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第2部 「スピリチュアリズムの霊的知識と教え」

第一部では、フォックス家事件から始まるスピリチュアリズムの歴史を見てきました。初期のスピリチュアリズムは、驚異的な心霊現象と近代心霊研究を中心として展開してきましたが、その近代心霊研究の中で、最も重要な心霊現象が「霊界通信」でした。

世間には、「死んで帰ってきた者など一人もいないのだから、死後の世界のことなど分かるはずがない」と、いかにも常識的でもっともらしいことを言う人が多くいます。しかし、そうした主張には何の根拠もありません。それは自分なりの狭い経験から導き出された一方的な言い分にすぎません。第一部を通して読んでくださるなら、そうした見解がいかに浅い考え方であるのか、分かっていただけるものと思います。

スピリチュアリズムは多大な犠牲を払って、最終的に「霊界通信」という死後の世界の様子を知る最も強力な手段を提供しました。人類は、このスピリチュアリズムの霊界通信のお蔭で、死後の世界の様子を正確に知ることができるようになりました。

さて、この第二部では、高級霊の霊界通信によって明らかにされた霊的事実・霊的知識を学んでいきます。第一部ではスピリチュアリズムの歴史を扱いましたが、第二部ではスピリチュアリズムの思想を取り上げます。スピリチュアリズムの思想の中から、「人間観」「死生観と霊魂観」「死後の世界観」といった霊的思想のエッセンスを中心に見ていきます。

スピリチュアリズムの思想とは、信頼できる高級霊の霊界通信、特に“世界三大霊訓”の中に示されている内容のことです。優れた霊界通信では、重要なテーマに関する見解は完全に一致しています。ここではそうした高級霊界通信に共通する内容をベースとして、スピリチュアリズムの霊的真理・霊的知識を示しています。“スピリチュアリズム”によってもたらされた霊的真理・霊的知識は、地上のすべての宗教の土台となるものであり、地球人類にとって最高の叡智なのです。

第1章 人間の構造と霊魂観

死後の世界である霊界の様子を学ぶ前に、私たち地上人自身について正しく認識しておくことが必要です。古来より“人間とは何か”が、重要なテーマとされてきました。地上人類は現在に至るまで、確固たる「人間観」を持つことができませんでした。人間自身についての確かな知識を知ることができなかったのです。人間は肉体という物質だけの存在なのでしょうか? それとも霊魂を持った霊的存在なのでしょうか?

スピリチュアリズムでは、人間は霊魂を持った永遠の霊的存在であることを明らかにしています。ここではスピリチュアリズムの「人間観」と「霊魂観」を学びます。

(一)肉体と霊体の重複構造

「肉体」と「霊体」

世間一般には、人間は肉体と心から成り立っていると考えられています。しかし、それは一面的なとらえ方にすぎません。実は人間は、目に見える「肉体」と、その肉体に浸透するように「霊体」という別の身体が重なって構成されています。言い換えれば人間は、肉体と霊体という二つの身体の二重構造によって形成されている存在ということなのです。

この「霊体」は、肉体とほとんど同じ形をしています。普通の人の肉眼では霊体を見ることはできませんが、霊眼の開けた一部の霊能者には霊体は明確な形として認識されます。肉体と霊体は、古来から“チャクラ”と呼ばれてきた接点を通じてエネルギーの交換をしており、相互に影響を及ぼし合っています。

「肉体」と「霊体」

――人間は肉体と霊体という二つの身体から構成されています。しかし多くの霊界通信や神智学では、これ以外にも「幽体」という身体があるとしてきました。さらには霊体と幽体の他に、複数の霊的身体があるとする説もあります。

しかしそうした身体観は、霊的事実とは一致しません。「霊体」以外に「幽体」という別の霊的身体があるわけではありません。「幽体」とは、霊体の粗い状態のことを言うのであって、本来は幽体と霊体は別々の身体ではないのです。また心霊学や霊界通信では、しばしば「幽体を脱ぐ」という表現が用いられることがあります。これは霊体の状態の変化を比喩(ひゆ)的に述べたものであって、魂の成長にともない霊体が精妙化していくプロセスを示したものです。これが“幽体の死”と言われてきた現象の実相なのです。

