誰かの為に
「あれー?さん??」
山と積まれた書類を抱えて血盟城の無駄に長い廊下を忙しなく歩いていた――は、聞き覚えのある声に足を止め背後を振り返った。
「ああ陛下。陛下もこっちに来られてたんですね?」
声を掛けてきたのが眞魔国第27代魔王にして、地球ではのお向かいさん、渋谷家の次男坊でもある渋谷有利であることに気付いてにっこりと笑みを浮かべる。
笑顔を向けたの方へ軽い足取りで駆け寄ってくる有利の後ろに、護衛役でもあるウェラー卿コンラートの姿を認めると、はその柔らかな笑顔をコンラッドにも向けて小さく会釈した。
「お久しぶりですウェラー卿。」
「もこちらに来ていたのか。来ていたのなら顔を出してくれれば良かったのに。」
「すみません。色々と溜まっていた仕事があったもので……。」
コンラッドの言葉に苦笑しながら答えて、は有利の方へと視線を移す。
有利の表情から、コンラッドだけでなく有利自身も同様の思いである事に気付いたからだ。
「さんって、向こうではいつも仕事が忙しくて滅多に会えないんだから、せめてこっちに来た時くらい顔を見せて欲しいんだけどなー俺としては。」
「あー…申し訳ありません陛下。」
「それと!前にも言ったけど、その敬語と陛下ってのは止めてよさん。俺の事は昔から有利って呼んでくれてたじゃん?何かさんに敬語で話されると、すっごく違和感あるんだよねー。」
昔から家族ぐるみでの付き合いをしてきた有利にとって、はお向かいの家の穏やかで頼れる、優しいお兄さん的存在でしかないのだ。
にも魔族の血が流れており、諸事情の為に度々眞魔国と地球との行き来をしている事、眞魔国ではかなりの功績を立てている人物なのだと知った時は確かに驚いたけれど、有利の中では根底にあるのはという一人の幼なじみでしかない。
その為に、有利は未だに魔王と臣下という関係に慣れずにいた。
「えーとですね…。」
「にも立場ってものがあるんですよ。地球ではともかく、ここでははあなたの臣下。そう簡単に呼び捨てにするわけにもいかない。分かってあげなくては…ね?」
「そりゃあ分かってるけどさー……。」
納得いかないというようにぶすっ――と頬を膨らませる有利にコンラッドとは苦笑いを浮かべながら顔を見合わせる。
確かに魔王としてはまだまだ幼く未熟な面もあるけれど、身分や権力に縛られない、こういう所がたくさんの人々の心を惹きつけるのだろうな――とぼんやり思いながらは微かに口元を綻ばせた。
「そういえば何だか随分忙しそうだけど、どうしたの?何かあった??」
ふとの抱えている書類の山に目を向けて、有利が不思議そうに首を傾げる。
声を掛ける前に目にしたの後ろ姿が、妙に慌しげだった事を思い出したのだ。
「いえ、そういう訳では……さっきも言いましたが、ここ暫くこっちに来れなかったので色々と書類が溜まっていたみたいなんですよ。まあ、確かに緊急性のあるものは先にフォンヴォルテール卿なり、フォンクライスト卿なりに廻っているとは思うんですが。」
後回しにするとどんどん溜まる一方ですから早めに済ませませんと――そう言っては手元の書類に視線を落とすと小さく苦笑して見せた。
「へえ?さんって真面目だねぇ……。俺なんて夏休みの宿題とか、どうしても後回しになっちゃうタイプだからなー。早めになんて出来そうも無いや。」
「いえいえ。俺も夏休みの宿題はラストスパート型でしたよ?」
感心しきりといった様子でしみじみと頷いてみせる有利に、は困ったように眉尻を下げる。
何やら必要以上の過大評価をしてくれる魔王陛下は、かなりの誤解をしているようで、何とも心苦しい。
何とか誤解を解こうと、は動かせない手の代わりに小さく首を横に振って見せた。
そんなの素振りに驚いたように目を見開いて、有利は僅かに身を乗り出す。
「ええ~~?!じゃあ何で今は早めに終わらせよう……なんて出来る訳?!」
「そうですね……学生時代と違って今は仕事ですから。……それに責任のある立場にも……なりましたしね。」
有利の問い掛けに天井を睨みながら暫く考え込んでから、はポツリポツリと口を開く。
勿論それだけが理由ではないのだが、確かに己に課せられた責任の重さを自覚するようになったのは確かだ。
「あー…うん……責任ある立場…ね……。うわ~~~耳が痛いかも…………。」
責任の重さで言えば、よりも遥かに大きく重い責任を背負っている有利が、の言葉に僅かに顔を引き攣らせながら頬を掻く。
有利も決して責任をおろそかにしているつもりは無いのだが、いかんせん眞王に呼ばれる度に一方的に放り出されるしかない身ではどうにもならない事もあって。
軽い自己嫌悪に陥りそうになりながら、有利はガクリと肩を落とした。
そんな有利の姿に、は思わず小さく吹き出してしまう。
「うわ!笑う事無いだろ―!!」
「ああ、すみません。」
「ちぇー!!どうせ俺は無責任な魔王ですよ!!」
「そんな事ないですよ陛下。ね?ウェラー卿?」
ふて腐れ気味な有利の表情に、困ったようにコンラッドへと助けを求める。
それに小さく笑って、コンラッドはたしなめるようにユーリの顔を覗き込んだ。
「の言う通りですよ。皆、あなたの事を無責任だなどと思ってはいませんよ。」
「本当に?すぐ地球に帰っちゃうような魔王でも?」
「それは俺も耳が痛い話ですね。」
コンラッドの隣で無言で頷いていたが、有利の言葉に微かに口の端を持ち上げる。
も有利同様、常に眞魔国に居る訳ではないのだ。
