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20章 青年牧師との論争

ある時キリスト教メソジスト派の年次総会がウェストミンスター寺院のセントラルホールで開かれ、報告や活発な討論が為された。が、その合間での牧師たちの会話の中でスピリチュアリズムのことがしきりにささやかれた。

そのことで関心を抱いた一人の青年牧師がハンネン・スワッファーのもとを訪れ、交霊会というものに一度出席させてもらえないものだろうかと頼んだ。知的な風貌の、人徳を備えた好青年であることが一目でわかる。予備知識としてはコナン・ドイルの『遙かなるメッセージ』を読んだだけだという。

スワッファーは快く招待することにし、次のように述べた。

「明晩の交霊会にご出席ください。その会にはシルバーバーチと名乗る霊が、入神した霊媒の口を借りてしゃベります。その霊と存分に議論なさるがよろしい。納得の行かないところがあれば反論し、分からないところは遠慮なく質問なさることです。そのかわり後でよそへ行って、十分の議論がさせてもらえなかった、などと不平を言わないでいただきたい。質問したいことは何でも質問なさって結構です。その会の記録はいずれ活字になって発行されるでしょうが、お名前は出さないことにしましょう。そうすればケンカになる気遣いも要らないでしょう。もっとも、あなたの方からケンカを売られれば別ですが……

翌日、約束通りその牧師が訪れた。そして、いつものようにシルバーバーチの祈りの言葉で交霊会が始まった。

「大霊のインスピレーションが皆さんの全てに宿り、その大霊の御心に応えて皆さんのお一人お一人が大霊の一部であることを感じ取っていただけますように。また、いずこに行かれる時もその御心を携えられ、接する人々にその威力を身をもってお示しになられますように」

以下はその牧師とシルバーバーチとの議論である。まずシルバーバーチの方から牧師にこう語りかける。

「この霊媒(バーバネル)にはあなた方のいう聖霊の力がみなぎっております。それがこうして言葉をしゃベらせてくれるのです。私はあなた方のいう復活せる霊の一人です」

牧師「死後の世界とはどういうところですか」

「あなた方の世界と実によく似ております。ただし、こちらは結果の世界で、そちらは原因の世界です」

牧師「死んだ時は恐怖感はありませんでしたか」

「ありません。私たちインディアンは霊覚が発達しており、死が恐ろしいものでないことを知っておりましたから…… あなたが属しておられる宗派の創立者ウェスレーも同じです。あの方も霊の力に動かされておりました。そのことはご存じですね?」

牧師「おっしゃる通りです」

「ところが現在の聖職者は霊の力に動かされておりません。宇宙は究極的には神とつながった一大連動装置によって動かされており、いちばん低い地上界もあなた方のおっしゃる天使の世界とつながっております。どんなに悪い人間もダメな人間も、あなた方のいう神、私のいう大霊と結ばれているのです」

牧師「死後の世界でも互いに認識し合えるのでしょうか」

「地上ではどうやって認識し合いますか」

牧師「目です。目で見ます」

「目玉さえあれば見えますか。結局は霊で見ていることになるでしょう?」

牧師「その通りです。私の精神で見ています。それは霊の一部だと思います」

「私も霊の力で見ています。私にはあなたの霊も見えるし肉体も見えます。しかし肉体は影に過ぎません。光源は霊です」

牧師「地上での最大の罪は何でしょうか」

「罪にもいろいろあります。が、最大の罪は神への反逆でしょう」

ここでメンバーの一人が「その点を具体的に述べてあげてください」と言うと

「神の存在を知りつつもなお、それを無視した生き方をしている人々、そういう人々が犯す罪がいちばん大きいでしょう」とシルバーバーチが付け加える。

さらに別のメンバーが「キリスト教ではそれを聖霊に対する罪と呼んでおります」と言うと

「例の本(バイブル)ではそう呼んでおります。が、要するに霊に対する罪です」

牧師「改訳聖書をどう思われますか。欽定訳聖書と比べてどちらが良いと思われますか」

「文字はどうでもよろしい。いいですか、大切なのはあなたの行いです。神の真理はバイブルだけでなく他のいろんな本に書かれています。それから、人のために尽くそうとする人々は、どんな地位の人であろうと誰であろうと、またどこの国の人であろうと、立派に神が宿っているのです。それこそがいちばん立派なバイブルです」

