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10章 人工的教義と霊的真理

〔英国国教会内部にも教義の解釈の仕方について意見の衝突がある。そこで二十五人の神学者が十五年の歳月を費やして、国教会としての統一見解をまとめる作業を続け、一九三八年一月にようやく「英国国教会の教義」と題する大部の報告書を発行した。その中の幾つかが読み上げられるのを聞いてから、シルバーバーチがその一つ一つにコメントを加えた〕

・「イエス・キリストの復活」は人類史上における極めて特殊な神の御業である。

そんな結論に達するのに十五年も掛かったのですか。ナザレのイエスを裏切っているのは自らクリスチャンと名乗っている人たちである、とはよく言ったものです。

「復活」は生命の法則の一環です。死の到来とともに全ての魂が復活するのです。イエス一人の特殊なものではありません。大霊の子すべてに生じるものです。順序がくれば全ての者が死の関門を通過し、物的身体を置き去りにして、霊的身体で新しい生活を始めます。その死後の生活に備えて、地上生活の間じゅう刻一刻と準備をしております。

イエスが自然法則に反したことをしたことは一度もありません。そもそもイエスが地上界へ降りてきたのは自然法則を体現して見せるためでした。イエスの全ての行為、全ての教えは、大霊の摂理の一部でした。イエス自身こう述べているではありませんか――「こうしたことは皆あなた方にも出来るし、もっと大きな現象も出来るようになるであろう」と。

そのイエスを大霊の子等の近づけない天界の遙か高い位置に持ち上げることは、せっかく彼が地上へ降誕した意義を完全にぶち壊してしまうことになります。なぜなら、イエスの地上人生の究極の目的は、地上の人間が内部の大霊を発現すればこれほどのことが可能なのだという、その手本を実行して見せることにあったからです。

そしてイエスは、霊界へと戻ったあと再び同じ姿を地上の縁ある人々に見せました。これをキリスト教では「復活」と呼ぶのですが、イエス以前にも死後に姿を見せた例は数多くありますし、イエス以後にも数え切れないほどあります。

この宇宙に「特別のもの」というものは存在しません。全てが大霊の法則によって経綸されているのであり、何かが発生したということそれ自体が、法則というものが存在することを証明しているのです。

・洗礼は、幼児洗礼であっても、罪へ陥(おとしい)れる影響力の支配から逃れる手段である。聖人とされる人物でも、もし洗礼を受けていなければ、その意味で欠陥があることになる。

いかなる牧師も魔法の力は持ち合わせません。水を水以外のものに変える力はありません。赤子の額に水を二、三滴振りかけたからといって、それでその子の人生――地上だけでなく死後も含めて――に何の変化も生じるわけではありません。振りかける前も振りかけた後も、ただの水です。牧師にはその成分を変える力はありませんし、法則と違った結果を生み出させる力もありません。

霊性というものは洗礼によって何ら影響を受けません。他人が代わって進化させることが出来るというような性質のものではありません。各自が物質界で送る生活の「質」によって自分で磨くものです。自分の行為が生み出す結果を他人が取り除いてあげることは出来ません。自分で償い、自分で報いを受けることによって精算して行かねばなりません。

「聖人」と呼ばれることと洗礼とは何の関係もありません。物質界における日常生活の中で、可能な限り完全に近い行いをすることによって、少しでも多く神性を発揮する人が「聖人」です。

・当委員会は、神がその気になれば奇跡を生じさせることが出来るという点では一致を見たが、果たして奇跡的現象というものが(心霊学的に)起きるものであるか否かについては意見が分かれた。

さらにもう十五年討議すれば委員会も結論が出せたのでしょうか。何という情けない話でしょう!(聖書にいう)盲人が盲人を手引きしているようなものとは、まさにこのことです。その程度の者たちが人類を手引きしているのです。そして、果たして奇跡的現象というものが起きるものか否かが分からないと、他人事のように言います。(原因がないという意味での)奇跡は存在しません。これまで一度も発生しておりませんし、これからも絶対に生じません。

大霊はあくまでも大霊です。宇宙の絶対的法則であり、その働きは完璧です。完全無欠性によって産み出されたものだからです。その完全無欠性から生まれた法則が万一機能しなくなったら、宇宙は大混乱を来します。大霊が予測しなかった事態が生じて創造機構の手直しを余儀なくさせられることがあるとしたら、大霊は完全無欠でなくなり、不完全ということになります。

