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第2章 霊的真理の実践内容(霊的人生の実際)

地上人生は、ひとえに霊的成長のためにありますが、その霊的成長は、どのようにして達成されるようになるのでしょうか。スピリチュアリズムの霊的真理は、それを実践して霊的成長をなすために与えられたものです。すなわち「霊的真理」は、霊的成長のための指針であり、霊的人生を歩むための手引書なのです。

人間は、霊的真理を実践することによって「霊的成長」を達成していくことになりますが、その霊的真理の実践内容は、大きく次の五つにまとめられます。

  • ①霊主肉従の努力(霊優位のための自己コントロール)
  • ②利他愛の実践(人を正しく愛する)
  • ③霊的真理の普及活動(伝道)――全人類に対する利他愛の実践
  • ④苦しみへの正しい対処
  • ⑤霊的世界とのストレートな交わり(瞑想・祈り)――霊的成長のための強力な手段

以下では、これらの一つひとつについて見ていきます。

(一)霊主肉従の努力(霊優位のための自己コントロール)

「霊主肉従」と「肉主霊従」

私たちの心は、霊本来の意識(霊的意識)と、肉体に由来する本能的意識の二つから成り立っています。地上においては、この霊的意識と本能的意識を“心の内容”として認識しています。ところがこれら二つの意識の方向性は相反しているため、心の中で絶えず霊と肉とが葛藤するようになります。

地上という物質世界にいるかぎり、本能的意識(肉体的意識)が力を持ち、簡単に霊的意識を閉じ込めてしまいます。その結果、本能的意識が心の中心を占めるようになり、心全体が“利己性”を帯びるようになります。こうした心の状態を「肉主霊従」と言います。それとは反対の状態、すなわち霊的意識が本能的意識を抑え、心全体を支配するようになることを「霊主肉従」と言います。「霊主肉従」は、心が霊優位になった状態のことです。地上人の心は、「霊主肉従」か「肉主霊従」のいずれかの状態にあります。また一日のうちでも、この二つの状態の間を揺れ動いています。

地上人は、大きく「霊主肉従」をベースにしている人間と、「肉主霊従」をベースにしている人間の二つに分けることができます。肉体を持っているため、一日中すべての時間を完全な霊主肉従の状態で過ごせる人はいません。誰でも霊主肉従の清らかな時間と、本能的意識(物質的意識)に支配された時間をともに持っていますが、全体として見たとき「霊主肉従」の方が多い場合には「霊優位の人生を送っている」と言えます。

現在の地球上では、霊優位の人生を送っている人はごくわずかです。大半の人間が、物質的欲望にどっぷり浸かった生き方をしています。日常のほとんどの時間が「肉主霊従」となっています。

霊主肉従は、霊的成長のための第一条件

霊的成長をなすためには、心を「霊主肉従(霊優位)」の状態にすることが大前提となります。霊が肉体(物質)に抑え込まれ身動きできない状態では、とうてい霊的成長をなすことはできません。

「霊主肉従」の状態は、霊的エネルギーが取り入れられて霊的意識が大きくなったときに可能となります。心が「霊主肉従」になると、肉欲が消え去り、エゴ的思いがなくなります。そして周りの人々に対して愛の思いが自然と湧くようになります。また心の底から澄み切ったすがすがしさや心地よさを実感するようになります。深い祈りなどによって霊的エネルギーが多量に取り入れられると、心がすっきりして明るくなるのはそのためです。自分の心から利己性が消え去り、周りの人々に対する愛の思いが深くなり、自分自身の心の純粋さに驚くようになります。

それとは反対に「肉主霊従」の状態に陥ると、肉欲の思いが強くなり、重苦しさ・暗さ・寂しさ・虚しさ・孤独感が心を占めるようになります。そして周りの人々に対して批判的な思いが湧くようになります。それは霊的エネルギーが枯渇しているために引き起こされる現象です。現代人の多くが「肉主霊従」の中で寂しさ・虚しさを克服することができず、重苦しい心を持ったまま時を過ごしています。そして寂しさ・虚しさから逃れるために退廃的な娯楽に興じたり、酒やセックスやドラッグに溺(おぼ)れています。

