MENU

第4章 霊的人生を歩むうえでの、さまざまな困難

(一)寂しさと嫉妬(しっと)

“寂しさ”は、霊的エネルギーの欠如から発生

多くの地上人は寂しい心を抱えたまま生活しています。常に孤独感にとらわれています。寂しさは、「霊的エネルギー(神の愛)」が欠如しているところから生じます。霊的エネルギーが切れると自動的に寂しくなるのです。これは「霊(魂)」の自然な反応であり、肉体の水分が不足すると喉(のど)が渇くのと同じことです。

霊界では必要な霊的エネルギーはすぐに補充されるようになっているため、地上人のように長い間、寂しさや孤独感を持ち続けることはありません。寂しさや虚しさや孤独感は地上ならではの苦しみであり、霊的成長のためのチャンスとなるありがたいもの、霊的成長にとって必要なものと言えます。

地上で生活するかぎり、霊的真理を知っているからといって、寂しさや孤独感が消え去ることはありません。それどころか、なおいっそう厳しい形で迫ってくるようになるのが普通です。

寂しさの克服

寂しさが襲(おそ)ってきたときには――「心の持ち方や考え方が神の摂理(霊的真理)からずれている。早く修正しなさい」という警告と考えるべきです。このとき霊的真理を武器として正しく用いて対処するなら、霊的成長が促されるようになります。しかし大半の人々は寂しさに負けて物質的快楽に走り、霊的成長の道を踏み外し、大きなカルマ(霊的負債)をつくり出してしまいます。

霊的人生を歩もうとする人間にとって、寂しさの克服は“生命線”とも言えるほどの重要な意味を持っています。 霊的真理を知らないこの世の人々は、酒や娯楽やおしゃべりに興じたり、男女愛に逃げ道を求めたり、SEXやドラッグにのめり込んで寂しさを忘れようとします。何とかして寂しさを紛らわせようとします。しかし今述べたように、寂しさや虚しさは霊的エネルギーの欠如から発生している以上、そうした物質的・肉欲的手段では解消することはできません。霊的手段によって霊的エネルギーを取り入れないかぎり駄目なのです。

寂しさにとらわれそうになったときにはグッと踏みとどまり、霊的真理を集中して読んだり、祈りに専念することが必要です。こうした霊的努力を通して魂に霊的エネルギーが呼び込まれ、寂しさが拭い去られるようになるのです。

“嫉妬”という醜い利己愛

嫉妬(ジェラシー)も、寂しさと同じような原因から生じます。人間関係を深めようとすると、必ず直面するのがこの“嫉妬”の問題です。利他愛で他人を愛そうとするにもかかわらず、突如、嫉妬が湧き上がり、醜い利己愛が心を支配してしまうのです。嫉妬は男女間だけでなく、ありとあらゆる人間関係の中にも入り込んできます。

嫉妬の醜い実情を前にすると、人間が完全な愛の持ち主になるのは、いかに難しいことかを実感するようになります。純粋な愛の持ち主になりたいと願っても、嫉妬という醜い利己的感情が希望を打ち砕いてしまうのです。利他愛の実践を心がける人間は、必ずと言ってよいほど、この嫉妬の問題で苦しむようになります。

今、地上で嫉妬の思いを払拭できずに苦しんでいる人には考えもつかないことでしょうが、霊界には嫉妬は一切存在しません。霊界では嫉妬の思いは、きれいさっぱりとなくなってしまうのです。嫉妬というしつこく醜い感情は、肉体本能から発生します。したがって肉体を脱ぎ捨てると、嫉妬は存在しなくなってしまうのです(*例外として“地縛霊”は嫉妬を魂の中に刻み込んだまま、しばらくの間、幽界下層で生活します)

嫉妬を“霊的生理現象”という観点から説明すると、次のようになります。嫉妬の深層には、「他人より多く愛されたい。もっと多くの人々から愛されたい」という独占的な“利己愛”が存在しています。嫉妬に苦しみがともなうのは、“利己性”という霊的摂理からのずれがあるからです。私たち地上人は霊界人と違って肉体を持っているため、神の愛をストレートに感じることができません。それに対し霊界人は、必要な霊的エネルギーを常に取り入れられるため、神の存在と愛を実感できるようになっています。「神の愛」でいつも心が満たされ完全に満足することができるため、愛を独占したいという思いが湧いてこないのです。それゆえ霊界人は嫉妬を持つことがないのです。

