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24節

〔旧約聖書の時代と新約聖書の時代との間に記録のない時代があることについて尋ねてみた。〕

その時期の記録は何も残っておらぬ。その時代は霊界からの働きかけが特殊な場合を除いて控えられたからである。そのことについては詳説はせぬ。われらが今目的としているのは、メルキゼデクに始まりイエスに至る大いなる霊力の流れを指摘することにあるからである。取り敢えずその時期は暗黒と荒廃と霊的飢饉の時代であったこと、そしてその時代が終ってのちに、ようやくわれらが再び人間の心に黎明への希望を目覚めさせることを得たところであると理解すればよい。今その最初の光が射し込んだ――その光の中のささやかな一筋をわれらが受け持っているのである。人間がようやくあたりの暗黒に気づき、その帳(とばり)が取り除かれ光が射し込むことを待ち望んだからである。

同じことが全ての民族についても言える。時として地上的・物質的要素が余りに強く蔓延し、霊的なるものが完全に地上より姿を消したかに思える時期があるが、実際はそうではない。暗黒の時期が去り黎明の時が到れば、潜んでいた霊的胚芽がその芽を出し始める。再び霊力の流れが起こり、人間はかつての真理より一段と高き霊的真理に目覚める。その過程はあたかも、その日の仕事に疲れた人間が休息を求めて横になるのにも似ていよう。あたりのことが皆目判らぬ。精神は心労で擦り減り、身体も疲労困憊(こんぱい)である。内外ともに陰鬱なる空気が漂う。やがて寝入る。そして睡眠によりて身体は元気を回復し、精神は立ち直り、太陽が再びその温かき光を注いでくれていることを知る。身も心も本来の快活さを取り戻し、魂はあたりの生命と美に喜びを見出す。夜明けに味わう、あの躍動する喜びが蘇る。

人類もその長き歴史において同様の体験を繰り返してきた。それまで満足していた古き霊的教訓に知性がうんざりし始める。と同時に、物的要素が勢力を揮いはじめ、疑念と仲違いが生じ、根を張り、その影響が出はじめる。それまでの真理が一つまた一つと疑いの目で見られるようになり、一つまた一つと否定されていく。そして遂に神の真理の光が人間の目から被い隠されたことを識(し)る。太陽は霊的地平線の彼方へと沈み、不活発と陰鬱と暗黒の夜が始まる。神の使者も活動を手控える。地上を無知と絶望の夜が支配するにまかせ、眠れる魂が目を覚まし光を求める時の到来を待ちつつ、ひたすらに耐え忍ぶ。魂は死せるにあらず、ただ眠っているに過ぎぬ。いつかは必ず覚醒の時期が訪れる。そして、その夜明けの黎明の中において神の使者は、暗黒と絶望の中に光と喜びをもたらせてくれた神への讃歌を高らかに謳(うた)うのである。

旧約聖書の最後の記録と共に終息せる霊的期間と、新たに黎明期を迎えた霊的期間との間には、かくの如き暗黒の時代があったのである。そなたたちの時代のすぐ前に、その黎明期があったのである。われらは今こそそなたを霊的黎明に向けて導かんとしているのである。疑ってはならぬ。今こそそなたにとりてその黎明期となるべき時期であり、その夜明けは新たなる知識の夜明けであり、より広き知識の夜明けであり、より確信に満ちた信仰の夜明けとなるであろうことを疑ってはならぬ。その夜明けの光は前期の黄昏(たそがれ)時の薄明りより遙かに強く、且つ鮮明であることであろう。間断なく、ひたすらに待ち望むことである。その夜明けの光を見落とし、再び寝入り、折角の好機を見失うことのなきよう、啓示への備えを怠ってはならぬ。

〔そうした暗黒の時期は必ず啓示の時代の前後に訪れるものであるかを質すと――

用語が少しばかり適切さを欠いている。その時期は必ずしも暗黒の時期とは限らぬ。動揺と内的興奮のあとの休息と安らぎの時期であることもある。地上生活に喩えてみれば、身体が栄養摂取のために休息の時期を必要とするのと同じである。地上人類が摂取し得るだけの真理はすでに十分に与えられている。更に多くを必要とする時期までは、それまでの過程が継続される。真理が啓示されるには、それに先立って真理への渇望があらねばならぬ。

