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6章 摂理は完全であり、自動的に作用します

シルバーバーチの交霊会はおよそ五十年間に及んだ。その間に招待されたゲストもまた大変な数にのぼる。となると当然シルバーバーチが受けた質問はそのゲストの数だけ多種多様であった。その中から興味ぶかいものを幾つか拾って紹介しよう。

ある日の交霊会で菜食主義の是非について問われて――

「こんなことを言うとまたわたしは不評を買うことになるでしょうが、真実は真実として申し上げねばなりますまい。理想的な霊媒のあり方としては、アルコールや肉類、タバコ、その他、人体の質を低下させるものは極力控える方が霊媒の進化にとって良いに決まっています。

地上にあっては霊は肉体を通して自我を表現するしかありません。となれば、その肉体の質が高ければ高いほど霊媒の表現力も大きくなる道理です。したがってその肉体を汚すもの、間違った刺激を与えるものは、いかなるものであっても霊にとっては障害であり良いものではありません。肉体は霊の宿なのですから。

これでもうわたしの答えはお判りでしょう。動物の肉、タバコやアルコールによる刺激があなたの心霊的(サイキック)ないし霊的(スピリチュアル)(※)な能力(パワー)の開発に益があるでしょうか。もちろん無いに決まっています。適度に摂取するのであれば害は少ないというのは当り前の理屈ですが、理想を言うならば、霊媒は大地からの産物のみに限るのが好ましいと言えます」

――“サイキックパワー”というのは五感の延長としての霊能、いわゆる超能力のことで、これは人間よりもむしろ動物や生物の方が発達している。これに背後霊の援助が加わって高次元の世界とのつながりに発展したものをシルバーバーチは“スピリチュアルパワー”と呼んでいる。

「動物を人間の食料や衣服にするために殺すのは間違ったことでしょうか。動物自身は自然界の原理で互いに殺し合っているのですが……

「こうしたことはすべて程度問題であり、進化の一過程として捉えるべきです。自然界は弱肉強食であるとよく言われていますが、それは大自然の進化の部分的現象にすぎません。大自然がすでに完成されていると述べている霊界通信はないはずです。自然界も進化の途上にあるからです。

理想を言えば――わたしの答えはどうしても理想を述べることになってしまいますが――動物を人間の食料として、衣類として、また(遊牧民の)住まいとするために殺すのは間違いです。しかし、未熟な世界においては完全な理想が実現されることは期待できません。しかし、だからといって、理想へ向けての努力をしないでよいということにはなりません。

どうしても殺す必要がある時は、なるべく苦痛を与えない方法を取らないといけません。残酷な殺し方は止めてください。食料を得るために殺すのは間違いであることを人類が悟る段階まで一足跳びに到達することはできない以上、殺し方をできるだけ苦痛を与えないように工夫してください。

皆さんは変化しつつある世界に生きており、わたしたちも、どうせ今すぐには実現できないと知りつつ、理想を説いております。もしもわたしたちが努力目標としての理想を説かずにいたら、与えられた使命を全うしていないことになります。目標の水準は高めないといけません。低くしてはいけないのです」

次に出された催眠術についての質問で、「これは研究に値するものでしょうか」と聞かれて――

「施術者が善意の目的をもち、その能力を人のために役立たせたいという願望から行うのであれば、もちろん結構なことです。催眠術者も魂の潜在力を使用している点は同じです」

「催眠術者が接触するのは何なのでしょうか」

「大我、すなわち内部の大霊です。何度も申し上げていることですが、人間の各自に内在するその力を自覚すれば、そしてそれを使用することができれば、人間にとって克服できない困難はありません。

その力と接触する方法は霊性を発達させること、波長を高めること、人のためになる生活を心がけること、要するに霊格を高めるようなことです。この世的なものに心を奪われるほど波長は低下し、私利私欲を捨てるほど波長は高まり、接触する波長も高くなり、内部の大霊がより多く発揮されることになります」

「その内部の大霊というのは独立した存在でしょうか。意識的自我とは別個に理性を働かせ、思考し、行動することができるのでしょうか」

「いいえ、その肉体を通して顕現している意識的自我によって条件づけられます。物的世界で生活している間は脳の意識中枢によって程度が左右されます。催眠術によって左右されることはありません。なぜなら施術者は牢の番人のようなもので、牢の扉を開けて自由にしてあげるだけです。

