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第7章 人間の運命について

人間である以上、誰もが幸せな将来を願います。そして自分の運命に大きな関心を持っています。古来よりさまざまな占いが存在してきたのは、「運命を知りたい!」という人間の強い願望があったからです。現在でも多くの人々が、占いやおみくじに関心を寄せています。

一方、宗教でも人間の運命が重要なテーマとされてきました。その中にはルターのように“救われる人間と地獄に堕ちる人間を、神がすでに決めている”というような極端な宿命論(予定論)を説く者も現れました。

ここではスピリチュアリズムが明らかにした画期的な「運命論」を学んでいきます。

(一)因果の法則に基づく「罪と罰」

“罪”とは

私たち人間の霊的成長は、神の造られた摂理(法則)にそって達成されるようになっています。ところが地上という物質世界で生活する人間は、しばしばこの法則を踏み外してしまいます。大半の地上人が神の摂理に反した行為(過ち)を犯してしまいます。この神の摂理に反した行為が罪です。“罪”とは具体的には――「物質や本能に支配されてしまうこと(肉主霊従)」と「利己的な行為をすること」を意味しています(*これについての詳しい説明は、第二部で取り上げます)

地上人の中で、一切“罪”を犯さないという人間はいません。霊的真理を知らず、何が正しくて何が間違っているのかを知らない人間が、神の摂理からずれた行為をすることなく地上人生を過ごすことはできません。

“罰”とは

因果の法則(原因と結果の法則)という神の摂理に支配されている世界では、自分のなした間違った行為(罪)は、必ず何らかの悪い結果を生み出すようになります。この結果が“罰”なのです。神の摂理に反した行為(罪)に対しては“罰”という結果が生じますが、恐ろしいことに、それは寸分の狂いもなく機械的正確さをもって発生するようになっています。

こうした「原因と結果の法則」すなわち「罪と罰の法則」から逃れられる人間は、誰ひとりいません。少々悪いことをしてもごまかしがきく、他人を騙すことができると思う人がいるかもしれませんが、霊的法則をごまかすことは絶対にできないのです。摂理に反した行為(罪)に対しては、“罰”としての苦しみが間違いなく発生するようになるのです。

「罪の償い」と、苦しみに対する感謝

一般に罪の結果である罰は、“苦しみ”という形でもたらされます。罰としての苦しみは、霊的観点からすると「罪の償い」のための不可欠なプロセスと言えます。人間は罪を償わないかぎり、さらなる霊的成長の道を歩むことはできません。その意味で苦しみは、霊的成長の道をリセットしてくれるチャンスであり、やり直しの機会となるのです。「罪の償い・悪いカルマの清算」は、苦しみの体験を通してなされるようになっています。

大半の人々は“苦しみ”があることを不幸・不運と考えていますが、「因果の法則」という霊的視野から見るなら、それは霊的成長のために必要なものであり、ありがたいものと言えます。霊的真理を知らない者、また知っていてもついつい地上的視野で物事を眺めてしまう人間は、なかなか苦しみを善いものと考えることはできませんが、本当は感謝すべきものなのです。

(二)地上への再生と運命の決定

死後の世界での後悔と苦しみ

地上でなした悪事(罪)の結果は、地上生活中にいろいろな苦しみという形で返ってくることもありますが、大きな罪の場合は、霊界に行ってから本格的な償いが始まるようになります。霊界に入ると指導霊によって、生前の悪事の数々を目の前に見せつけられることになります。言い逃れをすることができない証拠を突きつけられる中で、やがて激しい良心呵責(かしゃく)や心の痛み・強い後悔の念を持つようになります。これが死後の世界における“審判”であり“罰”なのです。

地上での行為は、このようにして死後、それに見合った結果(罰)を引き起こすことになります。

再生人生を自ら願い出る

こうしたプロセスを経て、死後の世界では誰もが、自分が地上生活でどのような間違いを犯してきたのかを、はっきりと自覚するようになります。そして自分の魂の成長にとって何が足枷(あしかせ)となっているのかを、明確に知るようになります。さらに地上時代につくった「悪いカルマ(罪)」を清算して霊的成長の道をリセットするためには、地上でいかなる苦しみの体験が必要であるのかも理解できるようになります。このようにして自らの意志で、地上への再生を願い出ることになるのです。