霊体の永遠性

“死”とは、肉体と霊体が完全に分離してしまうことです(*これについては次で詳しく述べます)。死によって肉体は滅び土に返りますが、霊体はそのまま存続します。つまり私たち人間は、死によって存在がなくなってしまうのではなく、霊体として永遠に霊界(死後の世界)で生き続けることになるのです。死によって失うものは、地上人生を送るための道具である肉体だけなのです。

霊体を覆っていた肉体という衣服を脱ぎ捨てることが、死に他なりません。それは「神の摂理」の中で展開する自然現象の一つなのです。肉体という物質の外皮を脱ぎ去って、人間にとっての本来の住処である霊界に帰ることが死なのです。この意味で“死”は、決して怖がったり悲しむことではありません。

霊体の永遠性

「肉体オーラ」と「霊体オーラ」――人間の身体から放射される三種類のエネルギー

人間の肉体からは体熱などの「物質エネルギー」が放射されています。物質エネルギーは肉体の状態を反映し、体調の良し悪しは、このエネルギーの状態に表れます。こうした原理を応用して現在では、サーモグラフィーなどのさまざまな検査技術が開発されています。

一方、肉体と霊体の中間部分(接合部分)からは「幽質(半物質)エネルギー」が放射されています。これを「幽体質素」と言います。第一部で述べた“エクトプラズム”は、この幽体質素の一種と言えます。霊能者・霊媒とは、幽質エネルギーを多く放射している人のことです。肉体から放射される物質エネルギーと、幽質エネルギー(幽体質素)を総合して「肉体オーラ」「物質次元のオーラ」と言います。

肉体からエネルギーが放射されているのと同じく、霊体からも「霊的エネルギー」が放射されています。この霊体から放射されるエネルギーが、「霊体オーラ(霊光)」です。霊的エネルギーである霊体オーラは、人間の感情によって、絶えず色や状態が変化します。また霊体オーラには、その人間の霊性レベルや魂の状態や精神状態も反映されています。たとえば、心が崇高な愛の思いで満たされているようなときには金色、純粋な信仰心があるときには紫色、反対に怒りが心を占めているときには赤色、本能的感情に支配されているときには黒色といったように、いろいろな色に変わります。オーラは、まさにその人の心の状態を映し出す鏡と言えるのです。

オーラの色の変化は、霊眼(霊的視力)の開けた霊能者には、はっきりと見て取れます。仏像や聖人画などに描かれている後背光(こうはいこう)は、このオーラを表したものです。

幽体質素からつくられる霊体

幽体質素について大切な点は、この幽体質素から霊体がつくられる、ということです。幽体質素が昇華凝縮して、霊体が形成されるのです。霊体は、肉体の成長にともない徐々に大きくなっていきます。赤ちゃんから子供、そして大人へと肉体が成長するにつれて、霊体も成長していくことになります。つまり胎児には、胎児の肉体と同じ形をした霊体があり、子供には、子供と同じ形をした霊体があるということです。霊体は、肉体の成育が頂点に達した成人期(二十歳くらい)に最も大きくなります。

その後、老年期に入ると肉体は徐々に衰え小さくしぼんでいきますが、いったん成長した霊体は、肉体が小さくなっても全盛期の形態をずっと維持していくことになります。したがって老人の霊体は、若者のときと同じ形をしているのです。年老いるのは肉体であって、霊体が年老いるということはありません。

霊体の形成

(二)幽体離脱とシルバーコード

幽体離脱現象

先に、死とは肉体と霊体が分離することであると言いましたが、地上で生存している間にも、こうした肉体と霊体の分離が起きることがあります。寝床に入り眠りにつこうとすると、自分の霊体が肉体から離れ、天井近くから自分の肉体を眺め降ろしていた、というような体験談をしばしば耳にします。最近ではこうした現象が“臨死体験”として話題になっています。第一部の霊界通信のところで紹介したスウェーデンボルグは、この体験者です。