(キリスト教でいうように)もしも選ばれた少数の者を寵愛するために奇跡を生じさせなければならないとしたら、大霊は分け隔てをするいい加減な神だったことになり、全生命の背後の無限なる存在ではなかったことになります。

委員会のメンバーは、そのお粗末な概念でもって大霊をつまらぬ存在に仕立てております。法則の裏側にも法則があることを知らず、霊力の存在を知らず、その驚異的な威力を目の当たりにしたことがないために、霊媒を通して演出される現象が理解出来ないのです。

どうやらメンバーたちはイエスにまつわる現象(しるしと不思議)が今日の物理法則と矛盾するところから、「奇跡」というものを考え出さないといけなくなるようです。霊的法則というものが存在することさえ理解すれば、大霊は昔も今も、そして未来永劫にわたって不変です。日常生活の中で霊的資質を発揮すれば、誰にでも大霊の力の恩恵に浴することが出来るのです。

・奇跡は秩序の破壊ではなく神の意思の表現であり、それが自然界の新たな秩序を決定づけることになる。それゆえ決して不合理なものでも気まぐれなものでもないのである。

委員会のメンバーに欠けているのは、宇宙の全法則は無窮の過去から存在し無窮の未来まで存在し続けるという事実についての理解です。地上人類が新しい法則を発見したといっても、それは性能のよい器機の発明によって、それまで知らなかった宇宙の生命活動の一端を知ったというに過ぎないのであって、決して新しいものを創造したわけではありません。無窮の過去から存在していたものを見出したというに過ぎません。

新たに何かを創造するということは絶対に不可能です。いかなるものも、すでに存在していたものの一部に過ぎません。また、大霊の法則を破って何かが発生することも絶対にあり得ません。人間がその存在を知ると知らぬとに関係なく、無窮の過去から全法則が用意されているのです。

従って大霊が新たに法則を考案する必要はありません。宇宙の経綸に必要な法則は無窮の過去から用意されていますし、未来にも用意されています。大霊は完全無欠であるが故に、考え得る限りのあらゆる存在の側面に備えた法則を用意しておられます。

・クリスチャンの立場からすれば聖書は神の特殊な啓示として、唯一無二のものである。

何という精神の暗さでしょう! 一体どこまで迷信の暗闇に閉ざされているのでしょう! その暗闇の何と深いことでしょう! 彼らを取り囲む迷信の暫壕(ざんごう)の、何と頑強なことでしょう!

物質界というものが出現して以来、多くの神の使徒が地上界へ降誕して大霊の真理を啓示してきました。当然それはその時代の言語で告げられました。その啓示の内容は時代の必要性に応じたものであり、その国の事情に応じたものであり、その国民の精神的・霊的発達程度に応じたものでした。要するにその啓示の意味が理解され易い形で――程度が高すぎて手が届かないことにならないようにとの配慮のもとに――届けられていました。

しかし宇宙は絶え間なく進化しております。地上人類が成長し進化すれば、その度合いに応じて新たな指導者、新たな預言者、新たな霊覚者が派遣され、その時代の必要性に応じたビジョン、理想、予言、メッセージ、インスピレーション、霊的真理等が授けられます。

この循環にはお終いというものがありません。なぜなら大霊は完全無欠であり、完全へ向けての進化に終わりはないからです。

新たな啓示は古い啓示とは一貫したもので、矛盾するものではありません。今私たちが説いている真理はナザレのイエスが説いたものを否定するものではありません。そのイエスもモーゼの説いた真理を否定しておりません。そして私たちの後に現れるであろう次代の指導者は、今私たちが説いている真理を否定することはないでしょう。

しかし、明日の大霊の子等は今日の子等よりも一段と高い進化の過程にありますから、その時代に説かれる真理は、今あなた方に明かされているものよりも一段と進歩的なものになるに相違ありません。

・クリスチャンにとってキリストは唯一の、そして不可欠の(神との)調停者である。父(神)とキリストとのつながりは直接的であったが、我々クリスチャンとのつながりはキリストを介して行われる。

これは間違いです。大霊は各人の中に存在するのです。同時に各人が大霊の中に存在しているのです。イエスも「神の王国はあなた方の中にある」と述べているではありませんか。クリスチャンがなぜこうまでイエスの教えを理解していないのでしょう!

