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第5章 男女愛と結婚について

地上の夫婦関係は、霊界でも継続されるのでしょうか。また霊界には、地上世界のような恋愛や結婚はあるのでしょうか。ここでは高級霊界通信によって明らかにされた霊界の「男女愛・結婚」について見ていきます。

(一)地上世界での男女愛(異性愛)

地上世界での“異性愛”の本質

これまでロマンス(男女愛)を題材にした多くの文学や芸術作品が生まれ、地上の人々の夢と情熱をかき立ててきました。しかし、こうした地上の恋愛や男女愛を無条件に良いものとしている高級霊はいません。高級霊は――「地上には真の男女愛・異性愛はない」と述べています。

では、どうして霊界の人々は、地上世界の恋愛や男女愛を良しとしないのでしょうか。それは地上の男女愛の多くが“利己性”のうえに成り立っているからです。恋する二人は心から相手を愛していると言いますが、実際には“相手を自分のものにしたい”というのが本音です。それは自分の好みだけを愛している、自分にとっての理想を愛しているということなのです。醜いもの・好みでないものをもありのままに受け入れてこそ真実の愛と言えますが、大半の地上の男女愛はそうしたものではありません。

地上の“男女愛”にともなう苦しみの意味

地上の男女愛の多くが“利己性”を発現させることになっていますが、神の摂理に反したその行為には、必ずツケが回ってくるようになります。死後、霊界に行ってから、それが魂の成長にとってマイナスであったことに気づいて後悔し苦しむようになることもありますが、ほとんどの場合は地上において、嫉妬や虚しさ・絶望・孤独感といった形で苦しみを味わうようになるのです。

恋愛感情が激しければ激しいほど、それに比例した大きな苦しみがもたらされることになります。そしてその苦しみを通じて“恋愛”というものの虚偽性と、真に人を愛することの意味を知るようになるのです。“真実の愛”とは――「利他的であること、先に与え尽くすこと、自分の好き嫌いの感情を乗り越えること、相手のための犠牲を厭わないこと」であるとの悟りに至れば、恋愛の苦しみは霊的自覚をもたらすという大事な役割を果たしたことになります。

恋愛が“反面教師”となって真実の愛についての理解が促され、そこから本当の愛で人を愛する歩み、真の利他愛の実践が始まるようになるのです。自分にとってイヤな人・好みでない相手に対しても愛を与えられるようになったとき、初めて霊的成長をなすことができるようになるのです。

地上世界でのセックスの意味

地上のセックスには、二つの意味があります。一つは、言うまでもなく子孫を残すということです。人間をはじめとする地上の生命体は、生殖行為を通して自分の分身を地上に生み出すことになります。ただし人間が生殖行為によってもたらすことができるのは“肉体”という地上の道具だけであって、人間の本体である霊ではありません。

二つ目は、宇宙の陽陰を代表する男女が、お互いに与え合い一体化することによって物質次元での神の再現をなし、神の創造の業の一端を担う資格を得るということです。このように“セックス”には、地上において神を象徴的に再現し、神の業を分担するという宇宙的で壮大な意味があるのです。

地上の人間は生殖行為を通して、物質レベルで「相手に完全に与え尽くす」という利他性を学ぶことになります。これは女性が子供を生み母親となることによって、子供のために自分の持っているものを無条件に与え尽くすようになることと共通しています。母親の心の根底には“自分の子供だけ”という利己性が存在していますが、「自己を犠牲にして無償の奉仕をする」という行為そのものは利他性という神の摂理に一致しています。

肉体本能的な男女愛を、霊的な男女愛に

地上の男女愛は、肉体本能に基づく利己性を基盤としています。しかし肉体本能一色の男女愛では、動物のオス・メスの関係と何も変わりません。神は、人間を動物とは違った霊的存在として造られました。そのため人間だけに“自由意志”が与えられています。神は、人間が自由意志を用いて「本能的男女愛」を「霊的男女愛」に高めることを願われているのです。神の意図は、人間が自由意志を活用して動物とは異なる霊的なものを優先した男女愛を築き、霊的成長をなすことにあります。

霊的な男女愛とは、お互いが相手の「霊的成長」を最優先するところに存在するものです。相手の霊的成長を第一に願い重要視するとき、その男女愛は霊優位――すなわち「霊主肉従」に基づく利他愛となります。もともと利己性をベースとして出発した男女愛が「利他的男女愛・霊的男女愛」にレベルアップしたとき、そこに摂理に一致した男女愛・異性愛が存在するようになるのです。

