DOWN

逢いたいと思ふ心

 義姉の小夜が土産に手鏡を買ってきたのは、ふた月余り前のことだった。
 綺麗な細工がされたその鏡を、雪は一目見て気に入った。道中物売りから買ったという使い古しの何の変哲もない手鏡だが、目立たず且つ品の良い風情は、奥ゆかしい雪の好みに合致していた。
「雪どのはその鏡を手に入れて、ますますお美しくなられた。その鏡は、まるで雪どのそのもののようだ。控えめで上品で、それでいて常に人の役に立つ、可憐な花のようだ」
 背後の机に置いた手鏡を目ざとく見咎めて、病床の母を診終えた若医者の稲村総八が褒める。
 雪は自分が褒められたことよりも、手鏡を褒められたことが嬉しかった。そして、この人とならば一生添い遂げることができる、この人しかいないという胸に秘めたる思いを強くするのである。
「お上手なことです。この鏡、わたくしにはもったいない物ですわ」
 振り向いて手鏡を手に取り、持ち上げてみる。
 鏡の中の女の姿は美しく、その顔は喜びに輝いてすら見えるのだ。
 しかし、即座に女の顔は引きつる。
 その背後に座る若医者の顔が、まるで曇天の空のように暗い表情を浮かべていたのだ。今にも泣きそうにすら見える。
 驚いて相手へ向き直ると、総八は見馴れた穏かなほほ笑みを浮かべていた。この医者は、滅多なことではその笑顔を崩したりはしないのだ。
 ならば、見間違えなのか。
 もう一度鏡を覗くと、確かに、総八は暗い表情をしている。間違いではない。
「いかがいたしましたか?」
「いいえ……何でもありません」
 雪は作り笑いを浮かべ、手鏡を置く。
 総八が帰ると、彼女は手鏡を眺め回し、幾度も表面に触れてみるが、仕掛けなどあろうはずもない。あれば、今までに気がついているだろう。しかし、あの表情は、確かに瞼の裏に焼きついている。
 それでも、一日切りならば、一時の気の迷いと片付けていたかも知れぬ。だが、総八に鏡を向けるたび、その表情を目にすることになるのだ。
 そればかりではない。母に鏡を向けると、実際とは少々異なる表情が映し出される。
 もしや、これは心を映す鏡なのではないか。
 鏡を前にするとき、己の心を偽ったりはしない。しかし、試しに己の表情を変えてみたところ、それは鏡の中を変化させはしなかった。
(では、なぜ、稲村さまはあのようなお顔を?)
 その疑問の答は考えないようにしていたが、つい、手の空いた間に考えてしまう。そして、打ちのめされる。答など、わかりきっているのだ。
 総八どのはわたくしを嫌っている。そう自覚したまま笑顔で今日も談笑するのは、やりきれぬような、深い哀しみと寂しさを想起させるものだった。手鏡の中の雪は、総八と同じような表情で相手と向き合っている。
 しかし、そのような日々は、間もなく終わりを告げた。
「雪どの。あなたに言わなければならぬことがあります」
 常日頃の優しい声音とは違う、厳しさのある声で口火を切ったそのことばに、雪は身を硬くする。だが、すでに覚悟はできていた。
 しかし、総八の口をついて出たのは、彼女の予想とはまったく違う内容である。
「もっと早くに言うべきだったかもしれぬが……わたくしは江戸の叔父に呼ばれ、この町を去らねばならなくなったのです。母君のことは知り合いに頼んでおきますが、おそらくは、もはやお会いになることはかなわないでしょう」
「え……」
 あなたとは一緒になれぬとでも言われたほうが、幾分か気が晴れたであろう。雪は、ただただ茫然とするだけだった。
「残念です。あなたとお会いすることは、わたくしにとって日々の糧だったというに」
 総八は初めて、手鏡の中とまったく同じ表情を見せた。

 数日の後、稲村総八は付き人とともに発っていった。それを雪は、まだ夢現のような気分で見送った。
 以来、手鏡には泣き顔ばかりが映り続けた。病身の母に心配をかけぬよう、笑顔を心がけ続けていたというのに。
 あれほど愛していた手鏡をほとんど手にしなくなってひと月、母が見かねたように、布団から顔を出して言った。
「雪、お前、あのお医者さまに会いに行っておいで。わたしも、自分の面倒くらい見れる。何かあれば、小夜に頼めばいい」
「何を言ってるの、お母さま。稲村先生は江戸にいるのよ。簡単には会いにいけないし、行ってどうすると言うのですか」
「お前、あの人を好いていたのだろう?」
 母の慧眼に内心感服しながら、雪は笑った。
「好いかたではありますけど」
「隠さずともいい。あのかたも、お前を好いていた」
 淡い期待が雪の胸を躍らせる。しかし、好かれてなどいない。鏡がそう告げていたではないか。
「何故わかるのです?」
 問いかけると、今度は母が笑う。
「見ていればわかるもの。特別なことなど何もない」
 そう言って、娘の嫁入りのためとせっせと貯めていたのであろう、銭を包んだ布を差し出す。
 母のことばを信じよう。
 手鏡を懐に入れ、身支度を整えて知人に小夜への伝言を頼むと、雪は早々に旅立った。
 それから母のことばの事実が証明されるまで、二日とかからない。
「これほど運命と呼ぶべきことがありましょうか。あなたと別れねばならぬと知った日以来、わたくしはずっと、胸が潰れそうな思いであなたと会い、こちらに来てからも心が沈んでいたのです」
 再会した総八はそう言って雪を迎え、心からの喜びを鏡の中にも表わした。
 そして、二人がともに暮らし始めてひと月以上。手鏡の中の雪と総八は、毎日笑顔で暮らしている。


FIN.


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