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11章 進化の土壌としての地上生活

〔キリスト教神学には「原罪」という教義がある。最初の人類であるアダムとイブが神の掟を破って犯した罪によって霊長の座から転落したという説であるが、シルバーバーチはそれを否定し、人類も霊として発生して以来ずっと進化の旅を続けており、その旅に終着点はないと説く〕

種子が暗い土中に埋められるのは、養分を摂取して発芽後の生長に備えるためです。それと同じく、人間的生命の種子が物質界という暗黒の世界に生まれてくるのは、霊界へ戻ってからの進化に備えて地上的体験を積むためです。

地上的体験は、いかなる種類のものであっても、大きな宇宙機構の中で得られる要素の一つであることに違いはありません。悲しみ・落胆・挫折……こうしたものは人間的心情からすればあって欲しくないものかも知れませんが、魂の進化にとっては掛け替えのない貴重な体験なのです。

勿論その一つ一つの体験の最中にあってはそうは思えないでしょう。人生体験の価値を明確に認識できるのは、こちらへ来てその全体像を見つめることが出来るようになった時です。逆境の中にあった時こそ性格が試され、悲哀の中にあった時こそ魂が強化されていたことを知るものです。

私たちは生命の旅を、肉眼ではなく霊的生命の知識に照らして見つめます。賢明な人間とは全ての体験を魂の養分として摂取する人のことです。辛いことや煩悩の誘惑に負けることなく、霊性の全てを傾けて困難に立ち向かう人です。その気迫に満ちた生き方の中でこそ霊性が磨かれ進化するのです。

摂理は完璧であり、自動的に働きます。誰一人として逃れられる者はいません。自由意志そのものすら摂理の一つであり、その働き具合は、洞察力を具えた進化の階梯にある者には明瞭に見て取ることができます。

自由意志を行使できるといっても、あくまでその時点までに到達した進化の階梯において許される範囲内でのことです。何でも好きに出来るというものではありません。各自が到達した進化の階梯によって自ずから制約があります。

あなた方も大霊の一部であり、発現すべき無限の神性を秘めております。その神性が発現した分だけ、より高い次元の摂理との関わり合いが生じます。その摂理はそれまでの低次元の摂理と矛盾するものではありません。霊性が進化したが故に関わり合うことになる摂理ということです。

無限というのは文字通り限りがないということです。美にも音楽の粋にも限りというものがありません。霊性が進化するにつれて美の世界、調和の世界のより高度なものが鑑識できるようになります。向上するに従ってより大きな調和の世界が待ち受けていることです。

低い次元にいる者が高い次元のことを鑑識することは出来ません。が、高い次元にいる者が低い次元のことを鑑識することはできます。宇宙の全側面を経綸している摂理は自動的に働きますが、それぞれの次元で作動している摂理は、その次元まで霊性を高めないことには理解できません。

それまでの魂の成長度が、これからの成長を選択する自由を与えてくれます。しかし、その選択をするのはあなたの自我意識であって、それは地上生活にあっては肉体の脳を通して顕現している意識です。ですから、いわゆる人間的煩悩が入り込む可能性もあるわけです。そうした要素の絡み合いの中で刻一刻と自動的に選択がなされているのですが、霊的自覚が芽生えている魂は、さらなる向上を促す道を選択するものです。

このようにして人間は、霊性の進化を通して大自然の摂理・法則を学んで行きます。まず、それまで信じていたものの中で間違っているもの、理性が反発するもの、愛と叡智の権化である宇宙の大霊にそぐわないものを捨て去ります。

新たな知識を取り入れるに先だって、それまでの古い知識を点検しなければなりません。そして自然な思考を妨げるものを全て取り除かないといけません。そこでようやく魂が成長し、新たな知識を取り入れる用意ができたことになります。

このサークルにご出席の皆さんは順調に魂が成長し、大霊の無限の叡智に接する機会が多くなっております。霊的現象を演出するための法則の働きについても学んでおられます。もちろん日常生活における摂理の働きについても学んでおられます。進歩するだけ、それだけ多くの知識を手にすることになります。

皆さんからシルバーバーチと呼ばれているこの私がお届けしている知識は、無限といってよいほどの界層に存在する知識のうちのごく一部にすぎません。皆さんの成長の度合いがこの私の知識では満足しきれないほどになれば、私に代わって一段と高い界層の霊団が、より高度な知識と叡智をお届けすることになるでしょう。

