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30節

〔霊は何かと祝祭日が好きである。その所為でキリスト教の祝祭日に関する特別のメッセージが数多く寄せられている。一例として三年連続して送られて来たイースターメッセージを紹介しておく。一八七四年のインペレーターによるメッセージに較べると、一八七五年に別の霊がサインしたものが雰囲気も異なり観点も異なる点に気づかれるであろう。〕

〔イースター。一八七四年。前の年の同日にドクターとプルーデンスから送られた通信に言及したところ、次のようなメッセージが書かれた。〕

あの通信が届けられた頃のそなたの心境と現在の知識とを較べれば、そなたの進歩のよき指標となろう。重大なる問題についてその後いかに多くを学び、どれほど考えを改めたかがよく判るであろう。あの頃われらはいわゆる“復活”が肉体の復活ではなく“霊”の復活であることを説いた。遠い未来ではなく死の瞬間における霊の蘇(よみがえ)りの真相を説明した。その時点におけるそなたにとりては初耳であった。が、今は違う。当時理解に苦しんだことについて今は明確な理解がある。イエスの地上での使命と、今その使者を通じて進行中の仕事についても説いた。イエスの真の神性――そなたらが誤って崇拝してきた“主”の本来の偉大さについても説いた。イエス自ら述べた如く、イエスがそなたらと同じ一個の人間であったこと、ただ比類なき神性を体現する至純至高の人間の理想像であったことを説いた。愚かなる人間的神学が糊塗せるイエスの虚像を取り除くことによりて、そこに地上の人間の理想像としての人間イエス・キリストの実像を明らかにすることが出来た。

イエスは肉体を持って昇天したのではなかった。が、決して死んでしまったわけでもない。霊として弟子たちに姿を見せ、共に歩み、真理を説いた。われらも同様のことをする日が来るかも知れぬ。

今そなたが見ているのはこれから始まる新しき配慮――人間が空想し神学者が愚かにも説ける人類の最後の審判者としての“主”の出現ではなく、われら使者を通じての新たなる使命(実は古き真理の完成)、地上への新しき福音の啓示という形による“主”の出現の前ぶれとしての“しるしと奇跡(1)”なのである。すでに地上に進行しつつあるその働きの一環をわれらも担っている。イエス・キリストの指揮のもとに新しき福音を地上にもたらすことがわれらの使命なのである。今はまだその一部しか理解できぬであろう。が、いずれ、のちの時代にそれが神より授けられた人類への啓示の一環であり、過去の啓示の蓄積の上に実現されたものとして評価されることであろう。

このところそなたの精神の反抗性が減り、受容的態度が増したことにより、われらは直接的働きかけが目立って容易となってきた。これに加えて忍耐力と同時に祈りの気持ちと不動の精神をぜひ堅持してもらいたい。われらの目指す目的から目をそらせてはならぬ。今まさに地上に届けられつつある神の聖なるメッセージを繰り返しじっくりと噛みしめることである。進歩の妨げとなる障害物をつとめて排除せよ。もっとも、日々の勤めを疎かにしてもらっては困る。そのうち今より頻繁にそなたを利用する時期も来よう。が、今はまだその時期ではない。そのためにはまだまだ試練と準備とが必要である。友よ、その時期までにそなたは火の如き厳しき鍛練を必要とすることを覚悟せよ。地上的意識を超えて高級霊の住める高き境涯へと意識を高めねばならぬぞ。これがわれらからの復活祭(イースター)のメッセージである。死せるものより目覚め、魂を蘇らせよ。地上世界の低俗なる気遣いより超脱せよ。魂を縛り息を詰まらせる物質的束縛を振り捨てよ。死せる物質より生ける霊へ、俗世的取越苦労より霊的愛へ、地上より天界へと目を向けよ。地上生活にまつわる気苦労より霊を解放せよ。これまでの成長の補助的手段に過ぎなかった物的証拠並びに物理的現象を捨て去り、興味の対象を地上的なものより霊的真理の正しき理解へ向けよ。イエスが弟子たちに申したであろう――「この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ(2)」と。次の聖書の言葉も心の糧とせよ。「汝ら、眠れる者よ、目覚めよ。死せる者の中より起きよ。キリストが光を与えん。(3)

――私がこの世的なことに無駄な時間を費して来たとおっしゃっているように聞こえますが。

そうは言っておらぬ。たとえ霊的教育を一時的に犠牲にしても、物理的実験等、地上の人間として必要なことは為さねばならぬと言って来たつもりである。が、われらの願いはそうした客観的証拠がもはや必要とせぬ段階においては、そこより霊的教訓の段階へと関心を向けてくれることである。向上心を要求しているのである。そしてそなたに求めることを全ての人間に求むるものである。

〔さらに幾つか質問したあと私は、霊的に向上していくと俗世的な仕事に全く不向きとなり、ガラスケースにでも入れておく他ないほど繊細となる――つまり霊界との関係にのみ浸り切り世間的な日常生活に耐えられなくなるが、それが霊媒としての理想の境地なのかと尋ねた。〕

霊媒には環境も背後霊も異なる別のタイプがある。その種の霊媒にとりてはそうなって行くことが理想であろう。そなたもいずれはそのように取り扱うことになろう。もともとそなたを選んだのはそうした目論見(もくろみ)があってのことである。それ故にこそ、自制心に欠け邪霊の餌食となり易き人間となるのを防がんとして、時間を犠牲にしてきたのである。時間を掛けるだけ掛ければ疑念と困難が薄れ、代わりて信念が確立され、過度の気遣いも必要でなくなり、その後の進歩が加速され、安全性が付加されると考えたのである。焦ったからとてその時期の到来が早まるものではない。たとえ早まるとしても、われらは焦らぬ。が、霊的向上心の必要性だけは、われらの仕事に関わる全ての人間に促してきた。同時に、物理的基盤が確立した以上、こんどは霊的構築の段階に入るべきであることも常に印象づけてきたつもりである。

〔ここで私はかつて述べたことがあることを再度述べた。すなわち、私はあくまでも私の信じる道を歩むつもりであること、世間でスピリチュアリズムの名のもとに行なわれているものの多くが無価値で、時に有害でさえあること、霊媒現象というものはおよそ純粋な福音であるとは思えず、無闇に利用すると危険であるといったことであった。さらに私は、信念が必要であることは論を俟(ま)たないが、私には私なりの十分な信念が出来ていること、これ以上いくら物的証拠を積み重ねても、それによって信念が増すものではないことを付け加えた。〕

