憧れ
俺、が今年入学した不動峰中学のテニス部は、部員が極端に少ない事で有名だ。
何たって大会出場枠ギリギリの人数しか部員が居ないのだから、それも仕方ない話だと思う。
それもこれも、全ては一年前の出来事が発端になっている。
ハッキリとした事は知らないけれど、1年前くらい前に部員が暴力事件を起こしたとかで、その後の試合は全て出場停止になり、テニス部はさんざん新聞や週刊誌に叩かれたらしい。
でも、そんな中で部長である3年生の橘先輩を中心に、橘先輩と2年生の先輩達数人が新生不動峰テニス部を立ち上げて、今に至っている。
だからだろうか、新しいテニス部を作った先輩達以外の部員の姿を見る事は無く、練習している姿を見かけるのは、いつも同じ先輩達の姿だけだった。
それが部員が少ない何よりの証。
「なあ、はもう部活決めたか?」
ホームルームが終わってザワつく教室内を、何をするでもなくぼんやりと見ていた俺に、前に座っていたクラスメイトが声を掛けてくる。
俺はそのクラスメイトの何気ない問いに答えるのを暫し躊躇った。
答えると、きっとある事を言われるに決まっているから。
もう、入学してから何度も同じ経験をしたから大体想像がつく。
それでも俺はうやむやにする事が出来なくて、結局自分の思いを正直に口にする。
きっと、また同じ事を言われるんだろうな――と内心では思いながら。
「ああ、うん……テニス部に入ろうかと思ってるんだ。」
「テニス部?!本気かよ?!テニス部って去年暴力事件起こした奴がやってるんだろ?」
…案の定、このクラスメイトも他の奴と同じ事を言う。
分かっていた事とはいえ、予想通りで少しうんざりする。
でも、俺はもうそんな事はどうでも良かった。
他の誰が何と言おうと、俺の目には毎日必死に頑張ってるあの先輩達が、噂通りの先輩達にはどうしても見えなかったから。
入学してから毎日遠くからテニス部の練習を見てきたけど、本当に先輩達はテニスが大好きで、テニスを大切にしてるんだなーと思う。
だから、俺は、テニスなんてした事はなかったけれど、そんな先輩達と一緒にテニスがしたいと思ったんだ。
「やめた方が良いんじゃないかー?」
嫌そうに眉を寄せるクラスメイトに小さく笑って、俺は席を立つ。
俺はロッカーから鞄を取ると、必要な物だけを詰め込んで、蓋を閉めた。
やっぱり、入部届けを出しに行こう。
いつまでもこうして、うだうだと悩んでいても何も始まらない。
そう決意して再び座っていた椅子から立ち上がる。
俺は鞄の中にしまい込まれている、既に記入済みの入部届けを持って、テニス部が練習しているであろうコートへと歩き出した。
スパーンというボールの当たる気持ちの良い音がテニスコートに響く。
俺はその規則正しい音をどこか遠くに聞きながら、素振りの手を止める事無く目の前のコートに視線を向けた。
俺の目の前のコートでは、伊武先輩と神尾先輩が軽い打ち合いをしている。
その、みごとなリターンの応酬にみとれながらも、俺は思わず小さく溜息をついてしまった。
「俺、何かしたのかな?」
内心ドキドキしながら、それでも覚悟を決めてテニス部に顔を出した俺を待っていたのは、思っていた以上に優しい先輩達の応対だった。
俺が思った通り、テニス部の先輩達は噂されているような乱暴な先輩なんかじゃなくて。
初めての新入生部員だという事もあったのか、緊張していた俺を3年生の橘先輩をはじめ、皆笑顔で暖かく迎えてくれた。
ただ一人、2年生の神尾アキラ先輩だけを除いて。
「怒らせるような事しちゃったのかな…。」
「誰を怒らせたんだ?」
誰に言うでもなくポツリと呟いた言葉を、いつの間にか隣に来ていた橘先輩が聞きとがめる。
ニコリと笑いながら俺を見下ろす橘先輩の笑顔が優しくて、俺は照れたように先輩の顔を上目遣いに見上げた。
「えっと……いや、何か俺、神尾先輩怒らせるような事しちゃったかな……って。」
「神尾を?」
「はい……。」
「何でそう思うんだ?」
俺の言葉に、分からないと言うように眉を寄せて橘先輩が俺の顔を覗き込む。