地上人の大半が霊的エネルギー(神の愛)の枯渇状態・愛に対する欲求不満状態に陥っています。そうした地上人が神に愛を求めようとしないなら、必然的に周りの人間に愛を求めるようになります。「他人から少しでも多く愛されたい。他人よりも多くの愛がほしい」と思うようになるのです。愛の刺激と喜びは何にもまして大きいため、人間は自分に与えられる愛の多少についてきわめて敏感になり、ここから嫉妬が発生するようになるのです。

嫉妬の克服は、最も困難な霊的闘い

嫉妬の克服は、人間にとって最も困難な霊的闘いの一つです。嫉妬という拭い去ることの難しい感情を、どのように克服したらよいのでしょうか? 私たち地上人は肉体を持っているため、どうしても嫉妬の思いを持つようになってしまいます。それはある意味で、物質世界に住む人間の宿命と言えます。

問題は、嫉妬が湧き上がってからの処理の仕方なのです。嫉妬が湧き上がってきたときに、どのように対処するかによって、それを霊的成長のチャンスにすることもできるし、反対に苦しみと醜い思いをさらに増幅させることにもなってしまうのです。結論を言えば「嫉妬に対する闘い」は、霊的真理を徹底して活用する以外に方法はありません。

神と守護霊に愛されている事実を思い出す

嫉妬を乗り越えるために真っ先になすべきことは、神と守護霊から愛されている霊的事実を思い出すことです。今この時も、神は宇宙よりも大きな愛で私たちを愛してくれています。そして将来にわたって、変わらぬ愛で愛してくれるのです。また守護霊も、常に私たちを愛してくれています。守護霊の愛は地上のいかなる人間の愛よりも深く、肉親や配偶者、親友や恋人の愛もはるかに及びません。その愛は、一点の利己性もない純粋な利他愛・無償の愛です。守護霊は私たち一人ひとりの背後にいて、一生の間ずっと付き添い、ひたすら私たちが幸福になるためだけに心を砕き導いてくれるのです。

神と守護霊から絶大な愛で愛されている事実を思い起こすとき、自分は決して独りぼっちではないことを実感します。それどころか身に余るほどの愛に包まれていることに感動するようになります。

寂しさを感じたり、嫉妬の思いに駆られたときには、神と守護霊から愛されている事実を何度でも思い出しましょう。その事実を繰り返し自分の心に言い聞かせましょう。もし少しでも神と守護霊の愛を実感できるなら、その瞬間に嫉妬の思いは消え去ります。「寂しさに負けて嫉妬の思いにとらわれていたのは間違いであった。寂しく思う必要など何ひとつなかった。それはただ、自分が大きな愛で愛されていることを忘れていたにすぎない」との心境に至るはずです。

神と守護霊の愛に気がつけば、もう地上の人間から愛されても愛されなくても、どちらでもいいと思えるようになるのです。

与えることだけが自分の使命であると決意する

次の対処法としては、「与えることだけが自分の務めである」と決意することです。霊界では愛を与えることが優先され、先に愛されたいと思う人間はいません。霊界では受けることよりも与えることが大切であって、それが常識となっています。自分のことを後回しにして先に人を愛してこそ、喜べるようになっているのです。そのため霊界には、地上のような嫉妬は存在しません。

私たち地上人は肉体を持っているため、完全に霊界人のようにはいきませんが、彼らの愛の在り方を見本とすべきです。「与えることだけが自分の使命であり、なすべき務めである。相手から与えられること、愛されることを期待するのはやめよう。人から良く思われようと悪く思われようと、どちらでもいい。それよりも先に人を愛すること、与えることだけに専念しよう。自分の務めは、ただ与えることだけであって、人から愛されることではない」と心を割り切ってしまうのです。その瞬間に嫉妬の思いは消え去っているはずです。

