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第3章 幽界(地上に近い霊界の最下層)

他界者は、死の眠りから覚め、死の自覚を持つようになると、いよいよ霊の世界(霊界)に入って行くことになります。霊界といっても最初に赴く所は、霊界の最下層で「幽界」と呼ばれている世界です。初めて幽界に足を踏み入れた新参者は、幽界での生活を通して地上臭を拭い去り、本格的な霊的世界へ行くための準備をすることになります。

霊界の最下層域である「幽界」は、これまでサマーランドとか夢幻界とも言われてきましたが、それは南国の美しい島々のような、そして夢の中のような世界、という意味です。ここでは、その幽界について見ていくことにします。

(一)幽界の様子と生活

地上とそっくりな世界

幽界に入ったばかりの他界者は、その環境があまりにも地上と似ているため一様に驚きます。そこには山もあり川もあり、野原や海や湖もあります。村も町も家もあり、大人も子供も、犬やネコもいます。幽界には、地上世界に存在しているものが何でもあるのです。幽界が地上とそっくりな所であるため、他界者の多くが「自分は本当に死んであの世へきたのだろうか?」と思うのです。

幽界に存在するすべてのものが、地上世界と同じように感じられます。感触も地上と同じで堅さもあります。叩けば音を出すこともできます。水に触れれば冷たさも伝わってきます。

地上時代と同じ身体

死によって肉体を脱ぎ捨てた人間は、霊的身体で生活することになります。その「霊体」は、肉体よりもはるかに精妙であるため、肉眼で見ることはできませんし、肉体の手で触ることもできません。霊体にはもちろん手も足もあり、外観は地上時代と何も変わりません。ただ霊的身体には老化というものがないため、どの人の霊体もみな若々しいときの状態を保っています。

一方、地上時代に身体的に不具であった者は、ここでは五体満足となり障害や不自由さはなくなります。地上時代には肉体の一部分に障害があったものの、霊体には何ひとつ問題はなかったのです。

地上時代と同じ考え・性格

死によって肉体はなくなっても、霊体に属していた心(精神)はそのまま幽界に持ち越されます。死んでも人間の心は、すぐに変わるわけではありません。したがって死後もしばらくは、地上時代と全く同じ考え方・性格・癖・人間性を維持します。地上時代の人格を、そのまま保ち続けます。

すべてが地上より美しい

先に述べたように「幽界」は、地上とそっくりな世界です。そこでは地上の生活と同様、自然の中を散歩して、いろいろな景色を楽しみ、小鳥の声を聞くこともできます。しかも幽界では、すべてのものが地上より一段と美しく、明るく輝いています。地上にあったような醜さは全く見当たりません。地上の暗さはどこにもありません。空はあくまでも澄みわたり、明るく輝いています。周りの景色は、地上の最も美しい所だけを寄せ集めたようです。花々は宝石のごとく輝き、色あせることがありません。小川のせせらぎや小鳥のさえずりは、地上では聞いたこともないような美しい音色を奏でています。「何と素晴らしい所か、夢のようではないか!」と、誰もがその光景に感嘆します。

また、幽界には地上のような夜はなく、日が暮れることもありません。そこには地上のような太陽がありますが、それは地上の太陽よりも美しく、すべての住人は、この太陽から直接エネルギーを受け取っています。地上の日光浴のようなことをすれば、それでエネルギーがすぐに満たされるのです。

思うことが何でもかなう

ここでは老衰はなく、大半の人々は若返って青春時代の容貌にもどります。また地上時代に憧れていた顔かたちやプロポーションがあれば、幽界ではそれが現実のものとなります。場所の移動も自由自在です。「そこに行きたい、その人に会いたい」と思うだけで、アッという間に移動することができます。地上時代のように歩いて行きたいと思えば、もちろん歩いて行けますし、空を飛んで行きたいと思うなら、空を飛んで行くこともできます。

