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1章 物質界への霊の働きかけ

第一部で見た通り、唯物的否定論は理性的にも事実上からも筋が通らないものとして片づけられた。本章からは人間の魂が、他界後に霊として、地上の生者にどのように働きかけるかを見てみたい。

そもそも先祖の霊が地上の人間に働きかけるということは世界のいずこの民族においても、またいつの時代においても、ごく当たり前の事実として直観的に信じられていたものである。それほど世界的に共通した直観であり、しかも人間生活に影響を及ぼしてきた信仰に、それなりの根拠が無かったはずはない。

それは聖書の中にも初期キリスト教時代の教父たちの証言の中にも見出すことができるが、それを“迷信”のカテゴリーの中に放り込んだのは、近代の唯物的懐疑思想であった。

ではその懐疑思想の横暴を許したのは何だったのか。いろいろと要因はあろうが、近代に至って物質科学が大幅な発展を遂げ、何事にも“なぜ?”、“いかなる原理で?”ということが明確でないものは事実として認めないという風潮を生んだことが最大の要因だった。

それまでは直覚的に目に見えない霊の存在とその働きかけを信じていたのが、物質科学の範疇に入らないというところから、それを無視するようになっていったのは当然の成り行きだった。

つまるところ、霊的現象を理解できなくさせているのは“霊”そのものについての間違った概念なのである。現象は霊が物質に働きかけるからこそ生じているのであるが、霊は目に見えない存在であるから、それが物質に働きかけるはずはないことになる。その辺の理屈に実は根本的な誤りがあるのである。

目に見えないということは、実体のない抽象的存在ということではない。霊にはれっきとした実体があり、形態もあるのである。それが肉体に宿っている魂を構成しているのが地上の人間で、肉体から脱け出たあとも、ちゃんと人間的形態をそなえているという。現に物質化して出現するときは地上時代と同じ姿をしている。

霊視力で人間の死の直後の様子を観察すると、肉体から脱け出た魂は、しばらく困惑状態にあるのが分かる。感覚的におかしくなっていると言ってもよい。と言うのは、目の前に自分の肉体が横たわっている。きれいな姿をしている場合もあろうし、事故などで無惨な姿になっていることもあろう。が、自分はちゃんと存在しており、自我意識もある。一体どうなっているのだろうと思って困惑する。

中には死んだという自覚がなく、地上時代と同じ感覚で生活を続ける者もいる。その自覚が芽生えるまでには、新しい環境での体験が必要なのである。

その体験を必要とせず、一瞬の戸惑いはあっても、すぐに死を悟って、死体に何の未練も持たずに、空中に舞い上がるごとくに霊界を上昇して行く者もいる。

いずれにしても、肉体の死によって個性も自我意識も一切失われることはない。しかも、肉体そっくりの身体もちゃんとそなわっている。地上時代の肉体のように飲食によって養う必要もないし、病気もしない。地上時代の障害も消えている。

数え切れないほどの実験と観察、そして名状し難い事実(のちほど詳しく説明)によって、我々は次のような結論に達している。すなわち人間は三つの要素から成り立っている。第一が魂または霊で、道義的感覚を有する知的原理である。第二が肉体。荒けずりな物的身体で、神の配剤によるある目的のために魂が一時的に宿って地上生活を営むための道具である。そして第三がダブルと呼ばれる半物質的媒体で、魂と肉体との接着剤のような役目をしている。

死というのはそのうちの肉体が破滅または分解する現象である。その際、脱け出て行く魂はダブルもいっしょに携えていく。魂には何らかの媒体が必要なのである。

ダブルは流動性の蒸気のような媒体で、通常の状態では人間の肉眼には映じないが、本質的には物質に近い性質をしている。が、今までのところ、それを分析するまでには至っていない。(それはカルデックの時代だけでなく現代に至っても同じである。が、英国のジョージ・チャプマンという心霊治療家は、トランス状態に入るとウィリアム・ラングという、地上時代に眼科医だった霊が乗り移って、患者のダブルを手術するという方法で多くの患者を治していた。私も実際にその治療法で治してもらった生々しい体験がある。潮文社刊・拙訳『霊体手術の奇跡』参照――訳注)

“魂の衣服”ともいうべきダブルは、当然地上生活中も存在している。魂と肉体との仲介役ないし中継者で、魂の内的状態が肉体に伝わり、肉体の外的状態が魂に伝わる。言うなれば“思念を伝える電線”のような役目をしていて、その具体的な働きは神経の波動として捉えられている。

人体の生理機能としては極めて重要な役割を演じているのであるが、その働きが神秘的で名状し難いために、生理学でも病理学でも明確な研究対象とされていない。もし解明されれば、いま謎とされている多くの事実が説き明かされるであろう。(これも百年後の現代にもそのまま当てはまる。神経作用は肉体的にきわめて敏感に反応するので物的なものと考えられがちで、医学もその考えのもとに扱っているが、謎とされている事実が多い。たとえばニューロンと呼ばれる細胞がつながって信号を伝えるのであるが、数百億個もあるニューロンとニューロンは実は直接はつながっていない――わずかながら隙間があり、それをシナプスと呼ぶ。脳全体のシナプスの数は数千兆個という天文学的な数値に達するが、いかに性能のいいコンピューターでもちょっとした接触不良で作動しなくなるのに、神経系統はそれだけのシナプスがありながら、なぜか情報が瞬時に伝わるのである。そこで医学では“神経伝達物質”というものの存在を指摘しているが、ずいぶん窮屈な説である。そこへいくとヨガでは神経を物質の範疇に入れていない。ダブルにあるチャクラという生命力の中枢から発せられる生命力が常に神経繊維に沿って伝わっており、神経の情報はそれを媒体として伝達されるとしている。霊的にもそれが正解であり、神経そのものの働きではないことを昔のヨガ僧は体験的に直感していたのである。“神経”という用語は“神気の経脈”という意味で、日本における最初の西洋医学の翻訳書『解体新書(ターヘル・アナトミア)』の中で用いられたものである。直接翻訳に携わった前野良沢――杉田玄白ではない――は余ほど霊感の鋭い人物であったことが、その訳語一つから窺える。――訳注)