「あ…さっきの自己紹介の時、何かずっと俺の事見てたみたいで…何ていうか…その……もしかして睨まれてるのかなって……。」
どう言ったら良いか分からず戸惑いながら、それでもきちんと話を聞こうとしてくれている橘先輩に悪くて、しどろもどろになりながら俺は言葉をさがした。
聞きようによっては、告げ口のような感じも受ける俺の言葉を受けて、橘先輩は驚いたように目を見開く。
「は、神尾が怒ってると思ったのか?!」
「はぁ…神尾先輩だけずっと無言だし、気付くと俺見られてる気がするし…。」
こうして自分で口にすると、何だか余計に気分が落ち込んでくる。
どうして神尾先輩だけ俺を見る目が違うのか、さっぱり分からなかった。
そう、何故だか神尾先輩だけは、笑顔で迎えてくれた他の先輩達と明らかに様子が異なっていた。
緊張したまま頭を下げた俺がおそるおそる上目遣いに顔を上げた時は、穴が開いてしまうんじゃないかと思う程じっと凝視されてしまったし、かと思えば俺が見返すとすぐに視線をそらしてしまう。
俺が他の先輩と話している間も、痛いほどの視線を感じていた。
俺が視線を合わせようとすればそらされてしまうし、俺が別の事をしていると痛いほどの視線を感じる。
そんな事を何度も繰り返されて、俺はようやく神尾先輩が俺を気に食わないと思ってるんじゃないか――という事に思い至った。
そりゃあ、人間なんだから相性とかあるかもしれないけれど、出来れば先輩達とは仲良くやっていきたい。
俺は入部早々いきなりぶち当たってしまった障害に、橘先輩の前だという事も忘れて、深くうなだれてしまった。
「…………仕方ないな……。」
しばらく黙って俺の話を聞いていた橘先輩が、やれやれといったように大きく溜息をつく。
困ったような――というより、どこか呆れたような感じで、橘先輩は伊武先輩と打ち合いをしている神尾先輩の方へと視線を向けた。
俺の頭の上に手を乗せた橘先輩の大きな手が、なだめるようにポンポンと2・3回俺の頭を撫でる。
「先輩?」
その橘先輩の行為の意図が分からずに、俺は首を傾げてしまった。
そんな俺にそっと目を細めて、橘先輩は口元をほころばせる。
そして、そのままコートの方へと視線を戻すと、ゆっくりと口を開いた。
「神尾!ちょっと来い!!」
俺の頭に乗せた手はそのままに、橘先輩が打ち合いを続けていた神尾先輩を呼ぶ。
その声に気付いた神尾先輩は、打ち合いの手を止めて伊武先輩にボールを放ると、俺と橘先輩の居るコート脇のベンチへと足を向けた。
橘先輩のとったその行動に、俺は心臓が跳ね上がるかと思う程驚いて、隣に立つ橘先輩を見上げる。
(何で?何で?何でぇ~~~?!)
俺の頭の中を表すのは混乱の一言だった。
確かに神尾先輩の様子だけが違うとは言ったけれど、まさかそれを面と向かって言うつもりなんだろうか?
そんな事を言ったら、ますます気分を悪くするとしか思えない。
俺は内心で悲鳴をあげながら、ゆっくりとこちらへ近付いてくる神尾先輩を見やった。
「神尾、そろそろ石田と代われ。」
「え?もう?さっき始めたばかりですよ、橘さん?」
少し不満そうに神尾先輩が頬を膨らませる。
「そう言うな。練習方法を少し変えてみようと思ってな。お前はと一緒に体育倉庫へ行ってカラーコーンを10個探してきてくれ。」
神尾先輩の言葉に苦笑すると、橘先輩は隣の俺の頭を一度だけ軽く叩く。
その言葉に、俺だけでなく神尾先輩も驚いたように目を見開いて、橘先輩を凝視した。
「おっ、俺がっ?!」
どこか上擦った声が、神尾先輩の動揺具合を表してるようだ。
「ああ。きちんと10個探して来いよ?」
チラリと俺の様子を見てから、有無を言わせない…というのは、こういう事を言うんじゃないかと思う程キッパリと言い切って、橘先輩は神尾先輩をじっと見据えた。
流石の神尾先輩も、橘先輩の言葉は絶対なんだろう。
しばらく呆然とした後小さく溜息をつく。
「…わかりました……。」
「よし!も…良いな?」
「あ…はっ、はいっ!」
俺と神尾先輩の返事に満足げに笑みを浮かべて、橘先輩はそっと目を細めた。
(ううう~~~よりにもよって何で神尾先輩となんだよぉ~~っ!)
