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3章 愛こそがすべてのカギです

世界の主な宗教はみな死後の生命の実在を説いている。が、その証拠を交霊会で他界した先輩から提供してもらっているのは、スピリチュアリズムだけである。

しかし、ご存知の通り、交霊というものは必ずしもうまく行くとはかぎらない。時には完全な失敗に終わることもある。なぜか。

易しい真理をわかりやすく説くことをモットーとしているシルバーバーチが、ある日の交霊会の開会と同時にこう切り出した――

「今夜は招待客がいらっしゃらないようですので、ひとつ、この機会に皆さんがふだん持て余しておられる疑問点をお聞きすることにしましょう。易しい問題はお断りです。今夜にかぎって難問を所望(しょもう)しましょう」

そこで出された最初の質問は、最近ある霊媒による交霊会が失敗した話を持ち出して、その原因についてだった。すると――

「それは霊媒としての修行不足、見知らぬ人を招待して交霊会を開くだけの力がまだ十分にそなわっていない段階で行ったためです。あの霊媒は潜在意識にまだ十分な受容性がそなわっておりません。霊媒自身の考えが出しゃばろうとするのを抑えきれないのです。支配霊がいても、肝心のコントロールがうまくいっておりません。

支配霊が霊媒をコントロールすることによって行う現象(霊言ならびに自動書記)においては、よほど熟練している場合は別として、その通信には大なり小なり、霊媒自身の考えが付着しているものと考えてよろしい。そうしないと通信が一言も出ないのです」

「潜在意識の影響をまったく受けない通信は有り得ないということでしょうか」

「その通りです」

「すべてが脚色されているということでしょうか」

「どうしてもそうなります。いかなる形式であろうと、霊界との交信は生身の人間を使用しなくてはならないからです。人間を道具としている以上は、それを通過する際に大なり小なり着色されます。人間である以上は、その人間的性質を完全に無くすことは不可能だからです」

「神が完全な存在であるのなら、なぜもっと良い通信手段を用意してくれないのでしょうか」

「本日は難しい質問を所望しますと申し上げたら、本当に難しい質問をしてくださいましたね。結構です。

さて、わたしたちが使用する用語には、それをどう定義するかという問題があることをまず知っていただかねばなりません。おっしゃる通り、神、わたしのいう大霊は完全です。ですが、それは大霊が完全な形で顕現されているという意味ではありません。大霊そのものは完全です。つまり、あなたの内部に種子(たね)として存在する神性は完全性をそなえているということです。ですが、これは必ずしも物質的形態を通して完全な形で表現されてはいません。だからこそ無限の時間をかけて絶え間ない進化の過程をへなければならないのです。

進化とは、内部に存在する完全性という黄金の輝きを発揮させるために、不純物という不完全性を除去し、磨きをかけていくことです。その進化の過程においてあなたが手にされる霊的啓示は、あなたが到達した段階にふさわしいものでしかありません。万一あなたの霊格よりずっと進んだものを先取りされても、それはあなたの理解力を超えたものなのですから、何の意味もないことになります」

「では、人間がさらに進化すれば、機械的な通信手段が発明されるかも知れないのでしょうか」

「その問題についてのわたしの持論はすでにご存知のはずです。わたしは、いかなる機器が発明されても、霊媒を抜きにしては完全とはなり得ないと申し上げております。

そもそも何のためにわれわれが、こうして霊界から通信を送るのかという、その動機を理解していただかねばなりません。それは、何よりもまず“愛”に発しているのです。肉親・知人・友人等々、かつて地上で知り合った人から送られてくるものであろうと、わたしのように人類のためを思う先輩霊からのものであろうと、霊的メッセージを送るという行為を動機づけているものは、愛なのです。

愛こそがすべてのカギです。たとえ完全でなくても、何らかの交信がある方が、何もないよりはいいでしょう。それが愛の発現の場を提供することになるからです。しかし、それを機器によって行うとなると、どう工夫したところで、その愛の要素が除去されてしまいます。生き生きとした愛の温もりのある通信は得られず、ただの電話のようなものになってしまいます」