肉体と霊体が離れることを「幽体離脱現象」と言いますが、実はこうした現象は特別な人の体験ではなく、睡眠中にすべての人間が経験していることなのです。ただ目が覚めたときに、その間のことが“脳”の意識にのぼってこないので、思い出せないだけのことなのです。霊性の高い人なら、訓練次第で幽体離脱中の体験を思い出すことができるようになります。

いずれにしても大半の人間が、毎晩のように幽体離脱(臨死体験)をしています。これはスピリチュアリズムによって明らかにされた驚くべき霊的事実の一つです。

シルバーコードと“死の定義”

幽体離脱中には、肉体と霊体は銀色の帯で結ばれています。この帯を「シルバーコード」と呼びます。シルバーコードには不思議な性質があって、どこまでも無限に伸びることができるのです。睡眠中に肉体を離れた霊体は、無限に伸びるシルバーコードで肉体につながれた状態で、あの世を見てきます。日本の古典の中には、このシルバーコードが「タマの緒」としてしばしば登場します。昔の日本人が、シルバーコードや幽体離脱の存在を、ごく当たり前に信じていたことが分かります。

さて、大半の地上人にとっての最大の関心事は、何といっても自分自身の死ではないでしょうか。多くの人々が死を恐れ、現代医学は少しでも患者の死期を延ばそうと懸命に努力しています。スピリチュアリズムでは“死”とは、肉体と霊体を結ぶシルバーコードが切れる瞬間のことであると定義しています。現代医学では死の認定をめぐってさまざまな議論がなされていますが、最も正しい“死の定義”とは――「シルバーコードが切れる時」ということなのです。老衰や病気などで肉体が衰弱していくときには、シルバーコードは徐々に細くなっていき、最後に切れて死を迎えることになります。

幽体離脱

死の瞬間

(三)霊的意識と潜在意識

「霊の心」と霊的意識

死によって肉体を脱いで霊体だけになった人間(霊)は、あの世(霊界)で、どのような状態で存在するようになるのでしょうか。「唯物主義」に立脚した現代医学では、人間の精神活動や思考は、すべて“脳”によってなされていると考えています。しかし肉体の死とともに脳はなくなっても、人間は死後の世界で、生前と全く同じように精神活動をしています。

この霊的事実は、人間のさまざまな精神活動や思考は脳によってなされているのではなく、霊体の中で行われている、ということを示しています。霊体の中には、思考をつかさどる心のような部分があるということなのです。霊体の中には、高度な思考をする心が存在します。これをスピリチュアリズムでは「霊の心」と呼びます。私たちの思考の多くの部分が「霊の心」によってなされています。言い換えれば、私たちは霊的世界(霊的領域)で、広範な思考活動をしているということなのです。

では“脳”は、いったい何のためにあるのでしょうか。脳はどのような働きをしているのでしょうか。脳の一番の役目は、霊の心の意識(*これを「霊的意識」と言います)の受信機であるということです。霊の心で発生した「霊的意識」は、脳という物質(肉体)の受信機を通して地上人に伝わります。霊的意識は、脳を通過した後に自覚されるようになります。これが脳の受信機としての役目なのです。

脳は、まさにラジオの受信機のようなものです。「霊の心」という放送局から送られてくる情報(霊的意識)を受信する機械なのです。もし、この受信機が故障したり極端に性能が低下すれば、当然、霊の心からの情報を受信することができなくなります。これが“脳障害”による精神障害・意識障害なのです。

顕在意識と潜在意識

現代の心理学では、顕在意識(日常、我々が自覚する意識)の深部に、それとは別の日常では自覚することのない潜在意識があることに気がついています。実はこの“潜在意識”とは、スピリチュアリズムで言う「霊の心の意識(霊的意識)」のことなのです。地上にいるかぎり、霊の心の意識は“脳”を中継して、初めて自分の心(意識)として自覚されるようになっています。

しかし「霊的意識」のすべてが地上人に自覚されるというわけではありません。霊的意識は脳という物質の受信機を経るため、そのほんの一部分だけが伝わるようになっています。大部分の内容は、伝わらないままなのです。私たちが日常、自分の意識だと思っているものは、実は霊の心の意識(潜在意識)のごく一部分にすぎません。その意味で、私たち地上の人間は本当の自分自身の姿(心)を知らない、ということになります。

