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第8章 善と悪について

人間は自分や他人の行為・考え方に対して、善し悪しの判断を下します。しかし何を善とし何を悪としているかを一歩踏み込んで考えてみると、さまざまな“判断基準”があることに気がつきます。宗教や道徳では、この善と悪の問題が重要なテーマとされてきました。現在に至るまで地球人類は、善と悪についての明確な見解を持つことができずにいます。霊的事実を根拠としない人間を中心とする立場からは、普遍的な善と悪の観念は出てきません。

ここでは霊的事実に基づくスピリチュアリズムの「善悪観」を見ていきます。

(一)従来の善悪観

自分を中心とする善悪観と人間同士の争い

人間は社会生活を営む中で、しばしば他人との善悪の考え方の食い違いに遭遇します。一般に人間は、自分や自分たち(グループ)の考えを“正しい”と思いがちです。そして、それと合わない相手を“間違っている”と判断することになります。

こうした善と悪の考え方の食い違いは、家庭内の人間関係から社会・民族・国家にまで及びます。そこからさまざまな争いが発生するようになり、時には戦争という人殺しにまで至ってしまうことになります。二十一世紀の地球上では、多くの民族や国家の間で、妥協のない非難の応酬(おうしゅう)が繰り返されています。お互いが自分たちの正義を主張して、一歩も譲ろうとしません。こうした善と悪・正義と悪をめぐる自己主張によって地球上には、いまだに悲惨な状況が続いているのです。

また善悪に対する考えは、時代によっても異なっています。一時代昔には善とされていたものが、その後、悪と見なされるようになることがあります。また同じ時代に生きる人間同士であっても、世代によって善悪の考え方に違いがあり、社会問題が発生しています。年寄りと若者が、善悪観や価値観をめぐって決定的に対立しているような場面を、たびたび目にします。

こうした状況を総合的に考慮してみると、これまでの地上における善と悪の基準は、きわめて相対的であり流動的であったことが分かります。その最大の原因は、人類が等しく認め受け入れることのできる「共通の世界観・人生観」がなかったからです。そのため人々は、自己の利益(利害)に基づく正義を主張するだけに終始し、お互いが歩み寄ることができなかったのです。

宗教の善悪観

では宗教においては、善と悪をどのように説いているのでしょうか。宗教でも、自分たちの教えを無条件に“善”としています。多くの場合、その宗教の教義が“善の基準”となっています。したがって宗教ごとに善悪の考え方が異なることになります。宗教組織というグループを単位として善と悪が判断され、主張されるようになるのです。

その中で特に“世界宗教”といわれる巨大な組織と信者を抱えた宗教の善悪観は、人々の意識を強烈に支配し、社会全体に大きな影響を及ぼしています。そして当然のこととして他の宗教と激しく対立し、妥協なき争いを引き起こしています。“自分たちの宗教こそが正義である”という考えから一歩も出ることができず、自らの善悪観に固執することが信仰であると思い込んでいます。自分たちの教義と異なる考えをすべて“悪”と見なすため、宗教の壁を乗り越えることは容易ではありません。このため宗教の絡む争いは、最も陰惨な結末を迎えることになります。

そもそも“宗教”とは、人類に幸福をもたらすはずのものなのですが、その宗教が言語に絶するような悲惨で残酷な争いを引き起こす“元凶”となっているのです。

キリスト教の善悪観・仏教の善悪観

キリスト教は世界最大の宗教ですが、そこでは善と悪をどのように考えているのでしょうか。キリスト教では、世界を「神とサタンの対立」という構図で考えます。すなわち神を中心とする善の勢力と、サタンを中心とする悪の勢力の二大勢力が対峙(たいじ)しているものと見なしているのです。キリスト教では、この世のすべての“悪”は、大もとをたどれば“サタン”から始まっているとします。しかし結論を言えば、キリスト教の善悪観は明らかに間違っています。霊的事実として霊界にサタンはいませんし、サタンを中心とする悪の一大組織・一大勢力も存在しません。

キリスト教は教義の理論化をはかる過程で、神とサタンが対立するという善悪観を、人間の内部における「霊と肉の対立」の問題として展開するようになりました。そして肉体とその欲望を罪悪視する、きわめて偏狭で極端な“罪思想と禁欲主義”を生み出しました。