「電話でも温かみや愛が通じ合えるのではないでしょうか」

「電話機を通して得られるかも知れませんが、電話機そのものに温かみはありません」

「大切なのはそれを通して得られるものではないでしょうか」

「この場合は違います。大切なのは霊媒という電話機と、それを通してメッセージを受ける人間の双方に及ぼす影響です。それに関わる人びと全部の霊性を鼓舞することに意図があります」

「霊媒も含めてですか」

「そうです。なぜなら、最終的には、いつの日か地上人類も、霊と霊とが自然な形で直接交信できるまでに霊性が発達します。それを、機械を使って代用させようとすることは、進化の意図に反することです。進化はあくまでも霊性の発達を通して為されねばなりません。霊格を高めることによって神性を最高に発揮するのが目的です」

「ということは、最高の証拠を得たいと思えば、霊性の発達した霊媒を養成しなければならないということでしょうか」

「わたしは今、“証拠”の問題を念頭において話しているのではありません。人類の発達ということを念頭において話しているのです。人生はらせん状のサイクルを描きながら発達するように計画されており、その中の一つの段階において次の段階のための霊性を身につけ、その積み重ねが延々と続けられるのです。おわかりでしょうか」

「はい、わかります」

「最高の成果を得るためには、顕幽両界の間に互いに引き合うものがなければなりません。その最高のものが愛の力なのです。両界の間の障害が取り除かれていきつつある理由は、その愛と愛との呼びかけ合いがあるからです」

「霊媒の仕事が金銭的になりすぎるとうまく行かなくなるのは、そのためでしょうか」

「その通りです。霊媒は、やむにやまれぬ献身的精神に燃えなければなりません。その願望そのものが霊格を高めていくのです。それが何よりも大切です。なぜなら、人類が絶え間なく霊性を高めていかなかったら、結果は恐ろしいことになるからです。霊がメッセージをたずさえて地上へ戻ってくる、そもそもの目的は、人間の霊性を鼓舞するためであり、潜在する霊的才能を開発して、霊的存在としての目的を成就するためです」

「他界した肉親が地上へ戻ってくる――たとえば父親が息子のもとに戻ってくる場合、その根本にあるのは戻りたいという一念でしょうか、それとも今おっしゃった目的で霊媒を通じてメッセージを送りたいからでしょうか」

「戻りたいという一念からです。ですが、一体なぜ戻りたいと思うのでしょう。その願望も愛に根ざしています。父親には息子への愛があり、息子には父親への愛があります。その愛があればこそ、父親はあらゆる障害を克服して戻ってくるのです。困難を克服して愛の力を証明し、愛は死を超えて存続していることを示すことによって、息子は、父親の他界という不幸を通して魂が目を覚まし、霊的自我を見出します。かくして、単なる慰めのつもりで始まったことが、霊的発達のスタートという形で終わることになります」

「なるほど、そういうことですか。言いかえれば、神は、進化の計画のためにありとあらゆる体験を活用するということですね?」

「人生の究極の目的は、地上も死後も、霊性を開発することにあります。物質界に誕生してくるのもそのためです。その目的に適った地上生活を送れば、霊はしかるべき発達を遂げ、次の生活の場に正しく適応できる霊性を身につけた時点で死を迎えます。そのように計画されているのです。こちらへお出になっても同じ過程が続き、そのつど霊性が開発され、そのつど古い身体から脱皮して霊妙さを増し、内部に宿る霊の潜在的な完全性に近づいてまいります」

「人間の容貌を見ても、その人の送っている邪悪な生活が反映しているのがわかることがあります」

「当然そうなります。心に思うままがその人となります。その人の為すことがその人の本性に反映します。死後のいかなる界層においても同じことです。身体は精神の召使いではなかったでしょうか。はじめは精神によってこしらえられたのではなかったでしょうか」