前を歩き始めた神尾先輩のすぐ後ろを歩きながら、笑顔で俺達二人を送り出した橘先輩を振り返る。
不安そうに振り返った俺に気付いた橘先輩は、微かに表情をほころばせて小さく頷いてみせた。
まるで大丈夫だと言わんばかりに。
俺は前に向き直ると、無言のまま俺の前を歩く神尾先輩の俺より少し大きい背中を見詰めて、溜息をつくしかなかった。
「うわあ~~…この中から探すんですか?!」
俺は目的地である体育倉庫の前に立ち尽くして絶句してしまった。
体育用具、それも実際使われているのかどうかも怪しいような、ホコリをかぶった体育用具の山、山、山……。
こんな中から肝心のカラーコーンを見つけなくてはならないなんて、正直頭が痛い話だった。
探そうにも、倉庫の中は真っ暗で、その上足の踏み場も無いほど乱雑に散らばった用具類が邪魔をして、そう簡単に探し出せそうも無い。
あまりといえばあまりの状況に、俺は仕方なく隣で俺同様呆然としていた神尾先輩の横顔を見上げた。
「…どうします?先輩?」
「どうするって……やるしかないだろ。」
俺の視線に気付いた神尾先輩が横目でチラリと俺に視線を向ける。
けれどそれもほんの一瞬の事で、すぐに目の前に広がる惨状に視線を向けると、ホコリまみれの用具の山に手を伸ばしてしまった。
どこかぎこちない、その素振り。
自己紹介の時と同様、俺と関わるのを避けているのかと思ってしまうような先輩の態度は、やはりここでも変わらなかった。
(やっぱり俺と一緒なの…嫌なのかな……。)
ガサガサと音を立てて動く神尾先輩の背中をぼんやりと見詰めながら、俺はその場に立ち尽くしてしまう。
(俺…嫌われてる……?)
そう思うだけで、胸のあたりが締め付けられるような感じがして、俺は知らず知らずのうちに胸元をぎゅっと握り締めていた。
神尾先輩自身は決して悪い人なんかじゃない。
それは俺もよく分かっているつもりだ。
そうでなければ、2週間前に俺が目にした光景、その出来事は起こり得るはずなどないから……。
その日、入学したばかりの俺は提出物を家に忘れてきてしまっていて、放課後一度家に帰ってからもう一度学校に戻ってきていた。
その時の俺は、かなり急いでいたから普段なら通る事の無い人気の余り無い校舎裏の道を通って、担任の待つ教室に向かっていた。
そして偶然にその現場を見てしまったんだ。
2年生らしい5・6人の男子生徒に囲まれている新入生の姿を。
どう見たってそれは良い雰囲気じゃなかったし、新入生らしい奴の顔は恐怖に歪んでいたから、俺はすぐにそれが絡まれているんだと分かった。
けれど、しょせん俺も新入生。助けに入ろうにも俺じゃどうにも出来そうもない。
かといって見過ごす事など考えられなかったから、俺は急いで職員室に行こうと方向を変えた。
しかし、そのまま何歩も歩かないうちに、それは俺の耳に飛び込んできた。
『何してんだよ、お前ら?!』
よく通る透き通った力強い声。
その力強い声に、俺は走り出そうとしていた足を止めた。
振り返ると、絡まれている奴を庇うように一人の男子生徒が、厳しい表情で取り囲んでいる2年生達を睨みつけている。
『か、神尾……?!』
『下級生イジメかカツアゲか知らねーけど、見過ごせねぇな。』
『おっ、お前には関係ねーだろっ?!』
『確かにな。じゃあ、好きにしろよ。その代わり俺も好きにさせてもらうぜ?野球部の奴らが新入生カモにしてるって言うのも俺の自由だよな。』
厳しい表情のまま神尾先輩は、野球部らしい2年生達を見回す。
その堂々とした姿、圧倒的な迫力に、野球部の連中だけでなく、離れて事の成り行きを見守っていた俺自身も息を呑んでしまった。
決して体格が大きいわけでも無いのに、神尾先輩はその場の誰よりも大きく力強い存在感を放っていた。
神尾先輩の迫力に気圧されたのか、それともイジメを報告すると言われたからなのか、野球部の連中は暫くの間ブツブツと不満を漏らしていたようだったが、やがてそれも諦めたのか捨てゼリフを残してその場を去っていく。