施術者が善意の意図のもとに働けば被術者の内部の神性を刺激するという立派な仕事ができます。しかし同時に、動物性を刺激してしまうこともあるのです。が、どっちにしたところで、今あなたが表現しておられる意識は、いつの日か発揮するであろう大我のホンのひとかけらに過ぎません」

「いささか不満を覚えますね」

「でしょうね。でも、不満を覚えるということは結構なことです。ケチくさい満足は成長の足しにはなりません」

そう述べてから、どんな質問でもなさってくださいと言って、こう続けた。

「知識というのは自分のものとして取っておくためではなく、他人に分けてあげるために与えられるのです。他人に分けてあげることによって、さらに知識の泉に近づくのです。知識は他人にあげることによって減るものではありません。反対に増えるのです。霊的知識を分け与えれば、それだけ霊性が豊かになるのです」

そこで新しい質問が出された。キリスト教をはじめとする伝統的信仰は人間の精神にどのような影響を及ぼすかという質問だった。

それに答えて――

「教義による束縛は地上世界の苦痛のタネの一つです。伝染病や不健康より厄介です。病気による身体上の苦痛よりはるかにタチが悪いものです。なぜなら、それは魂の病気だからです。霊に目隠しをしてしまうのです。

にもかかわらず、大霊の息のかかった叡智が無限にあるというのに人間の浅知恵がこしらえた教義にしがみつこうとする人がいます。牢の中にいた方がラクだと思う人がいるものなのです。自由とは、その有り難さがわかった者のみが手にするものです。

その教義の足枷から逃れることのできたあなたは感謝すべきです。そして、その喜びをもって、こんどは、一人でも多くの人を自由にしてあげるように努力なさるべきです」

続いて“苦の効用”について問われて――

「体験の一つ一つがあなたの人生を織りなしております。皆さんは永遠というものを目先の出来事で裁こうとなさいます。表面上の矛盾撞着に捉われて、人生全体を大霊の叡智の糸が通っていることが理解できないのです。

調和を基調とするこの大宇宙の中で、あなた方一人ひとりが大霊の計画の推進に貢献しておられます。人生の出来事――時には辛く絶望的であり、時には苦しく悲劇的であったりしますが――その一つ一つが、これからたどり行く道に備えて、魂を鍛える役割を果たしているのです。

光と闇、日向と陰、こうしたものは一つの全体像の反映にすぎません。陰なくしては光もなく、光なくしては陰も存在しません。人生の苦難は魂が向上していくための階段です。

困難・障害・不利な条件――これらは魂の試練なのです。それらを克服していくことによって魂がいっそう充実し、向上し、一段と強くそして純粋になってまいります。

あなたは、無限の可能性を秘めた魂の潜在力が、困難も苦痛もなく、陰もなく悲しみもなく、人生の浮き沈みを何一つ体験せずして発揮されると思われますか? もちろんそうは思われないでしょう。

人生の喜び、愉快な笑いの時は、人生の辛酸をなめつくして初めて解るのです。なぜなら、深く沈んだだけ、それだけ高く上がれるからです。地上生活の陰を体験しただけ、それだけ日向の喜びを味わうことができるのです。

体験のすべてがあなたの進化の肥やしです。そのうちあなたにも、肉体の束縛から解放されて物的な曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば、紆余曲折した一見とりとめもない出来事の絡み合いの中で、一つ一つがちゃんとした意味をもち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出させる上で意義があったことを、つぶさに理解なさるはずです。

こちら側にいるわたしたちにとって耐え忍ばねばならない最大の試練は、愛情の絆で結ばれている地上の人間が苦難と闘っているのを目のあたりにしながら、それがその人の魂にとって是非とも必要であるとの認識のもとに手をこまねいて見ていなければならない時です。

地上のいかなる体験も、それに正しく対処し正しく理解すれば、必ずや人間にとってプラスになるものを有しております。いったい何の困難も、何の試練も、何のトラブルも、何の苦痛も、何の悩みもない世界が想像できるでしょうか。そこにはもはや向上進化の可能性がないことになります。克服すべきものが何もないことになります。ただ朽ち果てるのみです」

「魂の成長にとって苦しみが不可欠ならば、なぜ心霊治療のようにそれを軽減する仕事があるのでしょうか」

「その治療を通じて魂を真の自我に目覚めさせることができるからです。病気を治すということは確かに立派な仕事ですが、心霊治療家にはそれ以上に大きな仕事があるのです。すなわち病気が縁で訪れた人に真の自我を見出させてあげることです」