宗教の修行の究極の目的は「霊主肉従」

宗教には、さまざまな戒律や修行法があります。現代人の多くは、こうした戒律や修行を時代遅れのもの・意味のないものとして片付けようとします。しかし霊的真理に照らしてみると、戒律や修行にはそれなりの意味があることが分かります。従来の宗教における戒律や修行は、「霊主肉従」の状態をつくり上げるための手段であったのです。

戒律や修行は、物欲・肉欲にとらわれがちな地上人の心に足枷(あしかせ)をはめ、放縦に流されないようにするための霊的手段です。物欲にまみれた日常意識を断ち切って、より次元の高い心境を持つためには戒律や修行が重要な働きをします。地上の宗教にはいろいろな種類の修行法がありますが、それらの本来の目的は、地上人の心を霊主肉従の状態に導くことにあったのです。すべての修行法の目的は、「霊主肉従をもたらす」という一点に集約されます。

「霊主肉従」のための具体的な実践内容

霊主肉従のための努力とは、物欲・肉欲に流されないストイックな歩みを心がけることに他なりません。スピリチュアリズムの“霊的人生”とは、健全な禁欲的生活を送ることなのです。

では、スピリチュアリズムでは「霊主肉従」のために、具体的にどのような方法を勧めているのでしょうか。私たちは霊優位の状態を保つために、どのような努力をしたらよいのでしょうか。それを整理すると次のようになります。

①肉の放縦にストップをかけるための努力(本能に対して足枷をはめる)

  • ■物質(衣食住)を必要以上に求めたり執着しない。何とか生活できるレベルで良しとし満足する
  • ■飽食・過度の飲酒を慎む
  • ■セックスの放縦に流されない

②霊体と肉体のバランスをとるための努力

  • ■適度な全身運動をする
  • ※汗をかくような全身運動・ヨーガ・呼吸法などは、霊体と肉体のバランスを正常化するのにきわめて有効です。
  • ■入浴・水浴などを上手に利用する

③霊的エネルギーを取り入れるための努力

  • ■霊的真理をじっくり読む
  • ■瞑想・祈りをする
  • ■霊的心境の高い人と会って話をする
  • ■心を高めるような良い音楽を聴く

以上が、霊主肉従のための具体的な実践内容です。ここでは①→②→③と、霊優位のレベルが高くなっていきます。これらを実行するためには、強い決意と忍耐が必要とされます。それなくしては霊主肉従は成功しません。霊的成長の大前提となる「霊主肉従」は、絶え間のない厳しい内面の闘いから達成されるようになるのです。

(二)利他愛の実践(人を正しく愛する)

利他愛一色の霊界

地上と霊界の際立った違いの一つは、地上世界では「利己性・自己中心性」が支配的であるのに対して、霊界では「利他性・利他愛」だけが存在しているということです。霊界では他人に与えること・先に与えることが常識となっていて、自分だけが利益を得ようとする者はいません。自分だけが愛されたい、先に愛されたいと思う人間はいません。こうした利己的な思いを持つと、たちまち心が苦痛を覚え、いたたまれなくなってしまうのです。肉体の異常は痛みとして感じられますが、霊界での利己性という“霊的罪”は、強烈な心の痛みとして迫ってきます。

一方、地上世界では、自分のことよりまず先に他人のことを考える人間は、ほとんどいません。周りの人々の幸せを真っ先に心配する人間は、稀にしか存在しません。もしそうした人間がいるなら、その人は特別な聖人として見なされるようになるでしょう。

しかし霊界では、すべての住人が地上の聖人のような人間ばかりなのです。霊界では、他人に愛を与えること・他人に尽くすことに大きな喜びと楽しさがともなうため、自然と利他愛の実践に向かうようになります。そのため霊界には、利己性という地上の未熟さ(悪)は一切存在しません。利他愛のみが存在するようになっています。何という地上世界との違いでしょうか!

