自分の出来る事







「すまない、手塚は居るか?!」


放課後のテニスコートに一人の男子生徒の声が響いた。
詰襟に薄い眼鏡をかけ手には書類を抱えたその姿は、女生徒達が取り囲んでいるテニスコートにあって、かなり人目を惹いている。
すらりと伸びた身体は身長の割りに細く、知的な瞳が印象的なその少年は、青春学園中等部生徒会の会計を務めていた。名前をと言う。


「どうした、?何か問題か?」


練習の手を止め近付いてくる手塚の姿を認めて、と呼ばれた少年は小さく溜息をつく。

「練習中すまない。今度の学園祭の予算申請の第一次草案、却下された。上から少し絞れとのお達しだ。」
「何だと?絞れるだけ絞って、最低ラインで申請した筈だろう?」
「スポンサーが1件減りそうらしい。その分の締め付けだな。」
「…そうか。仕方ない練り直しだな。どれ位調整すれば良い?」

同様、溜息をついた手塚に小さく笑って、は首を横に振った。

「一応俺なりに調整はつけてみたんだ。あと、申請書も作り直したから、おまえの承認が取れればそのまま押印してもらって俺が提出してくる。確認してくれるか?」

そう言っては抱えていた書類の束を手塚に差し出した。
一枚・二枚と書類を確認していくにしたがって、手塚の表情が段々と険しくなっていく。
最後の一枚を見終わった時、手塚の眉間にはかなりの深い皺が寄っていた。


「……、修正を言われたのはいつだ?」


僅かに低くなった手塚の声で、彼が不機嫌である事を察したは、手塚の問いにどう答えるべきか暫し躊躇する。

「え?昨日の夕方だけど?」
「何時頃だ?」
「えーと…5時半位か?」

急に不機嫌になった手塚の真意が分からず、は困ったように目を伏せた。


(手塚の目って全てを曝け出されそうなんだよな…。)


じっと自分を見詰めてくる手塚の視線に居心地悪げに身じろぐと、片手で頭を抱えた手塚が小さく溜息をつくのが分かった。

「一人でこれをやったのか?」
「え…?あ、ああ、まあな。」
「5時半に分かったなら何故連絡しない?これだけの処理、2・3時間で終わるものじゃないだろう。寝てないな、お前?」

そう言って手塚はの目の下を、親指でスッと撫でた。
話している間ずっと疑問に思っていたの目の下のクマ。
眼鏡越しで最初は分かりにくかったが、確かにそれは存在している。
それが徹夜で書類の修正をしていた為だとすれば、それも合点がいく。
通常なら生徒会役員総出で行う筈のものを一人で、尚且つ一日で済ませたというのは、正直奇跡に近い事だった。


「あー…1時間位は仮眠したさ。それにお前部活中だったし。俺は別に部活はやってないから、時間はあったしな。」


そこまで言っては照れ臭そうに笑った。
正直仮眠は取っていなかったが、それでもついさっき修正が終わったばかりだから、仮眠など取っていたら今頃はまだ書類の山から開放されてはいなかっただろう。
手塚の言う通り、手塚に連絡して処理を手伝ってもらえば確かにもっと早く片付いたかもしれないが、テニス部の部長として全国を目指す手塚の練習の邪魔をしたくなかった。

「ここまで遅くなったのは悪かった。もう少し早く終わるかと思ったんだ。そう怒るな。」
「そんな事に怒っているわけじゃない。お前、今自分が酷い顔色をしている事に気付いているか?」

の言葉に更に眉を寄せてそう言うと、手塚は手にしていた書類を差し出す。

「大丈夫だって。じゃあ、この書類押印頼む。」

そう言って書類の束を受け取ろうと手を伸ばしたは、手をあげた瞬間急に身体を襲った眩暈にグラリと体勢を崩す。
急激に目前が真っ暗になり、上下左右が分からなくなる。
自らの身体を支えられずによろけたの身体を、とっさに支えたのは手塚の力強い腕だった。