牧師「改心しないまま他界した人はどうなりますか」

「改心とはどういう意味ですか。もっと分かりやすい言葉でお願いします」

牧師「例えばある人は生涯を良くないことばかりしてそのまま他界し、ある人は死ぬ前に反省します。両者には死後の世界でどんな違いがあるのでしょうか」

「あなた方の本(バイブル)から引用しましょう。蒔いたタネは自分で刈り取るのです。これだけは変えることが出来ません。今のあなたがそのまま構えてこちらヘ参ります。こうだと信じているもの、人からこう見て貰いたいと思っているものではなく、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへ参ります。あなたもこちらへお出でになれば分かります」

そう言ってからスワッファーの方を向いて「この人は心眼がありますね」と述べる。スワッファーが「霊能があるという意味ですか」と尋ねると「そうです。なぜ連れてきたのですか」と言う。「いや、彼の方から訪ねてきたものですから」と答えると、

「この人は着実に導かれている。少しずつ光明が見えてくることは間違いありません」と言ってからその牧師に向かって

「インディアンがあなた方のバイブルのことをよく知っていて驚かれたでしょう?」と言うと、「本当によくご存じのようです」と答えた。するとメンバーの一人が「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えする。牧師はすかさず年代を計算して「ダビデをご存知でしたか」と尋ねた。ダビデは紀元前一、〇〇〇年頃のイスラエルの王である。シルバーバーチが答える。

「私は白人ではありません。レッド・インディアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました。あなた方のおっしゃる野蛮人というわけです。しかし、私はこれまで西洋人の世界に、三千年前のわれわれインディアンより遙かに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見てきております。今なお物質的豊かさにおいて自分たちより劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つといえます」

牧師「そちらへ行った人はどんな風に感じるのでしょう? 例えば後悔の念というものを強く感じるのでしょうか」

「いちばん残念に思うことは、やるべきことをやらずに終わったことです。あなたもこちらヘお出でになれば分かります。きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのに怠ったこと、そうしたことが逐一わかります。逃してしまったチャンスが幾つもあったことを知って後悔するわけです」

牧師「キリストヘの信仰をどう思われますか。神はそれを嘉納(かのう)なさるでしょうか。キリストへの信仰はキリストの行いに倣うことになると思うのですが……

「主よ、主よと、何かというと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心にかなった行いです。それが全てです。口にする言葉や信じていることではありません。頭で考えていることでもありません。実際の行為です。何一つ信仰というものを持ち合わせなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢えている人にパンを与え、暗闇の中にいる人の心に灯火を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の御心にかなった人と言えます」

ここで列席者の一人がイエスは神の一部なのかと尋ねると――

「イエスは地上に降誕した偉大な霊覚者だったということです。当時の民衆はイエスを理解せず、遂に十字架に架けました。いや、今なお架け続けております。イエスだけでなく人間のすべてに神の分霊が宿っております。ただ、その神性を多く発現している人と少ない人とがいるだけです」

牧師「キリストが地上最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それほどの人物が嘘を言うはずがありません。キリストは言いました――“私と父とは一つである。私を見た者は父を見たのである”と。これはキリストが即ち神であることを述べたのではないでしょうか」

「もう一度バイブルを読み返してごらんなさい。“父は私よりも偉大である”とも言っておりませんか」

牧師「言っております」

「また“天にまします我らが父に祈れ”とも言っております。“私に祈れ”とは言っておりません。父に祈れと言ったキリスト自身が“天にまします我らが父”であるわけがないでしょう。私に祈れとは言っておりません。父に祈れと言ったのです」

牧師「キリストは“あなたたちの神”と“私の神”という言い方をしております。“私たちの神”とは決して言っておりません。ご自身を他の人間と同列に置いておりません」

「“あなたたちの神と私”とは言っておりません。“あなたたちは私より大きい仕事をするでしょう”とも言っております。

あなた方クリスチャンにお願いしたいのは、バイブルを読まれる際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をなさらぬことです。霊的実相に照らして解釈しなくてはいけません。存在の実相が霊であることが宇宙のすべての謎を解くカギなのです。イエスが譬え話を多用したのはそのためです」