催眠術や瞑想法などによって脳の受信感度が高まると、潜在していた霊の心の意識内容を思い出すことがあります。霊の心には、地上時代のすべての行動や思考が記録されています。私たちがとっくに忘れてしまった過去の出来事や、前世に関する情報まで、事細かに記録されています。

テレパシーと心の同化作用

さらに、この「霊の心」には、他にも優れたさまざまな能力が備わっています。その一つが、他人の感情や心の中身を“テレパシー”によって感じ取ることができる、ということです。その度合いがあまりにも強いときには、他人の心と自分の心が「同一化」したような状態になり、まるで自分と他人が同じ人物になってしまったかのように感じることになります。

こうした心(意識)と心(意識)の融合、感情と感情の融合は、霊界である程度のレベルにまで至ると、ごく当たり前に体験するようになります。他人の心との融合化・共有化・一体化という、地上生活中には全く存在しなかったことが、霊界では起きてくるようになるのです。(*これについては、第四章(四)「類魂」の箇所で詳しく述べます。)

(四)地上人の心と霊肉関係

脳と本能

さて肉体の“脳”ですが、これは霊の心の意識(霊的意識)に対する受信機であると同時に、肉体に対してはコントローラーの働きをしています。脳から発生する“本能”によって、肉体の維持存続がはかられます。肉体維持のために必要な欲求は、本能から発します。食欲・排泄欲・生存欲・種族維持欲・性欲・母性本能などによって、地上の動物はその種を維持存続させているのです。

このように私たちの肉体生命は、脳から発生する本能の欲求によって維持されるようになっています。本能はどこまでも、その個体の維持をはかるという目的を持ち、その個体の維持のためにのみ働きます。それゆえ本能は、常に“自分自身のため”という方向性、自分中心の方向性を取るようになります。

こうした本能は動物にもあり、それが人間と動物の共通部分となっています。動物には、人間のような「霊の心」も「霊的意識」もなく、肉体本能だけがあります。したがって、もし人間が「霊的意識」を全く持つことができなかったり、それを感じ取ったとしても無視して肉体本能の命ずるままに生活をするなら、霊的要素のない動物と同じ状態になってしまいます。まさに本能的人間・動物的人間になり、霊的存在とは言えなくなってしまいます。

地上人の心を形成する二つのソース

自分の内に心があることは、誰もが認めざるをえません。自分の心の存在を自覚していない人間はいません。では、その心はどこから発生しているのでしょうか? 心はどのようにして形成されているのでしょうか?――この質問に正しく答えることができる人はいません。心は誰もがその存在を実感しているにもかかわらず、最も謎に満ちたものなのです。これまで心は、思想上の重要なテーマとされてきましたが、現在に至るまで明確な見解は示されてきませんでした。“スピリチュアリズム”は、この難解なテーマについて人類史上、初めて明らかな答えをもたらしました。

それは私たち地上人は、別々のソース(発信源)から発信された別々の意識を「一つの心」として感じているという重大な事実です。地上生活で私たちが「心」として自覚するもの(顕在意識)は、脳を経て届けられた「霊の心の意識(霊的意識)の一部」と、脳から発生する「本能的意識」の二つから形成されているという心の秘密を解明したのです。

地上人の心を形成する二つのソース

心の中での「霊と肉の闘い」

「霊の心」は、もともと利他的指向性を持っています。一方「本能」は、すでに述べたように利己的指向性を持っています。このように全く相反する指向性を持った二つの意識が一つの心をつくり上げているため、心の中で激しい葛藤・対立が生じるようになります。「霊の心」に従って、より高い価値的な生き方をしたいと思うようになると、必然的に心の中で本能的思いと対立するようになります。これが古来より言われてきた「霊と肉の闘い」です。

利他的で清らかな世界を求めれば求めるほど、利己的な本能的思いと葛藤せざるをえなくなります。こうした霊と肉の葛藤は、肉体を持つ地上人にとっては、避けることができない宿命と言えます。

