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10章 幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものです

生誕後はや二千年もたった今日でさえ、イエスなる人物の正しい位置づけが、スピリチュアリズムにおいても時おり論議の的となる。ある者はイエスも一人間だった――ただ並はずれた心霊的能力を持ち、それを自在に使いこなした勝れた霊覚者だったと主張するし、又ある者は、やはりイエスは唯一の“神の子”だったのだと主張する。

当然のことながら、毎回ほぼ一時間半も続いたシルバーバーチの交霊会においても、たびたびその問題ならびに、それに付随した重大な問題が提出されてきた。出席者は異口(いく)同音に、その一時間半があっという間に過ぎた感じがするのが常だったと言う。

さて、そんなある日の交霊会で、一牧師からの投書による質問が披露された。“シルバーバーチ霊はイエスを宇宙機構の中でどう位置づけておられるのでしょうか。また〈人間イエス〉と〈イエス・キリスト〉とは、どこがどう違うのでしょうか”というのがそれである。これに対してシルバーバーチはこう答えた。

「ナザレのイエスは、地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜(※)の、最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて、霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。

――メルキゼデク→モーセ→エリヤ→エリシャ→イエスという系譜のことを言っているのであるが、こうした霊的系譜は各民族にある。ただ、世界的視野でみた時、イエスが地上人類としては最大・最高の霊格と霊力をそなえていたことは間違いない事実のようで、モーゼスの『霊訓』の中でもインペレーター霊がまったく同じことを述ベている。今スピリチュアリズムの名のもとに繰り広げられている地球浄化と真理普及の運動は、民族の別を超え、そのイエスを最高指導霊とした、世界的規模で組織された霊団によるものである。

イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と少しも変わらない一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質界へやってきて、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが大量に流入したことは、前にも後にもありません。イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦(が)れきの下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。

そのために彼は、まず自分へ注意を引くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して、心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。偉かったのは、それを一度たりとも私的利益のために使わなかったことです。

又その心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も、廃止も、干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を引くようになると、こんどは、人間が地球上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊覚者が説いてきたのと同じ、単純で、永遠に不変で、基本的な霊的真理を説くことを開始したのです。

それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する正しい記録はきわめて乏しいのですが、その乏しい記録に大変な改ざんがなされていることです。ずいぶん多くの、ありもしないことが書き加えられています。したがって聖書に書かれていることには、マユツバものが多いということです。出来すぎた話はみな割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから……

もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後さらに開発され威力を増した霊力を駆使して、愛する地上人類のために働いておられるのです。イエスは“神”ではありません。全生命を創造し人類に神性を賦与した、宇宙の大霊そのものではありません。

いくら立派な地位(くらい)ではあっても、本来まったく関係のない地位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽すゆえんとはなりません。父なる神の右に座しているとか、“イエス”と“神”とは同一義であって、置き替えられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。

イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にひざを折り、平身低頭して仕える必要はないのです。それよりも、イエスの生き方を自分の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。

以上、大変大きな問題について、ほんの概略を申し上げてみました」

メンバーの一人「“キリストの霊”Christ Spiritとは何でしょうか」

「ただの用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを誇示するために、聖なる油を注がれた時代がありました。それは大てい王家の生まれの者でした。“キリスト”という言葉は“聖油を注がれた”という意味です。それだけのことです。(※)」

――イエスの死後、イエスこそそれに相応しい人物だったという信仰が生まれ、それでJesus Christと呼ばれるようになり、それがいつしか固有名詞化していった。

「イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったというのが、私には理解できません」

「わたしは決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。わたしが申し上げたのは、地上へ降りた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊覚者の系譜の中で、イエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。イエスの生活が完全だったとは一度も言っておりません。それは有り得ないことです。なぜなら、彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」

「イエスの教えは最高であると思われますか」

「不幸にして、イエスの教えはその多くが汚されております。わたしはイエスの教えが最高であるとは言っておりません。わたしが言いたいのは、説かれた教えの精髄(エッセンス)は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど強力に、そして純粋に心霊的法則を使いこなした例は、地上では空前絶後であるということです」

「イエスの教えがその時代の人間にとっては進みすぎていた――だから理解できなかった、という見方は正しいでしょうか」

「おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに、彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は、彼らにとって成功であることが時代的にみれば失敗であり、彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」

――George Lansburyは一九三一年〜三五年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次大戦勃発直前の一九三七年にはヨーロッパの雲行きを案じて、ヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。Dick Sheppardは生前キリスト教の牧師だったこと以外は不明。なおこの当時二人ともシルバーバーチ霊団のメンバーだったことは他の資料によって確認されている。

「イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の始源であると考えてよろしいでしょうか」

「それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは、霊格の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し、かつそれを自在に使いこなすことができたからです。

ぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた愚行が多かったにもかかわらず、あれほどの短期間に全世界に広まり、そして今日まで生き延びてこれたのは、イエスの言動が常に霊力と調和していた(※)からだということです」

――ここでは背後霊団との連絡が緊密だったという意味。『霊訓』のインペレーター霊によると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。地上生活中のイエスは早くからその事実に気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体で離脱し、その背後霊団と直接交わって、連絡を取り合っていたという。

かつてメソジスト派の牧師だった人が尋ねる――

「いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできませんか」

「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異議を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。教えそのものと、その教えを取り違え、しかもその熱烈な信仰によってかえってイエスを磔刑(はりつけ)にするような間違いを何度も犯している信奉者とを混同しないようにしないといけません。