「霊界の視点からすれば、心で犯す罪も、行為で犯す罪と同じでしょうか」

「それは一概にはお答えできません。霊界の視点とおっしゃるのは、進化した霊の目から見て、という意味でしょうか」

「そうです。ある一つの考えを抱いた時、それを実行に移したのと同じ罪悪性をもつのでしょうか」

「とても難しい問題です。何か具体的な例をあげていただかないと、一般論としてお答えできる性質の問題ではありません」

「たとえば、誰かを殺してやりたいと思った場合です」

「それは、その動機が問題です。いかなる問題を考察する際にも、まず“それは霊にとっていかなる影響をもつか”ということを考慮すべきです。ですから、この際も、“殺したい”という考えを抱くに至った動機ないし魂胆は何かということです。

さて、この問題には当人の気質が大きく関わっております。と申しますのは、人をやっつけてやりたいと思っても、手を出すのは怖いという人がいます。本当に実行するまでには至らない――いわば臆病なのです。心ではそう思っても、まずもって実際の行為には至らないというタイプです。

そこで、殺してやりたいと心で思ったら、実際に殺したのと同じかというご質問ですが、もちろんそれは違います。実際に殺せば、その霊を肉体から離してしまうことになりますが、心に抱いただけでは、そういうことにはならないからです。その視点からすれば、心に思うことと実際の行為とは、罪悪性が異なります。

しかし、これを精神的次元で捉えた場合、嫉妬心・貪欲・恨み・憎しみといった邪念は、身体的行為よりも大きな悪影響を及ぼします。思い切り人をぶん殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為に至らせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方が、はるかに強烈です。このように、この種の問題はその時の事情によって答えが異なります」

「誰かを殺してやりたいと思うだけなら、実際の殺人行為ほどの罪悪性はないとおっしゃいました。でも、その念を抱いた当人にとっては、殺人行為以上の実害がある場合が有り得ませんか」

「有り得ます。これも又、場合によりけりです。その邪念の強さが問題になるからです。忘れないでいただきたいのは、根本において支配しているのは“因果律”だということです。地上における身体的行為が結果を生むのと同じように、精神的ならびに霊的次元において、それなりの結果を生むように仕組まれた自然の摂理のことです。邪念を抱いた人が自分の精神ないしは霊に及ぼしている影響は、あなた方には見えません」

「誰かを、あるいは何かを、“憎(にく)む”ということは許されることでしょうか。あなたは誰かを、あるいは何かを憎むということがありますか」

あとのご質問は答えが簡単です。わたしは誰も憎みません。憎むということができないのです。なぜなら、わたしは大霊の子すべてに神性を認めるからです。そしてその神性がまったく発揮できずにいる人、あるいは、わずかしか発揮できずにいる人を見て、いつも気の毒に思うからです。

ですが、許せない制度や強欲に対しては、憎しみを抱くことはあります。強欲・悪意・権勢欲等が生み出すものに対して、怒りを覚えます。それに伴って、さまざまな思い、あまり褒(ほ)められない想念を抱くことはあります。ですが、忘れないでください。わたしもまだまだ人間味をそなえた存在です。ただ、人間に対しては、そうした想念を抱かないところまでは進化しておりますが……

「いけないと知りつつも感情的になることがありますか」

「ありますとも」

別のメンバーが「生意気を言うようですが、今おっしゃったことは私にも理解できます。憎むということは恐ろしいことです」と言うと、さきのメンバーが「人を平気で不幸にする邪悪な人間がいますが、私はそういう人間に対しては、どうしても憎しみを抱きます」と言う。するとシルバーバーチが――

「わたしは憎しみを抱くことはできません。摂理を知っているからです。大霊は絶対にごまかせないことを知っているからです。誰が何をしようと、その代償はそちらにいる間か、こちらへ来られてから、支払わされます。いかなる行為、いかなる言葉、いかなる思念も、それが生み出す結果に対しては、その人自身が責任を負うことになっており、絶対に免れることはできません。ですから、いかに見すぼらしくても、卑(いや)しくとも、大霊からいただいた衣をまとっている同胞を憎むということは、わたしにはできません。ですが、不正行為そのものは憎みます」

