母を早くに亡くし、孤独と悲しみの世界に落ちていた俺の心に光を取り戻してくれた、何よりも大切な義弟が。
この存在を――俺の全てで守ろうと思った。
俺をこの世界に留めてくれた愛しい弟の為ならば全て差し出しても構わない。
そう、俺の生きる世界をくれた清十郎の為ならば――。
あるべき世界
空港からの道すがら、タクシーの窓越しに流れる景色をボンヤリと眺めながら俺――進は小さくため息を零した。
数年ぶりに戻った日本。
その故郷はほんの数年の間にも俺が思っていた以上に大きく様変わりしていて、俺は改めて離れて過ごしていた時間の長さを思い知らされる。
この景色のように変わっているのだろうか。
俺の生きる世界そのものでさえあった愛しい存在……清十郎も。
当然の事だと頭では分かっているのに、でもそれがますます二人の距離を感じさせて溜め息は大きくなるばかりだった。
「清十郎………。」
ポツリと零れ落ちた言葉はタクシーのエンジンの音に掻き消されていく。
けれど、その言葉のもたらす響きが残すのは暖かな想いで。
俺は改めて俺の中でどんどんと大きくなっていく清十郎の存在を感じていた。
どれだけの間そうしていただろうか?
己の心の中の想いに暫く目を伏せてから、何の気なしにふと窓の外の景色に意識を向ける。
「ここは……。」
遥か先までキラキラと夕陽を弾いている一面の水面。
日本に居る間、よくロードワークで走っていた川べりの遊歩道が視界に入って、俺は数回目を瞬かせた。
「ここは……変わらないな………。」
懐かしい景色に、知らず口元が綻んでしまう。
まだ家まではかなりの距離があったけれど、俺は湧き上がる懐かしさを抑えきれずタクシーを止めると、静かに水面を揺らす川べりの道に降り立った。
5年前――この地を離れるまで毎日のように走っていたこの道。
そして、そんな俺の後を少し遅れて必死に追いかけてきていた清十郎。
まだ小学生だった清十郎は、あの強い光を宿す瞳で、いつもまっすぐ俺を見据えていた。
「よく二人で走ったっけ……。」
今にも向こうから小さな足音が聞こえてきそうで、俺は夕陽の沈みかけた道の先へと静かに視線を向けた。
楽しそうに笑い声を上げながら走り去っていく自転車の子供達や、部活帰りの中学生達の中に、あの頃の清十郎の姿を探して目を細める。
本当は分かっているのに、離れていた時間を取り戻したいという思いが、俺の中であの頃の清十郎を求めてしまう。
いや、本当は怖いだけなのかもしれない。
俺の知らない清十郎。
俺が知らない間の清十郎の世界を目の当たりする事が。
そして、それだけの距離が出来てしまった現実を受け入れる事が――。
「それでも……俺は………。」
それでも側に居たいという想いの方が恐れを上回っていて。
こうして戻ってきてしまったのだ。
「バカみたいだ…俺……。」
自分で決めて自分で選んだ事なのに、こうなる事は分かっていたはずなのに。
戻ったら戻ったで離れていたという現実に打ちのめされそうにしまいそうになる。
もう自分を追いかけていた幼い子供ではない清十郎。
そんな清十郎に、離れていた自分が受け入れられるか分からない。
それが何より恐ろしかった。
「清十郎……。」
会いたいのに。
会うのが怖い。
矛盾した、どうにも出来ない己の中の想い。
情けなくて苦しくて、自然と目頭がじんわりと熱くなっていく。
いい歳をして情けないと思うのに、涙腺は自分の思いに正直で。
滲んでいく涙の雫で、目の前の景色が少しずつボンヤリと歪んでいく。
「清十郎…っ!」
頬を伝って流れ落ちる涙が一粒、地面に落ちて小さく弾けた。
「兄さん―――?」
ふと――後ろから思いもしなかった低く落ち着いた声が掛けられて。
「―――っ?!」
俺はその場でビクリと肩を大きく震わせる。
「…………兄さん?」
低く耳に心地良いこの声。
走り込んでいたのだろうか?
少し荒い息の間から零れ落ちる俺の名前。
ありえないと思いながらも、俺を兄と呼ぶのはたった一人しか居なくて。
「兄さん…でしょう?」
俺は信じられない現実に振り向く事も出来ず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
「兄さん?」
「せ、清十郎……?」
振り向きもしない俺に訝しげな声が向けられる。
けれど、俺の身体はまるで硬直してしまったかのようにピクリとも動かなくて。
俺は言葉を搾り出す事すらままならない有様だった。
「どうかしましたか?兄さん?」
ゆっくりと近付いてくる、あの頃よりも強く大きくなった足音と共に、心配そうな声が掛けられて俺はフルリと小さく身震いした。
そうなのだ。
清十郎はこういう人間だったじゃないか。
たとえ俺が理不尽な反応を見せたとしても、こうして俺を心配してくれる。
表情は豊かではないけれど、いつもまっすぐに俺を見つめてくれた。
どんな時でも俺を追いかけてきてくれた。
側に居てくれた。
強く暖かく、優しい――それが俺の清十郎だった。
「清十郎……俺……っ!」
必死に振り絞った俺の声は掠れていて。
けれど、それをどうにかしようという思いはすぐに掻き消えてしまう。
「――――――っっ?!!」
だって仕方が無いだろう?
何の前触れも無く、逞しい両腕が後ろからフワリと俺の両肩を包み込んで、俺は清十郎の腕の中に閉じ込められてしまったのだから。
「兄さん?」
小さいけれど、ハッキリとした声が静かに俺の耳をくすぐる。
その声に、俺は収まっていたはずの涙が再び込み上げてくるのを、どこか遠い事のように感じていた。
「清…十郎っ………。」
兄だからとか、歳が離れているからとか、そんな事どうでも良かった。
ただ、この触れる温もりが清十郎なのだという現実が、今まで抑えこんでいた寂しさ、苦しさ、切なさ…そして清十郎への愛しさの全てを解き放っていく。
不安も恐れも何もかもが清十郎の声と温もりにかき消されていって。
俺は、今は俺以上に力強くなった清十郎の腕にそっと手を伸ばす。
こうして側に感じられるだけで充分だった。
「清十郎…会いたかったよ……。」
「……俺もです……兄さん。」
背中越しに伝わる清十郎の鼓動と温もり。
やっとここへ帰って来れた。
俺が俺で居られる場所。
俺のあるべき世界へ――。
「おかえり…………兄さん………。」
振り返った俺の瞳に映ったのは、精悍な顔にあの頃の優しさを滲ませた、初めて見る清十郎の大人びた微笑みだった。