そこには、これでお終いという最後の界層は存在しません。これ以上はないという完全の域は存在しません。あなた方も、そしてこの私も、刻一刻と進化向上しております。そして私より高い界層まで進化している霊から聞いた所によれば、その霊たちの背後にはさらに高級な霊の世界が控えているとのことです。とにかく終着点というものは存在しないのです。もし存在するとしたら、創造進化という宇宙の大原則が崩れてしまいます。

しかし、その全ての段階に大霊の息吹があります。だからこそ物質界の最下等の生命体から聖人君子に至るまで大霊につながっていると言えるのです。聖人だけではありません、いかなる極悪人も、限りなく美しい心の持ち主も、内部に大霊(神性)を宿しているという意味で、兄弟姉妹なのです。全ては摂理で成り立っており、そこから逃れられる者は一人もいません。その意味で全人類がつながった存在なのです。

動物にはそれぞれの種に共通したグループ・スピリットがあります。あなた方一人一人が一匹の猿だったとか魚だったとか小鳥だったというのではなく、そのグループ・スピリットの一部だった時期があるということです。

質疑応答

――本人には何の罪もないのに、さまざまな障害をもって生まれてくる子供がいるのはなぜでしょうか。

身体という外形だけで魂の価値を判断してはいけません。魂の進化と、それが地上生活で使用する身体の進化とを混同してはいけません。父親または母親、あるいは双方から受け継いだ遣伝的法則の結果として障害をもって生まれてくることがあるのは事実ですが、それが魂の進化を阻害することはありません。

障害をもって生まれてくる子供には、その魂にそれなりの埋め合わせの原理が働いているものです。正常な身体を持って生まれた子供よりも優しさ・寛容心・他人への思いやり等の強い性格をしていることがあります。永遠の時を尺度とした、因果律の一環としての「埋め合わせの原理」というものがあり、それは逃れようにも逃れられません。

次代の子孫に物的身体を提供する責任を担っている両親は、可能な限り完全な身体を提供すべきですが、仮にそれが出来なかったとしても、埋め合わせの原理が働きます。

――知的障害をもって生まれ、責任ある生活が営めない人は、死後どうなるのでしょうか。私たちは地上生活での行いと試練への対処の仕方で評価されると聞いておりますが……

物的なことと霊的なこととを混同して考えるためにそのような疑問が生じるのです。脳細胞に障害があるために引き起こされる混乱は地上次元だけの話であって、宿っている霊は、脳という器官に欠陥があるために自我を正常に表現できなくても、霊的な意味での自分の責任は自覚しているものです。

大霊の摂理はあくまでも魂の進化を大前提として機能します。地上的な尺度ではなく永遠の叡智を尺度として因果律が働くわけです。従って、地上的な善悪の基準では「悪」とされる行為でも、魂そのものに責任がなければ、霊的には「悪」とは見なされません。

例えば発狂状態で他人または自分自身の生命を奪った場合、それは知的判断力を司る器官がしかるべき機能を果たせなかったのですから、その霊は責任を問われません。私の世界(霊界)では魂の動機を最優先して判断されます。動機を基準とする限り、判断を誤ることはありません。

――物的器官の欠陥によって地上生活による教訓を学べなかった霊は霊界でどういうことになるのでしょうか。

器官の欠陥のために魂が学ぶべき教訓を意識的に学ぶことが出来なかった、つまり物的体験の価値が失われた、ということです。しかし、埋め合わせの原理は働いております。

――私たちは地上生活のさまざまな試練をくぐり抜けながら形成した性格を携えて霊界へ行くわけですが、精神異常者の場合はどうなるのでしょうか。

魂の進化の程度と動機を基準として裁かれます。

――飲んだくれや精神異常者のいる薄汚い環境の中に生を受けて、過酷な人生を歩まされる子供がいる一方には、美しいものに取り囲まれた環境に生を受けて、何の不自由もない人生を送る子供もいます。この不公平はどう理解したらよいのでしょうか。

魂の進化は環境ではなく霊的自覚によって魂そのものに刻み込まれて行くものです。ところが人間はとかく物的環境で判断しがちです。高い身分に生まれようと低い身分に生まれようと、人のために役立つことをするチャンス、即ち内部の霊性を発揮し自我に目覚めるチャンスは、どういう環境でも訪れるものです。その時こそが真の幸不幸の判断の基準を当てはめるべき時です。物的基準で計る限り地上界は不公平だらけに思えるかもしれません。しかし、体験の価値は魂の琴線に触れるか否かに掛かっており、だからこそ苦難の中にある時こそ霊性が磨かれるのです。