そなたの信念が十分に確立されていると思うのは間違いである。信念が真に拡充され純粋さを増した時、今そなたが信念と呼んでいるところの冷ややかにして打算的かつ無気力なる信念とはおよそ質を異にするものとなるであろう。今の程度の信念では本格的な障害に遭遇すれば呆気なく萎(しぼ)むことであろう。まだまだそなたの精神に染み込んでおらぬ。生活の重要素となっておらぬ。ある種の抵抗に遭うことで力を付けることはあろうが、霊界の邪霊集団の強力なる総攻撃に遭えば、ひとたまりもないであろう。真実の信念とは“用心”の域を脱し、打算的分析や論理的推理、あるいは司法的公正を超越せる無条件の“あるもの”によりて鼓舞されたものであらねばならぬ。魂の奥底より燃えさかる炎であり、湧き出ずる生命の源泉であり、抑えようにも抑え難きエネルギーであらねばならぬ。イエスが“山をも動かす(4)”と表現せる信念はこのことだったのである。それは死に際しても拷問に際しても怯(ひる)まぬ勇気を与え、長く厳しき試練を耐え忍ぶ勇気を与え、勝利達成への道程にふりかかる幾多の危険の中を首尾よくゴールへ向けて導いてくれる筈のものである。

この種の信念をそなたは知らぬ。そなたの信念はまだ信念とは言えぬ。ただの論理的合意に過ぎぬ。自然に湧き出ずる生きた信念にはあらずして、常に知的躊躇を伴う検討のあげくに絞り出した知的合意に過ぎぬ。安全無事の人生を送るには間に合うかも知れぬが、山をも動かすには覚束(おぼつか)ぬ。証拠を評価し、蓋然性を検討するには適当かも知れぬが、魂を鼓舞し元気づけるだけの力はない。知的論争における後ろ楯としての効用はあろうが、世間の嘲笑と学者の愚弄の的とされる行為と崇高なる目的の遂行において圧倒的支配力を揮うところの、魂の奥底より絶え間なく湧き出ずる信念ではない。そなたにはその認識が皆無である。が、案ずるには及ばぬ。そのうちそなたも過去を振り返り、よくも今の程度の打算的用心をもって信念であると勿体ぶり、かつまた、その及び腰の信念でもって神の真理の扉の開かれるのを夢想したものであると驚き呆れる時も到来しよう。その時節を待つことである。その時節が到れば、信念に燃え崇高なる目的に鼓舞された生ける身体の代わりに、大理石の彫像を置くこともせぬであろう。そなたにはまだ信念はない。

――あなたは物事を決めつけるところがあります。おっしゃることは正しくても、些(いささ)か希望を挫けさせるものがあります。それにしても“信仰は神からの授かりもの(5)”である以上、私のどこが責められるべきなのか理解に苦しみます。私は“拵えられた”ものです。

違う。今のそなたは内と外より影響を受けつつ自ら造り上げて来たものである。外なる環境と内なる偏向と霊的指導の産物である。そなたには誤解がある。われらが批難したのは、その名に値せぬものを信念であると広言したことに過ぎぬ。案ずるには及ばぬ。そなたはより崇高なる真理への道を歩みつつある。(なるべくならば)現象的なものを控え、内的なるもの、霊的なるものの開発を心がけよ。信念を求めて祈れ。そなたがいみじくも“神からの授かりもの”と呼べるものが魂に注がれ、その力によりてより高き知識へと導かれるよう祈れ。そなたのそのあらぬ気遣いがわれらを妨げる。

(†インペレーター)

〔イースター。一八七五年。午前中かなりの数の霊が集まっているのを感じていた。そのことに言及した後、それまでとは全く異質の影響力のもとに次のようなメッセージが書かれた。但し筆記者はいつもの霊である。〕

すでに述べたように、われわれもよく祭日を祝う。イースターも貴殿たちと同じようにわれわれにとっても祭日である。尤もわれわれは祝う理由が異なり、その意義についての知識も次元が異なる。われわれにとってもイースターは復活を祝う日であるが、肉体の復活ではない。われわれにとっては物質の復活ではなく、物質からの復活であり、霊の復活である。それのみではない。物的信仰と物的環境からの復活であり、用を終えた死せる肉体から霊が昇天するように、地上的・物的なものから魂が解放されることである。

全ての物的存在に霊が内在するように、何事にも霊的な意味があることは貴殿も学んだ。その意味においてキリスト教が祝うこの復活の教理は、われわれにとっても格別の意味をもつ。キリスト教徒は主イエスの死の支配からの脱出を祝う。その際、それを肉体のままの復活であると信ずるのは誤りであるが、霊にとっては死は存在せぬという偉大なる真理を、無知の中にも祝ってはいる。それはわれわれにとっては、人間が真理を部分的にせよ霊的に理解していることを喜ぶ日であり、さらにまた、この日に結実せるイエスの大使命の成就を喜ぶ気持はさらに大である。貴殿たちが信じたがるように、死が征服されるというのではない。生命の永遠性について朧気ながら理解し始めたということである。

〔私はイエス・キリストの身体の体質と、その生涯の霊的意義について尋ねた。〕

人類救済のために偉大なる霊が地上に降誕することはイエス一人に限られたことではない、と言うに留めておこう。そうした救世主によって人類が得る救いは、その時代の必要性に応じたものである。そうした特殊な降誕については、こののち更に述べることになろう。差し当たっては、人間の身体にも民族性によって程度の差があるように、そうした救世主にも平凡な人間とは異なる次元において程度の差があると言うに留めておく。俗性と官能性とを多分に具えた者もいれば、霊性高き洗練された者もいる。中でもイエスは最も洗練された霊性高き身体を具え、しかもそれが僅か三年の活動に備えて三十年もの鍛練と修養を重ねたのであった。〔この時私の脳裏に、三年のために三十年を費すのは不釣合だ――勿体ないという思いが走った。〕

救世主の為せる仕事が地上生活の期間にのみかぎられていると思うのは間違いである。イエスの場合に見られるように、真の影響はその死後の余波にある場合がよくある。イエスの仕事はその三年の間に始まったのであり、そして今なお続いているのである。

イエスの生活の特質は威厳と謙虚の合体であった。威厳さと平凡さとの結合にあった。威厳さが発揮されたのは誕生時と死亡時、その他、ヨルダンにおいて霊がイエスを試し、その使命を神聖なるものと認めた時等(6)、その生涯の節目にいくつか見られる。住民はイエスがその生誕より死に至るまで尋常の人間でないことに気づいていた。その生涯が俗世間の社会生活や家族的関係によって束縛されるべき人物でないことを知っていた。と言っても、イエスを取り巻く生活の和気あいあいたる雰囲気は、イエスにとって心地良きものであった。それを住民は理解していた。聖書はそうしたイエスと住民との関わりについての叙述がきわめて不十分である。イエスの言葉と行為が住民に及ぼした影響に関する言及が余りに少なく、一方、いつの時代にもあるように、新しき真理に楯ついた当時の学者並びに貴族階級の愚かなる誤解についての言及が余りに多すぎる。律法学者、為政者、パリサイ派、並びにサドカイ派の学者は挙(こぞ)ってイエスの敵にまわった。今もしイエスが当時の真の姿のまま教えを説いたならば、現代の知識人、博士、神学者、科学者と呼ばれる階層の者も挙ってイエスを嫌い、あるいは迫害することであろう。

