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2章 祈りの法則

讃仰(さんごう)の祈り

――讃仰の祈りとはどのような祈りでしょうか。

「思念の波動を神に近づけるための祈りです。その祈りを通して神に近づくのです」

――それは内部の感性の発露でしょうか、それとも祈りの言葉による産物でしょうか。

「宇宙の大霊の存在への信仰と同じく、内部の感性の発露です」

――やはり自然法則の範疇に入るのでしょうか。

「自然法則の一つです。なぜなら、人間の内部の感性の発露だからです。だからこそ、形式は異なっても、世界中の民族に見られるのです」

――表現形式は不可欠のものでしょうか。

「真実の祈りは心の中での働きです。いかなる形式を用いるにせよ、神の目が常に注がれていることを忘れないことです」

――と言うことは形式も無用ではないということでしょうか。

「見せかけのものでなければ無用ではありません。わざとらしい仰々しい態度や見せかけだけの敬虔な振る舞いを伴った祈りでは、人々を欺くと同時に、想像以上の弊害をもたらします」

――祈りは一人よりも集団で行う方が好ましいのでしょうか。

「思念と感情において親和性のある人々が集まれば善霊を呼び寄せる強力な波動が出せることはご存じと思いますが、それと同じで、祈りの波動も強力となります。だからといって一人での祈りは感心しないという意味に受け取ってはいけません。各自の思念の中において神を崇めることができるのですから」

――生涯を俗世から離れ、悪とも無縁で、ひたすら神を求めて瞑想三昧で過ごす生き方は、神の目から見て賞讃に値するものがあるのでしょうか。

「ありません。そういう人生では他人へ悪事を働くこともないでしょうが、善行もしません。しかも他人への善行がないということそれ自体が悪です。神は子等が神の存在を忘れないように配剤しておられますが(良心の声など)、同時に同胞に対しても果たすべき義務も与えておられます。精神統一と瞑想の行に費やす人生は、神の目から見て賞讃には値しません。そういう人生はその人だけのものであり、人類にとって何の益にもならないからです。いずれ神から、無為に終わらせた人生の穴埋めをするようにとのお達しがあるでしょう」

祈願

――一般的な意味での祈願とは何でしょうか。

「祈願も讃仰の祈りの一つです。神に祈るということは神の存在を意識することであり、神に近づくことであり、内的自我が神とコミュニケーションを持つことです。祈るということには三つの要素があることを認識してください。すなわち神を讃(たた)えること、神に何かを求めること、そして神に感謝すること、この三つです」

――よくお祈りをする人の中に、時として無愛想だったり、嫉妬深かったり、慈しみや忍耐心に欠ける人、極端な場合は悪徳の固まりのような人すら見かけますが、どう理解したらよろしいでしょうか。

「大切なのはたくさん祈るのではなく正しく祈ることです。今おっしゃったような人は祈りとは長々と言葉を述べることと思い込み、それを自分の欠点とは無関係と思っているのでしょう。彼にとっては言わば日課にすぎず、自己反省の要素は皆無です。効き目がないのは薬ではなく、その使い方を間違っているからです」

――自分の過ちを許してくださいと祈ることには何か意義があるのでしょうか。

「神の目には善か悪かは一目瞭然です。祈ったからといって神の目をごまかせるものではありません。過ちの許しを求める方法は、行いを改めるしかありません。善行が最高の祈りです。行為は言葉に優ります」

――他人のために祈ることに効用があるでしょうか。

「他人のためを思って祈る人の霊力が、力になってあげたいという欲求を通して影響を及ぼします。祈る人の波動によって善霊が引き寄せられ、その善行に加勢します」

――死者の霊および霊界で苦しんでいる霊のために祈ることは意義があるでしょうか。もしあるとすれば、その祈りがどういう形で苦痛を和らげ、あるいは苦しむ期間を短くしてあげることになるのでしょうか。祈りには摂理さえ変える力があるのでしょうか。

「神の摂理そのものは祈りによって何の影響も受けません。しかし、人間から送られてくる祈りの念によって霊の心が慰められます。孤独な霊にとっては自分に関心を向けてくれる人がいることの証であり、その思いが何よりの慰めとなるのです。が、それだけで終わっては何にもなりません。そこから高級霊の出番となります。慰めを得た霊に罪を悔い改め善性を志向する心が芽生えます。その一瞬を狙って高級霊が善性志向を増幅させ、結果的には苦悶の期間を短縮することになります」

生け贄(いけにえ)

――祈りにつきものとして太古から生け贄を捧げる儀式がありますが、人類はなぜこんな残酷なことで神を喜ばせようとしたのでしょうか。

「まず第一は、神の概念が幼稚だったこと。第二に、ただの品物よりも生きたものの方が価値があると考え、始めのうちは動物を、やがて人間を捧げるようになりました。あなた方が贈り物をする時、高価なものほど受け取る人は喜ぶと考えるのと基本的にはいっしょです」

――すると、“人身御供”(ひとみごくう)というのは必ずしも残酷なこととは思われていなかったのでしょうか。

「その通りです。その方が神の怒りを鎮める効果が大きいと考えたのです。もちろん誤った神の概念から生まれたことですが……

――動物の生け贄よりも果物のお供えの方が本当は神の目から見て喜ばしいわけですね?

「血なまぐさい生け贄よりも大地が生み出した果実の方がいいに決まっています。何度も言うように神が嘉納されるのは心です。形ある供物はどうでもよろしい。心の底から発せられた祈りの方が、山と積まれた供物よりも、遥かに神に通じます。くり返します――何事も心が大切です。形式はどうでもよろしい」