しかし現在の地球上には、お互いの霊的成長を一番の目標としている夫婦や男女はめったにいません。

(二)霊界での男女愛(異性愛)

“陰陽二分”は地上世界のみの原則――霊界では性別に重要性はない

地上世界では陽陰・男女という区別が大原則となっていますが、霊界にはこの地上世界を貫く大原則(陰陽二分)は存在しません。霊界では、進化とともに地上における男と女の性差が薄れていくようになります。地上世界では性別が人間にとっての重要な要素となっていますが、霊界ではそうした性差・性別は重要性を失っていくのです。

このため霊界での男女愛や結婚は、地上世界のものとは根本的に違っているのです。

霊界での“異性愛”の特徴

霊界では、もはや地上のような肉体はないため、愛は純粋に霊的なものとなり、性欲(セックス欲)も存在しなくなります。そのため霊界人の愛には、地上人のような“相手を自分だけのものにしたい”といった利己的要素は全くありません。相手の霊的成長を何よりも願うようになっています。霊界では、相手を支配したいというような思いは一切なくなるのです。

霊界における男女愛・異性愛は、譬えて言うなら地上の親友同士の友情のようなものです。あるいは純粋な兄弟(姉妹)愛のようなものです。これが地上的な性差を取り除いた男女愛なのです。

大半の地上の夫婦は、霊界でバラバラになる

死後、最初に行くことになる幽界では、人によってはしばらくの間、地上時代と同じ夫婦関係や家族関係を再体験するようになります。しかし幽界での生活を経て霊界に入ると、各自の霊的成長レベルに見合った別々の界層に行くようになり、それにともない夫婦も家族もバラバラになってしまいます。たとえ地上時代に“おしどり夫婦”と呼ばれていたような仲の良い男女であっても、霊的成長レベルが違えば、あの世ではいつまでも一緒にいることはできません。

とは言っても、もし高い世界に入った者が下層にいるかつての配偶者に対して愛の思いを抱いているなら、降りて行って会うことはできます。もちろんその時には地上時代のような夫婦愛は、すでに消滅しています。そこには相手の霊的成長を願う親友のような愛、弟子に対する教師のような愛があるだけです。霊界では別々の界層に住んでいても、相手に対する「真の愛情(利他愛)」があるときのみ、霊的な絆で結ばれるようになっているのです。

霊界における結婚――「アフィニティー」と「ツイン・ソウル」

霊界では、霊的成長レベルが完全に一致している男女に限って、同じ界層に入って霊的家族の一員(同じ類魂の一員)として生活するようになります。こうした男女の霊を「アフィニティー」と言い、二人は他のメンバーとともに「類魂(グループ・ソウル)」を形成することになります。地上での夫婦が死後、霊界においてこのような形で一緒に生活するようになるケースは、実際にはほとんど存在しません。万に一つあるかないかの、ごく稀な出来事なのです。これが「霊界での夫婦」であり、霊界の秘儀と言うべき内容なのです。

アフィニティーには、きわめて特殊な事情があります。それは二人がそれぞれ別の存在でありながら、一つの霊(魂)を形成しているということです。二人の霊は常に一対(いっつい)となり、一単位の魂として歩んでいくのです。こうした男女一対魂を「ツイン・ソウル」と言います。ツイン・ソウルを形成する二人の霊(魂)が一体化することが「霊界での結婚」であり、それはまさに「魂と魂の結合(結魂(けっこん))」なのです。

アフィニティーの地上への再生

アフィニティーとして歩んでいる男女の霊は、類魂の中でも特に親しい関係にありますが、稀に二人が一緒に地上へ再生するようなことが起こります(*再生の大原則は「一つの類魂から一人の霊が地上に再生する」というものですが、アフィニティーの場合は一対で一単位(ツイン・ソウル)となっているため、二人の霊による地上への同時再生が可能となるのです)

こうしたケースでは、二人の霊は男性と女性という二人の人間として地上に誕生するようになります。地上に誕生する時期や場所は別々になることが多いのですが、やがて霊的に惹き合って地上人生のある時に出会い、地上で夫婦を形成するようになります。アフィニティーの二人は、地上では男女別々の身体に宿って二つの存在となりますが、霊的単位として見たときには一つなのです。死後は再び元の類魂に戻り、そこで両者は再会するようになります。「男女一対魂」であるアフィニティーは、常に一単位を形成していて、その後の霊的成長の歩みも、ずっとともになしていくことになります。