その願いが受け入れられ地上に再生すると、再生人生では「因果の法則」によって前世での罪を償う道が自動的に展開するようになります。

「運命」は生まれつき決定している

再生人生にはいくつかの目的がありますが、その中で一番重要なものが前世でつくった「罪(悪いカルマ)の償い」です。再生前に本人は、そのための苦しみの体験を希望します。再生人生では、因果の法則に基づいて罪を償うための苦しみが生じるようになります。このプロセスを地上人サイドから見るなら――「人間は地上に誕生する前から、すでに人生が決まっている」ということになります。「地上人は、生まれつき決められた運命を背負って人生を出発する」ということになるのです。

地上人の運命は、神の一方的な意志や、先祖の悪業(あくごう)(カルマ)によって決定されるものではありません。それは自分自身がつくった「カルマ(罪)の清算」と、さらなる「霊的成長」を求めて自ら選んだ結果なのです。

「宿命」としての再生人生の大枠と、現実の人生行路

誕生に先立って自ら選んだ再生人生の運命とは、人生の大きなパターン、人生全体としての枠組みのことです。その枠組み(大きなパターン)の中で、地上のもろもろの条件・状況、また本人の態度が絡み合って具体的な出来事が決まるようになります。苦しみが発生する時期も状況に応じて幅があり、細かい部分まで百パーセント人生の航路(実際の運命)が決まっているわけではありません。

しかし再生前に選択した必要な苦しみ・試練は、必ず展開するようになっています。そうした意味で―「運命の大枠は生まれる前から決まっている」「変えることのできない宿命がある」ということになるのです。

人間は再生に際して、あらかじめ一つの人生行路を選び、その人生では大体こうした苦難に遭遇するようになるということを覚悟して誕生してきます。しかし自ら選んだ苦しみが実際にどのような形(*人間関係のトラブルや事件・事故など)をとって具体化するのかは、置かれた境遇や社会的背景、また本人の姿勢によって決定されることになります。このような理由によって誕生前に決められた宿命的人生行路と、生まれた後の現実の人生行路との間には、ある程度の開きがあるのです。

そこで大きな意味を持つのが、人間に与えられた“自由意志”ということになります。

(三)運命に対する正しい姿勢

地上の苦しみは一瞬の出来事

苦しみの体験を通して罪の償いと埋め合わせがなされ、新しい霊的自覚を持てるようになると、少しずつ霊的成長の道を歩み出すことができるようになります。地上での苦しみは、永遠の人生から見ればほんのわずかな期間にすぎません。その時は確かに苦しいのですが、それがいつまでも続くわけではありません。霊界における苦しみが長期にわたって続くことに比べれば、大したことではないのです。霊界では、地上での苦しみの報いとして、その何十倍もの幸せがもたらされるようになります。“霊界での報い”という確実な保証があることを知れば、地上での苦しみは本当の不幸ではないことが分かります。

こう言うと、必ず次のような反論をする人がいます。「死後の幸せなど、本当かどうか分かりはしない。そんなものを期待してこの世を生きようとするのは、目の前の苦しみに立ち向かう勇気のない人間・逃避的人間のすることである。今(地上人生)をより良く生きること、強く生きることが大切であって、死後の保証などという弱い考えを持つべきではない」――これは、いかにももっともらしい道徳的意見です。しかし、それは「霊的事実」に対する無知から出た無責任な発言にすぎません。そこにあるのは“自分の意見が正しい”という傲慢な姿勢だけなのです。

もし霊界が本当にあるとするなら、その人は何と言い訳をするのでしょうか。奇麗事(きれいごと)など、どうでもいいのです。「現実に霊界があるかどうか」が問題であり、その事実の上に立って、より良く生きることが重要なのです。

苦しみの本当の意味を知ることによって、私たちの心に勇気が湧き、苦しみに堂々と立ち向かうことができるようになります。そして何よりも大切な「霊的成長」を、より早く達成することができるようになるのです。

すべては“自己責任”

さて、そうした霊的成長のためのせっかくのチャンスに対して、地上人は必ずしも正しい対応をするわけではありません。肉体をまとい霊的意識が失われている地上人にとって、“苦しみは自分自身が求めたもの”などという記憶は全くありません。そのため苦しみを、ただイヤなもの・何としても避けたいものとして考えるようになります。この世的に見れば、苦しみから逃れられることは幸運であるということになりますが、霊的観点からすれば、反対に大きなマイナス・損失となるのです。