このように幽界では、心で思ったことが、そのまますぐに実現するようになっています。幽界は、まるでお伽噺そのものの世界なのです。

自分の思いが環境をつくり出す

さらに驚くべきことは、本人の願望や好みが、その人間を取り巻く環境をつくり出すということです。一度も外国に行ったことがない日本人の周りには、日本風の景色や家屋・町並みが広がっています。一方、外国が好きで憧れていたような人の周りには、本人の気に入るような環境が自然とでき上がります。生前に田園風景が好きだった人は、豊かな自然に恵まれた静かな田舎で過ごすようになります。

幽界で住む家は、自分の趣味と完全に一致しています。家の中の調度品や家具も、すべて自分の好みのものばかりです。着るものについても同じで、地上時代に好きだった衣服が自由自在につくり出され、思う存分楽しむことができます。

食べる必要がない・睡眠をとる必要がない

もはや肉体はないので睡眠をとる必要はありません。地上での病気や身体の不快感や重苦しさ・疲れは一切なく、身体は軽くて風呂あがりのようにすがすがしく、爽快そのものです。さらに大切なことは、すでに肉体はないので、この世界ではもう飲食の必要がないということです。

しかし中には、地上時代の習慣をいまだに引きずっている人がいます。そうした人は、幽界でも依然として飲食の欲求を持っています。そして「あれを食べたい、これを飲みたい」と思うだけで、欲しいものが瞬時に目の前に現れます。ところが実際にそれを口にしてみても、肉体のないところでの味覚は何となくパサパサとして味わいがなく、おいしくありません。やがて食べること自体がつまらなくなり、どうでもよくなって飲食の欲求を捨ててしまうことになります。

辛い労働もない・お金も必要がない

「食べる必要がない、お金も必要がない、欲しいものは何でもすぐ手に入る――何と素晴らしいことでしょうか!」――地上時代は、生活のため、食べるために必死に働いてお金を稼いできました。毎日毎日、辛い思いをして働かなければなりませんでした。地上人生の大半を、お金を稼ぐために費やしてきました。多くの人々は、お金こそ最も頼りになる大切なものだと考えています。そしてお金やモノの奪い合いから、犯罪や戦争が引き起こされてきました。

しかし幽界には、そうしたものは一切ありません。他人と争ったり、奪い合ったりする必要は全くないからです。ケンカなど馬鹿馬鹿しくてやっていられなくなるのです。

テレパシーで通じ合う

霊の世界では、お互いの心は“テレパシー”で通じ合います。言葉は地上世界だけの物質的な伝達手段であって、幽界ではもはや不要となります。交信は、言葉を介さずにストレートになされます。まさに“以心伝心”なのです。外国人とも何不自由なくコミュニケーションができるようになります。

しかし言葉が必要だと思い込んでいる人は、幽界でもしばらくの間、地上の言葉を使います。

心の中が、周りの人々に知られる

幽界では、心の中身(本音)が周りの人々に知られるようになっています。そこでは、自分の心を隠すことはできませんし、過去の行為を隠すこともできません。人目を欺(あざむ)くために仮面をかぶることもできません。幽界では、地上生活につきもののウソ・偽善・タテマエは一切通用しなくなります。

ウソつき・偽善者は、恥ずかしくなって皆と一緒に住めなくなります。そして自動的に人々との交わりを避け、低くて暗い所へ行くようになります。そこで同じような人間と一緒に生活するようになるのです。

幽界とは、霊界へ行くための準備をする所

以上で、幽界での様子・幽界での生活が、どのようなものであるのかが明らかになりました。では私たちは死後、この幽界で、ずっと生きていくことになるのでしょうか? そうではありません。実は「幽界」は、さらに次の段階である霊界へ行くための準備をする場所なのです。幽界について最も重要なことは――「純粋な霊的世界(霊界)へ行くための準備をする所である」ということです。