アフィニティー同士が地上に同時に誕生するというようなことは、めったにない出来事ですが、大きな使命を担っている場合には実現することがあります。またアフィニティーの一人が霊界に留まり、片方だけが地上に再生するといったケースも発生しますが、その場合でも二人は霊的には常に一体関係を保っています。地上に再生した側の霊は肉体をまとっているためその霊的事実を自覚できませんが、霊界に戻ると類魂の中で出会い「男女一対魂」としての生活を再開するようになります。

(三)霊的人生と結婚

霊的成長を目的とした結婚

先にも述べましたが、地上のカップルの大半は霊界ではバラバラになってしまいます。霊界においても引き続きその関係が保たれるような夫婦は、めったにいません。こうした霊界での事実を考えるなら、地上世界の結婚には、それほど大きな意味はないことが明らかになります。一人ひとりが神の子供として自分の魂を成長させることの方がより重要であり、優先されるべきことなのです。“結婚”は、霊的成長という人生の最大の目的にそったとき、初めて意義を持つようになるのです。

地上人生においては霊的成長が最も重要なことであり、一つひとつの行動や営みの価値は「霊的成長」を基準として決定されます。結婚についても、こうした観点から考えていかなければなりません。つまり結婚するかしないかが大切なのではなく、その結婚によって霊的成長がなされるかどうかが問題となるのです。

動機によって独身・離婚の是非(ぜひ)が決定する

地上人の中には、一生を独身で通す人がいます。この独身人生は、動機によって善いことにもなり悪いことにもなります。「自分の魂の成長と、より清らかな霊的世界を求めるために独身を貫きたい。より多くの人助けのために独身を通したい!」というのであれば、一人で歩むその地上人生は有意義なもの・霊的価値のあるものとなります。概してこうした純粋な動機から一生を独身で過ごす人間(*宗教者や修道者の道を自己選択するケースが多い)は、地上に再生する前にそのように決心して来ていることが多いのです。そうした人は、地上の結婚というプロセスを踏んで達成すべき霊的成長をすでに修了していて、人々への奉仕に専念するために独身の人生を歩んでいる可能性があります。

一方、そうした人間とは対照的に、「一人でいる方が気楽で面倒がない。気ままに好きなことができる。結婚はうっとうしい」といった身勝手な動機から独身を通す人間もいます。こうした人は、地上人生における一番大切なもの(霊的成長のための貴重な体験)を、自ら手離している哀れな人間と言えます。どのような理屈をつけても、それは“人生を本能的に生きたい”というだけのことであり、死後霊界に行ってから大きな後悔に苛(さいな)まれるようになります。

また“自分の好みの相手がいない”という理由で、なかなか結婚しない人もいますが、それは単なる思い上がりか、人生に対する臆病さからの考えであることが多いのです。大半の地上の人間は“結婚生活”という窮屈で苦しみの多い日々の中で霊的成長をするようになっています。結婚すれば、自分勝手な歩みをすることはできなくなります。否応なく他人の面倒をみたり、世話をしなければならなくなります。そして、そうした窮屈な生活によって“利己性”が打ち砕かれるようになるのです。また子供を生むことによって無条件に、自分のことを後回しにする生活へと追いやられることになりますが、それがどれほど霊的成長にとってプラスとなるかは計り知れません。

このように考えると、「他人への奉仕・人類全体への奉仕」という明確な動機から独身を選ぶ人間以外は、結婚した方がよいと言えるかもしれません。もちろんカルマによって“結婚したくてもできない”という場合には、その苦しみがカルマ清算のプロセスになっています。

形だけの結婚生活を続けることが、霊的成長のためにマイナスとなることもあります。世間の目を気にして外見だけを取り繕うような結婚生活は、単なる自己保身・見栄(みえ)であることが多いのです。動機によって独身で通すことの是非が決められるように、“離婚”も動機によって善し悪しが決められます。単に結婚生活を続けることが重要なのではなく、「何のために夫婦関係を維持するのか?」という動機が問題となるのです。

地上的な視野からは不幸に見える結婚生活によって霊的成長が促される人がいる一方で、この世的には申し分のない幸福な結婚生活が災いとなって霊的成長を得られない人もいるのです。

(四)同性愛について

男性が女性として、また逆に女性が男性として「再生人生」を送るようなことが実際に存在します。この事実は、人間にとって「霊的成長」が、性別よりもはるかに根本的で重要なものであることを示しています。