――ということは、啓示はまず内部から――つまり、主観的自我に発するということですか。

内部的希求と外部的啓示とが一致するということである。先にも述べた如く、人間は受け入れる能力に余るものは授からぬ。背後霊の指導のもとに徐々に意識を広げつつ、ある段階に至れば一段と次元の高き知識の必要を痛感する。その時こそ新たなる啓示が与えられる時である。神学者の中には、人間自らがその内的思考力によりて理論的ないし思索的思想体系を産み出すのではないかと弁ずる者がいるが、彼らは神の使者たる背後霊の存在を知らぬ。己の思考の産物と思い込めるものも実は背後霊の働きかけの結果なのである。優れた神学者の中には真相近くまで踏み込める者も確かにいる。その者たちがもしも背後霊の存在についての知識を持ち合わせていれば、聖書が完全にして誤りなき啓示であり、一言一句たりとも付加あるいは削除は許されぬものと思い込みたる者よりも、さらにさらに真相に近づくことが出来るであろうにと残念に思う。地上の人間の実生活にとりては、人間の思考作用と啓示との関連について余り細かくこだわる必要はない。分離できぬものを分離せんとしたり、断定できぬものを断定せんとしても、所詮は迷いを深めるのみである。そなたとしては、要するに霊的準備が知識に先行するものであること、進取的精神が真理へのより高き見解をもたらすものであること、そしてその見解が実は背後霊の示唆に他ならぬことを知れば足りる。かくの如く、啓示は人間の必要度と相関関係にあるのである。

真理普及の仕事において人間が頻(しき)りに己の存在価値を求めんとすることに、われらは奇異の念を覚える。一体人間はどうありたいと望むのであろうか。背後から密かに操作することをせずに、直接五感に訴える手段にて精神に働きかけ、思想を形成すれば良いとでも言うのであろうか。奇術師が見事な手さばきで観客を喜ばせる如くに、目に見える不可思議な手段に訴える方がより気高く有効であるとでも言うのであろうか。われらが厳然たる独立性をもつ存在であることを示すに足るだけのものは既に十分に提供したつもりである。われらの働きを小さく見くびることはいい加減にして、われらがそなたの精神に働きかける影響を素直に受け入れてほしい。われらはその精神の中の素材を利用するからこそ、印象が強くなる。われらの仕事にとりて不必要なものも取り除かれるのではないかとの心配は無用である。

――そんな懸念はもっておりませんが、ただ私も自分の個性だけは確信しておきたいという気持ちはあります。また偉大な思想家の中にはもっと広い観点から神の啓示を完全に否定している者が大勢おります。彼らが言うには、人間は自分に理解し得ないものを受け取るわけがないし、自分から考え出した筈もない内容の啓示を外部から受けて、それが精神の中に住み込むことは有り得ないというのですが……

そのことに関しては既に述べてある。それが如何に誤った結論であるかは、いずれ時が経てば判るであろう。そなたはわれらの仕事を何やら個性をもたぬ自発性なき機械の如く考えたがるようであるが、それに対してわれらは断固として異議を唱えるものである。第一、自分の行為をすべて自分の判断のもとに行っていると思うこと自体が誤りである。そなたには単独的行為などというものは何一つない。常にわれらによって導かれ影響を受けておると思うがよい。

〔この通信から数日後に私は新旧両聖書の福音を、この霊訓より得た新しい光に照らして読み直して得た幾つかの結論を述べた。それまでとは全く異なった角度から観たもので、それが正しいと言えるか否か、新しい解釈と言えるか否かを尋ねてみた。〕

大体においてその結論で正しいと言えよう。が、別に新しくはない。これまでも神学的束縛より脱し、障害もこだわりもなく真理を追求せる者は、疾(と)うの昔にそうした結論に達している。その啓示を得た者は大勢いるのである。

――ではなぜ私にその人たちの説を読ませてくれないのです。面倒が省けるでしょうに。

そなたはそなたなりの道を辿りて結論に達するほうが良いのである。それから他人の結論を比較すればよい。

――あなたの態度はいつもそうです。回り道をしているように思えてなりません。仮にあなたのおっしゃる通りだとしても、なぜこんなに永い間私を誤謬の中で生きて来させたのですか。

それは、すでに申した如く、そなたが真理を理解する状態になかったということである。これまでの生活は、そなたが思うほど永かったわけでもないが、進歩のための周到なる準備であった。その時点においては有益であり、進歩を促進するものであった。が、それとても、より高き真理の理解へ導くための準備であったということである。今の段階についても同じことが言えよう。いずれ将来において今を振り返り、この程度のことが何故あれほどまで驚異に思えたのであろうかと、不思議に思えることであろう。