「それに較べれば身体の病気が治るということは大して重要ではないというお考えでしょうか」

「その通りです。物的身体に宿っている皆さんはどうしても地上生活のことだけを念頭におかれます。わたしたち地上を去った者は皆さんの永遠の生命を念頭に置いて、それをホンの一時期のものとして位置づけます。

病に苦しむ人を見て気の毒に思い胸に同情心が湧いてくるのは無理もないことであり、わたしもそれを咎めるつもりは毛頭ありません。しかし、その時のあなたは苦しみの一面のみを見ておられ、その人が苦しみの中で過ごす時間は、その代償として得られる喜びに較べれば実に些細(ささい)なものであるということまでは理解が及びません。

人間にとっては陰の中で過ごす時間の方が日向で過ごす時間よりも長く感じられるようですが、実際はそうではありません。

もう一つ理解しなくてはならないのは、病人のすべてが心霊治療で治るとはかぎらないということです。そこには法則というものが働いており、治療家にも治せない病気というのが出てきます。

病気は治るべき機が熟して治るもので、たまたま治っているのではありません。それは魂が地上的体験を卒業して新しい体験を必要とする機が熟すると死の関門を通過していくのと同じです。不意に死期が訪れるのではありません。すべては法則の働きで決まることなのです。が、その法則の働きの中にはあなたの役割も入っています。あなたも大霊の一部だからです」

「もしも病気治療が借金(カルマ)を支払ってしまうことによって魂にその資格ができた時にはじめて生じるものであるとすれば、その時は治療家のところへ行かなくても治ることになりませんか」

「かりに借金のすべてが支払い済みとなったら――実際にはそういうことにはならないのですが――もはや“苦”によって悩まされることが無くなるはずです。身体が完全な健康状態となるはずだからです。しかし人間は地上にいてもこちらへ来てからでも、常に借金を重ねております」

「病気の治癒が法則によって行われているとなると、治療家にはどんな役割があるのでしょうか」

「病気の人が治るべき段階にくると、治療家がその人のもとを訪れます。あるいは、その人の方から治療家のもとへ赴きます。あなたは永い間ここへ通っておられて人の出会いの不思議さを感じたことはありませんか。到達した進化の段階によってその人を治すべき治療家が決まるのです。

大霊は物忘れをなさいません。摂理は完全であり、自動的に作用します。誰一人として摂理を避けて通ることはできません。自由意志でさえ摂理の一環なのです。そしてその作用は、それがわかる段階まで進化した人にはまる見えなのです」

ここで列席者の一人が自由意志の存在は法則の存在と矛盾するのではないかと反論した。その理由として、もしもすべてが法則によって支配されているとなると、選択まで法則によって決められてしまうことになるので、そこには自由は無いことになるはずだと述べた。するとシルバーバーチが――

「あなたが自由意志を行使できる範囲はあなたがこれまでに到達した進化の程度によって決まるということです。言いかえれば、あなたが選択した行為以外のことをしたかも知れないという可能性はない――魂の進化の程度によって決まることだから、ということです」

「それは精神状態が正常でない人の場合にも言えることでしょうか」

「精神が異常をきたすということは、そうなるような何かをしでかしているということです。それも法則の範囲内のことです。異常な精神状態は結果にすぎません」

「選択も法則によって決まるとなると、人生体験が進化に影響を及ぼす余地はないのではないでしょうか。進化までも自動的なものになってしまわないでしょうか」

「そういうことにはなりません。その論理には、あなたも大霊の一部であり無限の神性を秘めているという認識が欠けています。その神性が発揮されるにつれて、あなたはより高い次元の法則の支配を受けるようになるのです。その法則は他の次元の法則と矛盾するものではありません。あなたの霊格が高まったためにその法則との係わり合いが生じたということです。あくまでも“霊格の程度”の問題です。

無限ということは究極が無いということです。美の極致にも、音楽の壮厳さにも究極が無いのです。その無限の階梯の中にあって個々の魂は、霊格が高まるにつれて、より大きな美と調和の世界へ近づいていくのです。向上するにつれて、より大きな調和の世界が待ちうけているということです。