イエスの生涯を見て、わたしはそこに物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完ぺきで、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった――自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。イエスは一度たりとも、みずから課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的のために利用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。

どうもうまく説明できないのですが、イエスも、生をうけた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味では完全では有り得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派な、そして大きな仕事ができる時代が来るとイエス自身が述べている意味がなくなります。

イエスという人物を指さして“ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時は、これほどの仕事ができるのですよ”と言える、そういう人物だったと考えればよいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。しかもそのイエスは、わたしたちの世界においても今、わたしの知るかぎりでの最高の霊格をそなえた霊(※)であり、自分を映す鏡として、イエスに代わる霊はいないと考えております。

――地球神界での話。『ベールの彼方の生活』では“各天体にキリストがいる”と述べられている。要するに神庁の最高位の霊のことで、イエスなる人物はそのすべてではないが直接の表現だったということであろう。

わたしがこうしてイエスについて語る時、わたしはいつも“イエス崇拝”を煽(あお)ることにならなければよいが、という懸念があります。それは、わたしがよく“指導霊崇拝”に警告を発しているのと同じ理由からです。

あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな、永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は、理性と常識と知性をもって行わないといけません。それは書物からでも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人がすすめるから、良いことを言ってるから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断規準です。

このわたしとて、無限の叡智の所有者などではありません。霊の世界のことを一手販売しているわけではありません。地上世界のための仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。完全であるとか、間違ったことは絶対に言わないなどとは申しません。みなさんと同様、わたしも至って人間的な存在です。ただ、みなさんよりは生命の道をほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が、わたしに少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしもわたしの言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線をわたしといっしょに眺めませんかと、お誘いしているわけです」

霊言の愛読者の一人から“スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して〈最後の晩餐〉の儀式を行うべきでしょうか”という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチはこう答えた。

「そういう儀式(セレモニー)を催すことによって、身体的・精神的・霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれとしては最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、わたし自身には、そういうセレモニーに参加したいという気持は毛頭ありません。イエスご自身も、そんなことをしてくれたからといって、少しもうれしくは思われません。わたしにとっても何の益にもなりません。まったくなりません。霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛(じゅばく)から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。

イエスに対する最大の貢献は、イエスを模範と仰ぐ人々が、その教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病に苦しむ人々を癒し、疑念と当惑に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人々すべてに手を差しのべてあげることです。

儀式よりも生活の方が大切です。宗教は儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。“聖なる書”と呼ばれている書物から、活字のすベてを抹消してもかまいません。讃美歌の本から“聖なる歌”をぜんぶ削除してもかまいません。儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に“宗教的人間”でありうるのです。そういう生活こそ、内部の霊性を正しく発揮させるからです。

わたしとしては、みなさんの関心を儀式ヘ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく、生活そのものです。生活の中で何を為すかです。どういう行いをするかです。〈最後の晩餐〉の儀式がイエスの時代よりさらに遠くさかのぼる由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です」

別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されて――

「人のためになることをする――これがいちばん大切です。わたしの意見は単純・明快です。宗教には“古い”ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関わりもないものばかりです。

わたしにとって宗教とは、何かを崇拝することではありません。祈ることでもありません。会議を開いて考え出した形式的セレモニーでもありません。わたしはセレモニーには興味はありません。それ自体は無くてはならないものではないからです。

しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事を無くてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、それを無理して止めさせる理由はありません。

わたし自身としては、幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との交渉、地上的障害を超越して、次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係――これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えとは何の関係もありません」

祈り

あなたの目の前に人類は一つ……

これより皆さんとともに、可能なかぎりの最高のものを求めて、お祈りいたしましょう。

ああ、大霊よ、わたしどもは、あなたを有るがままの姿、広大なこの大宇宙機構の最高の創造主として、子等に説き明かさんとしております。あなたは、その宇宙の背後の無限の精神にあらせられます。あなたの愛が立案し、あなたの叡智が配剤し、あなたの摂理が経綸しているのでございます。

かくして、生命現象のあらゆる側面があなたの摂理の支配下にあります。この摂理は可能なかぎり、ありとあらゆる状況に備えたものであり、一つとして偶発の出来事というものは起きないのでございます。

あなたはこの宇宙に、あなたの神性の一部を宿した個的存在を無数に用意なさいました。その神性があればこそ、崇高なるものを発揮することができるのでございます。その神性を宿せばこそ、すべての人間はあなたと、そして他のすべての同胞と霊的につながっていることになるのでございます。民族の別、国家の別、肌の色も階級も教義も超えて、お互いに結ばれているのでございます。あなたの目の前に人類は一つなのです。

誰一人として忘れ去られることも見落とされることもございません。誰一人として無視されることも、あなたの愛が届かぬこともございません。孤独な思いに沈むのは、あなたの絶妙な摂理というものが存在し、心がけ一つで誰でもその恩恵にあずかることができることを知らぬからにほかなりません。

子等が霊の目と耳とを開きさえすれば、高級界からの美と叡智と豊かさとが、ふんだんに注がれるのでございます。その高級界こそが、すべてのインスピレーション、すべての啓示、すべての叡智、すべての知識、すべての愛の始源なのでございます。

わたしたちの使命は、子等に内部の神性と霊的本性に気づかせ、地上はいっときの仮住まいであって、永遠の住処(すみか)は霊界にあること、地上生活の目的は、そうした崇高なる霊的起原と誉れ高き宿命に恥じないだけの霊格を身につけることであることを理解せしめて、しかるべき導きを与えることでございます。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。