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第9章 スピリチュアリズムと地上の宗教

スピリチュアリズムは、世間一般では一つの宗教のように思われています。なぜならスピリチュアリズムは、従来の宗教と同様、神・死後の世界・魂の成長・魂の救いといった純粋な宗教的テーマを取り扱っているからです。

しかしスピリチュアリズムは、その成立背景や目的において、従来の宗教とは根本的に違っています。スピリチュアリズムは、これまでの宗教の一つ(one of)と考えるべきものではなく、「スピリチュアリズム対全宗教」という構図のもとでとらえるべきものです。スピリチュアリズムは地上の宗教を超越した宗教という意味で、まさに「超宗教」なのです。

(一)スピリチュアリズムと地上の宗教との違い

最初に重大な結論を述べることになりますが、現在地上に存在するすべての宗教は、遠い将来、必ずスピリチュアリズムに吸収されていくようになります。以下では、その理由を列挙していきます。それを通してスピリチュアリズムが、地上に存在する他の宗教とは本質的に異なるものであることを理解していただけるものと思います。

“主役”の違い

まず第一に、スピリチュアリズムと他の宗教では、それぞれの主役が全く違うということです。『スピリチュアリズム入門』でも述べましたが、スピリチュアリズムは高級霊界の計画によって始まった大規模な「地球人類救済プロジェクト」です。ここで重要な点は、その出発がすべて霊界側からなされている、ということです。そして現在も霊界を挙げての組織活動によって、地上に向けての働きかけがなされています。地上のスピリチュアリストは、こうした霊界の大軍団の一員として、また霊界の道具として働くことになります。

それに対して地上の教理宗教は、その大半が“教祖”といわれる一人の人間から出発しています。そして教祖を中心とする組織を形成して、活動を展開してきました。そこでの宗教活動は、地上人の思惑や判断によって進められてきました。ゆえにその主役は、どこまでも地上の人間ということになります。

このようにスピリチュアリズムと地上の宗教では、その“主役”という点で根本的に違っています。スピリチュアリズムの主役が高級霊界という壮大なグループ(*言い換えれば霊界の上層のすべて)であるのに対して、地上の宗教は地上の人間が主役なのです。スピリチュアリズムは、計画の立案と現実の活動のすべてが、組織化された霊界の高級霊たちによってなされています。

――地上の宗教の中には、今述べたような教理宗教(*教祖・教義・教団を有するもの)以外に、アニミズムに代表される自然崇拝宗教があります。そこには教理宗教のような教祖はいませんし、教義もありません。こうした“自然宗教”は、人間を超越した霊的存在や神秘的霊力を畏(おそ)れ敬い、儀式がその宗教行為の中心となっています。日本の神道もこれに類する宗教と言えます。

“真理の次元”の違い

スピリチュアリズムと地上の宗教との二つ目の違いは、そこで説かれる真理の質(次元)です。スピリチュアリズムを通して地上に届けられる真理は、高級霊界において等しく認められているものです。霊界における常識というべき霊的知識が送られてくるのです。

さて、ここで重要な点を確認しておかなければなりません。それは霊界人の霊的世界に対する認識能力は、地上人とは比べものにならないということです。天と地ほどの差があるのです。私たち地上人は毎晩、睡眠中に肉体から離れ、霊界にいる他の霊と交わったり霊界のいろいろな所を見学していますが、そうした自分自身の体験さえも覚えていないのが実情です。まして出生前に霊界で、これからの再生人生についてあれこれ考えをめぐらせて生まれてきたという事実を記憶している人間は、一人もいません。それが私たち地上人の霊的認識能力の実際であり限界なのです。

この一例から分かるように、地上人が認識できる霊的事実はきわめて限られています。それは地上の人間が“脳”を介して「霊的意識」を自覚するようになっているからです。脳は霊的意識を受信する物質的器官ですが、霊的意識のほんの一部分しか伝えることができません。そのため人間は、霊的意識のほとんどを自覚することができないのです。地上人(宗教者・芸術家・音楽家・科学者など)の中には、霊界からのメッセージを“インスピレーション”という形で受け取っている人間もいますが、それさえ本来の内容のごく一部分にすぎないのです。