その後ろ姿が完全に校舎の向こうへ見えなくなるのを確認してから、俺はホッと胸を撫で下ろした。
もし神尾先輩までもこの騒ぎに巻き込まれるようなら、急いで先生を呼びに行かなくては――と思っていたから。
神尾先輩は暫く野球部の2年生達が去っていった方を睨んでいたが、小さく息をつくと固まったままの新入生に声を掛ける。
『大丈夫か?』
その声は、野球部の奴らに向けられていたのとは全く違うものだった。
神尾先輩は、嬉しそうに涙目で何度も何度も頭を下げる新入生に、頬を掻きながら照れ臭そうに笑ってみせる。
その笑顔はとても誇らしげで、頼もしくて、俺は眩しいものでも見るかのような感覚をおぼえた。
何でもない事のようにそうしてみせる神尾先輩のその姿を目にして、俺は感動で震えが身体中を駆け抜けたのを、今でもハッキリとおぼえている。
男らしいとか、カッコいいとか色んな表現があるけれど、そんな言葉より一人の人として大きな人だと思った。
その数日後の事だった。神尾先輩がテニス部に所属していると知ったのは。
だから、その時がテニス部に入部しようと思った最初のきっかけかもしれない。
そう……神尾先輩がいるから、テニス部に入ろうと思った――そう言っても決して過言ではなかった。
だから、そんな神尾先輩が俺を見る目だけが違う、俺に対する態度がぎこちないというのは、きっと俺自身に何か原因があるんだろうと思う。
でも、それが何故なのか俺には全く見当がつかなかった。
俺は神尾先輩に気付かれないよう、小さく溜息をついて目を伏せる。
何だか自分自身で思っている以上に落ち込んでしまいそうだった。
「おい、……。」
「………えっ?!あっ、はいっっ!!」
ボーっと考え込んでいた俺は、不意に掛けられた声にビクリと跳びあがる。
顔をあげると、神尾先輩がすぐ近くで俺を見下ろしている。
まさか神尾先輩の方から俺に声を掛けてくるとは思いもしなかったから、周りを確認する事もせず慌てて先輩の方へと足を踏み出してしまった。
「わわわわわっっっ?!!」
慌てて動いたせいで、床に無造作に転がされていた鉄棒に気付かずに、それをおもいきり踏みつけてしまう。
その鉄棒に足を取られて、俺はグラリと大きく体勢を崩してしまった。
(倒れるっ!)
瞬間的に目を閉じた俺の身体に緊張が走る。
「おっと………!」
前のめりに倒れこんだ俺を、神尾先輩の力強い腕が、間一髪抱き止めてくれる。
そのおかげで、俺はホコリまみれのマットの上に顔面からダイブするのを免れる事が出来た。
「おい、大丈夫かよ?」
「すっ、すいませんっっ!」
一瞬何が起こったのか分からず、無意識に神尾先輩の腕に縋り付いてしまった俺は、先輩の声にはっと我にかえって慌ててその身を起こす。
俺は自分でも火が噴いたんじゃないかと思う程顔が真っ赤になってしまっていた。
焦りと恥かしさと驚きと…色んな感情が入り乱れて頭の中がパンクしそうだ。
「ありがとうございましたっ!!」
俺はあたふたとしながら、頭が膝に着くんじゃないかという位に大きく頭を下げた。
(あああ~~情けない~~~~っ)
こんなマヌケな所を神尾先輩に見られてしまった上に、先輩に助けられてしまうなんて…。
これじゃ、益々俺の印象は悪くなっていく一方だ。
俺は自分のマヌケさ加減を今日ほど恨めしく思った事は無かった。
「あ……ああ、気を付けろよ…。」
俺の慌てっぷりに、いささか面食らった感じで神尾先輩が応える。
いつになくじっと俺を見下ろしていた神尾先輩は、しばらくすると俺から視線をそらして、何故か今度は自分の両手をじっと見詰め始めた。
(俺って奴は~~絶対に呆れられてるよ……。)
いつまでも自分の手を見たままの神尾先輩の様子に、俺は情けない気持ちのまま目を閉じる。
これ以上神尾先輩に悪い印象を持たれる前に、少しでも何とかしなければ。
(よし!こうなったら少しでも良い所見せなくちゃ!!)