――でも、なぜ悪人が栄えるのでしょうか。

それもまた、地上的尺度による見方です。物的に恵まれた生活をしている人の魂が悩みも苦しみも痛みもないかに思える根拠は何なのでしょう? いつも笑顔を絶やさないからでしょうか。豪華な邸宅に住んでいるからでしょうか。紫の衣と亜麻糸の布がそのまま満ちた足りた魂を表すのでしょうか。永遠の基準は霊の基準であり、物質の基準ではありません。そうでないと神の公正が存在しないことになります。

――しかし、悪徳や飢えなど、低俗なものばかりの環境よりは恵まれた環境の方が、動機も善なるものが発揮しやすいに決まってると思うのですが……

私はそうは思いません。その証拠に、私が見る限り地上の偉人はほぼ間違いなく低い身分の出です。霊覚者と呼ばれる宗教的指導者にいたっては、まず間違いなく低い階層から出ています。葛藤を余儀なくさせられる困難が多いほど、それだけ魂が成長するものです。霊的自我に目覚めるのは常に酷しい環境を克服せんとする葛藤の中においてこそです。人生を外面から見てはいけません。内部から見るようにしてください。

――人間の霊性と肉体的生命とは同時進行で進化して来たのでしょうか。

両者は進化の系統が異なりますが、ある一定の段階までは同時進行でした。というのは、霊が肉体器官を通して自我を表現するためには、ある一定の段階までの肉体機能の進化が必要だったからです。

――死後にも向上進化があるとなると、邪悪な動機から罪を犯して堕落することもあり得るのでしょうか。

もちろんですとも! すでに霊の世界に来ていながら、何百年、時には何千年もの間、地上時代と同じ煩悩を抱き続けている者が少なくありません。貪欲や怨念が捨てきれず、霊的摂理を理解しようとしません。霊的なものに対する感性が芽生えないのです。身は霊界にありながら、意識的には完全に地上圏で生活しており、しかも下降の一途をたどっております。

――下降するだけ下降すると最後は消滅してしまうのでしょうか。

いいえ。大霊の火花が明滅するほど小さくなることはあっても、消滅してしまうことはありません。大霊との霊的な絆は永遠に切れることはありません。いくら下降しても、二度と向上出来なくなるということはありません。また、いくら向上しても、そうした最低界の魂に救いの手を差し伸べることが出来なくなるということはありません。

――個的生命は、ありとあらゆる界層を通過し、遂に大霊と融合帰一して個性を失った後、無機質の要素となって宇宙にばらまかれるのでしょうか。

私は、完全性と融合するほど完成の域に到達したという霊は一人も知りません。霊性を磨けば磨くほど、さらに磨くべき領域があることを知るものです。言い換えれば意識に開発する余地があるということです。意識は大霊の一部ですから無限の奥行きがあり、究極の完全性というものは存在しません。

――複数の個霊が進化して、どこかで一個のグループとして融合し、個性を失うということはあり得るのではないでしょうか。

私の知る限りでは、あり得ません。ただ、次のようなことは確かにあることです。ある重大な仕事が持ち上がり、その達成のために一丸となった霊の集団が各自の知識と情報を持ち寄り、そのうちの一人が全体を代表して行動するというケースです。その仕事の進行中は残りの者のアイデンティティは薄れて一つになっています。しかし、それもその仕事の期間中だけのことです。

――ぺットが死後も存続することは事実だそうですが、他にも存続する動物がいるのでしょうか。

います。地上でぺットのように可愛がられて、死後も人間に混じって生きている動物がいるものです。人間の情愛を受けて一種の人間的性格(パーソナリティ)を発現するようになった動物は、そのパーソナリティを携えて死後も人間の霊に混じって生きております。しかし、長続きはしません。ほんの一時期のことで、やがてその「種」の母体であるグループ・スピリットの中に融合していきます。

大霊の分霊である人間は、その霊的遺産のおかげで、まだ霊的意識が芽生えていない動物にも死後に存続する霊力を授ける能力が具わっていることを知ってください。本来の進化の過程が始まる時期よりも一歩早く進化を促すことが出来るのです。それが「愛の力」なのです。