これと同じで、地上の宗教の教祖がいかに優れた霊能力を持っていたとしても、その人間が受け取ることのできる霊的メッセージは、非常に限られたものになります。地上人が脳を介して知り得る霊的知識は、霊界の一般人が常識として知っている知識のほんの一端にすぎません。そのわずかなインスピレーションや霊的知識が、素晴らしい悟りとして地上人に受け入れられてきたのです。こうしたことを考えてみると、地上の宗教の中に霊的真理が含まれているとしても“教祖”という一人の人間を通してのものであるかぎり、初めから限界があるということなのです。

それに対してスピリチュアリズムの場合は、霊界のすべての高級霊によって共通に認識されている霊的知識が、ストレートに伝えられるようになっています。高級霊ともなれば霊的事実に対する認識能力は、地上の霊能者の何百、何千倍にも及びます。そうした高級霊たちが何億、何十億人といて、彼らが等しく受け入れている真理(霊的知識)が、霊界通信を通して地上にもたらされるのです。地上の宗教の教義と次元が違うのは当然です。

実際にスピリチュアリズムの真理体系と地上の宗教の教義を比較してみれば、その違いは一目瞭然です。高級霊によって明かされたスピリチュアリズムの真理は、いずれの宗教と比較しても、はるかに優れています。スケール・総合性・深さ・純度・論理的一貫性・実用性・多分野への応用性――どの点をとっても卓越しています。しかも、それが誰にでも理解できるようにシンプルに、分かりやすく説かれているのです。

スピリチュアリズムによって示された「霊的真理・霊的知識」は、これまで地上の宗教を通して部分的にもたらされてきた知識を包括・総合するものとなっています。スピリチュアリズムの「霊的真理」は、地上のすべての宗教の頂点に立っています。したがってスピリチュアリズムの真理を基準として、これまでの地上の宗教の教義の、どの部分が正しくて、どこが間違っているのかを適確に判断することができるようになるのです。

“真理普及の方法”の違い

スピリチュアリズムと地上の宗教との三つ目の違いは、霊的真理の普及(伝道)の方法です。地上の宗教は、教団の勢力拡大をはかるために、激しい宣伝や強引な伝道をします。そして無理やり強制的に、相手に真理を押しつけます。一方、最近では、現代文明の利器(テレビなどのマスメディア)を活用した大衆伝道が活発に行われています。

しかしそうした伝道方法は「霊的成長」という点から見ると、きわめて不自然な方法であり、摂理に一致していません。強引に人数を増やそうとすると、選民意識や特権意識を植えつけたり、(罰(ばち)があたるといった)恐怖心や人間の弱みにつけ込んだ洗脳的手段を取らざるをえなくなります。これが今日までの多くの宗教が行ってきた伝道の実態です。そこにあるのは、もはや魂の向上や救いとは無関係な“宗教組織のエゴ”だけなのです。

では、スピリチュアリズムにおいては、どのようにして霊的真理を普及しようとしているのでしょうか。スピリチュアリズムの伝道とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。結論を言えば――「霊的真理を受け入れることができるレベルにまで霊的成長をした人間の一人ひとりに、順に真理が手渡される」という形で進んでいきます。地上人が苦しみや困難を通して一定の霊性レベルにまで成長すると、ごく自然な形で霊的真理と出会うような道が展開します。背後の霊の導きによって真理との出会いの機会が与えられるのです。

このようにしてスピリチュアリズムは、霊界の高級霊の強力な働きかけのもとで世界中に普及していくことになります。そして時期のきた人間が、一人また一人と霊的真理に出会い、霊的に覚醒して新しい“霊的人生”を歩み出すようになっていきます。「先に真理を知った者が、それを他の人に伝えていく」というごく自然な形で、霊的真理は広まっていくようになります。静かではあるけれども着実に、そして後退することなく全世界に普及していくようになるのです。