いつまでも情けないままの後輩なんかじゃいられない。
俺は内心でぐっと気合を入れてから、不安を振り払うように大きく首を振ると、肝心のカラーコーンを探すべく、再び閉じていた目を開いた。
と、気合を入れて目を開けた瞬間、不意にポトリと何か黒い塊が目前を横切る。
「え?」
何気なく落ちてきたものを確認しようと足元に視線を落とす。
その瞬間、視界に映ったその黒い塊を目にして、俺は顔からすーっと血の気が引いていくのが分かった。
俺がこの世で最も苦手とする「それ」。
「わあああああああっっっっっ!!!!」
俺はあまりのショックに、勢い余って今離れたばかりの目の前の神尾先輩に抱きついてしまう。
もう、なりふりなど構っていられなかった。
「なっ!何だあっ?!」
「くっ…蜘蛛ぉ~~~っっ!!」
俺は涙目で、ぎゅっと神尾先輩の腕に縋り付く。そう……俺が見たのは5センチ位の大きさの真っ黒な蜘蛛。
情けない話だけど、俺は蜘蛛が大の苦手だ!!
というより、もう苦手という域を遥かに越えている。
中学1年にもなってこんなじゃ本当に情けないとは思うのだが、やっぱりこればかりはどうにもならない。
俺は落ち着かなくては…と思う心とは裏腹に、ガタガタと震える身体を抑える事が出来なかった。
「おい、大丈夫かよ?」
ぎゅっと抱きついたまま離れない俺に、神尾先輩が心配そうに声を掛けてくる。
それでも俺は全く動く事が出来なくて、無言のまま小さく首を横に振った。
喋る事も出来ないし、足がガクガクして動く事も出来ない。
正直言って今にも膝の力が抜けそうだった。
「もしかして…蜘蛛がダメなのか、は?」
足元に視線を落とした神尾先輩が、俺の顔を覗き込んでそう問うてくる。
その問いに俺は首を縦に振る事でしか答える事が出来なかった。
あまりのショックで、声が詰まって出てこない。
こんな事は以前にも何回かあったが、人前で、それも神尾先輩の前でこんな姿を晒す事になるとは思いもしなかった。
「そうか…でも、ほら…もう何処にもいないぜ?心配ないって。」
そう言って神尾先輩は俺を安心させるように笑ってくれた。
(あ………神尾先輩笑ってくれた……。)
先程まで俺が目にしていた神尾先輩は別人だったんじゃないかと思う程に優しい声。
それは、あの新入生を助けた時よりも暖かく優しい声だった。
「……せ……ぱ…い………。」
ガタガタと震える俺の背中を何度もさすってくれる大きな手がとても温かい。
そこから俺の不安とか恐怖を取り除こうとするかのように、神尾先輩は静かに俺の背中をさすり続けてくれた。
「とりあえず落ち着け。大丈夫か?深呼吸してみろよ。」
震えの止まらない俺の様子に、神尾先輩が心配そうに顔を覗き込んでくる。
言われるままに、俺は先輩に身体を支えられながら、出来る限り大きく息をはいた。
吐き出した息と一緒に少しづつ恐怖や胸のつかえ、モヤモヤした想いが洗い流されていくような気がする。
そんな風に何回か深呼吸を繰り返していくうちに、俺はやっとの事で自分の身体を襲う震えを抑える事が出来るようになっていた。
「もう平気か?」
「……はい………。」
「無理しなくていいからな?もし辛かったら少し外で休んでるか?」
変わらず背中をさすり続けてくれている手を止めて、神尾先輩が倉庫の外を指差す。
それでも俺は先輩の言葉に無言のまま小さく首を横に振ってみせた。
確かにこのまま外に出てしまえば又蜘蛛に出くわす事は無いだろうけれど、気遣ってくれる神尾先輩には悪いが、こんな情けない姿を晒した後で、その顔を日の下で見られるのは耐えられそうも無かった。
だって、きっと今の俺は誰よりも情けない顔をしている筈だから。
これ以上神尾先輩に情けない姿を見られたくないから。
これ以上……嫌な奴、ダメな奴だと思われたくないから――。
だからこの暗い空間が、今だけは少しだけありがたいものに感じられた。