スピリチュアリズムは、霊界で当たり前になっている「利他愛の実践」を地上の常識にしようとする計画です。それによって地上人全員が、霊的成長の道を確実に歩むことができるようにしようとする人類救済活動なのです。

利他愛の実践は、霊的成長の大原則・大鉄則

利他愛の実践を通して、「霊的成長」という地上人生の最大の目的が達成されるようになります。そのため高級霊は、声を大にしてその重要性を説いているのです。利他愛の実践は、霊的成長の大原則であり大鉄則です。それなくしては霊的成長は得られません。利他愛の実践こそ、スピリチュアリズムの真髄であり、神の摂理に一致する道なのです。スピリチュアリズムの実践論は、この「利他愛」に集約されます。

シルバーバーチは、利他愛の重要性について次のように述べています。

「他人のために施した善意は決して消えません。なぜなら善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られるからです。博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し、魂に消えることのない印象を刻み込んでいきます。」

利他愛の第一歩は、霊的視野で相手を見ること

幸いにして私たちが、他の人々に先駆けて霊的真理を手にしたということは、周りの人々に対して霊的に上から愛する立場に立った、ということを意味します。では、先に真理を知った者としての「正しい愛(利他愛)の実践」は、具体的にどのようなことから始まるのでしょうか。

利他愛の実践の第一歩は――周りの人々を「霊的視野で見る」ということです。霊的視野に立って相手を眺めるとき、自然と“祈り”の思いが湧き上がってくるようになります。そうした祈りの思いを持つことこそが利他愛の出発点であり、相手に対して真実の愛を注ぐことになるのです。

目の前の人を霊的視野から眺め、自分と同じように神によって造られた存在であり、永遠の霊的成長の道を歩んでいる人間であることを思い起こしてください。そして肉体の奥にある“魂”が、真実のその人であることを確認してください。どのような人間であっても自分と同じ「神の子供」であり、神の家族の一員であり、霊的兄弟姉妹であることに思いをめぐらせ、一刻も早く真理を受け入れられる時がくるように心から願ってください。

「すべての人々が少しでも早く霊的人生を歩めるようになってほしい」との祈りの中には、いかなる物質的な援助やボランティアよりも、深くて大きな愛が含まれています。それは霊界にいる高級霊たちが、地上人の幸せのために全力を傾け、働きかけているのと同じ愛の行為と言えます。霊界人と同じ視点に立ち、最高の利他愛を実践していることになるのです。

単なる同情心だけでは駄目――霊的視野から相手の霊的成長を願うことこそが“真実の愛”

利他愛を実践するうえで大切な注意点があります。それは同情心は持たなければならないけれども、決してそれに流されてはならない、ということです。霊的真理を知らない一般の人々は、同情心を持って手を差し伸べることが愛であるかのように思っていますが、必ずしもそうではありません。相手が困っているときに手を差し伸べることは確かに優しさであり愛の行為なのですが、その人間の「霊的成長」を考慮すると、安易に手を貸してはならない場合があるのです。親切心・同情心からの手助けが相手の霊的成長を妨げ、かえってマイナスになることがあるのです。

本人の霊的成長やカルマ清算のために、苦しみの体験がどうしても必要なことがあります。そうした状況に置かれている人への正しい愛の示し方とは、ただ単に同情したり、安易な慰めの言葉をかけることではありません。一番よいのは、本人がその苦しみを自分で乗り越えられるように見守り、そっと陰で祈ってあげることなのです。それが“真実の愛”の在り方になるのです。

身体や精神に障害のある人を前にすると、誰もが「かわいそうに、気の毒に」と思ってしまいます。そうした同情心は人間として持つべき当たり前の感情です。しかし、それと同時に「霊的視野」から相手を見ていかなければならないのです。

シルバーバーチは障害者についての質問に、次のように答えています。

「同情心を失ってはいけません。が、同時に一つひとつの現象の背後に、因果律の機械的法則があることも忘れてはいけません」

第一部「人間の運命」の箇所でも述べましたが、心身のハンディキャップは、実は再生に先立って「魂の成長」のためにわざわざ本人が希望したものであることが多いのです。霊的成長にとっての必要性から、あえて本人が選んだ試練であるということです。こうした霊的な理由に照らしてシルバーバーチは――「お気の毒と言う必要さえありません」と述べています。