仮に貴殿がわれわれのこうした仕事について語ることになった時、貴殿はまさかそうした階層の人たちから証言を得ようとは思わぬであろう。イエスの言行についての記録がそうした無知なる知識階層による迫害の叙述に偏り、平凡なる住民と共に暮らせる生活の中で見せた道徳的気高さについての叙述が余りに少な過ぎるところに問題がある。編纂者たちはイエスの直接の教えを受けた者との接触がなく、当時の風聞(うわさ)をもとに間接的に資料を得た。それではあたかも何世紀ものちになって歴史を編纂するのにも似ていよう。その点をよく心しておくがよい。

イエスの生涯は世間に知られているかぎりでは三年と数か月であった。それまでの三十年間はそのための準備期間であった。その間イエスはずっとその使命達成に意欲と愛を寄せる天使の一団(7)からの指示を受けていた。イエスは常に霊界と連絡を取っていた。その身体が霊の障害とならなかっただけ、それだけ自然に天使の指導を受け入れることが出来たのである。

地上の救済のために遣わされる霊はそのほとんどが肉体をまとうことによって霊的視覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されるのが常である。が、イエスは例外であった。その肉体の純粋さ故に霊的感覚を鈍らせることがほとんどなく、同等の霊格の天使たちと連絡を取ることが出来た。天使たちの生活に通じ、地上への降誕以前の彼らの中における地位まで記憶していた。天使としての生活の記憶はいささかも鈍らず、一人の時は、ほとんど常時、肉体を離れて天使と交わっていた。長時間に亙る入神も苦にならなかった。そのことは聖書に幾つか例を見ることが出来よう――荒野の誘惑の話、瞑想の習慣の話、山上における祈り、あるいはゲッセマネの園での苦悶。いずれも誤り伝えられてはいるが。

さらにまた、イエスが語ったという天地創造以前の神の栄光の中での生活の回想についても、すでに貴殿もわれわれが授けた知識によって思い当たるものがあろう。そうしたものが数多くあるのである。

イエスにとっては肉体が殆ど束縛とならず――それはまさに仮の上着であり物質界と接触する時にしか必要でなく――その生涯は普通一般の人間とは質こそ同じであったが程度において異なっていた。より清らかにして素朴であり、より崇高にして情愛に満ち、また人々から愛される人間であった。そうした生活は同時代の者には決してその真価を理解されることは有り得なかった。誤解され、曲解され、誹(そし)られ、思い違いをされるのは当然の結果であった。それは大なり小なり一般より抜きん出た者に共通して言えることであるが、イエスにおいてはまた格別であった。

その聖なる生活は人間の無知と悪意とによって、その半ばにして終焉を迎えた。キリスト教徒がイエスは地上人類の犠牲となるために降誕したと述べる時、彼らはその真実の意味を理解していない。確かにイエスは人類の犠牲となるために来た。が、その意味は熱烈なるキリスト教徒の説く意味とは異なる。カルバリの丘(8)でのあの受難のドラマは人間の為せる業であり、神の意図せるものではなかった。使命遂行に着手したばかりの時点においてイエスを葬ることは、神の悠久の目的の中にはなかった。それは人間の為せる行為であり、邪悪にして憎むべき、かつ忌まわしき出来ごとであった。

イエスは、他のすべての改革者が救世主であったのと同じ意味において(程度は他に抜きん出ていたが)人類のために死にに来た。そして至上の目的のために己の肉体を犠牲にしたのである。その意味においては確かにイエスは人類を救い、人類のために死ぬために地上に降りた。しかし、あの愚かしきカルバリの丘での終末のシーンがあらかじめ神によって予定されていたという意味においては、イエスはそのような目的をもって来たのではなかった。これは重大なる意味をもつ問題である。

もしイエスが地上生活を全(まっと)うしておれば人類がいかに大きな恩恵をこうむっていたか、それは計り知れぬものがある。が、時期尚早であった。当時の人間はその施された恵みを僅かに味わっただけで棄て去った。それを受け入れる用意が出来ていなかったのである。同じことが全ての偉大なる指導者について言える。まわりの人間は理解し得るものだけを取って残りを後の世へ遺し、あるいは性急のあまり脇へ押しやって目を呉れようともしない。そして後世の人間がその時期尚早に過ぎた霊を崇め敬慕することになる。これまた由々しき問題である。

受け入れの機が熟さぬうちに真理を押しつけることは、われわれには許されていない。否、それは神ご自身の計画の中にもなかろう。神の統(おしな)べる全宇宙は整然たる進化と組織的発展の中に営まれねばならない。今も同じである。今もし人類にわれわれの授ける真理を受け入れる用意があれば、地上はかつて天使が神の真理の光を届けた時以来の全啓示に浴することが出来ることであろう。が、今はまだその時期ではない。僅か一握りの備えある者のみが、後の世の者が喜んで喉の渇きを潤すであろう真理を受け入れるのみである。その意味においてイエスの地上での生涯は失敗であり、後世への潜在的影響力となることで終わってしまったと言えよう。

のちにキリストの名を標榜する教会が天使の影響のもとにイエスの生涯が象徴する真理をかき集めた。が、悲しい哉、今やその真理も、長き慣習によって慢性化し、真の威力を失うに至った。

貴殿も知る如く、キリスト教界の三大勢力(9)はイエスの生涯の出来ごとの幾つかを祝う点においては一致している。その三大勢力以外に精進日と祭日を祝うことを拒否する派があるが、これは感心しない。彼らは真理の一部を自ら切り取ったも同然である。が、教会は主イエスの記念として、クリスマス、エピファニー、イースター、アセンション、ペンテコスト等を祝う。これらはイエスの生涯の節目であり、各々が霊的意義を秘めた出来ごとなのである。

クリスマス(キリスト降誕祭(10)――これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴する。尊き霊が肉体を仮の宿りとし、人類愛から己を犠牲にする。われわれにとってクリスマスは無私の祭日である。

エピファニー(救世主顕現祭(11)――これはその新しき光の地上への顕現を祝う祭日であり、われわれにとっては霊的啓発の祭日である。すなわち、地上に生まれ来るすべての霊を照らす真実の光明の輝きを意味する。光明を一人一人に持ち運び与えるのではなく、光明に目覚めた者がそれを求めて来るように、高揚するのである。

レント(受難節(12)――これはわれわれにとっては真理と闇との闘いを象徴する。敵対する邪霊集団との格闘である。毎年訪れるこの時節は絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴する。葛藤のための精進潔斎の日であり、悪との闘いのための精進日であり、地上的勢力を克服するための精進日である。

グッドフライデー(聖金曜日(13)――これはわれわれにとっては闘争の終焉、そうした地上的葛藤の末に訪れる目的成就、すなわち“死”を象徴する。但し新たな生へ向けての死である。それは自己否定の勝利の祭日である。キリストの生涯の認識と達成の祝日である。われわれにとっては精進潔斎の日ではなく愛の勝利を祝う日である。