――ぺットは別として、一般の動物も個別的に死後に存続するのでしょうか。

しません。

――そうなると、全く世話をされていない動物とか虐待されている動物と大霊との関係はどうなっているのでしょうか。「創造した者」と「創造された者」という関係から見て、そういう動物の生命に大霊の愛ないしは公正がどういう形で表れているのでしょうか。

地上の人間の理解力の及ばないテーマを説明するのはとても困難です。かつて私は「グループ・スピリット」という用語を用いたことがあります。動物は死後その中に融合していくのですが、ただ単に合流するのではなく、地上生活での体験について動物界なりの埋め合わせの原理(因果律)が働くのです。もっとも、あくまでも動物の次元での話でして、人間の進化とは次元が異なります。

よく考えてごらんなさい。例えば大切に飾られる花と、ほったらかしにされて枯れていく花との違いは、あなた方は問題にされません。その背後にも摂理が働いているのですが、それは説明したところで人間の理解力の及ぶところではありません。しかし、ちゃんと因果律が働いているのです。

――動物の因果律も一匹一匹に働くのでしょうか。

いいえ、種のグループ全体として働きます。受けた苦痛がグループ・スピリット全体の進化を促します。

――グループ全体として扱われるとなると、中には虐待されたものとそうでないものとがいれば、因果律の働きに偏りが生じるはずで、その辺が理解できません。

それぞれのグループは似たような体験をしたもので構成されています。

――虐待されたグループとそうでないグループがあるということでしょうか。

あなた方の身体もさまざまな形態の細胞が集まって全体を構成しています。それと同じで、グループは一つでも、いろいろな性格をしたものから成り立っているということです。

――下等動物がなぜ存在するのか、またそれが創造されながら自然淘汰されて行くという現実は、宇宙が神の愛によって経綸されているという事実と、どう辻褄を合わせたらよいのでしょうか。

人間には自由意志が与えられています。大霊から授かった霊力を駆使し、正しいことと間違ったこととを判断する叡智を働かせることによって、地上界をエデンの園にすることができます。それを怠り、地上界を汚れとほこりだらけにしておいて、その責任を神に押しつけて良いものでしょうか。

――創造進化の大業が殺戮の血に染められてきたという事実のどこに神の愛のしるしが見出せるのでしょうか。

なぜその様に一部だけを見て全体像を見ようとしないのでしょうか。創造進化があるという事実そのものが、神の愛のしるしと言えるのではないでしょうか。そういう考えに思い当たったことはないのでしょうか。低い次元から高い次元へと進化するという事実は、摂理の背後の力が愛であるということの証拠ではないでしょうか。

――なぜ神は地震や火山の爆発などの発生を許すのでしょうか。

その様に「なぜ神は……」という問いを発する時、あなた方は大自然の摂理・法則の働きそのものに疑義をはさんでいることになることを忘れないでください。私は、その摂理・法則というものが存在すること、そしてその摂理・法則の働きに関わる私の体験をお教えしようとしているだけです。地震というのは物質界の進化を調整する作用の一つです。物質界はまだ完成の域に達していないのです。

――そうすると地震による死者は地球の進化の犠牲者ということになります。公正と言えるでしょうか。

死者になることが悲劇であるかのようなご意見ですが、その辺が私には理解できません。私に言わせれば魂にとって大いなる自由を獲得する機会です。

――地震の犠牲者はその時が他界する時機だった、というふうに受け取ってよろしいでしょうか。

結構です。ただ、そういう形での死を迎えたことには、幾つかの前世での所業がからんでおります。

――我々より霊的に進化している、あるいは劣っている人間的存在が住んでいる天体がありますか。

ありますとも! あなた方より進化している人間的存在の住む天体は沢山あります。地球と呼ばれている惑星はこの大宇宙に存在する無数の惑星の一つに過ぎません。しかも、地球より劣っている天体は一つあるだけです。

――よくあることですが、重要だと思う一連の仕事を進めようとすると、しつこく邪魔が入ることがあります。なぜでしょうか。

価値あること、成就するに値するものほど、達成するのが難しいものです。楽には達成させてくれません。困難があり、妨害があり、邪魔が入るものです。

それもこれも、人間形成の一環なのです。それらにどう対処するかによって魂の成長が決まります。魂の奥に潜在する最高のものが簡単に引き出せるとしたら、それは価値あるものとは言えません。