幽界は、多くの点で地上とそっくりな世界、地上のコピーのような世界であることを述べましたが、どうしてそのような世界が存在しているのでしょうか。それは幽界が、他界した人間が永遠に住むことになる霊的世界に無理なく適応することができるようにとの「神の配慮」によって造られた世界だからです。そうでなければ新しい霊的世界に順応するのは、とても難しいことになります。こうした神の配慮があるために、霊界への移行はスムーズに行われるようになるのです。

(二)幽界の生活への飽き

幽界は、地上の夢がそのまま実現する世界です。考え方によっては幽界は、まさに地上の楽園・極楽浄土と言えます。思いや願いが何でもかなうこの楽園で、ある者はぬくぬくと何もせずに暮らし、ある者は趣味三昧(ざんまい)の生活を送るようになります。またこれといってしたいことがない人は、地上時代と同じ仕事を続けるようになります。最初は誰もが、「ここに永遠にいたい……」と思うのです。ところが、やがてすべての者が例外なく、この楽園の生活に“飽き”を感じるようになっていきます。

幽界の生活への飽き・嫌悪

幽界に入った当初、大部分の人々は「ここは何と素晴らしい所か、いつまでもここにいたい!」と思うものです。しかしそうした人たちも、少しずつ幽界での生活に“飽き”を覚えるようになっていきます。思うことが何でも自由に実現する世界には、奮闘努力した後に得られる心の充実感がないからです。

しかもよく考えてみると、実現するものはすべて自分の好みであり、その大半が肉体的な欲求に関連したものばかりです。要するに自分の中にもともと内在していた欲望を、何度も繰り返し満たしていたにすぎなかったのです。ただただ“自分の欲望を満足させる”というワンパターンの繰り返しだったのです。地上では、それを実現するのにエネルギーと時間をかけなければなりませんでしたが、幽界ではあまりにも簡単に実現するために、飽きてしまうようになるのです。

次のようなことを考えてみれば、よく分かります。皆さんが旅行に行って、高級ホテルに泊まったとします。そこでは美味しいごちそうを、好きなだけ自由に食べることができます。おそらく最初の日は、ふだん食べたこともないような豪華な料理にきっと大満足するはずです。そして二日目も、その満足感は続くことでしょう。しかし三日目ともなると、少し飽きてきて「何か他のものを食べたい」と思うようになるのではないでしょうか。次の日また同じ料理を出されると、今度はうんざりし始めるようになります。そしてさらに次の日になると、もうその食事がどうにも耐えられなくなり、ホテルを出て、街角の大衆レストランや食堂を探し求めるようになることでしょう。

実は幽界の生活もこれと同様で、自分がつくり出した“欲望”という料理が、毎日毎日出されるようなものなのです。初めは誰でも満足しますが、徐々にその生活がイヤになっていきます。そして自然と、別のものを求めるようになるのです。地上時代に持っていた自分の欲望・欲求を心ゆくまで満たすことができる幽界は、まるで地上の楽園のようでしたが、やがてその世界にも飽きがきて、別のものが欲しくなるのです。

地上臭を取り除き、純粋な霊的存在になる

地上的な欲望や喜びだけを追い求める生活に嫌気がさすにともない、新しく精神的なものを求めるようになります。つまりごく自然な形で「霊的意識」が芽生え始めるようになるのです。特別、他人から教えられるわけでもないのに、おのずと本人の心が精神的な方向へ向いていくようになるのです。幽界とは、こうしたプロセスを踏むことによって、地上的なもの・物質的なものを心の中から取り去り、霊界へ行くための準備をする所なのです。純粋な霊的世界へ行くための準備をする境域なのです。

幽界では、地上的なものに魅力を感じるうちは、どれだけでもそれを楽しむことができます。いまだ“地上の喜びに心が惹かれている”ということですが、無理にそれを捨てさせようとする監視者はいません。本人自ら幽界での生活に飽き、魅力を感じなくなるまで、そこに留まり続けるのです。そして地上的なものに嫌気がさし、決別したいと思うようになると、いよいよ霊本来の世界、霊界に入っていくことになります。そして気がつくと、いつの間にか次の世界に入っています。