真理の次元においても、人類に対する貢献度・救いという点においても、スピリチュアリズムに匹敵するものがない以上、それは時代とともに必ず世界の隅々まで波及していくようになります。もちろん人間には“自由意志”が与えられているため、真理普及の時期が早くなったり遅くなったりする可能性はあります。しかしスピリチュアリズムの主役・推進役が宇宙で最強の高級霊の大軍団である以上、遠い将来には、間違いなくスピリチュアリズムの霊的真理は世界中に普及することになります。そして地球人類共通の人生の指針・生き方の常識になっていきます。

霊的真理普及の影響は、個人や宗教の領域だけにとどまらず、地上のあらゆる分野(政治・経済・国際関係・科学・医学)にまで及んでいきます。それにともない地球上に悲劇を蔓延させてきた元凶である「物質至上主義」と「利己主義」は消滅していくことになるのです。

(二)スピリチュアリズムとキリスト教

スピリチュアリズムは欧米のキリスト教圏の中から現れました。そのスピリチュアリズムの説く内容がキリスト教の教義を根本から否定するものであったため、当初より現在に至るまで、キリスト教会からの激しい反対や多くの妨害・迫害に遭遇してきました。そうした逆境を乗り越えて、スピリチュアリズムは発展してきたのです。そして現在では、キリスト教会がどれほど反対しても、もはやスピリチュアリズムの勢いを阻止することはできない状況に至っています。

キリスト教会は、勇気を持って教義の誤りを認め再出発をはからないかぎり、人々から見離されてジリジリと衰退し、内部崩壊・自滅という道をたどらざるをえなくなります。とは言っても、現在の地球上の宗教の中で最大の力を持っているのはキリスト教であり、スピリチュアリズムにとって今しばらくは“最大の敵”ということになります。

ここでは「霊的事実」の観点から、キリスト教の問題点を整理してみます。

霊的事実と懸け離れたキリスト教の教義

キリスト教の最大の問題点は、その教え(教義)自体が霊的事実と著しく懸け離れている、というところにあります。キリスト教はこの二千年の間、偽(いつわ)りの教義で人々の心を支配してきました。それは単なる偽りというだけにとどまらず、人間にとって最も大切な霊的成長を根本から阻害し、停滞させるという“大罪”を犯してきたのです。

その偽りの教義の中で最も有害なものが“贖罪(しょくざい)思想”です。「唯一の神の子イエスが身代りの血を流し、このイエスを信じることによって人間は救われるようになる」という教えです。しかし霊界のどこを見ても、そうした事実はありません。「自分の魂を救うのは自分だけである」――これが神の造られた「因果の法則」であり、そこに例外はありません。イエスを信じたというだけで救われた人間は、霊界には一人もいません。罪を贖(あがな)ってくれる救い主は不要です。「人類始祖の堕落により全人類が原罪を持つようになった」という聖書の記述は単なる比喩(ひゆ)であり、霊的事実として原罪は存在しません。「イエスが十字架の死によって人間の罪を贖い、そのイエスを信じれば救われる」という教えは、後世の人間が勝手につくり上げた空論であって霊的事実ではありません。

当然のこととして「終末の審判によって復活に与(あずか)り、永遠の生命を得るようになる」という説も間違いです。

聖書は神の言葉ではない

クリスチャンは聖書を“神の言葉”として無条件に信じています。たとえその中に矛盾があっても、根本的に神の言葉である以上、そのまま信じるべきものとしてきました。そのため今述べたような理性的には矛盾だらけの教えも、神の言葉として受け入れられてきたのです。クリスチャンにとっては、自分の理性が納得できるかどうかよりも“無条件に信じる”ことが重要であったのです。