牧師「神は地球人類を愛するがゆえに唯一の息子を授けたのです」

と述べて、イエスが神の子であるとするキリスト教の教義を弁護しようとする。

「イエスはそんなことは言っておりません。イエスの死後何年も経ってから、例のニケーア会議でそんなことがバイブルに書き加えられたのです」

牧師「ニケーア会議?」

「西暦三二五年に開かれております」

牧師「でも、私が今引用した言葉は、それ以前からある“ヨハネ福音書”に出ていました」

「どうしてそれが分かります?」

牧師「いや、歴史にそう書いてあります」

「どの歴史ですか」

牧師「どれだかは知りません」

「ご存じのはずがありません。一体バイブルというものが書かれる、その元になった書物はどこにあると思われますか」

牧師「“ヨハネ福音書”それ自体が原典です」

「いいえ、それよりもっと前の話です」

牧師「バイブルは西暦九十年に完成しました」

「その原典となったものは今どこにあると思いますか」

牧師「いろんな文書があります。例えば……

と言って一つだけ挙げた。

「それは原典の写しです。原典はどこにありますか」

牧師がこれに答えられずにいるとシルバーバーチが

「バイブルの原典はご存じのバチカン宮殿に仕舞い込まれたまま一度も外に出されたことがないのです。あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典のコピーのコピーの、そのまたコピーなのです。おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。

初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しませんでした。ところが、いつになっても再臨しないので遂に締めて、記憶をたどりながらイエスの言ったことを記録に留めたのです。イエス曰く……と書いてあっても、実際にそう言ったかどうかは、書いた本人も確かでなかったのです」

牧師「でも、四つの福音書にはその基本となった、いわゆる“Q資料”(イエス語録)の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。中心的事象はその四つの福音書に出ていると思うのですが……

「別に私は、そうしたことがまったく起きなかったと言っているのではありません。ただ、バイブルに書いてあることの一語一句までイエスが本当に言ったとは限らないと言っているのです。バイブルに出てくる事象には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用がずいぶん入っていることを忘れてはいけません」

牧師「記録に残っていない口伝のイエス語録が出版されようとしていますが、どう思われますか」

「イエスの関心事はご自分がどんなことを言ったかといったことではありません。地上のすべての人間が神の摂理を実行してくれることです。人間は教説のことで騒ぎ立て、行いの方を疎かにしています。“福音書”なるものを講義する場に集まるのは、真理に飢えた人たちばかりです。イエスが何と言ったかはどうでもよいことです。大切なのは自分自身の人生をどう生きるかです。

地上世界は教説では救えません。いくら長い説教をしても、それだけでは救えません。神の子が神の御心を鎧として、暗黒と弾圧の勢力――魂を束縛するもの全てに立ち向かうことによって、初めて救われるのです。その方が記録に残っていないイエスの言葉よりも大切です」

牧師「この世にはなぜ多くの苦しみがあるのでしょうか」

「神の真理を悟るには苦を体験するしかないからです。苦しい体験の試練をへて初めて人間世界を支配している神の摂理が理解できるのです」

牧師「苦しみを知らずにいる人が大勢いるようですが……

「あなたは神に仕える身です。大切なのは“霊”に関わることであり、“肉体”に関わることでないくらいのことは理解できなくてはいけません。霊の苦しみの方が肉体の痛みよりも耐え難いものです」

メンバーの一人が「現行の制度は不公平であるように思います」と言うとシルバーバーチが

「地上での出来事はいつの日か必ず埋め合わせがあります。いつかは自分で天秤を手にして、バランスを調節する日がまいります。自分で蒔いたものを刈り取るという自然法則から免れることは出来ません。罰が軽くて済んでいる人がいるかにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたには魂の内部を見抜く力がないからそう思えるのです。

私が常に念頭においているのは、大霊の法則です。人間の法律は念頭にありません。人間がこしらえた法律は改めなければならなくなります。いつかは変えなければならなくなります。大霊の法則は決してその必要がありません。地上に苦難がなければ、人間は正していくべきものへ注意を向けることができません。痛みや苦しみや邪悪が存在するのは、大霊の分霊であるあなた方人間がそれを克服していく方法を学ぶためです。