低い階梯にある間はそれより高い階梯のことは意識できません。が、高い階梯にいて低い階梯のことを意識することはできます。こうした生命の実相を支配している法則の働きは自動的ですから、より高い法則の支配を受けるにはその段階まで霊性を高めるほかはありません」

「でも未来の魂の成長は過去の魂の成長度によって決まるのではないでしょうか」

「そうではありません。過去の成長度があなたを、未来の成長を選択する階梯に位置づけるということです。でも、選択を強要されるのではありません。先に延ばすことはできます」

「ということは、自由意志の行使は自動的でないということでしょうか」

「いえ、自動的です。その時点であなたが取る行動は、さまざまな法則の相互作用によって決まります。その一つ一つの法則は自動的に働きます。その際のあなたの選択は、その段階での魂の成長度における意識の反応によって決められます。霊的自我に目覚めている魂は進化をさらに促進する方向を(たとえ過酷なコースであっても)選択するものです」

「魂が自らの成長を遅らせることができるのでしょうか」

「できます。しかしそれは、物的な脳を通して顕現している物的意識にかかわるものだけです」

別のメンバーが、治してもらえる段階まで来ていない患者は心霊治療で治せないという先の話を持ち出して、そうなるとその患者は実に痛ましいことになりそうだと述べた。するとシルバーバーチが――

「その患者さんはどうなると思われるのでしょうか」

「たぶん死んでしまうと思います」

「それが果たして痛ましいことなのでしょうか。このわたしも“死んでいる”のですよ。少しも痛ましくはありません。あなたは物的な面ばかりを考えていらっしゃいます。

地上というところは実にこっけいな世界です。生命にとって最も重大な体験である“死”をみんな怖がります。牢から解き放されることを怖がります。自由の身となることを怖がります。小鳥はカゴから出るのを怖がるでしょうか。なぜ人間はその肉体というカゴから出るのを怖がるのでしょうか」

「でも、たとえば母親が子供を置き去りにしたくないのは自然の情ではないでしょうか」

「あなたは生命を五、七十年の地上人生のみで考えていらっしゃいます。永遠の生命をこの世的なことだけで判断できるのでしょうか。大霊の叡智をいま生活しておられるチリほどの物質の世界だけで裁いてはいけません。地上には比較の尺度がないのです。生命活動の世界の中でも最低の界層の一つしか見ていない人間に、どうして最高界のことが理解できましょう」

代わって他のメンバーが――

「治してもらえる段階まで来ないまま他界すれば、霊界の自由な生活がエンジョイできます。一方、治るべき段階に来ていた人が治ってしまえば、そのまま地上生活を続けることになりますが、これでは進化していない方が進化した人より幸せということになりそうですが……

「治るべき段階に来ていたため全治して死を免れたとすれば、それはまだ死ぬべき時機が来ていなかったということと、魂にとって必要だった身体の苦痛が一応そこで終了したことを意味します。しかし、魂が地上を去って新しい世界へ進む前に体験しなければならないことなら、ほかにも沢山あります。肉体の苦痛が人間的体験の究極ではありません!」

キリスト教の悪影響についての先のシルバーバーチの説がまだしっくりこないメンバーが「クリスチャンの中にも立派な方が沢山いると思うのですが」と言うと――

「そういう人はクリスチャンにならなくても立派だった人です」とシルバーバーチが答える。

「でも、イエスの教えに忠実であろうと努力したからこそ立派になった人もいるのではないでしょうか」

「地上の人間が本当にイエスの生きざまを模範とするようになれば、人類史上に新しいページが始まります。しかし、まだそこまでは至っておりません。わたしにはその徴候が見えないのです。忠誠を表明しているはずのイエスを欺(あざむ)きつづけている人のことを、わたしの前でクリスチャンと呼ぶのは止めてください。そのイエス自身が言っているではありませんか――“私に向かって主よ、主よ、と言う者のすべてが天国へ入れるのではない。天にまします父の意志を実践する者のみが入れるのである”と」

「でも、キリスト教の教義には深くかかわらずに立派な無私の生活を心がけているクリスチャンも大勢います」と言って、一例として有名な牧師の名前をあげた。

するとシルバーバーチは――

「あの方は立派なクリスチャンではありません。クリスチャンとしては立派な人ではありません。が、人間としては立派な方です。

いいですか、教義というものは例外なく魂にとって足枷となるのです。人間は教義のお蔭で立派になるのではありません。教義を無視しても立派になれるのです。教義の名のもとに同胞を殺し、教義の名のもとに同胞を焼き殺した歴史があります。魂を縛るもの、魂を閉じ込めるもの、その自由な発想を妨げるものはすべて一掃しなくてはいけません」