ですから、とにかく挫けないことです。内在する霊的資質を活用して克服できないほど大きな困難や障害は絶対に生じません。他人が故意に用意する邪魔も、内在する力を発揮して立ち向かえば、必ずや消滅します。あなた方は地上生活において本来の自分のほんの一部しか発揮していないことがお分かりになっていません。

――今なお無数の新生児が生まれてすぐに、あるいはその後に、間引きの慣習とか、その他もろもろの原因・理由で死んでおります。そういう子供が生まれてくることに一体どういう意味があるのでしょうか。

物的なものさしで判断するかぎり、永遠の生命原理は理解できないでしょう。地上のいかなる賢者といえども、地上的知識を超えたことは分かりません。霊的叡智の光が見える段階まで進化すれば大霊の計画に納得が行くでしょうが、現段階では地上のいかなる覚者もガラス越しにおぼろげに見ているだけで、まだ理解はできておりません。

お聞きしますが、小学生の実力を判断するのに、その子が通った六年間の成績だけを見て、卒業後のことは考慮しないものでしょうか。あなた方にも、この後この地上より遙かに素晴らしい生活が待ち受けているのです。美にあふれた世界、色彩にあふれた世界、愛が叶えられる世界、真摯な願いが必ず成就される世界、地上で叶えられなかった事が実現する世界です。そうした世界をごらんになるまでは、大霊に批判がましい事を言ってはなりません。

――あなたが指導霊と仰いでおられる高級霊団は、時にはこの交霊会を訪れる事があるのでしょうか。

いえ、じかにお出でになることはありません。通信網で連絡し合っているだけです。この霊媒(バーバネル)が私とあなた方とをつなぎ、私があなた方とその高級霊団とをつないでいるように、その高級霊団はこの私と、その霊団よりさらに高級な霊団とをつないでいます。それが内奥へ向かって私の目の届かないところまで幾重にもつながっているのです。

――私たち人間もその最高の次元まで到達する時が来るのでしょうか。

最高の次元まで到達するということはあり得ません。その辺のことは、あなた方にはまだ理解は無理です。地上でのあなた方は本来の自我のほんの一部分しか顕現していません。全部を顕現しようにも、その媒体がまだ具わっていません。

私が本来の所属界へ奥深く戻るほど、それだけ多く本来の私を取り戻すことになります。それで年二回、クリスマスとイースターに本来の所属界へ帰るのです。

あなた方は今この地上で、進化向上を目指して霊界へと旅立つ準備をしているところです。一人また一人と、縁ある人々が旅立って行きます。その時、取り残された気持になって寂しい思いをするのは無理からぬことかも知れません。しかし、その人たちは死後、本格的に自我を開発するための旅を続けていることを忘れてはいけません。

――それにしても、なぜそんなに早く死んでいくのでしょう? 地上で学ぶべきものを学んでいないように思えるのですが……

そういう死に方をする子供たちは(前世で)何か摂理に反したことをしているのです。それを償うには、そうした体験を通して大霊の戒めを学ぶしかないのです。もしもその戒めが簡単に学べるとしたら、人類は自分の犯した罪の償いをしようという願望が芽生えなくなるでしょう。そして何世代も経ないうちに、大霊の意志がこの地上に顕現しなくなってしまうことでしょう。

霊性というものは苦悶と病苦と悲哀の体験を通して初めて覚醒するものです。かくして自我に目覚めた魂は他人の苦しみに心を配る、大きな魂へと成長するのです。やりたい放題の人生を送り、夢まぼろしの幸せを追い求めている魂は、いつかは実在を学ぶために過酷な体験をさせられる時がまいります。贅を尽くした安楽の日々を送っている人を見て羨ましがることはありません。その行く先には過酷な人生が待ち受けているのです。

地上界にせよ霊界にせよ、魂はありとあらゆる体験を積まねばならないようになっているのです。いかなる体験にも必ず学ぶべきものがあります。世俗の酸いも甘いも噛み分け本当の自我を確立して初めて、魂の奥の間に入ることを許されるのです。

それは確かに難しいことです。しかし、難しくないはずがないのではないでしょうか。聖人君子になるのが簡単でしょうか。真理の殉教者となるのが簡単でしょうか。宗教的指導者や社会革命家となるのが簡単でしょうか。簡単であろうはずがありません。苦難から逃れようとするような人間に人を導く資格はありません。