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11章 公正・愛・寛容の法則

生得の権利と公正

――公正とはどう定義づけたらよろしいでしょうか。

「公正とは他人の権利の尊重を基本として成り立つものです」

――その権利を定めるのは何でしょうか。

「二つあります。人間の法律と自然の法則です。人間の法律はその時代の人間的性格と習性に合わせてこしらえられていますから、啓発が進むにつれて規定される権利も変わってきます。今日のフランスの法律は、まだ完全からは程遠いとは言え、中世において権利として認められたものは、もう認めていません。今日のあなた方には途方もないものに思えるでしょうけど、当時としてはごく当たり前だったのです。

そういう次第ですから、人間がこしらえた法律は必ずしも絶対的公正とは一致しません。その上、人間の法律が規定するのは社会生活に関連した側面に限られております。しかし各個人の生活においては、時々刻々の言動や思念について、良心の法則による裁きを受けております」

――では人間的法律はさておいて、自然の摂理に適った公正の基本は何でしょうか。

「イエスが言っております――自分が他人からしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい、と。神は、公正の真実の尺度として、自分の権利を尊重してもらいたいという願望を各自に植えつけておられます。対人関係において難しい事態に立ち至り、如何なる行為に出るべきかに迷った時は、自分を相手の立場に置いて、自分だったらどうしてもらいたいと思うだろうかと考えてみることです。その判断に基づいて行動した時は良心が咎めることはありません」

――生得の権利で第一に挙げられるのは何でしょうか。

「生きる権利です。従って他人の生命を奪う権利、あるいは個人的存在を危うくする権利は、誰にもありません」

隣人への寛容と愛

――イエスが説いた“慈愛”の本当の意味は何でしょうか。

「全ての人間への善意、他人の欠点への寛容、自分への中傷の容赦です」

――イエスは“汝の敵を愛せよ”とも言っておりますが、それは人間の自然な心情にはそぐわないように思います。

「自分に敵対する者に優しくし愛の心を向けることは、確かに人間には不可能でしょう。イエスも決して文字通りのことを要求しているわけではありません。敵を愛するということは、敵を赦し、悪想念に対して善意で返すということです。それが出来た時、あなたは本当の意味で敵に勝ったのであり、悪意でやり返した時は敵に負けたことになります」

――施しをすることはいけないことでしょうか。

「そんなことはありません。いけないのは施しそのものではなく、施しの仕方です。イエスの説いた慈愛の心を理解した者は、物乞いをするという下卑(げび)た態度に出させないようにして困っている人々に施しをするべきです。

真の慈善の行為は、ただ施しをするというだけでなく、その態度に優しさが無くてはいけません。同じく人のためになることでも、その行為に思いやりの心がこもっていると二重の功徳になります。反対に恵んでやるといった高慢な態度で施しをしたのでは、飢えている人は形振(なりふ)り構わず頂くでしょうが、感謝の念は抱かないでしょう。

もう一つ忘れてならないのは、見栄からの施しは神の目から見ると功徳にはならないということです。イエスは“右の手が行ったことを左の手に知らしめてはならない”と言っております。せっかくの慈善行為を高慢と見栄で汚してはいけないという意味です。

施しと善意との違いを知ってください。本当に困っているのは必ずしも道端で物乞いをしている人ではありません。飢えに苦しみながらも、恥を知る人間は物乞いをしません。本当に善意のある人とは、そうした人知れず飢えに耐えている人に施しをし、そしてそのことを口外しない人のことです」