このように「幽界」とは、地上臭を拭い去り純粋な霊的存在となって、次に行くことになる「霊界」での生活に向けて準備をする所なのです。

幽界の生活は、他界者の霊的浄化プロセス

以上の話から幽界の生活は――「他界者の霊的浄化プロセス」となっていることが分かります。それをもう一度整理すると、次のようになります。

他界者の霊的浄化プロセス

幽界は、ありとあらゆる地上的欲望を満たすことができる世界です。しかし、やがて誰もがその欲望に嫌気がさすようになります。何の努力もなしに満たされる生活に飽いてうんざりし、虚しくなるのです。そして「霊的目覚めの時」を迎え、本格的な霊の世界である「霊界」に入っていくことになります。このように“神”は、幽界において人間の物質的な夢を思う存分に実現させ、その夢が本物でなかったことを悟らせ、自然とそこから抜け出すための意欲を生み出させるのです。外からの強制ではなく、自発的に霊的進歩の道を歩ませようとされるのです。

これが、一般的な人間の幽界でのプロセスです。しかし、この幽界にほとんど留まることなく、単に素通りしていく、ごく一部の霊もいます。生前から霊的知識に通じ、それを実践し、地上にいながら霊的存在として歩んだ者は、肉体を脱ぎ捨てると同時に、霊界に直接赴くようになります。

(三)自分自身の心がつくり出す暗黒地獄

宗教では「善人は死後天国に行き、悪人は地獄に堕ちて苦しむ」というようなことが言われてきました。有名な霊界探訪者であるスウェーデンボルグも、幽体離脱の状態で天界や地獄を見てきたと述べています。

そうした“地獄”というような世界は、本当に存在するのでしょうか。もし地獄があるとするなら、どこにあるのでしょうか。また“地獄の苦しみ”と言われてきたことの真意とは、いったい何だったのでしょうか。

宗教で言われてきたような地獄世界は存在しない

結論を言えば、これまで宗教で言われてきたような地獄の概念は正しくありません。教訓的目的から説かれた地獄の様子は、その多くがフィクションであり、事実とは懸け離れています。従来の宗教で説かれてきたような、限定された特定の地獄という場所は存在しません。ダンテの『神曲』やスウェーデンボルグの著作、また仏教の説話の中で述べられているような、天国に対峙する世界としての地獄は存在しません。

では、霊界には暗く醜い場所(境界)はないのかといえば、そうではありません。実際、地獄と言ってもいいような醜悪な場所・暗黒の場所があるのです。地獄を「邪悪で醜い悪人が集まる所」と定義するならば、地上に最も近い幽界の最下層の一部が、それに相当します。幽界の下層には、現実に“地縛霊や低級霊”が集まっている醜い境域(世界)が存在します。そこには魂の中身が極悪で、利己性がきわめて強い者がたむろしています。いつまでも地上的感覚を拭い去ることができず、享楽・快楽に耽溺(たんでき)したままの醜悪な霊たちが大勢いるのです。そうした醜い心の持ち主の思念は、醜い環境をつくり出します。当人たちには、それが一番心地よく感じられるのですが、外部から見れば、そこは暗く醜悪性に満ち満ちた“暗黒地獄”となっています。

そうした所には、長い時を経ても霊的に目覚めることができない者が留まっています。極端な唯物論者や、間違った信仰をしてきたために自分が死んだことを認めようとしない者たち、また本能的な欲望が強く染み付き、死後においても依然としてそれを求め続ける者たちが“地縛霊”となって幽界下層に居座り続けているのです。

自分の欲望が引き起こす地獄の苦しみ

幽界では“ああしてはいけない、こうしてはいけない”という規則も制約もなく、したいことが何でもできます。まさにやりたい放題の世界なのです。守銭奴は、大好きなお金を何の苦労もなく貯められます。美食家は、終日好きな食べ物を思う存分食べ続けることができます。ケンカ好きは、心ゆくまで他人を苛(いじ)め、それを楽しむことができます。セックス愛好家には、セックスはしたい放題、乱交パーティーなど思いのままです。彼らにとって、そこはまさに“地上の楽園”です。