ダブルの存在は、科学の世界でよく出される“仮説”ではなく、霊による証言もあるし、このあと紹介する我々の観察によっても確かめられている。差し当たっては、地上生活中も、そして他界後も、魂とダブルは常に一体となっていると理解していただけばよい。

霊視すると霊は炎とか火花として映じることが昔から言われている。が、肉体に宿っている魂は知的ならびに倫理的原理として機能しており、その形態は認識できない。しかし、霊性の進化がどの段階にあろうと、魂は常にダブルによって包(くる)まれており、ダブルそのものの精妙度は霊性の進化にともなって高まっていく。

このように、ダブルは肉体が人間の不可欠の要素であるように霊にとって不可欠の要素である。と同時に、肉体そのものがその人ではないように、ダブルそのものが霊ではない。あくまでも霊の道具である。

死を境にして肉体から解放されたダブルは、それまで肉体にはめられていたためにでき上がった人間的形態が崩れて、霊の意念に応じて広がったり、縮まったり、その他、その時の必要性にしたがって自在に変形する。出現した霊が地上時代の姿とそっくりであるのも、あるいは傷とか障害などの特徴を見せることができるのも、このダブルがあるからである。

魂は物質とはまったく異質の存在で、その本質はまったく知られていない。その魂が、死後、霊としてこの物質界に働きかけることができるのは、ダブルがあるからこそである。つまり霊が物質界に働きかけてその存在を知らしめるためには、物質的媒体が必要ということである。我々人間が肉体という媒体によって物質界と接触しているのと何ら変わるところはない。

こう見てくると、心霊現象も自然現象の範疇に属し、何ら奇跡的な要素はないことがお分かりであろう。超自然現象であるかに思えるのは、上に述べたような事実を知らないからで、それが分かってしまえば驚異でも何でもなく、原因は半物質体のダブルにあることになる。新たに発見された次元の事実が新たな法則によって説明されたというに過ぎず、一連の自然法則であることには変わりない。電信による交信の事実に今どき驚く人がいないように、いずれは常識となる日が来るであろう。

その理屈は分かるにしても、半物質とはいえ目に見えない精妙な媒体によって重いテーブルが天井高く持ち上げられたりするのは信じられないとおっしゃる方もいるであろう。

しかし、では電気が巨大なモーターを回転させ、稲妻となって巨木を八つ裂きにしてしまうのを見て、その威力には驚いても、それを信じないという人はいないのはなぜか。そういう事実を日常において見ているからである。

我々が呼吸している空気でも突風となって家屋を吹き飛ばすし、爆風となって人間を死に至らしめることもある。それと同じで、ダブルというエーテル質の媒体も、他の条件が加わることによってテーブルを持ち上げるようにもなるし、生前の姿を再現して見せることもできるのである。

訳注――ここで“ダブル”と訳したのは原文ではperispiritとなっている。periという接頭語は“周囲”の意味があり、ここでは“霊を取り囲むもの”といった意味あいの新造語である。通信霊の一人で、ラメネーと名のる霊が次のように説明している。

《ここでペリスピリットと呼んでいるのは通信霊によっては“魂の流動性の外皮”と呼ぶ者もいる。それを構成している流動性のものは、霊にとっては感性の伝達に融通性を与え、また見解や観念の伝達に広がりを与える。といっても、それはある程度まで進化した霊にとっての話で、低級霊の場合はペリスピリットに地上臭が残っており、言わば物的なので、空腹とか寒さも感じる。高級霊になるとペリスピリットも純化されているので、そういう地上的なものは感じない。

魂が進化するには何らかの媒体を必要とする。媒体のない魂は“無”に等しく、人間には概念がつかめないであろう。人間のように一定の型にはまっていない我々にとってペリスピリットは、人間の身体を使って間接的に(自動書記などで)通信を送るか、あるいは人間のペリスピリットを使って直接的に(インスピレーション的に)交信する上で欠かすことのできない媒体である。その使用法しだいで、霊媒にも霊媒を使っての交信にも、さまざまな種類が生じるわけである。

ただし、ペリスピリットの科学的分析となると話は別である。魂とは何かが我々とて分かってはいない。人間がペリスピリットを研究しているように、我々も魂とは何かを探究中である。お互いに忍耐が必要である。》

この通信を受け取ったのが正確に何年であるかは記されていないが、本書の序文が一八六一年に書かれているから、それよりそう古くはないであろう。

こんなことを詮索するのは、手もとにあるウィリアム・クルックスの破天荒の研究書『Researches in the Phenomena of Spiritualism』が出版されたのが一九二六年である。が、これは一八七〇年頃から始まったクルックスの本格的な心霊研究の成果を一冊にまとめたもので、その中に、科学誌に発表された「サイキック・フォースと近代スピリチュアリズム」という論文が見える。それが一八七一年十二月号であるから、本書の出版から十年後ということになる。

私はこの“サイキック・フォース”こそ物理現象の主要エネルギーで、これに霊界の化学成分を混合して、いわゆるエクトプラズムをこしらえるのだと結論づけている。エクトプラズムの研究では第一人者であるJ・E・ライト氏は“エクトプラズミック・フォース”という言い方をしている。同じものである。