「っ?!」
「大丈夫か?!」


どこか遠く手塚の声が聞こえてくる。
眩暈と同時に軽い耳鳴りがしてハッキリと聞き取る事は出来ないが、驚いたような手塚の声がぼんやりと耳に届いた。


「すまない。ちょっと眩暈がしただけだ。」

咄嗟に縋り付いた手塚の肩から手を離し、軽く頭を振っては目元を押さえる。
流石に寝不足と過労が祟ったらしい。
正直言ってまだ少しだけクラクラするが、さっきのように目前が真っ暗になるような事はもう無さそうだった。


、これは俺がやるからお前はもう帰れ!」
「今のならもう平気だ。寝不足なのは認めるけど、ただの軽い眩暈だから……。」
「帰れと言っている。」
「だから、帰りたくても帰れないんだ。これ以外にも仕事は残ってるんだからな。」


体勢を崩した際にズレた眼鏡を直して、は手塚の手にしている書類を手に取る。
こればかりは手塚に何と言われようと帰る気はなかった。
本来は一度手を付けた事はそのままに出来ない、最後まで終わらせないと気が済まないタイプで、この後も片付けなくてはならない仕事が山の様に残っている以上、それを投げ出して帰ろうなどとは思えなかった。


「………仕方ないな………。」


呆れたように小さく首を振って、手塚は再び溜息をついた。


「大石!」

手塚達の立っている直ぐ横のコートで菊丸と打ち合いをしていた大石を振り返り声を掛ける。

「悪いが、生徒会の方で緊急の仕事が出来た。後は任せる。」
「え?ああ、今度の学園祭関係か?」
「そうだ。すまないが後を頼む。何かあれば生徒会室にいるから来てもらって構わない。」

ラケットをしまい、後の指示を2・3出してから手塚はの方へ向き直り、の手にしている書類を取り上げる。

「お、おい!部活どうするんだ?!」
「今日の所は大石に任せる。」

突然の事に慌てたように問い掛けるにそう答えて、手塚は先に校舎に向かって歩き始めた。

このまま手塚が何を言っても、おそらくは首を縦には振らないだろう。
見た目以上にがガンコだという事は、ここ最近分かってきた事だった。


「いいから部活に戻れよ!」
「なら、お前も今日は帰るか?」
「そ、それは…っ!」
「お前が大人しく帰るつもりが無いなら、俺も部活に戻る気は無い。」


歩きながらそう答えて、手塚は隣を歩くを見やった。
手塚の答えに顔をしかめたは、それでも大人しく帰るつもりは無いらしく、仕方ないというように息をつく。
自身がガンコなのと同様に、手塚も一度こうだと決めた事は、よほどの事が無い限り覆す事は無い。
それがにも分かっている以上、これ以上抵抗しても無駄なのは明らかだった。



「「頑固者………。」」



ボソリと呟かれた言葉は、お互いの耳には届く事は無かった。
















生徒会室と書かれた部屋の前で足を止め、手塚は横に居るを振り返った。
基本的に生徒会室は、室内に誰も居ない時は施錠されている。
今日は他の役員は来ていないらしく、生徒会室には鍵が掛かったままだった。
手塚に促されたは、ズボンのポケットから生徒会室の鍵を取り出し、施錠されているドアノブに手を伸ばす。
鍵を回すと、カチャリという金属音が廊下に響いた。


「とりあえず、先にこれを押印してくれ。」


部屋の中に足を踏み入れたは、真っ先にそう言って会長用のデスクの上に先程の書類の束を広げた。
基本的に手塚の仕事はこの押印くらいだから、それさえ終わってしまえば手塚がここに居る理由は無くなる。
何のつもりで手塚が部活を切り上げてきたのかには分からなかったが、これ以上手塚の手を煩わせたくなかった。


「分かった。の方は他に何が残っているんだ?」
「ん?各部への最終決定の連絡書作成と、おおまかな予算の振り分け、印刷屋への見積り依頼のFAX、予備予算の集計…こんな所か?」

手塚の問いに一つ一つ指を折りながら確認していきながらはそう答える。
他にも終わらせなくてはならない仕事は幾つかあったが、とりあえず今の所急ぎのものはこれだけだった。