しかしこうした住人たちも、やがて猛烈な苦しみを体験するようになります。守銭奴はどんなにせっせとお金を貯めても、それが全く無用であることに気がつき、虚しさに落ち込むようになります。自分の人生には全く意味がなかったことをイヤというほど知るようになります。美食家は食べても食べても食欲が満たされず、飽くことのない自分の欲望から欲求不満に陥り苦しむようになります。乱交パーティーも、肉体のないセックスではいつまで経っても満足が得られず、不満が募って苛立ちと苦しみだけが大きくなっていきます。思いのままの手軽なセックスの連続は嫌気が増すだけです。しかもイヤな相手が自分を離してくれないので、いっそう苦しみは激しくなっていきます。

これは、まさに地獄です。自分自身の地上的欲望がつくり出した地獄です。地獄は神が造ったものではなく、人間の心がつくり出したものなのです。これまで宗教で説かれてきたような地獄は、実際には存在しません。“地獄”とは、自分自身の醜い思いがつくり出す心の状態であり、自業自得の世界なのです。地上時代に権力や金銭に執着していた者が、こうした世界に多くいることは、今さら説明する必要はないでしょう。

“後悔の念”という地獄の苦しみ

地上時代に利己的な生き方をしてきた者、他人を苦しめてきた者、善行をするチャンスがありながらそれを無視してきた者は、死後、霊界(幽界)に行ってから、その愚かさのツケを払わされることになります。幽界では、自分の地上人生がいかに間違っていたのか、そしてせっかくの霊的成長のチャンスを捨て去ってしまったのかを実感するようになり、大きな後悔と苦しみの中に立たされることになります。

地上で肉体に包まれているときには、心の呵責(かしゃく)や後悔をそれほど強く感じることはありませんが、思念の世界である霊界に入ると、後悔の苦しみが何十、何百倍にもなって迫ってくることになります。そして自分が地上世界で犯してきた罪を、自分自身で裁き、自分自身で罰するようになるのです。これも“地獄の苦しみ”となります。

宗教で言われてきたような、死後の世界におけるサタンの讒訴(ざんそ)や閻魔(えんま)大王の審判、また終末における最後の審判などというものはありません。死後は誰もが幽界で、自分の地上での行為を反省し、自らを裁くという状況が生じるのです。罰を与えられる特定の場所(地獄)があるわけではありません。幽界では、地上時代になした愚行によって自分で自分を責め、後悔の念で苦しむことになるのです。“地獄の苦しみ”とは、そうした魂の苦しみ・心の苦しみのことを指しています。この意味で――「地獄は一人ひとりの心の中に存在する」ということなのです。

幽界における苦しみによって霊的に覚醒するようになるまで、自分自身でつくり出した暗黒の境涯(地獄の状態)は続くことになります。

“地獄霊”の救いの道

地獄と言ってもいいような暗い境涯で時を過ごした霊にも、遅かれ早かれ、苦しみを通して少しずつ進歩への欲求が芽生えるようになります。しかし中には、あまりの霊性の未熟さゆえに、いつまでも一人では更正の道を歩み出せない者がいます。そうした霊たちに対して、高い世界から常に救いの手が差し伸べられています。霊界には、地獄にいる住人を救い出すことを使命として働く高級霊たちがいるのです。

とは言っても、本人自身が“進歩したい”という欲求を持つようになるまでは、たとえ高級霊といえども導くことはできません。長い苦しみの時を経て進歩への欲求が芽生えた者のみが、この救いの霊に助けられ、少しずつ進歩の道を歩み出し、次の世界へ入っていけるようになるのです。また地獄に堕ちている霊の中には、地上時代に犯した大きな罪や間違いを償うために、半ば強制的に地上へ再生させられる者もいます。こうした再生霊の地上人生は、苛酷(かこく)で厳しいものとなります。