イースター(復活祭(14)――これは復活を祝う日であるが、われわれにとっては完成された生命、蘇れる生命、神の栄光を授けられた生命を象徴する。己に打ち克てる霊、そしてまた打ち克つベき霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた蘇れる生命の祭りである。

ペンテコステ(聖霊降臨祭(15)――キリスト教ではこれも霊の洗礼と結びつけているが、われわれにとっては実に重大な意義をもつ日である。それはキリストの生涯の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日である。人間がその愚かさから、自分に受け入れられぬ真理を抹殺し、一方その踏みにじられた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を授かる。霊の奔流を祝う日であり、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理の一層の豊かさを祝う日である。

アセンション(昇天祭(16)――これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的訣別を祝う日である。クリスマスをもって始まる人生がこれをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉である。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化されたささやかな生涯の終焉である。使命の完遂の祭りである。

以上がキリスト教徒の祝日に秘められた霊的な意味である。われわれ及びわれわれの仕事の最高指揮者であられる霊(インぺレーター)がキリスト教的独善主義の壁を打ち崩し、迷信に新たな光を当てて下さったおかげで、われわれが今こうして全ての行事に秘められた真理の芽を披露することを許されたのである。人間的誤謬が取り除かれれば、それだけ多くの神の真理が明らかにされるのである。

われわれは貴殿がこれまでに授かった教訓を補足し、完成せしめたいと望んできた。これまでは破壊することが必要であったが、今や構築を必要とする段階となった。神の子羊、人類の救い主イエス・キリストがユダヤの無知と迷信の中から神の真理を救い出したように、今度はわれわれが同じ真理を人間的神学の破壊的重圧から救い出さねばならない。イエスは真理を求めて喘ぐ魂を地上的煩悩より救い出し、邪霊の支配から解き放った。われわれは魂を人間的ドグマの束縛より解放し、自由の真理を高揚して人間に知らしめ、それが神からの啓示であることを悟らしめんと思うのである。

イースターメッセージ。一八七六年。

『磔刑(たくけい)と復活――自己犠牲と新生』

〔私は“死”と“生命”の問題、とりわけ霊性に係わる象徴的側面について一層踏み込んだ教えを請うた。質問の中で私は“死”と“復活”との霊的関係に言及し、肉体の死は新たな生への入口を象徴し、霊的な死は霊的新生ヘの道であると考えて良いかと尋ねた。(17)

その件に関しては昨年のイースターに述べたことを参照するがよい。そなたの言う象徴性が説明されている。すなわち、物質からの復活であり、物質の復活ではないということである。キリスト教会が祝い続けて来たさまざまな祭日のもつ霊的意義についても説明してある。参照するがよい。

〔言われるまま私は一八七五年のイースターメッセージを読んだ。教会の祭日が象徴的に解説してある。クリスマスは自己否定、顕現祭は霊的啓発、受難節は霊的葛藤、聖金曜日は愛の勝利、復活祭は蘇れる生命、聖霊降誕祭は豊かな霊的真理、昇天祭は使命の成就を意味するとある。〕

その通りである。理想的人間像の手本であったイエスの生涯は、地上に始まれる生命の進歩的発展が(そなたらの用語で言えば)天国にて完成される――自己否定の中に誕生し昇天の中に終焉を迎えることを象徴している。人間はイエスの生涯の中に霊の肉体との結合と解放の過程を一つの物語を読む如くに読み取ることが出来よう。天使の加護のもとでの三十年余の準備期間はイエスの使命にとりて相応しきものであり、三年の短かき期間も、人間の受け入れ能力に相応しきものを行使する上では十分であった。人間の霊もその発達過程においては、教会が祝う祭りに象徴される過程を辿る。すなわち自己否定の誕生に始まり、完成された生命の祝福に終わる。自己否定の中に誕生せる生命が犠牲的生活の中にて進化を遂げつつ、敵対するもの(日常生活、自己、及び敵の中に見出される反作用の原理)との不断の葛藤の中に成長し、ついに物的なるものより超脱し、イースターの朝、物質の墓より昇天し、それを機に豊かなる聖霊の洗礼を受けて新しき生命として生まれ変わり、ついに地上生活の徳性によりて用意された境涯(18)へと進む。

これぞ霊の進化であり、磔刑(はりつけ)と復活によりて端的に象徴された霊的新生の過程と言えよう。古き自我が死に、その墓場より新たな自我が誕生する。肉体的欲求に縛られて来た自我が十字架にかけられ、新たなる自我が神聖なる霊的生活を送るべく昇天する。肉体的生活の終焉は霊の新生である。そしてその過程が自我の磔刑――パウロの言う“日毎(ひごと)の死(19)”である。霊的進化の生活に停滞があってはならぬ。麻痺があってはならぬ。不断の成長であリ、日々の生活における真理の体得であらねばならぬ。地上的なもの、物質的なものの抑制と、それに呼応せる霊的なるもの、天上的なるものの啓発であらねばならぬ。言い換えるならば、美徳を積むこと、そして人間生活の模範として示されたイエスの生涯につきての理解を深めることである。物質的なるものからの超脱と霊的なるものへの発展――あたかも火によりて、全てを焼き尽くすほどの熱誠によりて焼き払う如く、物的汚れを清めて行くことである。それは自我と自我にまつわる全てのものとの闘いであり、神の真理の終わりなき悟りのための行(ぎょう)である。

これを除いて他に霊の浄化の方法はない。鍛練の炉は自己犠牲である。これに例外はない。ただ、霊的“炎”が一段と大きく燃えさかる偉大なる霊においては、その過程が急速であり、かつ一時期に凝縮されることがある。一方鈍重なる霊においては、その炎がくすぶり、浄化の過程も延々と幾度も繰り返されることになる。いち早く地上的なるものより脱し、浄化の炎を有難く受け入れる者は幸いである。そうした者は進化も急速であり浄化も確実である。

――その通りだと思います。が、その闘争は厳しくて何から克服して行くべきか迷います。

先ず自己より始めよ。古(いにしえ)の賢人は魂の敵の表現において見事であった。魂には三つの敵がある――自分自身とそれを取り囲む物的環境、そして向上を阻止せんとする邪霊集団である。これを古人は“俗世”と“肉体”と“悪魔”と表現している。

まず自己すなわち“肉”の克服より始めよ。肉体的欲求と感情と野心の奴隷とならぬよう、そして自我を殺し、隠者的独房より出でて宇宙的同胞主義の自由なる視野の中に生き、呼吸し、そして行動すべく、まず己自身を克服せよ。これが第一歩である。まず己を十字架にかけよ。そうすれば、己を埋葬せる墓地より、束縛なき魂が自由に羽ばたくことであろう。