一方、シャカ仏教では、人間が苦しみを持つのは真理(法)を知らないところに最大の原因があるとします。真理を知らないために我執にとらわれ、そこから苦しみが発生するようになると考えました。悪しき行為は欲望・執着に基づいており、我執を否定する修行を通して、もろもろの煩悩(ぼんのう)の一つひとつが断たれるようになると説きました。「真理(仏法)」を知らないこと、すなわち「無明・無知」こそが人間の本来性を失わせる原因であり、根本的な“悪”と考えたのです。

(二)スピリチュアリズムの善悪観

地球人類救済を目的とするスピリチュアリズムにおいては、善と悪をどのように教えているのでしょうか。霊的真理に照らしてみたときの「善悪観」とは、どのようなものなのでしょうか。

霊的成長が善悪の基準

霊界・宇宙のすべてが神によって造られている以上、当然「神の意志」が善悪の基準となります。創造の業に着手された際の神の意図が、人類にとって普遍的で共通の“善の基準”となります。地球人類は神によって一人の例外もなく、永遠の霊的成長の道をたどるように造られました。すべての人間が果てしない進化向上の道を歩むように創造されました。人間をどこまでも「霊的成長」を求める存在として誕生させたという事実に、神の意志が明確に示されています。この神の意図こそが、人間における善と悪を決める基準となるのです。

スピリチュアリズムは画期的な善と悪の基準を示しています。それは――「善とは霊的成長を促すもの」「悪とは霊的成長を妨げるもの・霊的成長に反するもの」ということです。スピリチュアリズムは神の意図を基準に、このように実に単純に善と悪を定義しています。程度の差はあっても、少しでも霊的成長にプラスとなるものは“善”であり、霊的成長にマイナスとなるものは“悪”であると説いています。これほど単純明快にすべてを説明することができる「善悪観」は、これまでの人類史上には存在しませんでした。

善と悪の具体的内容

では、霊的成長を促すもの(善)とは、具体的にはどのような内容を指すのでしょうか。霊的成長をなすための大原則・基本条件とは、「霊的成長を促す摂理(法則)」のことであり、それは次の二つから成り立っています。

その一つは「霊主肉従」です。これは霊を肉体よりも優位におき、物欲・肉欲に振り回されないようにすることです。もし霊が肉に抑え込まれ、本来の働きができないようであれば霊的成長をなすことはできません。「霊主肉従」とは言い換えれば、「霊的意識を心の中心に据えて、心全体を霊の主導権のもとにおく」ということです。この「霊主肉従」なくして地上人は、霊的成長を達成することはできません。霊主肉従の状態を保ったうえで、初めて霊の持つ本来的能力を発揮することができるのであり、魂の成長が可能となるのです。霊的成長をなすためのもう一つの条件(善)は「利他愛の実践」です。人間は利他愛の実践を通して神の愛を受けられるようになり、神に近づいていくことができるようになるのです。

地上人が霊的成長を達成するためには、「霊主肉従」と「利他愛の実践」の二つが必須条件となります。この二つが霊的事実に基づく善の具体的内容――すなわちスピリチュアリズムが教える“善”なのです。

霊的成長を阻害するもの(悪)とは、今述べた善と反対の内容のことです。霊的成長を妨げ阻害するものは「肉主霊従」と「利己主義」です。これがスピリチュアリズムの説く“悪”の具体的内容です。「肉主霊従」とは、「物欲・肉欲が心の中心を占め、心全体を支配する」ことです。肉主霊従に陥っているときには心全体が「利己的・自己中心的」になり、とうてい霊的成長は望めません。

「霊と肉の闘い」について

キリスト教の善悪観の特徴は、善と悪の関係を「神とサタンの関係」と「霊と肉の関係」として考えることです。霊と肉の問題は、キリスト教の中で重要なテーマです。この問題に対してスピリチュアリズムは、霊的事実に基づいて明快な見解を示しています。

霊界人には肉体がないため、地上人のような物欲・肉欲はなく利己的思いもありません。「完全な霊主肉従の状態」が保たれるようになっています。このため霊界には、地上で当たり前と思われている悪の要素が全く存在しません(*幽界下層の“地縛霊”のいる場所は例外です)。すなわち霊界は「善(利他性)」のみが存在する世界、善一色の光り輝く世界となっているのです。もちろん霊界でも、善の程度の違いはあります。一人ひとりの間に、利他性の深さ・広さ・強さの差はありますが、地上のような「悪(利己性)」は見当たりません。