重大な結論を言えば、聖書は神の言葉ではありません。神の啓示を記したものではありません。聖書の記述の多くは人間の手によってつくり上げられたものであり、まさに人工の書物と言うべきものです。聖書には、意図的に書き加えられた霊的事実に反する内容が数多く含まれています。イエスの言行を弟子たちが記したとされる『福音書』そのものが非常に曖昧(あいまい)で、成立過程において人為的要素がかなり付け加えられています。イエスの誕生というきわめて重要な記述についても、マタイ伝とルカ伝では全く内容が異なっています。聖書は一応、西暦九十年に完成したことになっていますが、それは編集して書物の形にまとめられたというだけのことであって、それ以前にもその後にも、多くの改ざんがなされているのです。

聖書の解釈をめぐって、いくつもの宗派が生まれました。しかし聖書が人工的な教えや比喩(ひゆ)によってでき上がっているものである以上、文字づらの解釈だけに走れば、新たな矛盾・問題を生み出すようになります。もともと矛盾だらけの聖書を、いくら論理的に解釈しようとしても無意味なことなのです。

政治的陰謀によってつくり上げられたキリスト教の“根幹教義”

キリスト教の間違った教義の形成に決定的な影響を及ぼしたのが、西暦三二五年にニケーアで開催された宗教会議です。このとき政治的陰謀によって「イエスは神である」との教義が強行採択され、キリスト教の正統教義となってしまいました。

時のローマ皇帝コンスタンティヌスは、ローマ帝国内の宗教対策としてイエスを神とするキリスト教をつくり上げ、これを国教にしようと考えました。歴史上、コンスタンティヌス帝はキリスト教を国教にした賢帝として称(たた)えられていますが、実際には、真実とは全く懸け離れたキリスト教をでっち上げ、これを政治的に利用しようとしただけのことだったのです。コンスタンティヌスによるその陰謀のあらましが、歴史的資料によって明らかにされています。

それによればローマ全土の神学者を集めた“ニケーア公会議”の表向きの目的は、ギリシャの神学者アリウスの説「イエスは神ではない」を討議するというものでした。しかし会議で自分の望む案がアリウス派によって否決されると、怒ったコンスタンティヌス帝はローマ兵に命じてアリウス派を力ずくで会場から追放し、残った皇帝派の三百人でイエスを神とする教義を採択してしまいました。時代が下(くだ)り十九世紀に至って、このときに追放されたアリウス派の司教たち(*千五百人から千七百人と言われる)の書き残した記録や交換文書が発見され、事の真相が明るみに出されるようになりました。その資料をまとめた書物が一八八六年に出版され、大きな反響を巻き起こしました。

この資料は、現在まで受け入れられてきたキリスト教の“根幹教義”が政治的策謀によって人工的につくり上げられたものであることを証明しています。キリスト教における根幹思想が、人間の権勢欲からつくり出されたものであることが歴史的資料によって明らかにされたのです。しかし遺憾(いかん)ながら今日まで、キリスト教会はこの資料をまともに受け止めようとはしてきませんでした。聖書は神の言葉ではなく、政治的陰謀によって人間がつくり出した書物であることが、多くの考古学資料(外典資料)を通して、今後さらに明らかにされていくようになるでしょう。

スピリチュアリズムが明らかにした“イエスの実像”

聖書に見られるイエスの言葉には、生前のイエスが語ったものではない内容も含まれています。初期のキリスト教徒は、イエスが遠からず“再臨”するものと信じていたため、その地上生活について細かく記録することをしませんでした。しかしいつまで経っても再臨しないので、仕方なく諦めて記憶をたどりながら、イエスの言ったことを記録にとどめることになったのです。

聖書のもとになった原典の編集者は、イエスから直接教えを受けた者との接触はなく、当時の風聞をもとに間接的に資料を得たにすぎません。聖書には地方に伝わる民話や伝説なども取り入れられ、キリスト教に都合のいい“イエス像”がつくられていきました。その内容は、真実のイエスの姿からは大きく懸け離れています。イエスにまつわる記述の多くが、イエスを“神格化”するために書き加えられたものなのです。