これさえ成就すれば、その魂にとりて目に映じる物を忌み永遠なる価値に憧れるに至るのはさして困難ではない。真理は永遠なるものの中にのみ発見されるものであることを悟り、そう悟ったかが最後、それ以後は外界の物的形体を真理の影――人を迷わせ真の満足を与えぬ外敵として、ひたすらそれとの闘争を続けることになろう。物質は殻であり、それを剥ぎ取って始めて真理の核が得られることを知るであろう。また物質は往々にして人を誤らせる儚(はかな)き幻影であり、その奥に悟れる者のみが見出せる霊的真理が隠されている。そう悟れる魂にとりては最早や、物的なるものを避けその殻を通して内部の真理を求めよと、改めて説く必要はない。その魂にとりては、表面上(うわべ)の意味がいわば霊的理解力において幼児の段階にある者のためのものであること、その奥に象徴的なる霊的真理が潜んでいることを悟っている。物質と霊との相関関係を理解し、その表面的事象が幼児のささやかなる理解力に適う真理を伝えるための粗末な証でしかないことも理解している。その魂にとりては真実の意味において“身を棄ててこそ浮かぶ瀬(20)”もあるのである。その生活は魂のための生活である。何となれば、すでに“肉”を征服し、“世間”も最早や魅力はないからである。

が、霊的知覚が鋭敏さを増すにつれて邪霊の敵対行為も目立ってくる。不倶戴天の敵とも言うべき邪霊集団が行く手を阻み、この試練の境涯を通じて絶え間なく煩悶の種子を蒔き散らす。信仰厚き魂はその一つ一つを首尾よく克服して行くことであろう。が、地上生活においてそれが完全に絶える時はついぞ訪れぬであろう。何となればそれはより高級なる霊的才能を発達させるための手段なのであり、より幸せな境涯へ向上する資格を得るための踏台だからである。

以上が、簡単ではあるが、進歩的人間の辿る生活である。すなわち、己を十字架にかける自己犠牲と、世間の誘惑に打ち克つための自制と、邪霊との対抗に耐えるための霊的葛藤の生活である。そこに停滞は許されぬ。休息もない。そして終息もない。一日一日が死であり、そこより新たなる生活が始まる。不断の闘争であり、そこより止まることなき進歩が得られる。魂に内在せる霊的ともしびが徐々にその光度を増し、ついに完全なる光輝となるための絶え間なき闘争である。そなたらの言う天国はこうした厳しき闘争の末においてのみ得られるものである。

――Sic itur ad astra.(21)これこそがキリスト教において、仏教において、それから神秘学においても中心的思想となっています。キリストの言葉の中にも生涯キリスト自身を鼓舞し続けたその思想が随所に見られます。問題はいかにしてその理想をこの俗世で生かすかということです。

そこに、キリストの言える如く、地上の住民とならず地上を旅する者であらんとするための闘争があるわけである。この高度な理想は日常の雑務に心を奪われている者にはまずもって実現不可能である。だからこそわれらはそなたの関心を出来るかぎり物理的交霊実験より逸(そ)らさんとしてきたのである。危険と見たのである。物理的現象より超脱するよう努力せねばならぬ。構わず放っておくがよい。その種の交霊は隠遁生活でも送れる者にのみ相応しかろう。

――ずっと以前に私は、霊媒に徹しようとすれば世俗的生活と相容れなくなると思うと述べたことがあります。つまり霊的過敏性が急速に発達していくために世間との接触に適応できなくなる。あるいは、とにかくその霊媒の性格が普通の生活をし難くさせるものとなり、そういう種類の影響力ばかりを惹き寄せるようになる、と。

そうした傾向は多分にある。だからこそわれらは余りに物質的すぎる現象を控え、危険性の少なき精神現象を発達させてきたのである。とにかく、われらが全てを良きに計らっていると信ずるがよい。危険なのは背後霊が背後霊としての仕事がやり難くなった時である。そうなりたる時の危険性は深刻である。が、案ずるには及ばぬ。そなたの歩むべき道は見通しがついている。ただ、今は闇の力がはびこる暗黒の時期に差しかかっている。辛抱づよく待つことである。

(†インペレーター)

〔イースター。一八七七年〕

神の祝福のあらんことを! この時節の恒例として、生命の復活と再生について述べたく思う。

このキリスト教の祭日のもつ素朴なる象徴的意義については述べぬ。すでに述べてあるからである。すなわち葛藤の後に得られる勝利について説いてある。そなたも人間イエス・キリストの生涯の中にいかに霊の向上進歩が象徴的に表現されているかを学んだことであろう。その認識を改めて促しておきたい。

さて救世主イエスは神の使命を帯びて、至福の天界における霊的生活より地上へと降りられた。至純なる霊が一個の人体に宿り、ベツレヘムの飼い葉おけの中にて誕生した。ありとあらゆる不完全さと煩悩を具え、進歩のための唯一の手段である悲しみと誘惑と試練から遁れることの出来ぬ一個の人間となられたのである。

そこに進歩の唯一の手段としての霊から物質への降誕の一つの典型を読み取って貰いたい。遠き過去より存在し続け、必要かつ十分なる発達を遂げたる霊が、他の手段にては絶対に得られぬ進化に不可欠の葛藤と試練を求めて、いよいよ物質的身体による生活の場に降りたということである。

かくして人類の境涯へと誕生せるイエスは、たちまちにして“この世の君(22)”悪魔(サタン)による迫害に身を曝された。時の権力者たちは一斉にイエスに敵対し、神の子であることの証を要求した。そして遂に磔刑に処する命令を下した。イエスの説くところが彼らの主張するところと相容れなかったからである。

すでに述べた如く、向上進歩の道程において新たな段階に差しかかる毎に天使の一団が見守っているのであるが、その恩恵は格闘と煩悶〔のちに葛藤の意味であるとの説明があった〕の末でなくしては得られぬ。危険を冒すこともなく、必死の努力もせずに、ただのんびりと夢見る如き生活の中からは得られぬ。もし得られるとすれば、それはもはや恩恵とは言えぬ。葛藤の中にこそ恵みがあるのであり、敵対するものを克服し、闘い抜いた末の勝利の中にこそ存在するのである。このことをよく心するがよい。肉体を持ちて生を享けた霊には常にこれを滅ぼさんとする霊が付きまとうことを知るがよい。

幼な子イエスもそうした外敵の危険を察知する両親によりて安全の地を求めてエジプトへと連れて行かれた。そしてイエスはその地にて豊かなる霊的知識を身につけることになる。エジプトは太古より神秘的知識の宝庫であり、のちにイエスが披露せる知識の多くはそのエジプトにて摂取したものであった。