(クリスチャンだけでなく)いかなる人間も大霊から切り離されることはありませんし、大霊が人間から切り離されることもありません。

いかに重い罪を犯したからといって、それで大霊から切り離されることは絶対にありません。人間と大霊とを結びつけている絆は切ろうにも切れないものであり、従って罪ゆえに宇宙の孤児となってしまうことはありません。

人間と大霊との絆は、内部にある神性を日常生活の中で発現するにつれて強くなるものです。あなた方一人一人の内部に大霊の分霊が宿されているのであり、大霊と人間との間に調停者が介入する必要などないのです。

ナザレのイエスはそんな目的のために降誕したのではありません。人間はいかに生きるベきか、内部の神性をいかにすれば発現できるかを教えるために地上界へ降りたのです。

キリスト教神学はまさしく物質界にとって「呪い」です。人類にとって大きな手枷・足枷となります。魂を牢に閉じこめてしまいます。それから逃れる道は、霊的啓示を学ぶことによって人工的教義と信条の愚かさに目覚めることです。有限の人間的精神が無限なる大霊の啓示をしのぐことは絶対にありません。

・「キリストの復活」は永遠の生命の可能性を裏付けるものである。

またしても何というお粗末な認識でしょう! 人間は内部に大霊の分霊をやどしているからこそ存在し得ているのです。物質は霊のお蔭で存在しているのです。霊は永遠の実在です。破壊することもなく、破滅することもなく、永遠にして無限なる存在です。

霊であるからこそ墓場を越え、火葬の炎の向こうまで生き続けるのです。物質界にも霊界にも、内部に秘められた神性を破滅させるものはありません。大霊から賜った不変不滅の贈り物だからです。

あなた方が今生きているのは霊だからこそです。死後に生き続けるのも霊だからこそです。霊であればこそ永遠に生き続けるのです。誰かの特別の恩恵を受けて永遠の生命を授かるのではありません。産まれながらにして授かっている権利であり、大霊からの遺産です。

なぜかクリスチャンは、宇宙の創造主たる大霊、千変万化の大宇宙の営みを経綸する霊力を小さな存在にしようとしています。その意味がお分かりですか。物質界でわずか三十三年を生きた人物と同列に扱っていることです。しかもその無限の恩恵が一人の人物を信じた者だけに授けられると説いています。何たる情けない神、何とみみっちい教義でしょう!「宗教」という用語をこれほど辱める教義もありません。イエスご本人がどれほど悲しみと嘆きの涙を流しておられることでしょう。今もってクリスチャンはイエスを磔の刑に処し続けております。

自らを「クリスチャン」と名乗ったからといって、それで「地の塩」(模範的人間)になるわけではありません。教会に通うようになったからといって、それだけで「地の塩」になるわけではありません。地上で授かったラベル(名誉ある地位や肩書き)は霊界では通用しません。教義を厳正に守ったからといって何の徳にもなりません。大切なのはただ一つ――日常生活でどれだけ大霊の資質を発現させたか、それだけです。

・「讀罪」の教義の根源にあるのは、それが本質的に神の御業であり、神がキリストの調停によって人類と和解し給うたとの確信である。

これはどういう意味なのでしょう? 嫉妬と怒りに燃えた神を宥(なだ)めすかすために最愛の子を血の犠牲にしなければならなかったという、あの古い説話の焼き直しですか。大霊は怒りっぽい人間よりもっと残酷で無慈悲だとでも言いたいのでしょうか。我が子と和解するのに血の犠牲を要求なさるのでしょうか。大霊とイエスをこれほど哀れな存在とする説はありません。

イエスが愛と慈悲と優しさに満ちた「父」のごとき存在と説いた大霊のご機嫌を取るのに、なぜ血を流さなくてはならないのでしょうか。地上の人間は、一人の例外もなく、自分の努力で性格を築き、自分の努力で霊性を進化させて行くために地上界へ来ているのです。