霊的視点に立てば、心身に障害があることは決して不幸ではありません。それどころか霊界に入ってから受ける喜びを考えるなら、むしろ幸せと言うべきなのです。永遠の霊界という観点からするなら、その苦しみの体験はほんのわずかな期間にすぎません。霊界に行けば、身体の不自由は全くなくなります。肉体を持っている間の苦しみは、霊界において何十倍もの幸せをもたらすことになるのです。

霊的に見たとき本当に不幸なのは、身体の不自由な人や精神に障害を持った人ではありません。五体満足でありながら霊的真理を知らず、霊的成長とは無縁な人生を送る人間のことです。魂の成長にとって必要な苦しみの体験を避け、楽しみやこの世の富や名声ばかりを追い求めて生きる人間のことなのです。

障害のある人を前にすると、つい同情心だけで眺めてしまいます。しかしその人にとっても霊界が本来の生活の場であり、地上は一時的な滞在場所にすぎないという霊的事実を思い出すなら、同情心を持ちつつも冷静に相手の霊的成長を願えるようになります。自分の家族が障害者であっても、それほど悲しんだり絶望するようなことはなくなります。

私たちは、心身の障害を持った本人ならびに家族に対し――「地上の苦しみに耐えてカルマを切り、霊的成長の道を歩んでください」と祈ってあげるべきです。そうした“祈り”は、同情の言葉を口に出して言うよりも、はるかに深い愛の行為なのです。

――重度の精神薄弱者の場合は、自分で自分のことを自覚していないように見えますが、実は本人の霊的意識においては、きわめて大きな苦痛を味わっています。こうしたケースは、前世でつくった重いカルマの罪滅ぼしであることが多く、摂理の働きによって半強制的に再生人生を歩まされているのです。

また、そうした人間を抱えた家族は当然、苦しみの体験をすることになりますが、その運命を喜んで受け入れることによって必要な罪の償いがなされていくようになります。

自分にできる精いっぱいの援助をする。どのような人にも分け隔てなく愛を示す

利他愛とは、自分より恵まれない人々に手を差しのべる行為です。困っている人々のために誠心誠意、見返りを期待せず、自分の持っているものを与え援助してあげることです。こうした無償の行為が利他愛の実践です。

この際、大切な点は――「自分の好みでない人に対しても平等に与える」ということです。同情心を持てる人に手を貸すのは、誰にとっても容易なことですが、自分にとってイヤな人間・好みでない人間に対して無償の行為をするのは、とても難しいことです。しかし自分の気が向かない人には奉仕できないというのであれば、その人の行為は本当の利他愛とは言えません。それは単なる自分の好みの行為にすぎなくなり、“霊的価値”はありません。 利他愛においては、どのような奉仕をするのか、どのようなボランティア活動をするのかということよりも、「自分の好みでない人に対しても分け隔てなく与えることができるかどうか」という心の姿勢が重要となるのです。

こうした観点に立ってみると、この世の人間関係(夫婦・親子・家族・仲間など)の在り方には、よくよく注意が必要となります。地上の人間関係の根底には、動物本能の名残(なごり)である“利己性”が潜んでいます。家族のために自分を犠牲にしているというだけでは、本当に利他愛があるとは言えません。人類のためなら大切な家族さえも犠牲にできるというときのみ、「真実の愛(利他愛)」が存在するようになるのです。利他愛こそ真実の愛であり、霊的な愛なのです。

そうした霊的な愛によって家族が結ばれたとき、死後においても愛の絆が続くことになります。本能(血縁)レベルでのつながりしかない場合には、霊界に入ると家族はバラバラになってしまいます。

地上は、利他愛の実践の訓練場

霊界では霊的成長レベルの等しい者同士が一つのグループをつくって生活しているため、初めから深い愛の関係を築くことができるようになります。

それに対して地上では、霊的成長レベルの異なる人間が同一平面上に住んでいるため、愛の実践にはさまざまな困難がともなうようになります。真実の愛の関係をつくるためには多くの努力が必要とされます。まさしく地上世界は――「真実の愛(利他愛)の実践」を通して霊的成長を達成する訓練場として神が用意した所なのです。