そなたにとりてはもはやそうした闘争の意味について改めて深く探る必要もあるまい。敵に取り囲まれ、怯えるその霊は、エジプトを措いて他のいずこに避難と武装の場所を求めるべきか。先人が苦闘の中に蓄積せる神秘的知識と体験の記録の中に求めたのは蓋(けだ)し賢明であった。神秘的知識の豊富なるエジプトこそ、闘う霊が悪との闘争に備えて知識を身につけ徳性を涵養して霊的武力を具える兵器庫であった。と言うのも、実を言えばエジプトへの脱出には二つの意味があったのである。一つには安全の地への逃避であったが、今一つは教育のための一時的逗留の意味もあった。すなわち徳性を涵養し、その中より霊的闘争の武器を身につけんがために、エジプトという深遠なる神秘的哲学の地へ隠棲したのであり、一方、他の地に比して平穏無事の雰囲気の中にて安らぎと憩いを求めたのである。瞑想、徳育、そして霊的闘士としての成長――イエスもそのか弱き幼少時代より青年期に至る時代をこうして過ごし、体力の増強と並行して獲得せる知識の中に徳性を涵養して行ったのである。まさに叡智と身体の双方の増強の時代であった。

救世主イエスの象徴的生涯の一つの典型とも言うべき時代がこれにて終わる。準備期が終わり公的生活が始まる。大衆の求むるものを遙かに超えた進歩と発達を限られた地上時代に成就すべく自らを鼓舞し続ける霊に、いよいよ第二の時期――われらのいう伝道期間に入るに先立ち、その準備を整える時期を与えられ、摂取し得るかぎりの真理を摂取するということである。そなたには改めて説くまでもなかろうが、霊的進歩にとりては、ありとあらゆる形式の利己主義を粉砕し、才能を己の利益のために使用せず、生活の全てにおいて“惜しみなく授かれる者は惜しみなく与えよ(23)”の戒律を厳守することが必須の条件なのである。

故に己に与えられたものは、それを求むる者と分かち合わねばならぬ。真理は、少なくとも通俗的なものは、世の人々に等しく分け与えられねばならぬ。が、より深く、より天上的なる真理は、イエスが一人山頂にこもりて孤独なる瞑想の中に己自身と対峙し、背後霊団(24)との交わりの中に霊的生気を取り戻さんとした如く、その葛藤の合間の魂の憩いとすべく、大切に、純粋のまま取っておかねばならぬ。その時のイエスには仲間はいなかった。ただ一人霊体に宿りて地上を遠く高く離れた(25)。その時の真相は、一人を除いて、弟子たちにも見ることを得なかった。その一人だけは幾度か神の使徒イエスを包むその最高の霊的現象を見る栄誉に浴したのだった。

〔のちに、その一人とは聖ヨハネ(26)であるとの説明があった。いつ、どこで、という指摘はなかったが、ヨハネはたびたびイエスの光輪現象(27)を目撃している。〕

この意味において、背後霊との交わりと同時に地上の同志との交わりの中に霊的真理の救いと喜びを分かち合うことを得る者は幸いである。霊的真理は分かち合うことによりて些かもその恩恵が減少するものではない。一途なる目的と、真摯にして完全なる共感の絆さえあれば、見る者が増えたからとて真理の光が減少するものではない。しかし、求道の世界には、たとえ同じ道を歩もうとも、二人三脚はそう滅多に望めるものではない。たとえ目指すものは同じでも、それぞれに辿る道があることを知り、それぞれに瞑想と祈りのための山頂をもち、一人そこに引きこもる時を持たねばならぬ。

その宗教的向上心の生活と相まてる陶冶(とうや)の生活は来るべき奉仕的社会生活への準備なのである。

救世主イエスは、エジプトにて霊的知識を身につけ、瞑想の生活によりて霊性を涵養し、純粋性をまとい、慈悲心に駆り立てられ、熱意に燃えて隠遁の生活よりようやく福音を授けるべく大衆の中へと入って行った。彼は真理に対する不敵なる信念に燃えていた。が、決して破壊主義者ではなかった。破壊することではなく真理を成就することこそ彼の眼目であった。荒れ果てた荒野とすることではなく、実りをもたらし花を咲かせんが為に土地を掘り起こし、耕作し、種子を蒔くことであった。材料は手もとにあるものを使用し、その垢を取り除き、生命を失える儀式も彼のまことの言葉の魔法にふれて生きた真理の象徴と化した。骨と皮ばかりの痩せこけた人間が生気を取り戻し、死体に霊が戻り、死者が蘇り、そして立ち上がったのである。

誠実なる目をもってすれば、こうした流れの中に突然の断絶も、一時期の粗暴なる終焉も、現在と過去との懸隔もなかったことが判るであろう。すべては推移であり、緩やかなる目覚めであり、それは今もなお自然界に見る通りである。一年の終わりと始まりとに急激なる断絶はない。人間の目には前年に埋められし墓の石蓋が如何なる力によりて取り除かれて来たかが判らぬ。ある時は全てが冷ややかにして生気なく、陰うつであり、もはや過去のものとなるかに思える栄光を悲しむ。が、やがて変化が生じる。人間的武力や権力によるのではなく、目に見えぬ霊力によりて起こされるのである。太陽が再び光を放つ。その光は死せる年が閉じ込められた牢獄のカギを開け、花が芽を出し、恥ずかしげに、そして半ば恐怖を抱きつつ頭をもたげる。やがて足もとはエメラルドの絨毯(じゅうたん)と化し、緑の平野が広がり、見よ! 痩せ細れる者が生気を取り戻す復活の季節(とき)が勢いよく訪れる。と言うよりは、死せる過去が静かに地上に戻る。これが大自然に年毎に黙示される霊的再生の寓話なのである。

同じ教訓を救世主イエスの生涯の中にも読み取らねばならぬ。伝道のために祖国に戻りし時、ユダヤの民の生活はあたかも冬の木々の如く霊性の全てを失い、寒々としていた。樹液がその流れを止めたかに見えた。枝に一葉も見られず、無気味ささえ漂っていた。疲れし旅人の喉を潤す果実一つなく、目を楽しませる一輪の花すら見当たらなかった。まさしく死の疫病が全てに蔓延していた。そうした中に“神の使者”、“選ばれし救世主”イエス、“正義と真理の太陽(サン)”――これは“息子(サン)”でもあった(28)、両者に差異はない――が、死せるが如き裸の枝に啓蒙の光と暖かさを注いだ。そして、見よ、その変化を! 空虚なる形式主義が霊的真理に輝き、冷ややかなる説教が健全なる生命によりて生気を取り戻す。古き時代につきての説話に新たなる奥深き意義がもたらされる。社会生活は向上し、改められ、尊さを増していく。宗教はかつてなく高度にその霊性を増す。イエスは形式に代わりて霊的意義を、けばけばしき儀式に代わりて静かなる人知れぬ祈りを、見せびらかし的宗教――人に見せんがための行事――に代わりて、人目につかぬ隔離された部屋での、己と神との二人きりの交わりを説いた。これを要するに、野蛮にして空虚、高慢にして偽りだらけの形式主義を排し、代わりて温順にして霊性に富める求道の生活を説いたのである。その真実の例証は騒々しき市場にはなく、静かなる個室にあり、パリサイ派にあらずして収税吏にあり(29)、大衆の目にあらずして神の監視の中にあった。