もしもあなたがそれを怠っているとしたら、あなたをこの世に遣わした大霊の意図を実践していないことになります。宇宙の始まりから終わりまでを法則によって支配し続けている大霊を、一体あなたは何の資格をもって裁かれるのでしょう」

牧師「霊の世界ではどんなことをなさっているのですか」

「あなたはこの世でどんなことをなさっておられますか」

牧師「それは、その、アレコレと本を読んだり…… それに、説教もよくします」

「私もよく本を読みます。それに今は、こうして大変な説教をしております」

牧師「私は英国中を回らなくてはなりません」

「私は霊の世界中を回らなくてはなりません。さらに私の方は、天命をまっとうせずにこちらヘ送り込まれてきた人間がうろついている暗黒界へも下りて行かねばなりません。それにはずいぶん手間が掛かります。あなたに自覚していただきたいのは、あなた方はとても大切な立場に立っていらっしゃるということです。神に仕える身であることを自認しながら、その本来の責務を果たしていない方がいます。ただ教会の壇上から意味もない説教をしているだけです。

しかし、自ら神の手にゆだね、神の貯蔵庫からインスピレーションを頂戴すべく魂の扉を開けば、あなたは古(いにしえ)の預言者たちを鼓舞したのと同じ霊力によって魂が満たされるのです。そうなることで地上の片隅に、人生に疲れ果てた人々の心を明るく照らす光をもたらすことが出来るのです」

牧師「そうあってくれれば嬉しく思います」

「いえ、そうあってくれればではなくて、事実そうなのです。私はこちらの世界で後悔している牧師にたくさん会っておりますが、皆さん、地上での人生を振り返って、ご自分が本当の霊のメッセージを説いていなかったこと、バイブルや用語や教説にばかりこだわって実践を疎かにしたことを、如実に自覚します。そして、出来ればもう一度地上へ戻りたいと望みます。そこで私は、あなたのような牧師に働きかけることによって新しい時代の真理を地上にもたらす方法をお教えするのです。

あなたは、今まさに崩壊の一途をたどっている世界に身を置いていることを自覚しないといけません。新しい秩序の誕生、真の意味での天国が到来する時代の幕開けを見ていらっしゃるのです。産みの痛みと苦しみと涙が、少なからず伴うことでしょう。しかし最後は大霊の摂理が支配します。あなた方一人一人がその新しい世界を招来する手助けができるのです。なぜなら、人間の全てが大霊の分霊であり、その意味で大霊の仕事の一翼を担うことが出来るのです」

その牧師にとっての第一回目の交霊会も終わりに近づき、いよいよ霊媒から去るに当たってシルバーバーチがこう述べた。

「このあと私もあなたが説教をなさる教会へいっしょに参ります。あなたが本当に良い説教をなさった時、これが霊の力だと自覚なさるでしょう」

牧師「これまでも大いなる霊力を授かるよう祈って参りました」

「祈りはきっと叶えられるでしょう」

以上で第一回の議論が終わり、続いて第二回の議論の機会がもたれた。引き続いてそれを紹介する。

牧師「地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能でしょうか。全ての人間を愛することは可能なのでしょうか」

これが二回目の議論の最初の質問だった。

「それは不可能なことです。が、そう努力することは出来ます。努力すること、そのことが性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛く当たることもなく、腹を立てることもないようでは、もはや人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれて来るのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちらへ来てからでも同じです」

牧師「イエスは“天の父の完全であるが如くに汝らも完全であれ”と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」

「ですから、完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上で目指すべき最高の理想なのです。即ち、内部に宿る神性を開発することです」

牧師「先ほど引用した言葉はマタイ伝第五章の終わりに出ているのですが、普遍的な愛について述べた後でそう言っております。また“ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝らは完全であれ。神の子なればなり”とも言っております。神は全人類を愛してくださるのだから、われわれも全ての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じると思われますか」

この質問にシルバーバーチは呆れたような、あるいは感心したような口調でこう述べる。

「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさりたいのですね。お聞きしますが、イエス自身、完璧な人生を送ったと思いますか」

牧師「そう思います。完璧な人生を送られたと思います」

「一度も腹を立てたことがなかったとお考えですか」

牧師「当時行われていたことを不服に思われたことはあると思います」

「腹を立てたことは一度もなかったとお考えですか」

牧師「腹を立てることはいけないことであると言われている、それと同じ意味で腹を立てられたことはないと思います」

「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことが正当化できるかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなた方(クリスチャン)は何でも正当化なさるんですから……