地上人は肉体を持っているため、霊主肉従の状態を保つことがきわめて困難です。真剣なスピリチュアリストであっても、なかなか霊主肉従の状態を維持できません。毎日の生活の中では、「霊主肉従の状態」と「肉主霊従の状態」が交互に繰り返されることになります。そのため霊的に成長すればするほど内面の闘いが熾烈(しれつ)になり、多くの苦しみを持つようになります。従来のキリスト教は、この肉主霊従に傾きやすい心の傾向を“罪”と見なしました。人類始祖の原罪を引き継いだ人間は皆“罪人”であるため、肉体の誘惑にさらされると考えたのです。

しかし霊的事実として、原罪はありませんし、それをつくり出したとされるサタンも存在しません。当然、人間は罪人ではありません。人間には「霊的成長の度合いの違い」があるだけなのです。霊的に未熟な人間と霊的に進歩した人間――つまり人それぞれの霊的成長レベルがあるということなのです。人間は“肉体”という物質の道具をまとっているため、絶えず物欲・肉欲にさらされることになります。それゆえ霊的成長を目指す人間は、否応なく悩みを持つことになるのです。

しかしそうした内面の葛藤は、神が子供である人間を成長させるために与えた課題であり、魂の訓練内容なのです。それはまさに「神の愛」から出たものであり、ありがたく受け止めるべきものです。内面における「霊と肉の闘い」すなわち「霊主肉従の努力」は、神とサタンの闘いではありません。自己の霊的成長のための闘いなのです。

スピリチュアリズムが明らかにした善悪は、霊肉両者間のバランスによって決まるものであり、「霊」だけが善いものであって「肉」が悪いものということではありません。両者は、ともに神によって与えられた必要なものなのです。地上にいる間は、それを自分の意志でコントロールし、霊主肉従の状態にもっていくための努力をしなければならないということなのです。

悪の繁栄?

人はよく、“この世は悪ばかりが繁栄している。利己主義者の方が成功している”と言って嘆きます。しかし、それは神の造られた「因果の法則」に立って物事を眺めていないところからの間違った見方です。地上人生は永遠の霊界での生活と比べれば、実にわずかな期間にすぎません。それは霊的成長のために与えられた物質世界での貴重な“訓練期間”なのです。

そうした地上人生において利己的行為をするということは、せっかくのチャンスをわざわざドブに捨てるようなものです。それは最高の霊的損失を被(こうむ)っていることなのです。 “永遠の宝”を自ら捨て去ることほど愚かなことはありません。利己的行為に走っても何の利益も得られないのですが、死後に待ち受ける霊界の事実を知らないために、目先の価値だけを追求してしまうのです。分かってみれば、そうした者は実に哀れな人間と言えます。

利己的行為という「神の摂理」に反した愚行は、霊的成長を阻害するばかりでなく、いずれ“罪滅ぼし”のための苦しみを招くことになります。いつか必ず苦しみを通して自分の罪を償わなければならなくなります。誰もその法則から逃れることはできません。「利己的な歩みをして、決して得をすることはない。また自己犠牲の歩みをして、絶対に損をすることはない」と高級霊は絶えず強調しています。

地上人生というわずかな期間だけで損得を考えると、何が正しいのか分からなくなってしまいます。物質的に恵まれることが、必ずしも幸福とは言えません。それは霊的に見ると、むしろ不幸である場合が多いのです。

物質世界での生活の意義

地上生活の意義は、善悪同居する中で、その両方の世界を体験するところにあります。神がわざわざ地上世界という物質的環境を造ったのは、そこでの厳しい過程を通して「善(利他性)」の大切さを悟らせ、善を実行する意志を強化させようとしたからです。「悪(物欲・利己性)」の誘惑にさらされ失敗と挫折を繰り返しながらも、何とか困難を克服しようとする闘いを通して人間の霊的成長は達成されるようになっています。

私たちは善と悪の双方を体験するために地上に生まれ、肉体を持って生活しています。そして霊肉の葛藤を体験しながら“善への意欲”を高めていくのです。まさに“苦しみ”の中で魂を成長させる所が、この地上世界なのです。