社会問題の一つとして、しばしば“同性愛”が話題になります。キリスト教などの禁欲主義を重要視する宗教では、当然のこととして同性愛は認めていません。この問題についてスピリチュアリズムでは、どのように考えているのでしょうか。

“男女差”に関する相対性と絶対性

物質世界の万物は、陽性的存在と陰性的存在に二分されます。人間も男性か女性かのいずれかに属します。一見すると男性と女性との間には、絶対的で不動の境界が設けられているように思われます。

しかし陽的存在(男性)だからといって、百パーセント陽的要素でつくられているわけではありません。同様に陰的存在(女性)も、百パーセント陰的要素でつくられているということではないのです。男性・女性それぞれの中には、陽陰両方の要素が内在しています。そして相対的に陽的要素の多い人間が陽性(男性)となり、相対的に陰的要素の多い人間が陰性(女性)となるのです。その意味で、完全に男性的要素だけの男や女性的要素だけの女はいない、ということになります。

実際に男性と女性との間には、それほど大きな違いはありません。遺伝子の観点から見ても、ホルモンの観点から見ても、男女の間にはほんのわずかな違いがあるだけなのです。

しかしその一方で、地上の全存在は必ず陽的存在(男性)か陰的存在(女性)のいずれかに属するという、不動の一線も引かれています。男性は初めから男として生まれ、女性とは異なる身体構造を持っています。この先天的な性は一生変わりません。男性として地上人生を送るように定められ、外形も男として固定化されています。

このように地上においては、男性は男性として生き、女性は女性として生きることが神によって決められているのです。その意味で“性転換手術”によって男性が女性になろうとするようなことは本質的に間違っているのです。

気がついたときには、すでに“同性愛者”

最近では同性愛者についての研究が進み、身体レベルでの原因も少しずつ解明されるようになってきました。もともと男性と女性では大脳の構造が幾分異なっていますが、同性愛者(ホモ)の場合は、その大脳の構造が女性的であることが確かめられています。また妊娠中に母親がショックを受けたためにホルモンバランスが崩れ、これが原因となって中性的になることも明らかにされています。

こうした研究成果を総合すると、本人は気がついたときには、すでに“同性愛者”であったということになります。言い換えれば、「何も好きで同性愛者になったのではない」ということなのです。

一方、再生についての霊的事実の観点から言えば、前世において女性であった者が男性として再生すると、その男性は女性的な要素を多く持つようになります。今、地上において男性的な女性は、前世が男性であった可能性もあります。同性愛者には、こうした前世の性が関係していることも考えられるのです。同性愛の傾向は、自分の意志とは無関係なところで発生しているという点から、明らかに「前世のカルマ」が関係していることが分かります。

同性愛者としての苦しみ

理由はどうであれ、この地上に男性あるいは女性として生まれてきた以上、それが本人の霊的成長にとってふさわしいものであり、神によって定められたことと考えなければなりません。無意識のうちに同性に惹かれるという傾向は、当事者に大きな不安や苦しみをもたらすことになります。同性に対する性的関心は明らかに不自然なことであり、大半の同性愛者はそれを苦しみやハンディとして感じています。

しかし、そうした苦しみを持つこと自体は決して間違ってはいません。「カルマの法則」に照らしてみれば、それでよいのです。ごく自然に異性を求める大多数の人たちに比べると、正常性を保つのにより多くの苦しみを必要としますが、その点にこそ“同性愛者”というハンディを持って生まれたことの意義があるのです。

より厳しい霊主肉従の努力を……

カルマを切って霊的成長をなすためには、さまざまな苦しみの体験が必要ですが、同性愛の問題もこうした観点から考えなければなりません。すべては霊的真理に照らして判断しなければなりません。同性愛者同士の性的営みは、本能に支配された「肉主霊従」の行為であり、正当なものとは認められないのです。

同性愛者には、普通の人以上に厳しい誘惑との闘いが要求されます。それは「多くの誘惑と闘い、その苦しみを乗り越えてカルマを切りなさい。そしてより多くの霊的成長を達成しなさい」という神の与えてくれた愛の試練なのです。どのような苦しみであれ、霊的に正しく対処すれば、必ずそれに見合った喜びと幸福がもたらされるようになります。同性愛者も皆、こうした「神の摂理」の支配の中で生きているのです。

自分に降りかかる誘惑と苦しみの意味を知り、それに耐えて清らかさを保つ努力を継続するなら、同性愛者として生まれてきたことが霊的価値を持つようになるのです。