「でも、実業界には腹黒い人間がたくさんいます」

「でしたら、その人たちのことを哀れんであげることです」

「私はそこまで立派にはなれません。私は憎みます」

別のメンバーが「私はそれほどの体験はないのですが、動物の虐待を見ると腹が立ちます」と言うと、シルバーバーチが――

「そういう行為を平気でする人間は、みずからの進化の低さの犠牲者であり、道を見失った哀れな盲目者なのです。悲しむべきことです」

さきのメンバーが“腹黒い実業家”を念頭に置いて「ああいう連中の大半は高い知性と頭脳の持ち主です。才能のない人間を食いものにしています。それで私は憎むのです」と言う。

「そういう人たちは必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時が来るのです。あなたとわたしとの違いは、あなたは物質の目で眺め、わたしは霊の目で眺めている点です。わたしの目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受けるべき苦しみが見えるのです。暗闇の中で悶(もだ)え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものが、その人の悪業にふさわしい罰なのです」

「でも、いま現実に他人に大きな苦しみをもたらしております」

「では一体、どうあってほしいとおっしゃるのでしょう。人間から自由意志を奪って、操り人形のようにしてしまえばよいのでしょうか。自由意志という有り難いものがあればこそ、努力によって荘厳な世界へ向上することもできれば、道を間違えて、奈落の底へ落ちることも有り得るのが理にかなっているのです」

別のメンバーが「邪悪な思念を抱いてそれを実行に移した場合、それを実行に移さなかった場合とくらべて、精神的にどういう影響があるのでしょうか」と尋ねた。

「もしもそれが激しい感情からではなく、冷酷非情な計算ずくで行った場合でも、いま申し上げた邪悪な人間と同じ運命をたどります。なぜなら、それがその魂の発達程度、というよりは発達不足の指針だからです。たとえば心に殺意を抱き、しかもそれを平気で実行に移したとすれば、途中で思いとどまった場合にくらべて、はるかに重い罪を犯したことになります」

「臆病であるがゆえに思いとどまる場合もあるでしょう?」

「臆病者の場合はまた別です。わたしは今、邪悪なことを平気で実行に移せる人間の場合の話をしたのです。初めに申し上げたとおり、この種の問題は一つ一つに限定して論じる必要があります。心に殺意を抱き、しかもそれを平気で実行できる人と、“あんな憎たらしい奴は殺してやりたいほどだ”と思うだけの人とでは、霊的法則からいうと、前者の方がはるかに罪が重いと言えます」

「あなたご自身にとって何かとても重大で、しかも解答が得られずにいる難問をおもちですか」

「解答が得られずにいる問題で重大なものと言えるものはありません。ただ、わたしはよく、進化は永遠に続く――どこまで行ってもこれでおしまいということはない、と申し上げておりますが、なぜそういうおしまいのない計画を大霊がお立てになったのか、そこのところがわかりません。いろいろとわたしなりに考え、また助言も得ておりますが、正直いって、これまでに得たかぎりの解答には得心がいかずにおります」

「大霊それ自体が完全でないということではないでしょうか。あなたはいつも大霊は完全ですとおっしゃっていますが……

「ずいぶん深い問題に入ってきました。かつて踏み入ったことのない深みに入りつつあります。

わたしには、地上の言語を使用せざるを得ない宿命があります。そこで“神”のことも、どうしても、わたしが抱いている概念とはかけ離れた、男性神であるかのような言い方をしてしまいます(※)。わたしの抱いている神の概念は、完ぺきな自然法則の背後に控える無限なる叡智です。その叡智が無限の現象として顕現しているのが宇宙です。が、わたしはまだ、その宇宙の究極の顕現を見た、と宣言する勇気はありません。これまでに到達したかぎりの位置から見ると、まだまだその先に別の頂上が見えているからです。