流石に有利のように自分の意思と無関係…というわけではなかったけれど、地球に戻ってしまうという一点においては有利と何らたいして代わりは無い。
そんなに、有利はしまった――というように慌ててパタパタと勢い良く両手を振ってみせた。
「あ、いや別にそういうつもりじゃ……。」
「わかってますよ。……それにね、陛下?」
「?」
「俺も、責任感だけで仕事をこなすような真面目な男じゃないんですよ?」
そこまで言ってはおかしそうに破顔する。
それから一瞬だけコンラッドの方へ視線を向けてから、不思議そうに目を瞬かせる有利ににっこりと笑って見せた。
内緒ですよ?――そう前置きしてから。
「ウェラー卿の前でこんな事言うのもなんですが……早いトコ仕事を終わらせないと怒られてしまいますからね……怖い方に。」
「怖い方???」
「ですから、まあ仕方なく……という所もあるんですよ。」
だからそんなに過大評価しないで下さいね――そう言っては片目を瞑って見せる。
しかし、そのの言わんとする意図が理解出来ずに、有利は首を捻るばかりだった。
「怖い人??血盟城にそんな人いたっけ??」
「グウェンダルの事ですよ、ユーリ。」
何度も首を捻るばかりで全く気付かない様子の有利に、おかしそうに笑いながらコンラッドが口をはさむ。
「の仕事は軍務に関わる事が多いですからね。だから必然的にからグウェンダルに廻る書類が多くなるんです。恐らく今もグウェンダルに書類を届けに行く所だったんでしょう。」
そう言ってコンラッドはの方へ視線を向ける。
それに無言のまま小さく頷いては目を細めた。
「あー…そういう事ね………まあ、確かにグウェンダルに怒られるのは勘弁してもらいたい所かも………。」
「でしょう?ですから俺は陛下が思っているような責任感の強い真面目な奴などではないんですよ。そうですね…………あえて言うなら、フォンヴォルテール卿のような方の事を言うんですよ……責任感ある真面目な方というのは。」
だからこそ皆からも信頼されているのだろう――言葉にこそしなかったが、
そう内心で思いながらはグウェンダルの執務室がある方へと視線を向けた。
いつも眉間に皺を寄せ、不機嫌そうに見える表情を浮かべているのが常の、眞魔国の事実上の執政官。
グウェンダルが居るからこそ、彼が常に後ろに控えてくれているからこそ、この若き魔王陛下も何事も己の信念の赴くままに行動する事が出来るのだ。
勿論それは魔王たる有利だけではなく彼の弟達や、母親であり前魔王であったツェリ、そして自分達のような部下も決してその例に漏れなかったけれど。
そして――彼が執政官として有能であり、常にこの眞魔国の事を…ひいては眞魔国に住まう全ての者達の事を考えているからこそ、部下も国民達も彼に付き従う。
畏れられつつも、その一方でどこか慕われているのは、彼の外見には表れない人となりのおかげなのだと、にはそう思えてならなかった。
(だからこそ、少しでもあの方の負担を減らして差し上げられたら――なんて……まったく俺らしくも無い……。)
己の思考の世界に沈んでいたは自嘲気味に微かな笑みを浮かべると、ふるふると頭を振って湧き上がってきた感覚を振り払う。
そしてそのまま一つだけ息をついて、有利とコンラッドの方へ視線を向けると申し訳無さそうに眉尻を下げた。
「さてと、それでは俺はこの辺で失礼します。早い所書類を持っていかないと本当にフォンヴォルテール卿に大目玉を喰らってしまいますから。」
「ああ、うん。邪魔してごめんねさん。」
「いえ。それでは失礼します。」
柔らかに微笑んで小さく頭を下げると、はそっと踵を返す。
その後ろ姿を暫く見送っていた有利とコンラッドは、の姿が曲がり角の向こうに消えると、お互いに顔を見合わせた。
「………何かさ、ああは言ってたけど、グウェンダルが怖いから仕事してるって感じじゃなかったと思うんだけど……?」
う~ん…と小さく唸り声をあげながら有利は顎に手を当てる。
「そうですね。ユーリの予想は当たってると思いますよ。」
「コンラッドもそう思う?」
「ええ。仕方なく……ではないでしょうね。どちらかといえば自分から進んで…という感じでしょう。」
「だよねぇ?さん、嫌そうな顔…全然してなかったし。」
コンラッドの言葉に納得したようにうんうんと頷いて、有利はの姿の消えた方へと視線を向ける。
きっと今頃グウェンダルの所であれこれと忙しく動いているのだろう。
そんなの姿が容易に想像できて、有利はふわりと口元をほころばせた。
「まあ実際、がやらなくてはならない仕事以外のものもかなり含まれていたようですから。本当ならグウェンダルに直接廻るものが大半みたいでしたし。」
先刻が手にしていた書類の山の事を思い出して、コンラッドは微かに微笑む。
どう贔屓目に見ても、コンラッドの目には嫌々というよりグウェンダルの手を煩わせないために自ら進んで先に仕事を片付けてしまおうとしているようにしか映らなかった。
「う~ん……結局の所、さんが変わった理由って何になるんだろ?責任感でも真面目さでも怒られるのが嫌だからでも無さそうだし?」
「………そうですね…………つまり、人は自分の為ではなく人の為になら己を変える事が出来る……という事じゃないですか?」
そう言ってコンラッドは静かに微笑む。
「人の為?」
コンラッドの言葉に、有利は一瞬だけ目を見開く。
「ええ。大切な誰かの為に――。」
「………………………そうだね…………。」