カルマ清算のための苦しみの体験は「償いの法則」によって自動的に生じるようになりますが、それを活用して霊的成長に結びつけるかどうかは、本人の“自由意志”に委ねられています。苦しみに正しく対処して善い方向へ向かうのも、わざわざ無駄な道を歩んで苦しみを長びかせるのも、すべて本人の責任なのです。苦しみを避けて通ろうとするなら、償いが完了するまで何度でも同じ苦しみが発生するようになります。自分の意志いかんで、霊的成長のチャンスを活かすことも無駄にすることもできるのです。

病人が医者の所へ行って、病気を治すための処方箋と薬をもらいます。それを処方箋どおりに飲むか飲まないかは本人しだいです。処方箋どおりに飲んで早く病気を治すのも、薬が苦いからといって飲まず、病気をいつまでも長びかせるのも本人の責任です。これが、神が定めた「自己責任の法則」であり“自分で自分を救う”ということなのです。

苦しみに対する正しい心がまえと考え方

苦しみの試練に直面したときには、どのように考え、乗り越えていったらよいのでしょうか。その答えは――「霊的視野に立って、永遠的な観点から苦しみを甘受する」ということです。苦しみの状況を、自分のカルマを切って霊的成長の道をリセットしてくれるありがたいものと考えて神に感謝し、前向きに受け止めることです。

苦しみの中では、とかく自分なりの小さな世界に閉じこもりがちになりますが、どのような状況にあっても物質的世界に安らぎを求めず、永遠の世界に思いを馳せ、どこまでも“霊的幸せ”を追求しようとすべきです。そして常に自分より恵まれない人々のために「利他愛の実践」を心がけるべきなのです。こうした霊的視野に立った心がまえができるなら、いかなる苦しみに遭遇しても、決して悲観的になることはありません。

“占い”にこだわる愚かしさ

いつの時代にも多くの人々が占いに関心を持ち、その結果に一喜一憂してきました。“占い”についてどのように考えたらよいのかは、これまで述べてきた内容から、すでに結論は出ています。正しい運命観・因縁観が分かれば、もはやこの世の出来事に右往左往するようなことはなくなります。当然、占いなどはどうでもいいことになります。「すべての体験が自分の霊的成長にとって必要なものである。苦しみは本当は善いものであって不幸ではない」ということを自覚できるなら、将来に対する不安は消滅します。

そもそも人間の未来を正確に当てられるような占いは、この世には存在しません。

信念の魔術的考えの間違い

「ノーマンピール」「ブリストル」らの唱導で、一時ブームを巻き起こしたものに“信念の魔術”があります。自分の願うことを強く思い描き、潜在意識の中にそれを印象づければ自分の希望がその通り実現する、というものです。それを人生に当てはめるなら、運が悪いのは自分自身が悪いイメージを描くから、ということになります。そしてプラスのイメージだけを潜在意識に強く印象づければ、運が好転するようになる、ということになります。

確かにこうしたポジティブ・シンキングには、人生を好転させるそれなりの効果はありますが、それはどこまでも精神領域の一部に限られます。この主張には、さまざまな問題点があります。まず「強く思い描けば不可能も可能になる。不運も避けられるようになる」と言いますが、これは事実ではありません。そこには神の造られた摂理への考慮が全くありません。神の法則によって支配されている世界では、“人間の意志”で変えることのできる範囲は限られています。

また信念の魔術的ポジティブ・シンキングには、肝心な価値観に対する考慮がありません。霊的成長の観点に立てば、決して願ってはならないもの、固執すれば霊的成長にとってマイナスになるものがあります。「人間として何を願うべきなのか?」という価値観への考察が必要なのですが、信念の魔術にはそれがありません。よく「お金・地位・家・財産を手に入れたい!」というようなことが信念の対象とされますが、そうしたものを強く願えば願うほど、魂の成長にはマイナスとなることが多いのです。

良いイメージを持とうとすることは何の問題もありませんが、それはどこまでも「霊的真理」を踏まえたうえですべきことです。「霊的価値観」にそった良いイメージを思い描き、その実現を念じることは魂の成長にプラスとなります。それと同時に何よりも大切なことは、守護霊や背後霊が私たちの霊的成長を願い、常にベストの導きをしてくれているという事実を思い起こすことです。高級霊や守護霊の導きを信じ委ねることなのです。