わたしなりに見てきた宇宙に厳然とした目的があるということを、輪郭だけは理解しております。まだ、その細部のすべてに通暁しているなどとは、とても断言できません。だからこそわたしは、皆さんもわたしと同じように、知識の及ばないところは信仰心で補いなさいと申し上げているのです。

“神”と同じく、“完全”というものの概念は、皆さんが不完全であるかぎり完全に理解することはできません。現在の段階まで来てみてもなお、わたしは、もしかりに完全を成就したらそこで全てが休止することを意味し、それは進化の概念と矛盾するわけですから、完全というものは本質的に成就できない性質のものであるのに、なぜ人類がその成就に向かって進化しなければならないのかが理解できないのです」

――“大霊”the Great Spiritを使用しても“神”Godを使用しても、二度目からは男性代名詞の“彼”“彼の”“彼を”He His Him使用していることを言っている。

「こうして私たちが問題をたずさえてあなたのもと(交霊会)へ来るように、あなたの世界でも相談に行かれる場所があるのでしょうか」

「上層界へ行けば、わたしよりはるかに叡智を身につけられた方がいらっしゃいます」

「こうした交霊会と同じものを催されるのですか」

「わたしたちにも助言者や指導者がいます」

「やはり入神して行うのですか」

「プロセスは地上の入神とまったく同じではありませんが、やはりバイブレーションの低下、すなわち高い波長をわたしたちにとって適切な波長に下げたり光輝を和らげたりして、ラクにしてくださいます。一種の霊媒現象です。こうしたことが宇宙のあらゆる界層において段階的に行われていることを念頭においてくだされば、上には上があって、“ヤコブのはしご”には無限の段がついていることがおわかりでしょう。その一ばん上の段と一ばん下の段は、誰にも見えません」

「霊媒を通じて語りかけてくる霊は、われわれが受ける感じほどに実際に身近な存在なのでしょうか。それとも、霊媒の潜在意識も考慮に入れなければならないのでしょうか。そんなに簡単に話せるものなのでしょうか。私の感じとしては、想像しているほど身近な存在ではないような気がしています。少し簡単すぎます」

「何が簡単すぎるのでしょうか」

「思っているほど身近な存在であるとは思えないのです。多くの霊媒の交霊会に出席すればするほど、しゃべっているのは霊本人ではないように思えてきます。時にはまったく本人ではない――単にそれらしい印象を与えているだけと思えるものがあります」

「霊が実在する――このことを疑っておられるわけではないでしょうね? 次に、わたしたち霊にも個性がある――このことにも疑問の余地はありませんね? では、わたしたちは一体誰か――この問題になると、意見が分かれます。そもそも“同一性(アイデンティティ)”とは何を基準にするかという点で、理解の仕方が異なるからです。わたし個人としては、地上の両親がつける名前は問題にしません。名前と当人との間には、ある種の相違点があるからです。

では一体わたしたちは何者なのかという問題ですが、これ又、アイデンティティを何を基準にするかによります。ご存知のとおり、わたしはインディアンの身体を使用しておりますが(※)、インディアンではありません。こういう方法がいちばんわたし自身をうまく表現できるからそうしているまでです。このように、背後霊の存在そのものには問題の余地はないにしても、物質への霊の働きかけの問題は実に複雑であり、通信に影響を及ぼし内容を変えてしまうほどの、さまざまな出来事が生じております。

――地上とコンタクトするための“変圧器”のような役目をしているインディアンのことで、言わば霊界の霊媒である。ふだんは一応これをシルバーバーチということにしており、“祈り”の末尾でも“あなたの僕インディアンの祈りを捧げます”と述べているが、“わたし”と言っている一ばん奥の通信霊が誰であるかは、“いつかは明かす日も来るでしょう”と言いつつ、六十年間、ついに明かされることはなかった。

通信がどれだけ伝わるか――その内容と分量は、そうしたさまざまな要素によって違ってきます。まして、ふだんの生活における“導き”の問題は簡単には片づけられません。なぜかと言えば、人間はその時点での自分の望みを叶えてくれるのが導きであると思いがちですが、実際には、叶えてあげる必要がまったくないものがあるからです。一ばん良い導きは、本人の望んでいる通りにしてあげることではなくて、それを無視して放っておくことである場合が、しばしばあるのです。