(三)霊的真理の普及活動(伝道)――全人類に対する利他愛の実践

これまで私たちの周りの人々に対する利他愛の実践について見てきました。今から見ていく霊的真理の普及活動、すなわち伝道は、全人類を対象とした利他愛の実践です。私たちは霊的真理の普及活動に誠心誠意を尽くして取り組むことで、全人類を愛し、自らの霊的成長を促すことができるようになります。

こうした意味で伝道は、まさに「最高の利他愛の実践」と言えます。

霊的真理の普及活動は、最高の人類愛の実践

人間にとって一番重要なことは霊的成長です。その霊的成長は「霊的真理(神の摂理)」にそった実践の努力を通して可能になります。こうした点を考えると、いまだ霊的真理を知らない人々に真理を伝えることは、人間に対する最高の愛を実践していることになります。相手に永遠の幸福に至る道を示し、真の霊的救いをもたらすことができるからです。利他愛は他人に対する無償の行為ですが、「霊的真理の伝道」は目の前の人間の次元を超えて、全人類を対象とした最も次元の高い利他愛の実践・全人類に対する究極の奉仕活動となるのです。

目の前の一人の人間に霊的真理を手渡すことは、実は地球人類の中の一人に真理を伝えることを意味しています。それは地球人類全体を対象としたスケールの大きな利他愛の実践・人類愛の実践そのものなのです。霊界人が地球人類を救済するために総力を挙げて働きかけている純粋な利他愛を、地上レベルで展開していることになるのです。

こうした意味で「霊的真理の普及活動」は、最高の利他愛の実践・最高の人類愛の実践と言えます。そしてそれに携わることができるのは、先に真理を手にした“スピリチュアリスト”だけなのです。「最高の人類愛の実践に携わることができる」という点で、スピリチュアリストは誰にも真似のできない恵まれた立場を与えられているのです。

時期のきた人との出会いを待つ

霊的真理の普及活動(伝道)が最高の人類愛の実践であるとしても、誰かれ構わずやみくもに真理を押しつけるようなことをしてはなりません。真理を受け入れることができる「時期のきた人に手渡す」――すなわち真理に関心を持ち、自分の方から求めてくる人間に真理を伝えるというのが正しい伝道の在り方です。

ある人が、それまでの苦労を通して真理を受け入れられるレベルにまで霊的に向上すると、本人の守護霊や背後霊が導いて、私たちと出会うように仕向けてくれます。したがって私たちは、そのチャンスを逃さないように常に気を配ることが必要となります。

これはと思った人には、とりあえず霊的真理についての話をしてみます。本当に時期のきた人なら、それだけで目が覚めるような反応を示すはずです。少し話をしてみて全く反応がなかったり、拒否するような場合は、その人にはまだ時期がきていないと判断できます。そのようなときには、いずれ真理を受け入れられる時期がくることを祈って、それ以上は無理に押さないようにします。

霊的真理の種蒔(ま)きに徹する

私たちがなすべき「霊的真理の伝道」はここまで、ということです。相手が真理によい反応を示すと、ついつい過大な期待をしてしまいがちですが、その後のことはすべて本人に任せなければなりません。手にした真理を活用するかしないか、真理に対する理解を深めていくかどうかは、ひとえに本人の責任であり、他人が干渉することではないからです。私たちの役割は、時期のきた人に真理を伝えるところまでです。霊界の人々によって霊的真理のある場所に導かれてきた相手に対して、真理を手渡すことが役目なのです。

私たちがなすべき愛の行為は―「一人でも多くの時期のきた人に真理を伝える」ということです。こうした形での霊的真理の“種蒔き”が、スピリチュアリズムの伝道です。無理やり真理を押し付けたり、自分が教育して引き上げようなどといった自己流のやり方をしてはなりません。時期のきた人との出会いはなかなかやってきませんが、辛抱強く祈り続け、霊界の人々の導きを信じて歩む中で、いつかきっとそうしたチャンスが訪れるようになるものなのです。