「分かった。じゃあ、もう少し落ち着くまで…な?」
そう言って神尾先輩は、安心させるように微かに笑って、再び俺の背中をその少し大きな手でさすってくれる。
何も言わず、嫌な顔ひとつ見せずに。
俺はその優しさ、暖かさが嬉しくて、不覚にも、もう一度込み上げてくる涙を抑える事が出来なかった。
「おいおい!まだ恐いか?!それとも辛いのかよ?!!」
急に泣き出した俺に、今度は神尾先輩の方がうろたえ始める。
そんな神尾先輩の声を聞きながら、俺はこぼれる涙を拭おうと何度も目頭をこすった。
けれど、俺の涙腺は、まるで壊れてしまったかのようで、拭っても拭っても溢れる涙が後から後から溢れ出して止まらない。
ポロポロと頬を伝う涙の雫が、いくつも零れ落ちてTシャツを濡らした。
「やっぱり恐いのか?!」
どうしたら良いのか分からないといったように、神尾先輩が俺の顔を覗き込む。
「ちっ…ちが……っっ!」
違うんだ――と言いたいのに、込み上げてくる嗚咽で言葉が出ない。
しゃくりあげる俺を何とかなだめようと、神尾先輩はさっきよりも優しく俺の背に手を添えてくれる。
そんな先輩にこれ以上心配を掛けたくないのに、込み上げてくる涙は俺の意志とは無関係に溢れる一方だった。
「~~~泣くなよ~~~!」
心底困ったように神尾先輩が頭を抱える。
「ごめ…っ…な……さ……っ」
今の俺には、そこまで言うのが精一杯だった。
「あ、いや…だから、謝るなよ!」
「……っく………ごめ……。」
「だから、謝んなくていいって!」
そう神尾先輩は言うけれど、俺は謝るしか出来なかった。
こんなに先輩に心配掛けて、その上俺なんかにここまでしてくれるのに。
嬉しいと思う気持ちと、申し訳ないと思う気持ちとがゴチャ混ぜになって、やっぱり俺は涙を止める事が出来なかった。
「ああっ!もう!だからっっっ!!!」
泣き続ける俺の姿に途方に暮れたようにガリガリと頭を掻くと、神尾先輩はぐっと勢い良く俺を引き寄せて、その力強い腕の中に俺の身体を抱き込む。
「…っ?!」
「…だから…………………………泣くな……。」
神尾先輩の手が俺の髪を撫でていく。
本当に優しく、暖かく、頼もしい温もり。
神尾先輩の優しさが身体越しに伝わってくるような気がした。
「男だろっ?!」
ぶっきらぼうな言葉とは対照的に、髪を撫でる神尾先輩の手は、やっぱり俺を癒してくれるほど優しく暖かい。
俺は突然の事に呆然と抱きしめられたまま、いつか、こんなに強くて大きくてカッコ良くて優しい先輩のようになりたいと思った。
先輩のように強くて優しい、大きな男に。
いつか、神尾先輩の隣に立っても恥かしくない位の男に。
「先輩…………っ!」
俺の頬を再び熱い雫が零れ落ちていく。
嬉しい時の涙は暖かいことを知った――。
「それにしても遅いな…神尾とは…。」
「呼びに行きますか?」
「いや、その必要は無いだろう深司。放っておけ。」
「……何だか楽しそうですね…橘さん……。」
「そうか?いや、世話が掛かる奴だと思ってな。」
「アキラの事ですか?」
「…………二人とも……だな。」
「……………二人?アキラの方は、おもいっきり意識してましたね。の事……。」
「そうだな…みえみえというか、バレバレというか……。あそこまで露骨なのも、見てる方が恥かしくなってくる。」
「相当の事、気に入ったみたいですね……。」
「今頃、二人きりで緊張しまくっているだろうな、神尾は。」
「………………………………。」
「だが、の方は全く気付いてないな。それどころか、嫌われてると思ってるぞ、あいつは。」
「……あれに気付かないなんて、相当ニブイ………。」
「ああ。あの様子では、いつまでたっても報われんな…。」
「………。」
「…………何と言うか…神尾の前途は多難だな………。」
「そうですね………。」