――聖書は西暦九十年に完成したとされていますが、聖書のもとになった文書(原典)は、バチカン宮殿の奥にしまい込まれ、一度も外部に持ち出されたことはありません。現在、人々が目にする聖書は、原典のコピーのコピーのそのまたコピーであり、そうした過程において原典にないものまで、いろいろと書き加えられています。

新約聖書はイエスの死後、人間の手によって捏造(ねつぞう)された内容が付け加えられた人工的な書物なのです。

では、高級霊の霊界通信では、イエスの実像をどのように明らかにしているのでしょうか。結論を言えば、イエスは私たちと何も変わらないごく普通の人間であったということです。イエスは一人の人間として生まれ、育ち、死んでいきました。特別な神の一人子として誕生したのではありません。

その一方でイエスは、聖書の中に記されているような数多くの目覚しい奇跡(心霊現象)を実際に引き起こしました。それはイエスのサイキック能力(心霊能力)がずば抜けていたために可能となったことでした。イエスは傑出した超能力者だったのです。それと同時にイエスは、きわだって優れた霊性の持ち主でもありました。人類史上、最高の霊的レベルにまで至った人間だったのです。イエスはその高い霊性によって肉体が浄化されていたため、肉体が霊通の障害とはならず、地上にいながらにして直接、霊界の高級霊や天使たちと交わることができました。

イエスは地上に誕生する前は、霊界において一人の高級天使として存在していました。それが「地球人類の救済」という使命を担って、人間の“肉体”をまとい地球人として地上に誕生することになりました。そしてその時から始まった使命が、今日までずっと続いているのです。現在“スピリチュアリズム”と呼ばれる地球浄化・人類救済の大事業の総指揮を執っているのが、このイエスなのです。

イエスに対する正しい姿勢

こうしたイエスについて私たちはどのように考えるべきなのでしょうか。私たちもイエスと同じ神の子供であり、その点では何も変わりありませんが、イエスは特別に高い霊的成長レベルに至った人間でした。そのイエスの生前の生き方は、私たち地上の人間にとっての偉大な模範であり手本です。真理を貫き通したイエスの気高く美しい生涯は、すべての人間にとっての見本であり、まさに“神の子”と呼ぶにふさわしいものでした。

とは言っても、一人の人間であるイエスを崇拝の対象としたり、神の座に祭り上げるのは間違いです。イエスを崇拝したところで、イエス自身は決して喜ばれません。むしろイエスに大きな悲しみを与えることになってしまいます。それはイエスの使命そのものを否定することだからです。イエスが最も喜ぶのは、イエスによって示された「神の法則(利他愛)」を人々が忠実に実践し、霊的成長の道を歩むことなのです。

クリスチャンにとって、これまでのキリスト教の間違いを認めることは、自分の人生そのものを否定するほどの重大事です。しかしイエスを喜ばせイエスを愛するためには、従来の間違った信仰をきっぱりと捨て去らなければなりません。スピリチュアリズムの歴史の中には、スピリチュアリズムと出会ってキリスト教の間違いに気づき、キリスト教から転向した多くの牧師たちがいます。こうした人たちの手記や、改宗に至るまでの苦悩に満ちた内面葛藤の記録を読むことによって、真実の道を歩み出す勇気を与えられるようになるはずです。

(三)スピリチュアリズムとニューエイジ

一九六〇年以降、米国では新しい精神復興の動きが活発になってきました。そして“ニューエイジ”といわれる思想的潮流をつくり出すことになりました。そこでは従来のキリスト教的世界観・人生観に代わって、アジアの宗教や思想が注目され、“アジア主義”といわれる一つの流れが形成されました。古代インド思想・ヨーガ・各種瞑想法・日本の禅・中国のタオなどが、多くの欧米人の心をつかみました。最近では、米国西海岸から始まった「チャネリング(霊界通信)」が、爆発的な広がりを見せています。