利己的な生き方を選ベばそれなりの代償を払わなくてはなりません。人のために役立つ道を選べば、個性の発達という形で報われます。そのように摂理が出来上がっているのであり、いかに地位の高い指導者といえども、それを変えるわけには行かないのです。

それ以外の教えは全て卑怯と不公正の教義です。もしも間違いを犯したら、潔くその代価を支払えばよろしい。屁理屈をこねて責任を他人に転嫁するようなことをしてはなりません。

私たちの世界では霊性の高い者が低い者よりも高いレベルの界層にいます。それ以外にありようがないのです。もしも自己中心の生活を送った者が、死の床での信仰の告白一つで、生涯を人のために捧げた人よりも高い界層に行けるとしたら、それは大霊を欺き、完全な公正が愚弄されたことになります。

勿論そんなことがあろうはずはありません。人生はあなた自身が形成していくものです。どういう地位にあろうと、職業が何であろうと、生まれが高かろうと低かろうと、肩書きが何であろうと、肌の色や民族や国家が何であろうと、そういうものは一切お構いなく、人のために役立つチャンスはいくらでもあります。為すべきことを怠ったら、それ相当の代償を支払わされます。その摂理の働きに介入できる者はいません。

最後にイエスの言葉を引用して終わりとさせてください――「自分が蒔いたタネは自分で刈り取らねばならない」

〔当日の交霊会を総括してシルバーバーチがこう述べた〕

真理というものは、童子のような心になりきって古い概念から生じた誤った信仰を捨て去ってしまえば、実に簡単に理解できるものです。言い換えれば、新しい教義や信条をこしらえるというのではなく、正しいことは正しいこととし、それを否定することでいかなる犠牲を強いられることになろうと、それを幼子のような素直な心で受け入れる態度で臨めば、容易に理解できるものです。

いかなる宗教であろうと、何らかの教義に忠誠を誓った人たちが必ずしも真理を理解する上で有利な立場にあるとは言えません。なぜなら魂というものは、信仰を誓った時の忠誠心と、そこに満足を得たいと希(ねが)う心との間の葛藤に悩み苦しむことがあるものだからです。

私は皆さんに、二千年前にイエスが説いた真理と、今地上界のリーダーと目されている人たちが説いている教説とを比較して、イエスの教えがいかに単純であるかに着目していただきたいのです。

私たちも単純なメッセージをお届けしています。理性にもとらず、知性を侮辱することもないメッセージです。それは自然の結果として、私たちが当初から主張しているもの、即ち簡単な霊的真理であることの証拠にほかなりません。

その中でも第一に申し上げているのは、地上界の人たちがいちばん願っていること、即ち他界した縁ある人々が今も生き続けていること、言い換えれば生命に「死」というものは存在しないという事実です。

次に申し上げているのは、霊力は(二千年前だけでなく)今もなお人類の高揚のために献身している人々を鼓舞しているという事実です。霊力の働きが人生を生き甲斐あるものに、そして調和の取れたものにする上で「豊かさ」をもたらしてくれているのです。

さらに私たちは霊的治療エネルギーによって、病魔と闘っている人々の苦しみと痛みを和らげてあげています。こうして私たちは地上の人々に互いに助け合う生活の送り方をお教えする意図のもとに結集した、神の使徒なのです。

要するに私たちは、これまでの人類の歴史において大霊のインスピレーションに接した人々が説いたものを繰り返して説いているまでです。宇宙には神の絶対的法則というものがあることをお教えし、それがどういう形で働いているかを証明して見せているのです。同じ法則を使用して、過去に起きた現象が現在でも起こせることを実際にお見せしているのです。

しかし現実には、本来その人たちこそ霊力の恩恵を受けるべきであるはずの聖職者たちがそれを拒絶しております。神学という名の隔離された世界に閉じこもっております。教条主義という名の修道院に身を隠しております。

彼らは、内心、怖いのです。スピリチュアリズムという名の真理が広まれば僧侶も牧師も主教も大主教も要らなくなることを知っているのです。そんなものがいなくても、スピリチュアリズムの知識さえあれば各自が大霊の道具となることが出来るからです。

しかし、本日国教会の「報告書」を一部だけでも聞かせていただいて、教条主義が徐々に勢力を失い、代わって私たちの教えが広がりつつあることを改めて確信いたしました。