(四)苦しみへの正しい対処

霊的成長にとって必要な苦しみの体験

苦しみは、私たちの霊的成長にとって不可欠な要素であり、その多くが「悪いカルマ(摂理に反した行為)の償い」として発生します。苦しみに正しく対処することによってカルマが清算されますが、それだけでなく魂が鍛えられ、霊的視野が広がり、人生に対する洞察力が深まります。こうして霊的成長が促されることになるのです。

問題は、私たちが苦しみに直面したときに正しく対応することができるかどうか、ということです。

霊的真理を実際に活用する

苦しみに直面すると、いつの間にか霊的視野を失い、自分なりの狭い世界の中に埋没してしまいます。こうした弱さは誰もが持っていますが、そこでもう一度「霊的真理」に照らして自分の視野を広げることが必要となります。苦しみの意義を確認し、心の持ち方を真理にそわせることが大切です。その努力しだいで、苦しみの体験を霊的成長にとって有益なものにできるかどうかが決定されます。真理を活用できる者とできない者との差が、そこで生じるのです。

苦しみに遭遇したときに、自分なりの判断をし、感情のおもむくままに流されてしまうとするなら、せっかく霊的真理を手にしたことの意味がなくなってしまいます。霊的真理は実際に用いるために与えられたものであり、真理を知っても活用しないなら、何の価値もないことになってしまいます。自らを、ひたすら真理に従わせる謙虚な姿勢が求められるのです。

苦しみに遭遇したときの霊的真理の確認内容

苦しみの中に立たされたときには、次のような霊的真理を思い起こし、強く自分に言い聞かせてください。苦しみにとらわれそうになったらその度ごとに、一日に何度でもこの内容を読み返して霊的視野を取り戻し、自分の心を広く明るくしてください。

  • ■地上人生において苦しみのない人はいない。自分だけが苦しいのではない。何の問 題もないように見える人、幸せそうに見える人も皆、悩みを持っている。苦しみは人 間の霊的成長に必要なものであり、実は良いものである。
  • ■地上での苦しみは、ほんのわずかな期間にすぎない。この苦しみを我慢すれば、霊 界では何十倍もの喜びがもたらされるようになる。
  • ■今こそ裸になろう。見栄(みえ)を捨て新しく生き直そう。人の目や評価などは、どうでもいいことである。またこの世の物質的な富や幸せは取るに足りないものであり、死とともに消滅してしまうものである。霊界に持っていけるのは魂の清さだけである。
  • ■守護霊が常に自分とともにいて、最善の導きをしてくれる。本当の幸せに至れるよ うに心を砕き、愛し続けていてくれる。決して独りぼっちではない。だから守護霊を 信頼して歩めば、最高の道が開かれる。

苦しみに動じない心の確立

地上にいる間は、なかなか苦しみの意義を理解できず、ただ辛いこと・イヤなことのように思ってしまいます。しかし霊界へ行ってみると、苦しみのない地上生活には何の価値もないことが実感できるようになります。霊的真理を知った私たちは、苦しみを正面きって受け止め、これを霊的成長の糧としていかなければなりません。

そのためには、今あげたような「霊的視野」に立った心の持ち方を確立することが必要となります。地上の苦しみを霊的視野から眺めて小さなものに位置づけするなら、いかなる苦難に遭遇しても平常心を保つことができるようになります。堂々と困難に立ち向かうことができるようになります。霊的視野は最高のポジティブ・シンキングであり、“霊的楽天性”を持って人生を送るための秘訣(ひけつ)なのです。

シルバーバーチは次のように述べています。

「要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。十分な理解がいけば苦しい思いをしなくなります。また、すべきではありません。」

「それによって苦しい思いをするか否かは、あなたの進化の程度の問題です。」

「苦しみを何とも思わない段階まで到達すると、いかなる環境にも影響されなくなりま す。」

(五)霊的世界とのストレートな交わり(瞑想・祈り)――霊的成長のための強力な手段

“祈り”は、霊的成長のための強力なサポート

古来より多くの宗教では瞑想や祈りが勧められてきましたが、それは体験的に、瞑想や祈りに霊的効果のあることが実感されていたからです。

スピリチュアリズムでも“祈り”の重要性を強調します。いずれの霊界通信においても、瞑想・祈りの大切さを説いています。とは言っても、祈りによって霊的成長がなされるようになるわけではありません。多く祈ったからといって霊的成長が早く達成されるわけではありません。祈りは、どこまでも霊的成長のための一つの手段にすぎません。しかし祈りは霊的人生を歩むうえで、強力な助けとなり、大きな影響力を持っています。その意味で祈りは、霊的成長をなすための不可欠な実践内容と言えます。