この問題は要約して片づけられる性質のものではありません。意識の程度の問題がからんでいるからです。大変な問題なのです。わたしはよく人間の祈りを聞いてみることがありますが、要望に応(こた)えてあげたい気持は山々でも、そばに立って見つめているしかないことがあります。時にはわたしの方が耐え切れなくて、何とかしてあげようと思って行動に移りかけると、“捨ておけ!”という上の界からの声が聞こえることがあります。一つの計画の枠の中で行動する約束ができている以上、わたしの私情は許されないのです。

この問題は容易ではないと申しましたが、それは困難なことばかりだという意味ではありません。時には容易なこともあり、時には困難なこともあります。ただ、理解しておいていただきたいのは、人間にとって影(不幸)に思えることが、わたしたちから見れば光(幸せ)であることがあり、人間にとって光であるように思えることが、わたしたちから見れば影であることがあるということです。

人間にとって青天のように思えることが、わたしたちから見れば嵐の予兆であり、人間にとって静けさに思えることが、わたしたちから見れば騒音であり、人間にとって騒音に思えることが、わたしたちから見れば静けさであることがあるものです。

あなた方が実在と思っておられることは、わたしたちにとっては実在ではないのです。お互いに同じ宇宙の中に存在しながら、その住んでいる世界は同じではありません。あなた方の思想や視野全体が物的思考形態によって条件づけられ、支配されております。霊の目で見ることができないために、つい、現状への不平や不満を口にされます。わたしはそのことを咎(とが)める気にはなれません。視界が限られているのですから、やむを得ないと思うのです。あなた方には全視野を眼下におさめることはできないのです。

わたしたちスピリットといえども完全から程遠いことは、誰よりもこのわたしがまっ先に認めます。やりたいことが何でもできるとは限らないことは否定しません。しかし、そのことは、わたしたちがあなた方の心臓の鼓動と同じくらい身近な存在であるという事実とは、まったく別の問題です。あなた方が太陽の下を歩くと影が付き添うごとく、イヤ、それ以上に、わたしたちはあなた方の身近な存在です。

わたしの愛の活動範囲にある方々は、わたしたちの世界の霊と霊との関係と同じく、わたしと親密な関係にあります。それを物的な現象によってお見せできないわけではありませんが、いつでもというわけにはまいりません。霊的な理解(悟り)という形でもできます。が、これ又、人間としてやむを得ないことですが、そういう霊的高揚を体験するチャンスというものは、そう滅多にあるものではありません。そのことを咎めるつもりはありません。これから目指すべき進歩の指標がそこにあるということです。

あなたのご意見は、ちょっと聞くと正しいように思えますが、近視眼的であり、すべての事実に通暁しておられない方の意見です。とは言え、わたしたち霊界からの指導者は常に寛大な態度で臨まねばなりません。教師は生徒の述べることに一つ一つ耳を貸してあげないといけません。意見を述べるという行為そのものが、意見の正しい正しくないに関係なく、魂が成長しようとしていることの指標だからです。

まじめな意見であれば、わたしたちはどんなことにも腹は立てませんから、少しもご心配には及びません。大いに歓迎します。どなたがどんなことをおっしゃろうと、またどんなことをなさろうと、みなさんに対するわたしの愛の心がいささかでも減る気づかいはいりません」

「私たちも、あなたに対して同じ気持を抱いております。要は求道心の問題に帰着するようです」

「今わたしが申し上げたことに、批判がましい気持はみじんも含まれておりません。われわれはみんな大霊であると同時に人間でもあります。非常に混み入った存在――一見すると単純のようで、奥の深い存在です。魂というものは開発されるほど単純さを増しますが、同時に奥行きを増します。単純さと深遠さは、同じ一本の棒の両端です。作用と反作用は、科学的にいっても正反対であると同時に同一物です。

