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訳者あとがき

訳者というのは実質的に原書の価値に関して生殺与奪の権を握っていると言っても過言ではない。少なくとも私はその自覚のもとに“いかなる形に訳すのが原典の真価を伝えるか”で腐心しながら翻訳に着手し、途中で“まずい”と感じたら初めから別の形で訳し直すこともある。さらに下訳をしばらく寝かせておいて第三者の読者になったつもりで読み直して、添削を施してから原稿用紙に浄書するといった配慮もする。内容的に大きく訳し変えるということは滅多にないが、下訳の時には気づかなかった文章上の欠陥がよく発見される。

この度のカルデックの翻訳に当たっては、以上のことに加えて“編修”という作業が必要だった。これについては“まえがき”で若干言及したが、口で言うほど簡単なことではなく、大ゲサに言えば、これまでの半世紀に近いスピリチュアリズムとの係わりにおける体験を土台にして初めてできたことだった。

そんな面倒なことをせずに、あっさり全訳すればよかったのではないか――そうおっしゃる方がいるかも知れない。が、カルデックの書が本格的霊界通信の出版物としてはスピリチュアリズムでは最も古い、というよりは早かった――ハイズビル事件後わずか十年あまり後――ということもあって、既成宗教界、とくにキリスト教界からの非難中傷が激しかったようで、カルデックはそれに対する理論武装に大変な神経と紙面を費やしている。

当時としては止むを得なかったとは言え、その後百年余りたった現在、しかもキリスト教よりはるかにスピリチュアリズムに近い神道(かんながら)的信仰が自然に行き亘っている日本において、さらにシルバーバーチやインペレーターの霊訓に馴染んでいる読者が圧倒的に多いであろうことを念頭に置いて読むと、それをいちいち訳出することは、無益であるばかりでなく煩雑すぎて興味を削(そ)ぐ恐れがあるとの結論に達したのだった。

“編者注”としたカルデックのコメント、“ブラックウェル脚注”とした英国人訳者の付言は、ぜひこれだけは、と思うものに制限し、フランス語圏の人にしか知られていない古い例証は割愛したり、代わりに日本人向けのものを“訳注”で補ったりした。

私が、“英国の三大霊訓”と呼んでいるモーゼスの『霊訓』、オーエンの『ベールの彼方の生活』、シルバーバーチの霊言集とカルデックの霊界通信の唯一の相違点は、霊媒が紹介されていないことである。それというのも、正確な数字は述べられていないが、相当な数の霊媒を通して得られた通信――カルデックが直接入手したものと他の交霊会で入手されてカルデックのもとに持ち込まれたもの――を総合的に編纂して、テーマ別にまとめ、それにカルデック自身のコメントを付け加えたものを『霊の書』と『霊媒の書』とに大別して出版したのだった。

その通信が霊言なのか自動書記なのかも、いちいち断っていない。私が訳しながら得た感触では自動書記の方が多いようであるが、訳し方は霊言のような語り口調に統一した。現象の原理としてはどちらも同じことなので、たぶんカルデックもあまりこだわらず、また霊媒はあくまでも“道具”であるとの認識から、霊媒の氏名も一切挙げていない。

ついでに付言すれば、カルデックのもとに寄せられた通信の中にもかなりいかがわしいものがあり、イエスを筆頭にナポレオンだのパスカルだのジャンヌ・ダルクだのジャン・ジャック・ルソーだのと、フランスらしい顔ぶれが勢揃いしている。カルデックはそれらを最後にまとめて紹介し、“ニセモノ”と断じている。たとえばイエスの署名のある自動書記通信については「あのイエスが(二千年後の今になっても)こんなキザでぎこちない、そしてバカげた表現しかできないのか」と手厳しく批判し、最後に「これら一連の通信はたぶん一人の低級霊が書いたものである」と一刀のもとに切り捨てている。いずこの国にもこうした手合いの霊界通信があるものである。

さて『霊媒の書』を訳し終えた今、私の胸に去来する感慨を披瀝させていただけば、フランスを中心としてラテン系民族の間でバイブルのように愛読されているこの霊界通信までも自分が訳すことになったことを、身に余る光栄と受け止めているところである。

カルデックの二著の英文版は、“英国の三大霊訓”とほぼ同時期に購入していた。そしてその内容には何の違和感も抱かず、折りにふれ無造作にページを開いて読むということを続けていた。最近でもよく繙(ひもと)くことがある。そんな次第で、「心の道場」(現スピリチュアリズム普及会)から翻訳の依頼を受けた時は何の躊躇もなくお引き受けした。

訳している時もそうだったが、訳し終えた今しみじみと思うのは、「訳して良かった――後世に計り知れない影響をもたらすことは間違いない」という確信である。プライベートなサークルによる自費出版であるから、流通機構に乗った出版物と比較して購買の規模は小さいであろう。しかしこの道、すなわちスピリチュアリズム的真理の普及という仕事は、本当に理解した人が一人また一人と増えることによって広げるしかないのであって、華々しく衆目の的となることは期待できない。本質的にそういうものではないのである。

ある出版ジャーナリストがいみじくも言っているが、ベストセラーというのは普段はロクに文字を読むということをしない者までが「そんなに売れてるなら」という、ただそれだけの理由で買って帰るからあれほど売れるのであって、実際に読まれているわけではない、と。スピリチュアリズムには間違ってもそういうことは起こり得ない。

振り返ってみると私の生涯は十八歳の時の一霊覚者との出会いで決定づけられて以来、半世紀近くにわたる孜々(しし)とした地道な努力の積み重ねであった。その間私を支えてくれたのはやはりシルバーバーチだった。この道は孤独なもので、見慣れた風景が次々と過ぎ去って、道なき道を一人で切り開いて行かねばならない。しかし魂の奥ではアフィニティーとの結束がますます強まって、そこに真の生き甲斐を覚えるものである……といった意味の言葉の真実味を味わいながら、人類の宝ともいうべき霊界通信を純粋な形で後世に遺すことだけを心掛けてきた。

そして今六十歳の峠にさしかかった時点でスピリチュアリズム・サークル「心の道場」とのご縁が一気に熟し、カルデックの二著の翻訳の仕事を依頼されると同時に、私が所有する、今はもう絶版となったシルバーバーチの原書全十六巻をはじめ、モーゼスの『霊訓』その他、後世に遺すべき原典三十冊ばかりのものをコピーして保存してくださることになった。真の意味で私の仕事の価値の理解者との出会いが待っていたのである。私にとってこれほど元気づけられることはない。

私がそろそろこの地上生活に終止符を打ってもおかしくない年齢に至って、スピリチュアリズムという名の聖火の若いランナーとの思わぬ出会いがあり、私も負けじと、もう一仕事をしたいと念願しているところである。

最後に、私の原稿をワープロ打ちにする労に当たられた方、出版費用を快く寄付してくださった方々等、本書の出版のために協力してくださった「心の道場」のサークルの皆様に、心からの謝意を表したい。

平成八年六月

近藤千雄