ここでメンバーの一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を出した。するとシルバーバーチが続ける――

「私が言いたかったのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。ムチをもって追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別問題です。イエスは怒ったのです。怒るということは人間的感情です。私が言いたいのは、イエスも人間的感情を具えていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐとき、イエスもまた一個の人間であった――ただ普通の人間よりは大霊の心を多く体現した人だった、という風に考えることが大切です。分かりましたか」

牧師「分かりました」

「私はあなたのためを思えばこそ、こんなことを申し上げるのです。誰の手も届かない所に祭り上げたらイエスが喜ばれると思うのは大間違いです。イエスもやはり我々と同じ人の子だったと見る方が、よほど喜ばれるはずです。自分だけが超然とした位に留まることは、イエスは喜ばれません。人類と共に喜び、共に苦しむことを望まれます。一つの生き方の模範を示しておられるのです。イエスがおこなったことは誰にでも実行できることばかりなのです。誰も付いて行けないような人物だったら、せっかく地上へ降りたことが無駄だったことになります」

話題が変わって――

牧師「人間には自由意志があるのでしょうか」

「あります。自由意志も大霊の摂理の一環です」

牧師「時として人間は抑えようのない衝動によって行為にでることがあるとは思われませんか。そう強いられているのでしょうか。それともやはり自由意志でおこなっているのでしょうか」

「あなたはどう思われますか」

牧師「私は人間はあくまでも自由意志を持った行為者だと考えます」

「人間には例外なく自由意志が与えられております。ただしそれは、大霊の定めた摂理の範囲内で行使しなければなりません。これは大霊の愛から生まれた法則で、大霊の子の全てに平等に定められており、それを変えることは誰にも出来ません。その規則の範囲内において自由であるということです」

牧師「もし自由だとすると、罪は恐ろしいものになります。悪いと知りつつ犯すことになりますから、強制的にやらされる場合よりも恐ろしいことに思えます」

「私に言えることは、いかなる過ちも必ず本人が正さなくてはならないということ、それだけです。地上で正さなかったら、こちらヘ来てから正さなくてはなりません」

牧師「とかく感心できないことをしがちな性癖が先天的に強い人がいるとは思われませんか。善いことをしやすい人間とそうでない人間とがいます」

「難しい問題です。と申しますのは、各自に自由意志があるからです。誰しも善くないことをすると、内心ではそうと気づいているものです。その道義心を無視するか否かは、それまでに身につけた性格によって違ってくることです。罪というものは、それが結果に及ぼす影響の度合に応じて重くも軽くもなります」

これを聞いて牧師がすかさず反論した。

牧師「それは罪が精神的なものであるという事実と矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります」

「罪は罪です。身体で犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれも罪は罪です。あなたはさっき衝動的に罪を犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこから来ると思いますか」

牧師「思念です」

「思念はどこから来ますか」

少し躊躇してから

牧師「善なる思念は神から来ます」

「では、悪の思念はどこから来ますか」

牧師「分かりません」

「神はすべてのものに宿っております。間違ったことの中にも正しいことの中にも宿っております。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも宿っているのです。美なるもの善なるものだけではありません。罪の中にも悪の中にも宿っているのです。

お分かりになりますか。神とはコレとコレにだけ存在しますという風に一定の範囲内に限定できるものではないのです。全宇宙が神の創造物であり、その隅々まで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って「コレは神のものではない」などとは言えないのです。日光は神の恵みで、作物を台無しにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。神はすべてのものに宿ります。

あなたという存在は思念を受けたり出したりする一個の器官です。が、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違ってきます。もしもあなたが、あなたのおっしゃる“完璧な人生”を送れば、あなたの発する思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。私の言っていることがお分かりですか」

牧師「おっしゃる通りだと思います。では、そういう煩悩ばかりの人間が死に際になって自分の非を悟り“信ぜよ、さらば救われん”の一句で心に安らぎを覚えるという場合があるのをどう思われますか。キリスト教の“回心の教義”をどう思われますか」