さて“祈り”を実践しようとすると、「どのように祈ったらよいのか?」「何を祈ったらよいのか?」「正しい祈りと間違った祈りの違いとは何か?」など、あれこれと疑問が湧いてきます。

以下では霊的真理に照らして、祈りの意義と正しい祈りの方法について見ていきます。

何のために瞑想・祈りをするのか?――“祈りの目的”

地上世界では、肉体の鈍重さのために霊本来の力を発揮できなくなっています。地上で肉体をまとって生活するのは、重い鎧(よろい)のような衣服を着て運動をしたり、潜水服を着て水中で作業をするようなものと言えます。

地上で霊的成長をなすためには、まずこの肉体(物質)の壁を打ち破り、霊的意識を心の中心にする努力(霊主肉従の努力)をしなければなりません。心を「霊主肉従」の状態にしないかぎり霊的成長は得られず、動物と等しい本能だけに支配された人生を送るようになってしまいます。こうした霊を束縛する肉体の覆いを突き破り、霊的意識を前面に出すための行為が「瞑想・祈り」なのです。

人間は正しい瞑想・祈りの実践を通して霊的意識を高め、霊主肉従という霊的コントロールの力を得ることになります。

祈りの準備段階としての“瞑想”

瞑想は、祈りに先立って日常の意識を遮断(しゃだん)し、霊的意識を呼び戻すもので「祈りの準備段階」と言えます。古来よりいろいろな瞑想法が説かれてきましたが、スピリチュアリズムでは、自分に合ったものを見つけ出せばよいとします。あまり凝(こ)った瞑想法は必要ではなく、それほど効果も期待できません。「霊主肉従」という目的を達成できるなら、どのような方法(瞑想)でもよいのです。

日常生活の喧噪(けんそう)から離れ、一人静かな環境に身を置いて目を閉じると、たちまち意識は霊本来の世界へと向くようになります。こうした静寂の状況に入ると、霊と霊との共鳴度が高まるため、守護霊や背後霊は霊的影響力を行使しやすくなります。「日常の物質的意識を遮断して霊的意識を覚醒する」「霊的意識を引き上げることによって守護霊や背後霊との共鳴度を高め、霊界からの援助・影響力をより強く受けられるようにする」――この二つの点に瞑想の効果は言い尽くされます。

なかなか祈りができないときには――祈りのためのウォーミングアップ

目を閉じた瞬間に雑念が消え、霊的意識がたちどころに戻ってくるのが理想ですが、実際にはなかなかそうはいきません。日常生活でのストレスや心配ごとが重なったり、心身の疲労がたまっていると、意識の切り替えはとても難しくなります。そうしたときに無理やり祈りをしても雑念が湧いてくるばかりで、意識を集中できないまま、だらだらと時間だけが過ぎ去ってしまいます。

そのような場合には、瞑想や祈りをすることよりも「霊的真理(高級霊の霊界通信・霊訓)」をじっくりと読む方がよいのです。霊的真理が私たちの心を強力に霊的世界へと誘(いざな)ってくれます。真理を読み進めるうちに、やがて霊本来の意識を取り戻すことができるようになります。心が高まりすっきりしたなら、その時点で祈りの前段階としての“瞑想”の効果は、すでに得られたことになります。そこで“祈り”に入っていけば、驚くほど意識はグングンと深い世界へ引き込まれていくようになるはずです。

もし霊的真理を読んでもなかなか日常意識をふっきれないときには、次のようなさまざまな対策を講じるようにします。

  • ■ヨーガ・呼吸法などをする
  • ■心を静め高める良い音楽を聴く
  • ■自然散策・散歩などをする
  • ■霊的にすっきりした人と会って話をする
  • ■水浴・断食などをする
  • ■運動をして汗を流す