ここではニューエイジに対するスピリチュアリズムの見解を見ていきます。

ニューエイジの本質と、スピリチュアリズムとの関係

ニューエイジの中には、“スピリチュアリズムは古いもの・時代遅れのもの”と言う人間がいます。しかし、これは霊界の実情を知らないところからの誤った発言です。なぜならニューエイジという新しい精神的動向は、霊界主導による人類救済活動の一環として引き起こされたものだからです。従来“スピリチュアリズム”と呼ばれてきた地球人類救済計画が、アメリカで“ニューエイジ”の名前で展開しているにすぎません。つまりスピリチュアリズムもニューエイジも、ともに高級霊によって組織的に興されたものであり、同じ主役・主導者による活動なのです。その意味でニューエイジは、スピリチュアリズムの一部分と言えます。

こうした点から考えると、ニューエイジに関わる人々が、自分たちの主導者である高級霊界についての自覚を持っていないことは決定的にマイナスとなります。ニューエイジの本質は、霊界を挙げての「地球人類救済運動」であり、人間サイドから発生した単なる精神復興運動ではありません。現在展開しているニューエイジの主役は、霊界の高級霊たちである、ということが一番重要な点なのです。

ニューエイジの最終目的は「霊的真理の普及」

ニューエイジの真の目的は、単なる精神向上や精神革新にあるのではありません。精神レベルでの変革を超えて、人類を霊的レベルの変革にまで導くことが本来の目標なのです。

そのためには地上に「霊的真理」をもたらすことが必要となります。霊界側は、どこまでも霊的真理の普及を目標としているのですが、大多数のニューエイジャーはそのことを知りません。ニューエイジの多分野にわたる動きは、地上人に霊的真理を受け入れさせるための準備、あるいはスピリチュアリズムの“底辺拡大化”という意味を持っています。ニューエイジを通しての霊界からの働きかけは、あくまで「最高純度の霊的真理の普及」という一点に向けられているのです。

しかし現時点でのニューエイジは、本来の目的からはあまりにも懸け離れていて、多くの問題点を抱えています。

チャネリングの使命と、さまざまな問題点

ニューエイジにおいて、霊界側の働きかけが一番集中しているのが「霊界通信(チャネリング)」です。チャネリングに対する霊界からの集中的な働きかけは、アメリカ国内に数多くのチャネラー(霊通者・霊媒者)が誕生した事実に示されています。霊界の意図をストレートに伝えるという意味で、チャネリングこそニューエイジの中心的位置を占め、ニューエイジを牽引する立場に立たなければなりません。

しかし現時点での米国のチャネリング界には、非常に多くの問題があります。そのためチャネリングは、ニューエイジ運動の中心的立場に立って、ニューエイジ全体をリードしていくことができずにいます。

チャネリングの問題点の一つは、霊界から通信を受け取る地上の人間(チャネラー)に関してです。チャネラーの数だけは増えても、その質がきわめて低いということです。その結果、あまりにも低俗なチャネリング・子供騙しのチャネリングが氾濫しています。なかには良質のチャネリング(霊界通信)もありますが、その大半が人類の霊的成長にとって何のプラスにもならない低次元のものなのです。

たとえ霊界側が優れた内容を伝えたとしても、霊媒者(チャネラー)がその一部だけを誇大解釈したり、地上人の好みに合った部分だけを受け取るとするなら、メッセージの本質を取り違えることになってしまいます。そしてさほど重要性のない霊的知識が、さも中心的真理であるかのように取り扱われることになってしまいます。

霊界通信(チャネリング)の多くが、低級霊・邪悪霊のイタズラやカラカイであったり、霊媒者(チャネラー)の作り話であったりします。低級霊のつくり上げた霊的スクリーン(映像)を自分の前世だと思い込み、ありがたく受け入れているようなケースがあまりにも多いのです。