「よくご存じのはずの文句をあなた方の本から引用しましょう。“たとえ全世界を得ようと己の魂を失わば何の益かあらん”“まず神の国とその義を求めよ。しからばこれらのもの全て汝らのものとならん”これらの文句は、あなた方はよくご存じですが、果たして理解していらっしゃるでしょうか。それが真実であること、本当にそうなること、それが神の摂理であることを悟っていらっしゃいますか。“神を侮るべからず。己の蒔きしものは己が刈り取るべし”――これもよくご存じでしょう。

神の摂理は絶対にごまかせません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の回心でいっぺんに立派な霊になれると思いますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切しなかった人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。“すみませんでした”のひとことで全ての過ちが赦されるとしたら、果たして神は公正と言えるでしょうか。いかがですか」

牧師「私は、神はイエス・キリストに一つの心の避難所を設けられたのだと思うのです。イエスはこう言われ……

「お待ちなさい。私はあなたの率直な意見をお聞きしているのです。率直にお答えいただきたい。本に書いてある言葉を引用しないでいただきたい。イエスが何と言ったか、私には分かっております。あなた自身はどう思うかと聞いているのです」

牧師「確かにそれでは公正とは言えないと思います。しかし、そこにこそ神の偉大なる愛の入る余地があると思うのです」

「ここの通りを行かれると人間の法律を運営している建物(役所)があります。もしその法律によって、生涯を善行に励んできた人間と罪ばかり犯してきた人間とを平等に扱ったら、あなたはその法律を公正と思われますか」

牧師「私は、生涯まっすぐな道を歩み、誰をも愛し、正直に生き、死ぬまでキリストを信じた人が…… 私は……

ここでシルバーバーチが遮って言う――

「自分がタネを蒔き、蒔いたものは自分で刈り取る――この法則から逃れることは出来ません。神の法則はごまかすことが出来ないのです」

牧師「では、悪のかぎりを尽くした人間が今まさに死にかかっているとしたら、その償いをすべきであることを、その人間にどう説いてやれば良いのでしょうか」

「シルバーバーチがこう言っていたと、その人に伝えてください。もしもその人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいという気持になれるはずです。自分の犯した過ちの報いから逃れたいという気持がどこかにあるとしたら、その人はもはや人間ではない、ただの臆病者だと。そう伝えてください」

牧師「しかし、罪を告白するということは、誰にでもはできない勇気ある行為だとは言えないでしょうか」

「それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならば、その結果に対して責任を取らなくてはなりません。元に戻す努力をしなくてはなりません。紋切り型の祈りの文句を述べて心が安らぎを得たとしても、それは自分をごまかしているに過ぎません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばなりません。それが神の摂理です」

牧師「しかし、イエスは言っておられます――“労する者、重荷を背負える者、すべて我のもとに来たれ。汝らに安らぎを与えん”と」

「“文は殺し、霊は生かす”というのをご存じでしょう。あなた方(聖職者)がバイブルの言葉を引用して、これは文字通りに実行しなければならないと説いてみたところで無意味です。今日あなた方自身が実行していないことがバイブルの中に幾らでもあるからです。私の言っていることがお分かりでしょう?」

牧師「イエスは“善き羊飼いは羊のために命すら捨つるものなり”と言いました。私は常に“赦し”の教えを説いています。キリストの赦しを受け入れ、キリストの心が自分を支配していることを暗黙のうちに認める者は、それだけでその人生が大きな愛の施しとなるという意味です」

「神は人間に理性という神性の一部を植え付けられました。あなた方もぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する――それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は罪として相変わらず残っております。いいですか、それが神、私の言う大霊の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を幾らバイブルから引用しても、その摂理は絶対に変えることは出来ないのです。前にも言ったことですが、バイブルに書かれている言葉をイエスが実際に言ったとは限らないのです。そのうちの多くは後世の者が書き加えたものなのです。イエスがこうおっしゃったとあなた方が言う時、それは、そう言ったと思うといった程度のものでしかありません。そんないい加減なことをするよりも、あの二千年前のイエスを導き、あれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊力、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今も働いていることを知って欲しいのです。

あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡智、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けているのです。何も、神を求めて二千年前まで遡ることはないのです。今ここに在(ましま)すのです。二千年前とまったく同じ大霊が今ここに在すのです。その大霊の真理とエネルギーの通路となるべき人物(霊媒・霊能者)は決して多いとは言えません。しかし、あなた方クリスチャンは何ゆえに二千年前のたった一人の霊能者にばかりすがるのです? なぜそんな昔のインスピレーションだけを大切になさるのです? なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです?」

牧師「私は、私の心の中にキリストがいて業を為しておられると説いております。インスピレーションを得ることは可能だと思います」

「何ゆえにあなた方は全知全能の神を一個の人間と一冊の書物に閉じ込めようとなさるのです? 宇宙の大霊が一個の人間あるいは一冊の書物で表現できるとでもお考えですか。私はクリスチャンではありません。イエスよりずっと前に地上に生を享けました。すると神は私に神の恩恵に浴することを許してくださらなかったということですか。

神のすべてが一冊の書物のわずかなページで表現できるとお思いですか。その一冊を書き終えた時を最後に神は、それ以上のインスピレーションを子等に授けることをストップされたとお考えですか。バイブルの最後のページを読み終えた時、神の真理のすべてを読み終えたことになるというのでしょうか」

牧師「そうであって欲しくないと思っています。時折、何かに鼓舞されるのを感じることがあります」

「あなたもいつの日か天に在す父のもとに帰り、今あなたが築きつつある真実のあなたに相応しい住処に住まわれます。神に仕える者としてあなたに分かっていただきたいのは、神を一つの枠の中に閉じ込めることは出来ないということです。神、私のいう大霊はすべての存在に宿るのです。悪徳の固まりのような人間も、神か仏かと仰がれるような人間と同じように神とつながっているのです。

あなた方一人一人に神が宿っているのです。あなたがその神の心をわが心とし、心を大きく開いて信者に接すれば、その心を通じて神の力と安らぎがあなたの教会を訪れる人々の心に伝わることでしょう」

牧師「今日まで残っている唯一のカレンダーがキリスト暦(西暦)であるという事実をどう思われますか」

「誰がそんなことを言ったのでしょう? 多くの国が今なおその国の宗教の発生とともにできたカレンダーを使用しております。

私にはイエスを過小評価するつもりは毛頭ありません。今この時点でなさっているイエスの仕事を知っておりますし、ご自身は神として崇(あが)められることを望んでおられないことも知っております。イエスの生涯の価値は人間が模範とすべき、その生き方にあります。イエスという一個の人間を崇拝することを止めない限り、キリスト教は神のインスピレーションに恵まれることはないでしょう」

牧師「キリストの誕生日を西洋暦の始まりと決めたのがいつのことか、よく分かっていないのです。ご存じでしょうか」

「(そんなことよりも)私の話を聞いてください。数日前のことですが、このサークルのメンバーの一人が(イングランド)北部の町へ行き、大勢の神の子と共に過ごしました。高い地位の人たちではありません。肉体労働で暮らしている人たちで、仕事が与えられると――大抵は道路を掘り起こす仕事ですが――一生懸命はたらき、終わると僅かばかりの賃金を貰っている人たちです。その人たちが住んでいるのは、いわゆる貧民収容施設です。これはキリスト教文明の恥辱ともいうベき産物です。

ところが、同じ町にあなた方が“神の館”と呼んでいる大聖堂があります。高くそびえていますから、太陽が照ると周りの家はその影に入ります。そんなものが無かった時よりも暗くなります。これで良いと思われますか」

牧師「私はそのダーラムにいたことがあります」

「知っております。だからこそ、この話を出したのです」

牧師「あのような施設で暮らさねばならない人たちのことを気の毒に思います」

「あのようなことでイエスがお喜びになると思われますか。一方にはあのような施設、あのような労働を強いられる人々、僅かばかりの賃金しか貰えない人々が存在し、他方にはお金のことには無頓着でいられる人々が存在するというのに、イエスはカレンダーのことなどに関わっていられると思われますか。

あのような生活を余儀なくさせられている人が大勢いるというのに、大聖堂のための資金のことやカレンダーのことやバイブルのことなどに関わっていられると思いますか。イエスの名を使用し続け、キリスト教国と名のるこの国にそんな恥ずべき事態の発生を許しているキリスト教というものを、あなた方クリスチャンは一体何と心得ておられるのですか。