嫉妬の思いにとらわれたときには、次の二つの霊的真理をすぐに思い起こし、自分に言い聞かせます。「今、自分は神と守護霊から最高の愛で愛されている」「自分の使命は与えることであって、周りの人々から愛されることではない」――こうした真理によって心を立て直すことが、嫉妬に対する最高の闘い方であり、摂理にそった正しい対処方法なのです。

絶えず霊的エネルギーを充電する

とは言っても実際には、すぐには嫉妬の思いをふっきれないときがあります。頭では真理を理解していても、霊的エネルギーを取り入れられないと感情を治めることができず、いつまでもすっきりしない状態が続いてしまいます。そうしたときには、どうしても霊的エネルギーの充電が必要となります。

そのための最も良い方法が「霊的真理」を徹底して読むことです。真理をじっくりと読む中で、少しずつ霊的エネルギーが取り入れられ、心が広がっていくようになります。すると今あげた二つの霊的真理が実感のともなったものになり、たちまち心がすっきりするようになります。

ただし地上にいる間は、しばらくするとまた霊的エネルギーがなくなり、嫉妬の思いが頭を持ち上げてくるようになります。したがって絶えず「霊的闘い・内面の闘い」が必要となるのです。一日に何度も真理を思い出し、心を整理しなければならないこともあります。それは清らかさの上限を押し上げるための価値ある努力であり、真理を知らない人には決して真似のできない歩みです。それは、まさしく地上における高次元の霊的闘いなのです。

(二)失敗への不安とショック

霊的真理を知った人は誰もが、スムーズに霊的成長の道を歩みたいと思うようになります。しかし現実には、なかなか理想どおりにはいきません。今、私たちが地球上で生活しているということは、私たちの霊性が未熟であるということを意味しています。たとえ聖人と呼ばれているような人間であっても、地上人である以上、完全からは大きく懸け離れているのです。“地球”という物質世界は、人間が失敗を通じて学び、霊的成長をする場所として神が造られました。したがって地球上で生活する私たちは、必ず何らかの失敗をすることになります。地上人生に“失敗”は付きものなのです。

とかく人間は失敗を恐れ、失敗を避けようとしますが、失敗にめげずにチャレンジし続けることによって霊的成長が促されるようになります。失敗を恐れずに、どのような事態に至っても常に大きな視点に立って前進していくことが求められているのです。失敗は霊的成長にとってマイナスにはなりません。失敗を恐れて積極的に歩もうとしないこと、チャレンジ精神を失うことが問題なのです。精いっぱい努力した後の失敗は、間違いなく霊的成長の糧となるのです。

私たちスピリチュアリストは失敗を恐れずに、霊的成長と利他愛の実践に向けて常に積極的・前向きに歩んでいかなければなりません。過ぎ去ったことを、いつまでもくよくよと思い悩んでいてはなりません。先のことをあれこれと心配し、取り越し苦労をしていてはならないのです。今、自分の内に「人々のために人生を捧げたい!」という思いがあるなら、それですべて良しとすべきなのです。

ここでは、私たちに勇気を与えてくれるシルバーバーチの言葉を挙げておきます。失敗したときにはこれらの言葉を繰り返し読み、自らを鼓舞してください。

「もしもあなたが何ひとつ間違いを犯さない人だったら、あなたは今、この地上にはいら っしゃらないはずです。間違いを犯す人間だから地上にきているのです。しくじっては、 そこから教訓を学ぶのです。」

「あなた方に一点の非の打ちどころのないものを要求するつもりはありません。よく間違いを犯すものであることを承知しております。人間であるがゆえの煩悩によって過ちを犯しがちであることは十分承知いたしております。」

「しくじったときは立ち直ればよろしい。“しくじる”ということは立ち直れることを意味します。皆さんは不完全な世の中の不完全な存在である以上、かならず失敗を犯します。」

(質問)もう一度やり直すチャンスは、すべての人に与えられるのでしょうか?

