DOWN

ふたりで生きる

 心地よい風が頬を撫でていく。
 この山は、サツキにとって大学のサークル仲間にも教えていない穴場だった。良く知らない者は頂上付近へ続く獣道のような唯一の抜け道を、見つけることなどできない。風も芝の短い斜面の角度も申し分ないのに、今日も貸切状態。
 ただ、少し風が強い気がしたが、どうしても飛びたかった。そういう気分だった。
 いい風が吹いたのを見計らい、走り出す。断崖絶壁に向かって駆け下りるように。
 ふわり、と一瞬の浮遊感があって、次の瞬間から自分の体重をずしりと感じる。雲のまばらな空に黄色と赤のパラグライダーが舞った。崖が遥か足元を過ぎていく。足が地に着いていない感覚が少し心細いが、それ以上の解放感と視界一杯に広がる世界の広さがサツキは好きだった。
 ――まるで、別の世界に来たみたい。
 日常の色々なわずらわしいことも、空には届かない。失ったものとも、いつか巡りあえる。届かないものにも、同じ空でつながっている。
 ――癒されるって、こういうことなのかしら。
 そんなどこか温かい思いが心の奥から湧いて来たとき、不意に、横から強い風が叩きつけた。
「あ」
 それだけが口をついて出て見上げた目に、ねじれたロープが映った。

 気がつくと、木の枝からぶら下がっていた。少し焦って、こういうときはナイフでロープを切るのが常よね、と思うものの、見下ろしてみるとロープは割りと高い位置に引っかかったらしく、下の枝葉の隙間からのぞく大地は遠い。
 周囲にも、同じような高さの木々が並んでいる。この林の外からは見えないだろう。少なくとも、地上の者には。
 サツキは携帯電話を置いてきたことを後悔する。いつもなら安全第一で携帯電話は常に持ち歩くし、そもそも、こんな風の強い日には飛ぼうとしない。でも、今日は日常のあらゆるものから遠ざかりたかった。だからあえて、誰からも声をかけられないよう携帯電話を家に置き、隠れるようにしてここまで来たのだ。
 ――それに、携帯電話にはまだ、あの人の番号が残っているから。
 それでも、少しだけ後悔した。もしかしたらこのまま誰にも発見されず、干からびて死ぬのかもしれない。そんな不安が押し寄せてくるから。しかも、もうすぐ夜が来る。飛行機もヘリも滅多に通らない上空から発見される可能性は少ない。望みは、友達が気がついてくれるかどうかだ。
 不安を押し殺して、祈るような気持ちで待つことにした。長い間を黙ってそうしているのも疲れるもので、さらに、ふと不安を思い出してしまう。やがてひとりでしりとりをしたり、楽しい記憶を思い出して時間を潰すようになる。
 ――皮肉なものね。ひとりになりたい、と思ってたのに。
 苦笑しかけたとき、夕日が薄れ暗くなりかけた空の彼方から、何かが聞こえた。
 ――ヘリか飛行機が来た?
 心臓が跳ね上がる。これで助かるかも、という喜びと、半信半疑な気持ちで、徐々に大きくなる黒い影を凝視する。
 姿がはっきりするにつれてわかった。それは、ヘリでも飛行機でもない。ハングライダーにつかまる人間だ。大きくなる音は、悲鳴だったらしい。
 若い男だ、とわかるくらいまで大きくなると、悲鳴も枯れていた。
「ああああぁぁぁ……」
 ちょっと疲れたように尻すぼみになった直後、バサッ、と大きな音がして、舞い散った木の葉がサツキのほうまで飛んだ。男が突っ込んだのは、ひとつ挟んだ向こうの木だ。
「あの、大丈夫ですかー?」
 少しの間あっけに取られながら、心配になって声をかけてみる。
「え? あ、人がいるんですか? 何とか引っかかって大丈夫みたいです。あの、どこですか?」
 まさか、相手も枝に吊るされているとは思っていなかったのだろう。サツキがこっち、と声を張り上げると、男はそちらを振り向いて、ええ、と大声を上げた。
「いやあの、奇遇ですね、こんなところでこんな風に会うなんて」
 不謹慎だと思いながらも、サツキは思いがけず人と出会えたことに嬉しさを隠せない。
「携帯電話とか、お持ちじゃないですか?」
 救助してくれるようなヘリや飛行機でなかったことに少しがっかりした部分もあるが、それでも外と連絡が取れれば救助を呼べる。このご時勢、大抵の人は携帯電話を持っているはずだ。
 しかし、男は首を振った。
「すみません。どうも、今日は携帯電話を持ちたくなくて……。実は昨日、大事な試験に落ちたんですよ。だからまあ、話を聞いてくれるような人もいないし、逆に結果を訊かれるのも嫌だし、鬱憤晴らしにこうやって飛んでたところなんです」
「そうですか。わたしも同じようなものなんで、気にしないでください。一週間くらい前に大事な人が亡くなって……それで、ひとりになりたかったんです」
「え。それじゃあ、ぼくはお邪魔でした?」
 男がおどけたように言ったので、サツキは思わず笑った。
「そんなわけないじゃないですか。ひとりより、ふたりのほうが心強いですよ」
 話し相手ができただけで、ほとんど不安を忘れることができた。
 相手も黙っていると不安なのか、それとも話し好きなのか。まずは自己紹介をしたあと、色々なことを話した。サツキは一緒に飛ぶことの多いサークル仲間のこと、大学を出たらインテリアデザイナーを目指すこと、実家のこと、好きなお店やそこの料理、他愛もないことを。男はバイトをしながら医者を目指しているという。彼はバイト中のコンビニであった面白いエピソードを中心に話していた。
 夜、暗闇の中でも眠らず、眠ることなどできず、話し続けた。ふたりとも飛ぶのが好きなこと、好きな音楽やテレビ番組が似ていることで盛り上がった。
 ――こんなに笑ったの、久しぶりかもしれない。
 死の危険すらある状況なのに、サツキはこれほど楽しい時間を過ごしたのはいつだったろう、と思った。こうなって良かった、とすら、少し思っていた。
 そして、この特殊な状況だからかもしれない、と頭の片隅にあっても、不安など少しも表に出さずこちらを気遣う男に、惹かれるものを感じた。
 やがて夜が明ける。暗かった木々の間にも、時間ごとに強さを増す朝日が射し込む。
「サツキさん、良かったら今度の日曜日、一緒にドライブに行きませんか? なんか、話してて楽しいし、もっと良く知りたいなと思って」
 そう思われたことに、喜びを感じる。
「わたしも、あなたと話してると凄く楽しい。行きましょう、ふたりで」
 どこかから聞こえてくるプロペラの音を耳にしながら、ふたりは笑い合った。


FIN.


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