「霊主肉従と肉主霊従」・「霊優位と肉優位」・「霊中心と肉中心」

人間は神によって「霊的存在」として造られています。それは人間の霊が永遠に存在するのに対し、肉体は一時的であることからも窺(うかが)い知ることができます。また、すべての動物が霊体を持たず、地上かぎりの生活で終了してしまうのに対し、人間だけが死後も霊的身体をまとって永遠に生き続けるという驚くべき霊的事実があります。この事実は、人間が明らかに「霊的存在」として神によって創造されているということを物語っています。

こうした霊的事実は、私たち地上の人間は常に霊的なものを優位にした生き方を目指さなければならない、ということを意味しています。「霊の心」を肉体意識(本能)よりも優先する、「霊的意識」を心の中心におくという生き方をしなければならないということなのです。霊を肉よりも優位にすることを「霊主肉従」と言います。霊主肉従を別の言葉で表現するなら、心を霊優位にする・霊中心にするということです。霊主肉従の反対は「肉主霊従」であり、肉(本能)優位・肉中心ということになります。

霊的存在として造られている人間は、自らを霊主肉従の状態においてこそ「神の摂理」と一致し、調和を保つことができるようになります。そのとき人間は、初めて霊的存在としての資格を持つことができるようになるのです。「霊主肉従」は、人間が霊的存在として立つための最低条件であり必須条件です。そうした大前提の上に立ったときのみ人間は、霊的に成長していくことができるようになっています。

シルバーバーチの霊界通信では、霊主肉従のことを「霊が主人で肉は僕(しもべ)」「霊が王様で肉は家来」と表現しています。しかし残念なことに現在、地球上の大多数の人々は「霊主肉従」ではなく、「肉主霊従」の状態で地上人生を過ごしています。その結果、霊的成長をなすことができず、せっかくの地上人生を無駄に送ることになっています。

霊主肉従と肉主霊従

宗教における修行の本来の目的

宗教における修行の本来の目的は、この「霊主肉従」をいかにして確立するか、ということに集約されます。物質の道具である肉体を携えて地上生活を送りながら、自らを霊主肉従の状態に保つためには大きな困難と苦痛がともないます。厳しい自己コントロールの努力が要求されるようになります。肉体をまといながら、清らかな思いを持ち続けるのは並大抵のことではありません。本能的感情にすぐに翻弄(ほんろう)され、醜い思いを抱くようになってしまいます。霊主肉従を維持することは至難の業です。これが修行者の内面における「霊的闘い」の実相であり、魂の浄化を目指す際の“霊的葛藤”なのです。魂の向上を目指す修行者や宗教者は、常にこうした霊的闘いと遭遇し、悩み苦しんできました。

しかしそうした苦しい霊的闘いも、死によって肉体を脱ぎ捨て霊体だけになると、その瞬間から消滅するようになります。肉体を脱ぎ去ると同時に、本能的思いは消えてなくなってしまうからです。したがって心の底から霊的な清らかさを求めてきた人間にとって、死は「霊肉の闘い」の苦しみから自分を解放してくれる祝福の時となります。「肉体本能」は、人間が物質界である地上世界で過ごすために必要なものとして“神”が与えたものです。それと同時に神は、人間自らが奮闘努力の中で「霊優位(霊主肉従)」の状態を確保し、霊的存在としての立場を保って霊的成長の道を歩むことを願われたのです。

正しい禁欲生活

高級霊による霊界通信は、地上人類への教訓として、真っ先に「霊主肉従」の大切さを強調しています。霊主肉従とは、物欲や本能に流されないようにするための努力であり、ある種の禁欲的生き方を意味します。とは言ってもその“禁欲生活”は、霊的摂理から逸脱した無意味で無駄なものであってはなりません。一般に見られる肉体行や荒行は、必ずしも人間の霊的成長にとってプラスにはなっていません。それどころか反対に、利己性・本能性を助長する結果を招いています。

しかし「霊的摂理」の上に立ったストイック(禁欲的)な生き方を心がけることは、地上の人間にとってマイナスになるどころか、大いに「霊的成長」をもたらすことになります。現代人は“ストイック”であることを極端に嫌い、まるで前近代的遺物であるかのごとく考える傾向がありますが、それは「霊的事実」を知らないところからくる間違った考え方なのです。