心霊現象や霊界通信には、いつの場合でも“ニセモノ”が付きまとい、本物はごく少数にすぎないという現実があります。そうした玉石混淆(こんこう)の中から、厳しい検証プロセスを経て一部の本物が見い出されるのです。そしてその「本物の霊界通信」だけが人類の霊的成長に寄与することができるのですが、ニューエイジにおけるチャネリングには、いまだ検証のメスは入れられておりません。

またチャネリングが“金儲け”と結びついていることも大きな問題です。初めはまともであったチャネラーも、この世の欲望に翻弄(ほんろう)されるうちに、いつの間にか低級霊・邪悪霊の通路へと入れ替わってしまいます。霊との交信には、常に危険な誘惑の罠(わな)が付きまとっています。そして多くの霊能者がこの物質的誘惑・金銭的誘惑にいとも簡単に乗せられ、堕落してしまうのです。「霊能力」という神からの贈り物は、本来“人助け”のために与えられたものであり、無償の奉仕として活用すべきものなのですが、大半の霊能者はそれを悪用しています。

このように現在の“チャネリング”にはさまざまな問題があり、このままではいずれ内部崩壊の道をたどらざるをえません。

ニューエイジの問題点

ニューエイジでは、ひんぱんにセミナーを開いて啓蒙・普及活動をしています。しかし霊的真理を受け入れるには、その人にふさわしい時期というものがあります。また人間の成長は本来、自己努力を通してしか達成されません。こうしたことを考えると、セミナーに頼り過ぎた普及方法には大きな問題があります。ニューエイジのセミナーの多くが、単なる金儲けの手段に成り下がっているという現実は、この問題をさらに深刻にしています。

さて、ニューエイジに共通して見られる思想傾向の一つが「自己愛・自己の許し」の強調です。そもそも自己愛・自己の許しとは、精神的な疾病状態に陥り、利他愛を実践できない人間に対して“心理的処方箋”の意味合いで述べられたものにすぎません。ところがニューエイジでは、それが中心的思想として流行してしまいました。「自己を愛し、自己を許す」という言葉は、確かに聞こえがよく優しい響きを持っています。いかにも新しい真理であるかのように思われます。

しかし霊的成長のための霊的真理は、どこまでも「利他愛の実践」と「自己犠牲」です。“自己愛”を優先的に主張する在り方は、真理を歪(ゆが)めることになってしまいます。当然、それは霊的法則に合っていません。「利他愛」のみが霊界での愛そのものであり、自己愛を真っ先に主張するような霊は一人もいないのです。

すべての人間は「神の子供」であり、神から愛を受け、宇宙的価値を付与されています。そして永遠に霊的成長の道をたどる存在として造られています。また誰もが、常に守護霊によって深い愛を与えられています。こうした霊的事実を知れば、自分に価値がないと思うことは明らかに間違っています。 霊的真理を知れば、おのずと自分に価値があることを自覚するようになります。もし自己を卑下するような人間がいるとするなら、その人はまだ霊的真理を本当には理解していない、ということなのです。

さらなる問題は、ニューエイジでは、苦しみの体験の重要性をほとんど認識していないということです。地上人生は霊的成長のための短い訓練期間であり、地上世界は困難や障害に対する葛藤を通して霊的成長に必要な基本的体験を積み、霊界への準備をする場所です。そうした広い視野に立てば、地上での苦しみは何も敬遠すべきものではありません。楽しい人生だけを優先的に求める姿勢は、霊的成長の道から足を踏み外させることになります。

また背後の霊の導きに対する意識の乏しさも、ニューエイジの問題の一つです。ニューエイジでは、絶えず霊界からの働きかけによって守護され導かれている事実を、ほとんど認識していません。背後の霊の存在を正しく理解することによって、地上人は謙虚になり、余分な緊張をしたり自力主義に陥らないようになります。背後の霊たちの導きを信じ委ねることで心の底から安心し、ゆったりとリラックスして人生を歩めるようになるのです。しかしニューエイジには、この大切な事実に対する考慮が全くと言ってよいほどありません。