ。
俺は、すっかりジュースだと思っていたから、これまでにかなりの量を空けてしまっている。
バイトの後だったから喉が渇いていて、最初はすきっ腹にガブ飲みまでしてしまった。
そう言われれば、何となく熱いかなーとは思っていたけれど…。
アルコールの文字を見た途端、急激にサーッと血の気が引いていく音がしたような気がして、クラリと眩暈が俺を襲う。


「わわわっ!ーーっ?!!」


大石さんの悲鳴が後ろから聞こえたのを最後に、俺はプツリと意識が途切れてしまった。


















「ん…………?」

フワフワと揺れるような、気持ちの良い浮遊感。
一定のリズムで伝わってくる振動と、暖かな温もりに俺はぼんやりとする意識を引き戻す。

(あれ………俺、どうしたんだっけ?)

思考のまとまらない頭で必死に考えをまとめようとするけれど、心地良い浮遊感と暖かさが、何もかもどうでも良い気にさせる。
いつまでもこの暖かさに包まれていたいとぼんやり思っていた時、ふと聞き覚えのある声が耳に届いてきた。


『大丈夫か、大石?』
『ああ、思ったよりって重くないから、このまま背負って帰るよ。』
の家、知っているのか?』
『前に本を借りに行った事があって、何回か行ってるから平気だ。それより手塚の方こそ大丈夫か?桃と英二、二人も抱えて…。』
『この二人は同じ方向だからな、仕方ない。何とかなるだろう。』


(この声………大石さんと手塚さん?)


どこか遠く感じる二人の声。
そんな声を聞くともなしに聞いていると、二人が苦笑するのが分かった。

『じゃあ、ここでな……手塚も気を付けて帰れよ?』
『ああ、大石もな。を頼む。』
『分かった。じゃあ又明日な。』


暫くして再び静かになって、俺はぼんやりとする意識のまま、うっすらと目を開けた。

「お……いし……さ…………?」

「ん?ああ、起きたかい?」

ぼやける視界の先に、静かに微笑む大石さんの笑顔。
俺が魅せられてしまった暖かな笑顔が、息の掛かるほど近くにある。
何だかこんな間近に大石さんがいるなんて信じられなかった。


(ああ、きっと夢だよな……。)


すぐ側にある温もり。
大きな背中から伝わる大石さんの暖かさ。
夢じゃなかったら、こんな都合の良い事起こる筈が無い。
大石さんにこうして触れられるなんて、現実では考えられなかった。


(だったら今くらいは甘えたっていいよな……。)


俺は目の前の大きな背中にそっと頬をすり寄せる。

「どうした?」

大石さんが小さく笑う。
今は俺だけに向けられている、包み込むような優しい声。
そんな声もやっぱり穏やかで優しくて、俺は嬉しくなってしまう。
そして、やっぱり俺はこの人の事好きになってしまったんだなぁとぼんやり思った。


「ごめ…ね……おれ……大石…さんの事…好き……。」
「え?」
「おれぇ……大石さん……の…声……すき………。」
……?」
「あったかい背中も……笑った顔も…すごく…す…き………だ…よ。」



今だけなら許されるかな…。
きっと俺なんかに好かれたって困るだけだろうけど。
夢の中だけなら、大石さんに――この人には迷惑掛けないですむから。
だから、夢の中だけは許してほしい。

「………………。」

大石さんが俺の名前を呼んでくれる。
夢だから俺の都合の良い事が起こったっておかしくないけど、やっぱり嬉しかった。

「俺だけ…勝手に……好きになって…ごめん…ね………。」

そこまで言うのが俺の限界だった。
嬉しくて、暖かくて、全て満たされるような感じ。
それが俺を再び穏やかな闇の中へ誘う。


「俺だけ………か………。」


ポツリと呟くような大石さんの声が最後に静かに耳を打つ。
もっと聞いていたいと思いながらも、俺は引き込まれる闇の誘惑に抗えず、意識を手放した。
満たされた暖かな想いを抱えたまま――。







「……気にもならない奴だったら、最初から名前聞いたりしないんだけどなぁ……。」




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