「そうか……ならお前は予算の振り分けからやってくれ。連絡書の作成と見積り依頼は俺の方でやる。」

「は?!何言ってる?」


突然の事には間の抜けた声をあげてしまう。

「その方が能率的だろう?」
「そういう事じゃない!これは俺の仕事だろう?!」

手塚の提案には激しく食って掛かる。
別に職権を侵されるとか、そういう事はどうでも良かったが、手塚の提案に素直に頷く事が出来ない理由がにはあった。

「こんな時くらい意地を張るな。少しは俺に頼れ。」

キッパリとそう言い切って、手塚はパソコンの前にさっさと腰を降ろしてしまう。
これ以上は、平行線のまま解決しない問答を続けるつもりは無かった。
いくら言っても聞かないを早い所休ませるには、彼が理由にしている仕事を片付けるしかない。
早々に作業に取り掛かってしまった手塚の様子に、これ以上何を言っても無駄だと理解したは、納得出来ないながらも渋々手塚の言う通り予算振り分けの書類に手を伸ばした。
















「こっちは終わったぞ。、そっちはどう………。」

書類の最後の一枚を押印し終えて重くなった肩を軽く回すと、手塚は斜め前で同じく仕事を続けていたはずのに声を掛けかけて、最後の言葉を飲み込んだ。

ペンを握ったままの状態で机の上に突っ伏してが静かに寝息を立てている。
肝心の仕事は既に終わっているらしく、横に置かれている未決済の箱の中に何枚もの書類が放り込まれていた。


「まったく…終わったのならさっさと帰れば良いものを……。」


呆れたように呟かれた言葉に反して、手塚の表情は酷く優しげに綻ぶ。
本当なら直ぐにでも帰らせて早く身体を休ませてやりたかったが、気持ち良さそうに眠るを起こすのは忍びなくて、手塚は自分の着ていたレギュラージャージを脱ぐと、起こさないよう注意を払って寝ているの肩にジャージを掛けた。



「お前は決して俺に弱みを見せようとはしないな…。」



腕の上に頭を乗せた状態で寝息をたてるの、額に掛かる前髪を掻き揚げて手塚はポツリと呟いた。


「俺ではお前を支えてやる事は出来ないのか………?」

「……………違うよ……。」

「っ?!?!起こしてしまったか、すまない。」


不意に聞こえたのくぐもった声に、手塚は慌てて手を引く。
手塚の呟きに小さく答えて、はゆっくりと机から身体を起こした。

「別に手塚に弱みを見せまいとしてたわけじゃない。」

どこか困ったような響きのの言葉に、手塚は僅かに困惑の色を浮かべる。
そんな手塚に自身も困ったように笑って見せると、座っていた椅子から立ち上がり、窓際に置かれている数人がけのソファへと腰を降ろした。
この時間、生徒会室の中でもっとも西日が差し込むこの場所は、かなり暖かく生徒会役員達もしばしばこの場所で休息を取る事がある。
そんな役員達の憩いの場所に腰を降ろすと、は大きく一つ伸びをして、背もたれに寄りかかるとフッと全身の力を抜いた。


「これ、ありがとな。」


ふと気付いて自分の肩に掛けられていたジャージを取る。
には少し大きめなジャージに残る手塚の温もりが、手塚がに向けている温かさだと分かる。
この、自分に向けられる温かさの分、自分も手塚に返したい…というのがの想いだった。




「俺、少しでもお前の役に立ちたかったんだ。俺には、こんな事位しか出来る事なんて無いからな。」




無言のまま差し出してくるジャージを受け取りの横に腰を降ろした手塚に、視線を向ける事無くは小さく呟く。
決してスポーツが得意ではない自分は、手塚が最も大切にしているテニスで手塚を助ける事は出来ないから、せめて自分の出来る事――頭脳労働しか出来そうも無かった――で、手塚の負担を少しでも減らしたかった。
何より、テニスに打ち込んでいる手塚の姿が好きだったから、それを妨げる事だけはしたくなかった。