進歩は容易には得られません。もともと容易に得られるようになっていないのです。われわれはお互いに生命の道の巡礼者であり、手にした霊的知識という杖が、困難に際して支えになってくれます。その杖にすがることです。霊的知識という杖です。それを失っては進化の旅は続けられません」

「私たちはあまりに霊的知識が身近すぎて、かえってその大切さを見失いがちであるように思います」

「わたしは、常づね二つの大切なことを申し上げております。一つは、知識の及ばない領域に踏み入る時は、その知識を基礎とした上での信仰心に頼りなさいということです。それからもう一つは、つねに理性を忘れないようにということです。理性による合理的判断力は大霊からの授かりものです。

あなたにとっての合理性の基準にそぐわないものは、遠慮なく拒否なさることです。理性も各自の成長度というものがあり、成長した分だけ判断の基準も高まるのです。一見すると矛盾しているかに思える言葉がいろいろとありますが、このテーマもその一つであり、一種の自家撞着(パラドックス)を含んでおります。が、パラドックスは真理の表象でもあるのです。

理性が不満を覚えて質問なさる――それをわたしは少しも咎めません。むしろ結構なこととして、うれしく思うくらいです。疑問を質(ただ)そうとすることは魂が活動していることの証拠であり、わたしにとってそれは喜びの源泉だからです。

さて、わたしは何とか皆さんのご質問にお答えできたと思うのですが、いかがでしょうか」

そう述べてから、その日の中心的質問者だった、かつてメソジスト派の牧師だった人の方を向いて、笑顔でこう述べた。

「いかがでしょう、わたしの答案用紙に“思いやりあり”“人間愛に富む”とでも書き込んでくださいますか?」

祈り

気弱さと煩悩のさ中にあるとき……

ああ、大霊よ。あなたは、形態のいかんを問わず、全生命の創造主にあらせられます。あなたの摂理は全生命を支える無限なる摂理であり、あなたの計画は宇宙の生命活動の全側面に配慮した完ぺきなる計画であり、そのすべてをあなたの愛が育(はぐく)んでいるのでございます。

幾百億という数知れない生命現象をみせるこの宇宙にあっても、あなたの摂理が認知しないものは何一つございません。その存在の扶養と維持と管理にとって不可欠のものは、すべて用意されております。各側面が全体の一部としての機能を果たしつつ、宇宙が一大調和体として活動するための手段も、すべて用意されているのでございます。

その不変・不易にして絶対的な支配力を有する摂理に対して、わたしどもは深甚なる敬意を表します。なぜなら、この果てしなき宇宙にあっても、その摂理の範囲を超えて、いかなる事態も生じ得ないことを知っているからでございます。

わたしどもは、そうした摂理が存在することの意義についてのより深い理解を、あなたの子等にも得さしめたいと念願するものでございます。その摂理の理解によって、自己の存在の目的とあなたとのつながりをより鮮明に認識し、この霊的宇宙機構の中での自己の果たすべき役割を知ることになるからでございます。

それと同時にわたしどもは、あなたの霊性――意識を有し、呼吸し、思考し、生きていることの根源である霊性が子等のすべてに内在しており、それこそが本当の実在であることを知らしめたいのでございます。

あなたによって用意された自我の深奥を知り、あなたとの霊的な絆を理解すれば、子等も内なる霊力を発揮できることになります。それは波涛のごとく湧き出て、あなたの顕現をより大きなものとすることでございましょう。

かくして各自の霊的資質がより大きく発揮され、明るさを増したイルミネーションが生活の中にみなぎり、それまで真理を見る目を曇らされていた暗闇を取り除いてくれることでございましょう。

わたしたちは、援助を必要とする者すべてに手を差しのべ、彼らを悩ます問題のすべてに解決をもたらす知識と悟りの道へ導き、気弱さと煩悶のさ中にあるときに元気づけてくれる力を与え、あなたが常に彼らとともにおられることを知らしめてあげたいと祈るものです。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。