これらは、いずれも「霊主肉従」を推し進めるための方法です。ここで最も大切なことは、心を覆っている物質的意識と闘って勝利しようとする気迫です。日常の意識を拭い去って心がすっきりするまで、諦めずに努力し続ける忍耐が必要です。気力を振りしぼってこれらを実行してみると、必ず心は清々しくなり、明るくなっていきます。

“祈り”は、神に対する率直な語りかけ

祈りは、神に向けての率直な語りかけです。瞑想が物質世界とのつながりを遮断し、霊的意識を取り戻すことを目的としているのに対し、祈りは神に向けての働きかけであり、直接的な霊的触れ合いを求めることです。神の懐(ふところ)に飛び込むことなのです。

私たちの祈りは、霊界の天使や守護霊を通じて神に届きます。祈りの方法は、基本的には人間に語るのと同じです。一人の人間に向かって話しかけるのと同じようにすればよいのです。祈りの場は、まさに神と自分という「一対一の聖域」となります。

何を祈るのか?――“祈りの内容”

さて、ここで問題となるのが「何を祈ったらよいのか?」ということです。神も守護霊も、祈る私たちの心の内をすべて知っています。私たちの霊的成長にとって必要なものや過去のカルマの内容、また今後どのような人生を歩むようになるのかも知っています。こうした相手を前にして、「いったい何を祈ったらよいのか?」ということになります。自分のすべてを知っている相手に対して、「わざわざ祈る必要があるのか?」という疑問が湧いてきます。

しかし、それでも祈りは不可欠な霊的行為なのです。祈りは、きわめて有意義な霊的実践なのです。なぜなら、それを通して確実に神との霊的触れ合いが深まり、霊的成長にとってプラスとなる、さまざまな力を与えられるようになるからです。

祈りの実践においては、神に対する最低限のマナーを守らなければなりません。まず神に祈ってよいことと悪いことがあります。自分に都合のいいご利益や霊的成長とは無関係なことを求めたり、因果律を無視したような身勝手な願い事をしてはなりません。そうした祈りは、私たちの霊的成長を願い導いてくれている神や守護霊に対して失礼にあたります。ご利益を求める祈りは“利己主義”そのものであり、霊的成長にとってマイナスになるだけの愚かしい行為です。間違った祈りは、霊的真理についての無知から生じる利己的な要求にすぎません。そのような祈りを、神がまともに受け取るはずがありません。それどころか“低級霊”のイタズラやカラカイを引き出すことになってしまいます。

この意味からすると、地球上の大半の宗教者の祈りは失格です。最低限のマナーさえ守っていないからです。正しい祈りは、霊的真理を正確に理解したうえでのみ可能となることなのです。

正しい祈りの内容とは、次のようなものです。

  • ■霊的真理にそって、もっと自分の心を成長させたい。だからその道を援助してほしい
  • ■魂成長のための苦しみに耐える力を与えてほしい
  • ■自分の醜い心をなくし、弱い心を強くしてほしい
  • ■自分の心に、もっと深い愛をやどらせてほしい
  • ■周りの人々が、少しでも早く真理を受け入れ幸せになってほしい
  • ■時期のきた人に出会わせてほしい
  • ■もっと人々のために働かせてほしい。自分を道具として役立ててほしい

こうした純粋な祈りなら、神は聞き届けてくれます。「人のために役に立ちたい、奉仕したい!」という心からの願いは、地上に神の道具となる人間が出現することを待ち望む高級霊たちを惹きつけることになります。摂理の範囲内で、最大限の導きや援助をしてくれるはずです。声に出して(小声で)祈ることは、時にはとてもよい方法となります。声に出すことで自分の考えている内容が明確になり、祈ってよいことと悪いことの区別も明瞭になるからです。

言うまでもないことですが、祈りに際しては、まず自分の心を「霊的真理」で整理しなければなりません。真理によって自分の心の中の不純な思いを払拭した後に、祈りに臨む(神に語りかける)ということです。