DOWN

カモメの夢(1)

 午後の海は、青色が濃い。
 朝は薄い色。夕方は夕日に染まったオレンジ。見慣れているものでも、いつも違った顔をしている。
 その顔を描き移そうと、わたしは、パレットに紺の絵の具を絞り出す。緑と、空色の絵の具を少しだけ筆につけて、色を見ながら慎重に混ぜ合わせる。
 それを真っ白な紙の上に塗りつけて、木を組み合わせただけの柵の向こうの海と見比べる。そして、そのスケッチブックの一番上のページを破り捨てた。
 色を移しては、それを言い訳に紙を破り、丸めて、屑かご代わりの持参した袋に放り込む。近所のスーパーのロゴ入りビニール袋は、もう、丸めた紙で一杯だった。
 何回、何時間、何日、繰り返しただろうか。
 去年の今頃は、課題にサークルに勉強に、と忙しかった。大学を中退してぽっかりと空いた巨大な『退屈』という穴を埋める、数少ない日課。今は、退屈という穴を埋めるためだけに、生きて、考えていた。
 海辺の公園には、誰もいない。いつものことだ。こんな昼食時も過ぎた頃に小さな公園にいるのは、この辺りじゃ、わたしくらいだ。
 誰も見ていないのだから、一人遊びを続けたっていい。でも、そろそろ飽きてきた。新しい退屈しのぎを探そう……そう思って、わたしは改めて絵を描くのがが自分の一番楽しいことじゃないことに気づき、情けなくなる。
 両親が一生懸命働いて、いい美術大学に入れてくれたのに。そこまでして絵を描きたかったのは、それが本当に楽しかったからじゃない。
 スケッチブックと椅子、それに畳んだ立脚をバッグに仕舞い、わたしは立ち上がった。
 公園は海辺の岡の上にあって、子どもが遊ぶような木製の遊具とベンチ、潮風をよけるための木々が並んでいる。木は、青々とした葉を茂らせていた。
 風もないのに、その葉が、不自然に揺れた。思わず身がまえて、そちらに目をやると、青いデニムのジャケットの裾が見えた。
 退屈しのぎの日課でも、筆を手にしているときは集中しているらしい。他に人間がいることに気づかなかった自分に少し驚きながら、わたしは立ち尽くす。
 一体、こんな時間にこんな小さな公園にいるなんて、どんな人物だろう? 自分のことを差し置いて、そんな興味がわきあがる。
 同時に、自分の姿を見られたくない、早くここから立ち去ってしまいたいとも思う。
 ふたつの感情の狭間で、しばらく、身動きが取れなかった。ただ、目は木の向こうにいる人間を凝視して、それだけで何か好奇心を満たせるものを得られたら、感情に足止めされることもなく帰ることができるのに、と希望を抱く。
 でも、そんな都合のいいことが起こるわけはない。
 相手が、わたしの存在に気づいた。逃げてしまえば面倒はないと思うが、そうすれば、変に思われる。もう二度とここに来られなくなるかもしれない。
 そんな奇妙な覚悟を決めるわたしを見つけ、期の向こうから顔を出したのは、若い男だった。若いと言っても、わたしより二つ三つは年上だろう。余り体格の良くない、色白で、柔和な雰囲気をまとった青年だ。
「こんにちは。こんなところで人に会うとは珍しい。あなたも、絵を描いているんですか?」
 人懐っこい笑みを浮かべて、彼は尋ねて来た。そのことばからすると、彼もこの公園に絵を描きに来たらしい。
 確かに、ここは海を描くにいい場所だった。でも、ここにわたし以外の人がそういう目的できたことは、わたしが知る限りではない。行動範囲が狭いだけかもしれないが、周囲に絵を描く人がいるという話も聞いたことがなかった。
「ええ。海の絵を」
 答えて、わたしは片付けたばかりの椅子や画材をバッグから取り出し、元通りにし始める。話しかけられてすぐに立ち去ると、嫌がっているように思われるかもしれない。わたしはなぜか、彼に拒絶の印象を与えたくなかった。
「この辺は、いい色の海ですからね。写生には向いていると思いますよ」
「そうですね。わたしも、この色が好きで」
 心にもないことを言って、また、真っ白なスケッチブックに向かう。
 彼はわたしと違って、とても楽しそうに、パレットの絵の具を筆に移す。
「ぼくは、堺亮太と言います。あなたは?」
 彼は、年上なのに、丁寧にきいた。その口調は、友だちによく気難しいと言われるわたしでも、悪い気はしない。
「わたしは、凪井深雪です。この町じゃ、初めて知り合った絵描き仲間ですね」
「ぼくもですよ」
 顔を見合わせて、わたしは久々に、少し笑った。


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