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第3章 葬式と墓について

死別の悲しみは不要

霊界通信を読み、理屈のうえでは死後の世界の実在を認めたものの身近な人間の死に臨むと、つい周りの人々の嘆きや悲しみに巻き込まれてしまうようになります。しかしそれでは、霊的真理を手にしたことの意味がありません。身近な人間の死を迎えたときこそ、霊的真理を知った者としての真価の見せどころであり、霊的知識を実際に活かす時なのです。霊的真理に照らしてみるなら、たとえ愛する人との死別であっても、決して悲しむような出来事ではありません。霊界に入っていく人間にとって“死”は、肉体の重苦しさから解放し、より大きな自由を与えてくれる喜ばしい時なのです。

事故死などの悲惨な現場に立ち会うと、霊的真理を知ってはいてもつい動揺し、死者に対して不幸な被害者のように考えがちです。しかしそうした死も、素晴らしい人生の出発であることには変わりありません。たとえ死に方がどのようであれ、さしたる問題ではありません。肉体の苦しみから解放され、霊体だけになって軽やかさを味わい喜びに満たされている本人が目の前にいるのです。地上に遺(のこ)された人間は、新しい人生を出発した故人に対して、心から喜び祝ってあげるべきなのです。

もし身内の死に遭遇して悲しみに打ちひしがれるようなら、それは霊的真理を十分に体得していないということなのです。“死別”という現実の問題を、真理の観点から眺めるようにしなければなりません。いまだ真理を知らず、地上的な目でしか死をとらえることのできない一般の人々と同じような間違った感情の発露をしてはなりません。高級霊がいとも簡単に「死ぬことがどうして悪いのですか?」と言うように、あっさりと他人の死を眺めるべきなのです。

“葬式”について

葬式とは本来、重い肉体を脱ぎ捨てて霊界へ旅立つ人間を見送るための「喜びのイベント」です。あの世へ出発する人間に対しての「はなむけの式・祝福の式」なのです。しかし現在の地上世界での葬式は、死を嘆き、死者を悼(いた)むセレモニー(儀式)になっています。他界した本人が新しい世界での生活を喜んでいるのに、死別を嘆き悲しむ葬式の様子は、霊界の人々にとっては滑稽(こっけい)としか言いようがありません。別れの儀式としての葬式は無意味なものであり、その方法や方式にとらわれることは全く馬鹿げたことなのです。

さて葬式には、当事者(他界者)の霊がしばしば参列します。そして自分の葬式の様子を眺めることになります。いまだ“死”を自覚していない場合には、自分の葬式を目(ま)の当たりにして、何が何だか分からなくなり混乱状態に陥ります。また時には相続人たちの集まりに出席し、そこで展開する遺族の醜い争いを見せつけられることになります。そして自分に対する本当の愛情がなかったことを実感して、大きなショックを受けるようになります。実はこれは、本人が生前につくった罪の償いの一環として与えられる苦しみなのです。

霊的に未熟な人間の場合には、霊体が肉体から離れるのに、地上の期間にして三日〜数日くらいかかります。したがって火葬に付すまでに最低三日間ほど期間をおくのがよいのです。自分の死を自覚できずに、まだ生きているつもりでいる霊が、いきなり火葬に付されると精神的に強い衝撃を受けることになります。そして、その後の霊界でのケアに余分な手間がかかるようになります。

“墓”について

遺体は、古くなって脱ぎ捨てた衣服のようなもので何の価値もありません。未練を持つようなものではありません。墓は単なる古着の捨て場・骨の捨て場にすぎません。したがってどこに墓をつくろうが、どのように葬ろうが全く構わないということなのです。もし他界した霊が出現して、自分の墓についてあれこれ注文をつけてくるようなら、その霊は未熟さのためにいまだに死を自覚していないことを示しています。そうした霊に対しては、次章の「先祖供養」の箇所で述べるような対応が必要となります。

地上にいる子孫や知人が、命日などに墓参りをして故人に思いを馳せると、その念が霊界にいる霊に届き、墓場にいる皆の所へ引き寄せられるようになります。もし墓参りの人々から何の愛念も送られてこないなら、そこ(墓)に惹かれることはありません。地上人が他界者のことを強く思えば、その念は霊に届いて喜びを与えることになります。霊的自覚を得られず苦しみの中にいる霊には、その念が唯一の慰めとなることもあります。

しかし、そうした地上人からの慰めをいつまでも求めていたり、地上への未練を持ち続けていては、霊界で進歩の道を歩むことはできません。本人に霊的自覚が芽生え「霊的成長」に意識が向くようになるにともない、地上への関心は自然に薄らいでいくようになります。