大自然とイエスの生涯に寓された教訓は魂の旅路にも見られる。学び得たかぎりの知識を携え、徳性を培える魂は、試練の生活ののちに新たなる生命の旅へと旅立つ。形式と儀式にこだわれる過去が霊性を賦与されて新たなる道が開ける。信仰に目覚めし魂の目には、それまで単なる現象であったものの裏に秘められた霊的意味が見える。むき出しの枝が緑の衣をまとう。死せる如く放置された儀式の形骸が霊性を賦与されて新たな生命の息吹きを取り戻す。古きものが廃棄されるのではない。質が変えられるのである。為すべき義務が免除されるのではない。逆に、より鋭き熱意と配慮をもって果たすことになるのである。憂き世の苦労の繰り返しが短縮されるのではない。その長き過程がささやかな善行の霊的意義によりて楽しく、かつ誇り高きものと感じられるようになるということである。

あまりの冷たさ、あまりの生気のなさに絶望し、“ああ、主よ、この形骸に果たして生命はありや”と幾度も叫ばしめた無味乾燥の儀式が復活霊の息吹きによりて生命と温(ぬく)もりと現実味を帯びる。それなりの効用を果たせる古き儀式が新たなる環境に適応せる生活へと再生される。古き生命力より一層強き生命力をもち、過去の美わしさより一段と霊性を増せる美わしさをもって新生される。若さを取り戻したのである。霊的に啓発された目をもって見れば、真理はひとかけらたりとも滅びることはなく、必要に応じて神の研究室にて再化合され再生されて行くものであることを知るのである。

要するに魂はそれを取り巻く自然界全体の復活に参加するのである。生命を新たにし、高き知識を獲得し、奥深き真理を悟り、そうして貯えた力を携えて、啓発と発展と成長のための手段を授けに同胞のもとに赴くのである。その時は最早や平凡なる人間とは物の観方が異なる。行為も異なる。何の変哲もなき外観の内側に神的可能性を見る。如何ともし難き厄介物といえども、剪定によりて発育を促し、枯れ枝の刈り込みによりて若き枝が成長すると観れば、これを見捨てることはせぬ。かくして同胞のための公共的奉仕の生活に勤みつつ、一方においては絶え間なく霊的向上のための生活――真理への憧れと発展、霊との交わり、物質的・地上的なものからの超脱によりて一歩でも主イエスの完全なる模範に近づかんとする修養を怠らぬ。

この隠れた霊的向上の生活こそ、同胞への伝道の生活の源泉なのである。

主イエスの地上生活の終末のシーンもまた象徴的意義を秘めている。それは敵意と侮蔑と迫害を煽(あお)るところの時代的偏見と闘う伝道者の宿命であり、気に入らぬ真理に対する地上的報復なのである。イエスの生涯の記録を歴史的事実として理解できるそなたには、その悲劇的最期に至る一連の迫害の生涯が当然予想されるものであり、それ以外の生涯は到底有り得べくもなかったことに理解がいくことであろう。恐れることを知らぬ革命家イエスの出現に危惧を覚えた卑劣なる学者たちは、民衆をけしかけて一勢にイエスを攻撃させた。そうしなければ自分たちがその虚飾の姿を赤裸々に曝されることになっていたかも知れぬ。尊大にして虚飾に満ちたパリサイ主義は、若しもパリサイ人をしてイエスに対する怨恨を抱かしめなかったならば、イエスがマグダラのマリヤ(30)と収税吏を戒めた以上の厳しき言葉で糾弾されていたかも知れぬ。見せかけのみの儀式主義に堕落し、金の力にて容易に地位と権力を獲得できた当時のユダヤ教は、もしもそうした地位と権力を有する者が、聖櫃(31)にさえ不敬をはたらく忌まわしきナザレ人を憎むべき人物に仕立てなかったならば早晩大革命が生じ、律法学者やパリサイ派教徒よりも収税吏や売春婦のほうが高き地位と権力とを手中にすることになっていたかも知れぬ――が、こうしたことは到底有り得なかったであろうことは、そなたにも理解がいくであろう。

イエスの至純さと至善は怨恨を呼ばずにはおかなかった。妥協を排する真摯なる態度は嫉妬心を惹起せずにはおかなかった。その説くところの教義は余りに厳しく、一般民衆には付いて行けなかった。その生活上の戒律は余りに霊的に過ぎ、放縦と安逸の時代にはそぐわなかった。詰まるところ、そうした高度の訓えを受け入れる用意のない時代がイエスを十字架にかけたのであった。空虚と不純の時代が、罪悪の首謀者たちの立てた恥辱の木にイエスを磔(はりつけ)にすることにより、至純至聖なる“真理の子”に報復したのであった。

そういう次第であった。今なお、形而下的にはともかく、形而上的には多くの例証を見ることが出来る。中には神の使者の活動の波がちょうど通過せし時代にその波に乗って時代相応の真理を説き、それが首尾よく世に入れられ、その功ゆえに名誉と賞讃を得た改革者がいた。また中には、さらに多くの世俗的叡智と分別に長(た)け、より多く世の為に尽くした人物もいた。が、そうした指導者は稀である。大抵の指導者はイエスの如く真理の代償として屈辱と恥辱の中に死を迎える。真理を説ける指導者には死が与えられる。が、その訓えには復活と新たな生命が与えられる。そしてその指導者の姿がこの世より消えて始めて、その訓えの真価が理解される。その例は改めて長々と説くまでもなかろう。

キリストが十字架にかけられた時、そこには実に少数の同志しか居合わせなかった。悲劇の底にありてもなお鋭き直感と情愛が変わることのなかった二、三の女性と、公然と信仰の告白をせず最も臆病でさえありながら、実は最も忠実なる側近であった隠れた弟子のヨセフ(32)とニコデモ(33)の二人のみであり、他はすべて逃走したのだった。そして新しき真理の伝道者、新たなる福音の宣教師――彼は今いずこに在りや。身罷(みまか)ったのである。そして彼の説ける福音はいずこに在りや。これ又どうみても葬られたとしか思えなかった。それ故、誰一人として福音のこともイエスのことも思い出さず注意すら払わなかった。しかしそれは、人間の性急なる判断であった。かの埋葬場所の入口の蓋を取り除いたのは誰なのかは知るよしもなかった。ただ時おり地上に新生をもたらす“霊”の力が石を取り払い、死せる肉体に生命を吹き込んだとのみ信じた。それは実は天使の仕業であった。それと同じ力――完全に死せるものと思い埋葬せる肉体に新たな生命を吹き込める同じ力が、イエスの福音に生気を吹き込み、善悪さまざまな風説の中で育て上げ、ついに諸国にまで波及させ、当時の霊的真理の強大なる動力とならしめたのであった。