「もちろんです。やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。」

(三)霊的成長に対する焦(あせ)りとマンネリ

霊的成長は常にゆっくりと……

「霊的真理に出会って十年以上も経つが、果たして自分は霊的成長をしているのだろうか?」「たまに読書会に参加したときや、瞑想・祈りをしたり霊訓を読んだときだけ心がすっきりするが、それ以外のほとんどの時間は日常の雑事に心を奪われている。霊的成長とは無関係な毎日を過ごしている」「自分は霊的真理を手にしたけれど、現実には真理から懸け離れた生活を送っている。こんな自分では霊的成長などおぼつかない」――このように悩んでいるのは、あなた一人だけではありません。スピリチュアリズムに導かれた大半の人々が、こうした焦るような思いを持っているはずです。霊的成長に対して焦りを感じるのは、皆さん方の魂が、まさに向上しようとしているからなのです。

霊的成長は非常に遅々としたスピードで達成されていくものであり、地上人には、なかなか実感できないのが実情です。しかし三年前、五年前と今とを比べてみれば、その当時にはできなかった考え方や心の持ち方が、少しずつではあっても自分のものになっていることが分かります。実はそれこそが、魂が成長していることの証(あかし)なのです。

霊的成長は、外国語をマスターするよりもはるかに難しく、比較にならないほど時間のかかる大事業です。私たちの心は絶えず揺れ動いているため、いつまで経っても同じ失敗を繰り返しているかのように感じてしまいますが、長い目で見れば確実に成長しているのです。霊的成長の道を歩むに際しては、こうした広い見方をすることも必要なのです。

これまでの歩みを振り返ってみると、自分の心が飛躍したのは、大きな苦しみや困難・悩み・落ち込み・ショックを体験した後であったことに気がつきます。霊的成長の道を歩んでいるかどうかについて、あまり深刻に考える必要はありません。一番大切なことは今――「人々の幸せのために人生を捧げたい!」という思いを持っているかどうかということなのです。他人への奉仕の意欲を持ち続けているなら、霊的成長のレールに乗っていると考えて間違いありません。

“マンネリ”という大きな問題

それとは別に、霊的人生には心のマンネリという深刻な問題があります。霊的真理に出会った当初は、目が覚めるような感動とともに人生が一新したかのような感覚に包まれるのですが、二年、三年と経つうちに、その熱意が徐々に冷めていくようになります。肉体を持って物質世界で生活する以上、当初の高まりをずっと維持することは不可能です。大半の人々が「霊的真理」を繰り返し読む中で使命感と感動を喚起し、スピリチュアリストとしての歩みを続けています。

しかし人によっては最初の感動が冷めるにともない、スピリチュアリズムそのものに対する熱意や使命感を失ってしまうことがあります。そして肝心な霊的人生の目的や霊主肉従の努力といった“霊的生命”に関わることまで、どうでもいいと思うようになってしまいます。これが霊的な“マンネリ”で、こうなると霊的成長はそこでストップしてしまいます。再び何らかのショックや苦しみを受けるまで、霊的意識が取り戻されることはありません。

霊的真理の価値を十分に理解していない人には、しばしばこうしたマンネリという“霊的危機”が訪れます。霊的真理が単なる知識レベルにとどまり、信仰レベルにまで至っていない人の場合には、感動が薄れると同時にスピリチュアリズムの価値も分からなくなってしまうのです。そうした人は、いつまで経っても内面深化の歩みをすることができない人間と言えますが、これには本人の「霊的成長度(霊性)」が大きく関わっています。

霊的成長の道は、外面的な刺激を求める人間には、ある意味では単調で地味な面白みのない生き方であるかのように映ります。しかし「霊主肉従の努力」と「利他愛の実践」に励む者にとっては、毎日が刺激と喜びに満ちあふれた生活となります。“マンネリ”は、霊的真理の実践を心がけていないために“霊的刺激”が欠如して生じる霊的危機です。実践による内面的刺激を得られない人間が、霊的なマンネリ状態に陥ってしまうようになるのです。

霊的人生を最後まで生き生きと歩み通すためには、常に霊的真理によって心を整理する努力が必要です。そのように高い心境を保ち、積極的に利他愛の実践に励むことが大切なのです。