「俺の…役に立つ……?」
「自分の出来る事でお前の役に立てる事って言ったら……こんな事位だろ?」

差し込む日差しがあまりにも暖かい所為か、伝えるつもりも無かった言葉が口をついて出る。
隣でじっと自分を見詰めてくる手塚の視線がくすぐったくもあったが、今だけはそんな事は忘れてしまいたいという想いが強かった。

「だから、別にこれ位大した事じゃないさ。俺がしたくてやってるんだからな。」

誤解しているであろう手塚の、その誤解を解いておきたかった。
決して自分は手塚に気を許していない訳ではないのだと。


「それで、こんな無理をしたのか?」
「まあ、そういう事になるかな?極力手塚には負担を掛けたくなかった。」


そこまで言っては目を閉じた。
隣に手塚が居るからか、酷く気分が落ち着いてきて、先程から少しずつ意識がぼんやりとしてきている。
心地良い空間に身を置く事は、リラックス効果があると聞いた事があったが、今の状況はまさしくそのものだった。



「お前、何も分かってないな…。」



ふと、手塚の声がすぐ近くでして、は段々と重たくなってくる瞼を開く。
うすぼんやりとした視界に映ったのは、顔を覗き込むようにして、の少し長めの前髪をゆっくりと掻き揚げる手塚の姿だった。
その眼差しは普段見慣れたものとは違い、優しげな光を湛えている。

「…手塚………?」
「馬鹿な事を言うな。お前、勘違いしているぞ。ここでお前に倒れられる事の方が俺にとってはもっと負担が大きい。」
「……そうだな、確かに一人でも人手が減れば負担は増える。すまない…。」

もっともな手塚の言葉に、は叱られた子供のように目を伏せた。
そんなの姿に、気付かれないよう口元を綻ばせて、手塚は俯くの肩をそっと抱き寄せる。
寂しげに表情を曇らせるを抱きしめたいという衝動に逆らう事が出来なかった。


「手塚?!」

「誤解するな、そういう意味じゃない。」


の体を抱きこんで、自分の肩口に寄りかからせると、手塚はそっと自分自身も目を閉じる。

「お前が倒れたら、気掛かりで部活も仕事も手に付かないだろう?」
「?!!」
「そうさせたくなかったら、少しは自分の身体の事も考えろ。」

そこまで言って、手塚は手にしていたジャージを再びの身体に掛けた。

「手塚……。」

何と答えて良いか分からず、はただ手塚の名前を呼ぶ事しか出来なかった。
手塚を支えようと思ったのは自分の方なのに、逆に手塚に支えられている自分が居る。
暖かなこの腕に甘えてしまっている自分が居る。
それは酷く心地良くて、このまま全てを委ねてしまいたいとさえ思う程に。
そして、そんな想いを手塚はこうして許してくれている。
はこれ以上無い位に幸せそうに微笑んで、猫のように自ら手塚の肩に頬をすり寄せた。



「なあ、手塚?」

「何だ?」



手塚の腕の中に身を委ねていたは、与えられる温かな温もりに段々とぼんやりとしていく意識の中で、自分を包み込む手塚のジャージをそっと抱きしめる。


「これ……手塚の匂いがする…。」
「俺の匂い?」

「ああ。俺、手塚のこの匂い好きだ……一生懸命目標に向かって…頑張ってる奴の…匂いだ……。」


段々と途切れ途切れに小さくなっていく声。
最後の方は殆ど聞き取れない程小さなものだったが、身体を触れ合わせている手塚にはハッキリと聞き取る事が出来た。

……。」

囁くようにして耳元で紡がれる言葉。
初めて口にしたの名前は思った以上に優しい響きを持って、手塚の口から零れ落ちる。
無防備に自分に全てを晒すをもう一度抱き寄せて、手塚は再び静かに目を閉じた。



「もう少し俺に甘えろとは……言っても無理なのだろうな……。」



苦笑交じりの手塚の声を最後に、は心地良い闇の世界に身を委ねる。
睡魔がを捉え完全に意識が途切れる寸前、温かな何かが額に触れたが、意識を手放したにはそれが何だったのか確かめる事は叶わなかった。




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