なおも納得しないその質問者は、ハンセン病患者の施設を見舞う牧師の話を持ち出した。するとシルバーバーチが――

「その人たちは教義に動かされて行くのではありません。魂がそうしてあげたいと望むから行くのです。宗教とは教義を超えたものです。教義は宗教ではありません」

つづいて信仰の問題がメンバーの間で論議されたあと、シルバーバーチがこう締めくくった。

「ただそう信じるというだけの信仰では、厳しい体験の嵐が吹き荒れるとあっさりと崩されてしまいます。が、霊的事実を土台として生まれた信仰はいかなる嵐が吹いてもビクともしません。

目で確かめずして信じることのできる人は幸いです。しかし、確かめた上で信じ、なおかつ、宇宙が愛と叡智の摂理によって支配されているとの認識のもとに、まだ啓示されていないものまで信じることのできる人は、その何倍も幸せです。

わたしたちがお教えしていることは、至って簡単なことばかりです。にもかかわらず、わたしたちのことを悪魔の手先であると決めつけたがる人がいます。わたしたちは、自然の摂理の働きをお教えしようとしているのです。それによって皆さんが生活を正しく規制し、生命の大霊と調和することによって内部から湧き出る幸福感を味わっていただくためです」

祈り

ああ、真白き大霊よ。

全生命の裁定者にあらせられるあなた。“死”の存在しない御国の主にあらせられるあなた。わたしたちは、全てを包摂して慈しまれ、大自然の法則の一大パノラマの中に顕現しておられるあなたを啓示せんと務めている者たちでございます。

わたしたちはあなたを完全なる公正と叡智の大霊、全生命に潜在し、生きとし生けるもの全てに表現されている存在として啓示いたします。

ああ、大霊よ。あなたは無窮にして無限、子等の理解力を超えた存在にあらせられます。しかし、それでもなおあなたを知ることは可能でございます。なぜならあなたは、物質の次元と霊の次元の区別なく、あらゆる生命の相に顕現しておられるからでございます。

あなたは小鳥のさえずりの中に存在します。夜空の星のまたたきの中に、雨滴のきらめきの中にあなたを見ることができます。小川のせせらぎの中に、ミツバチの羽音の中に、風に揺れる木々の枝の中にいらっしゃいます。轟く雷鳴の中にも大海の怒濤の中にもあなたがいらっしゃいます。またあなたは昇りゆく太陽の中にも淡い月の光の中にもいらっしゃいます。

あなたは生命のすべての相の中におられます。しかし、人間の霊性があなたの愛と善性とを奉仕と自己犠牲と理想主義の行為の中に顕現せんとして躍動する時、最もあなたに近い形でその存在をお示しになられます。

霊の世界から派遣されたあなたの使者であるわたしどもは、かつて限られた少数の人間のみに啓示され、今は物的領域を超えてあなたの計画を垣間(かいま)見ることのできる者すべてに啓示されつつある摂理の働きを、あなたの働きそのものとして啓示せんとしているところでございます。

物質の束縛を解かれ、今はより大きな世界において生命活動を営んでいるわたしどもは、あなたの法則にのっとって地上へ舞い戻り、愛は消えることなくいつまでも相手を捜し求めるものであることを教え、慰めと確信、導きと希望、知識と霊感、叡智と真理を地上の同胞にもたらさんとしているところでございます。

かくして離別の悲しみと愛による再会という体験の中で、あなたの子等は内在するあなたの霊性を認識するようになり、霊界からの鼓舞を受けてあなたの道具として献身し、苦しむ者を救い、あなたの霊性を日常生活の中で発揮し、すべての者にあなたの御心をもって接するようになることでございましょう。

わたしたちもその御心を体(たい)して地上へ戻り、いずこにおいても手助けすることを心がけ、地上の全人類を結びつけている霊的な絆(きずな)を強化し、全生命の背後の一体性を認識せしめんとしているところでございます。

願わくばあなたの御力が地上におけるあなたの神殿たらんと志す全ての通路(ひと)を通して顕現し給わんことを。

ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。