これを個々の革命家に当てはめてみよ。辿るベき宿命は同じである。神の真理として説くところがその時代の心に訴えようが訴えまいが、あるいは仮に訴えたとして、それが時宜を得たものとして喜んで受け入れられようが、それとも余計なことをする革新者のおせっかいと受け取られようが、真理は真理として受け入れられるべく闘いの道を歩まねばならぬ。それが神の選別の手段なのである。そして抵抗が大なれば大なるほど、それだけ真理普及に対する意気込みも大となる。踏みつけられれば踏みつけられるほど、信念は深く固く根を下ろす。その闘いの生涯がイエスの如き終焉を迎えるか、あるいは信念の弱さ、または慎重なる配慮によりてその悲劇的運命が避けられるか、それは大した問題ではない。真理の言葉そのものが最後の勝利へ向けて首尾よく闘争をくぐり抜けることが肝要なのである。それはちょうど修行時代において孤独と瞑想の生活の中に誘惑者と敵対者と闘い、苦悩の中に身を修め、受難の末に勝利を手にしたのと同じである。

修行時代を終え、新たなる生命を携えて公的生活に入ったのちのイエスの生涯は、覚醒せる魂に訪れる変化の象徴であった。この世に在りつつこの世の住民とならぬ生活――地上への“訪問者”としてこの世の慣習に順応しつつ、しかもそれに隷属せぬ生き方をイエスは示した。常に、全ての霊的影響力に見られる、かの最も強力なる原理すなわち“愛の摂理”によりて鼓舞され続けた。イエスがその姿を現わす時、あるいは何か事を為す時、それは常に愛に発していた。そなたらの手に残された記録は乏しく、かつ誤謬に満ちているとは言え、その原理を示す事象は十分に盛り込まれている。イエスは愛の摂理を成就し、そして相応しき境涯へと昇天して行った。二度と御姿を拝することも、じかに接することも出来ぬ。もはや形体を具えた存在ではない。今や霊的恩寵の源泉であり、“影響力”としての存在となっている。

自らの発意によりて地上界を訪れる霊はことごとくその愛に鼓舞されているのである。言い換えれば彼らの使命はイエスと同じ愛の原理に発しているのである。人間的情愛にせよ、宇宙的博愛にせよ、その愛は高級霊界の存在を惹き寄せる。そして果たすべき使命を終えれば、彼らもまた父なる神、普遍的宇宙神のもとへ帰って行く。

希望に燃えよ! そなたはとかく真理の枯渇を嘆き過ぎる。暗く寒き冬にありてはその寒さに震え、冬の後には必ず春が訪れている事実を忘れる。つまり“死”ありてこそ“再生”があり、新たなる生活、より広き視野と有用性と崇高なる目標と真実の意図を具えた生活へと導かれるものであることを忘れている。そうした生活には必ず死が先立つものであること――人間が死と呼ぶところのものは、神的真理に関するかぎり、豊かなる実りをもたらす必須条件としての“種子の死”に過ぎぬことをそなたは知らぬ。生へ向けての死――これこそが魂のモットーなのである。より高き生へと昇華され行く死である。墓場における勝利であり、死を通じての勝利である。霊的真理を扱うに当たりては、このことを忘れてはならぬ。

輝きと静けさの中にある時に恐れを抱くのは構わぬ。空気は淀み、焼けつく炎熱の時、潤いが渇き切り、太陽が容赦なく照りつける時、か弱き植物はしぼみ萎(しな)びていく。故に安逸と安楽の時、事が順調に運ぶ時、そして世を挙げて“真理の言葉”を賞讃する時、その時こそ、やがてそれが萎び、輪郭が翳(かげ)り、伝来の世俗的信仰の中に埋没して行くことを恐れる必要があるのである。全ての者が無条件に真理を受け入れる時こそ、その真理もやがて改められる必要が生じ、より深き真理が要求される時が到来しつつあるものと思うがよい。それとは逆に、強烈なる抵抗の中にある時こそ大いに意を強くするがよい。何となれば、その産みの痛みによりてこそ頼もしき後継者が誕生し、その気力と精力とによりて抵抗を跳ね除け、神の規範を一層有利なる戦いの場へと導いてくれるであろうからである。

救世主イエスの誕生から復活への生涯の過程にはそうした趣旨が込められている。これは永遠に変わることなき比喩である。

(†インペレーター)

〔注〕

(1)

使徒行伝2・・43。

(2)

Be in the world,but not of the world. 身はこの世にあっても“この世的”人間になるな、ということ。この通りの言葉は聖書に見当たらないが、多分ヨハネ17の場面で実際に述べたのであろう。

(3)

エペソ5・・14。

(4)

マタイ17・・20。

(5)

聖書全体に流れる基本的教説。

(6)

マタイ3〜4その他。

(7)

医師のスピーア博士宅で行なわれた霊言現象の中でインペレーターが「主イエスはかつて一度も物質界に生を受けたことのない霊団によりて支配され元気づけられていた」と述べている。日本で言う自然霊である。

(8)

Calvary ゴルゴタGolgothaのラテン名。キリストが十字架にかけられた土地の名。

(9)

カトリック、プロテスタント、東方教会。

(10)

Christmas.

(11)

Epiphany.

(12)

Lent.

(13)

Good Friday.

(14)

Easter.

(15)

PentecostまたはWhitsuntide.

(16)

Ascension.

(17)

インペレーターが回答。

(18)

人間は日常生活において、死後に落着く環境を築きつつあるというのが高級霊界通信に共通した説である。

(19)

コリント前15−31。

(20)

“to die has been gain”.

(21)

ローマの詩人バージルの叙事詩「アエネイス」の中の名句で、星への道すなわち不滅への道はかくの如し、という意味。(ラテン語)

(22)

the Prince of the World(ヨハネ12−31その他)。

(23)

マタイ10−8。

(24)

西洋でいう天使、日本でいう自然霊によって構成されていたという。注(7)参照

(25)

幽体離脱現象。

(26)

イエスの弟子のヨハネ。前出のバプテスマのヨハネとは別。

(27)

俗に後光がさす、と言っているもので、一種の変容、または変貌現象。

(28)

Sun(太陽)とSon(息子)は語源も発音も同じ。

(29)

当時の民衆の尊敬を得ながら、現実は空理空論を弄んでいるに過ぎないパリサイ派の宗教学者よりも、人に嫌われ軽蔑される職業でありながら、社会にとってなくてはならぬ存在である収税吏のほうが上であるということ。

(30)

伝説的にはかつて売春婦でイエスの教えで信仰に目覚めた女性とされる。(ルカ7−37〜50)

(31)

モーセの律法の巻物が納めてあるもので、イエスは平気で手を触れたりした。

(32)

Joseph of Arimathea(マタイ27−57〜60)イエスの死体を手厚く葬ったという。

(33)

(前出)ヨセフと共にイエスの死体を葬ったという。