先ほど教典のことで(改訳版と欽定訳版のどっちが良いかと)質問されましたが、宗教にはそんなことよりもっと大切な、そしてもっと大きな仕事があるはずです。神はその恩寵をすべての子等に分け与えたいと望んでおられることが分かりませんか。飢え求めている生活物資を、世界のどこかでは捨て放題の暮らしをしている人たちがいます。他ならぬクリスチャンが同じようなことをしていて、果たしてキリスト教を語る資格があると言えるでしょうか。

私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私は主イエスの目に涙を見たことがあります。クリスチャンをもって任ずる者、聖職にある者の多くが、その教会の陰で進行している恥ずべき事態に目を瞑(つむ)っているのをご覧になるからです。その日の糧にすら事欠く神の子が大勢いるというのに、神の館のつもりで建立した教会を宝石やステンドグラスで飾り、その大きさを誇っているのを見て、一体誰が涼しい顔をしていられるでしょうか。

その人たちの多くは一日の糧も満足に買えないほどの僅かな賃金を得るために一日中働き続け、時には夜更かしまでして、しかも気の毒に、その疲れた身体を横たえるまともな場所もない有様なのです。

あなたを非難しているのではありません。私はあなたに大きな愛着を覚えております。お役に立つことならどんなことでもして上げたいと思っております。が、私は霊界の人間です。そして、あなたのように社会へ足を踏み入れて間違いを改めて行くための一石を投じてくれる人物と、こうして語り合うチャンスが非常に少ないのです。

あなたに理解していただきたいことは、バイブルのテキストのことを云々するよりもっと大切なことが沢山あるということです。主よ、主よ、と叫ぶ者みんなが敬虔なのではありません。神の意志を実践する者こそが敬虔なのです。それをイエスは二千年前に述べているではありませんか。なのに今日なおあなた方は、それがいちばん大切であることを、なぜ信者に説けないのでしょうか。大切なのは何を信じるかではなく、何を為すかです。

戦争、不正行為、飢餓、貧困、失業――こうした現実に知らぬふりをしている限りキリスト教は失敗であり、イエスを模範としていないことになります。

あなたは(メソジスト派の)総会から抜け出てこられました。過去一年間、メソジスト教会の三派が合同して行事を進めて来られましたが、せっかく合同しても、そうした神の摂理への汚辱(おじょく)を拭うために一致協力しない限りそれは無意味です。私は率直に申し上げておきます。誤解を受けては困るからです」

牧師「数年前に私たちは派閥を超えて慈善事業を行い、その時の収益金を失業者のための救済資金として使用しました。大したことは出来ませんが、信者の数の割にはよくやっていると思われませんか」

「あなたが心掛けの立派な方であることは私も認めております。そうでなかったらこうしてあなたと二度も議論をしに地上へ戻ってくるようなことはいたしません。あなたが有能な人材であることを見て取っております。あなたの教会へ足を運ぶ人の数は確かに知れております。しかし、イエスは社会の隅々まで足を運べと言っていないでしょうか。人が来るのを待っているようではいけません。あなたの方から足を運ばなくてはなりません。

教会を光明の中心として、飢えた魂だけでなく飢えた肉体にも糧を与えてあげないといけません。叡智の言葉だけでなく、パンと日常の必需品を与えてあげられるようでないといけません。魂と身体の両方を養ってあげないといけません。霊を救うと同時に、その霊が働くための身体も救ってあげないといけません。教会がこぞってそのことに努力しなければ、養うものを得られない身体は死んでしまいます」

そう述べてから、最後にその牧師のために祈りを捧げた。

「あなたがどこにいても、何をされても、常に大霊の御力と愛が支えとなるように祈ります。常に人のためを思われるあなたの心が、大霊からのインスピレーションを受け入れることが出来ますよう祈ります。

願わくは大霊があなたに一層の奉仕ヘの力を吹き込まれ、あなたの仕事の場を光と安らぎと幸せの中心となし給い、そこへ訪れる人々がそこにこそ大霊が働いておられることを感得してくれるようになることを祈ります。

大霊が常にあなたを祝福し、支え、大霊の道に勤しませ給わんことを。願わくは大霊の意図と力と計画について、より一層明確な悟りを得られんことを。

では大霊の祝福を。ご機嫌よう」