そなたの全存在である生命は常に進歩を求める。しかし、その初期はその後の発達のための準備期間に過ぎぬ。

神学もそなたの訓育のためには通過すべき必須段階の一つだったのであり、われらとしてもそなたがその誤れる見解を摂り入れていくのを敢えて阻止しなかったし、又阻止しようにも出来なかった。これまでのわれらの仕事において、その誤れる教義をそなたの精神より取り除くことが最大の難題の一つであった。が、われらはそれを着々と片付け、今やそなたの目にも、啓示の問題に関し、われらをして誤れる見解を取り除き、正しき知識を吹き込むことを可能ならしめるに要する数々の知識を見出し得るであろう。神学の中にありては如何に尊ぶべきものであろうと、単なる語句に対する因襲的信仰が根を張っているかぎり、われらは何も為し得ぬ。われらとしては、それが聖書にあるなしに関わらず、人間を通して得られる啓示に、それなりの価値をそなたが見出し得るようになるまで待つ他はない。議論に際し、何かというと聖書を持ち出すようでは、われらは何も為し得ぬ。そのような者は理性的教育の及ぶところではない。

イエス・キリストの生涯とその訓えの中には、われらの側より照明を与える前にそなたみずからの判断にて改めて検討し直すべきことが数多く存在する。その生涯に関する記録を検討すれば、多分その信憑性、出所、権威等の問題について再考を促されるであろう。イエスの出生にまつわる話、その語録に基づく贖罪説――イエス自身の贖罪とイエスの御名のもとに説ける者たちの贖罪、奇跡、磔刑(はりつけ)、そして再生へと目を向けるであろう。また神及び同胞に対する責務についてのイエスの教えとわれらの説くところとの比較、祈りについてのイエスの見解と弟子たちの見解、同じくイエスと弟子たちによる運命の甘受と自己犠牲に関する説、慈善、懴悔と回心への寛容、天国と地獄、賞と罰、等々が目に止まることであろう。

今やそなたにはそうした問題について正面より検討する用意が出来た。これまでのそなたはそうした問題については先入的結論をもって対応するのみであった。まずもってその記録の信憑性を検討するがよい。そこに記載された言説のもつ正当なる価値を検討せよ。その上でソクラテス、プラトン、アリストテレス等の哲人の言説を検討するが如くに、イエスの言説を検討することである。誇張的表現を削(そ)ぎ落とし、事実そのものを直視せよ。神がかり的表現を冷静なる理性の光に照らして検討せよ。伝説、神話、因襲の類に過ぎぬものを払い除け、何ものにも拘束されずに、辿りつく結論を恐れることなく、勇気をもって己の判断力一つにて検討してみよ。勇気をもって神を信じ、真理を追求せよ。啓示とは何かについて真剣に、そして冷静に、勇気をもって思考せよ。

そうした勇気ある真理探求者には夢想だにせぬ知識と、いかなる在来の教義も与え得ぬ安らぎを授かることであろう。己一人で求めたことのない者には知り得ぬ、神とその真理とを知ることであろう。一人して遙か遠き他国を訪れ、そこに生活して始めてその国の真実の姿を知り得る如く、神的真理についてその実相に触れることであろう。その者の背後には啓発の任務を帯びる霊団――人類に真理と進歩をもたらすための霊が集結することであろう。かくして旧(ふる)き偏見は崩れ去り、旧き誤謬は新たな光に後ずさりし、それ相応の暗闇へと消え行き、魂は一点の曇りなき目にて真理を見つめることになるであろう。何一つ恐れることはない。イエスもかく語っている――“真理は汝を解き放ち、而(しか)して汝はまさに自由の身とならん(1)”と。

〔私はそれが現実に可能であるならば何を犠牲にしても是非そうありたいと思うと述べた。私は面白くなかった。そして一人で踠(もが)くに任されることに不満を表明した。〕

われらは決してそなたを放置しておくわけではない。援助はする。が、そなた自らが為すべきことを肩代わりすることはせぬ。そなた自身が為さねばならぬ。そなたが努力しておればわれらも真理へと導くであろう。われらを信ぜよ。そなたにとりてはそれが最良の道であり、それ以外には真理を学ぶ道はない。われらがその真理を語ったところでそなたは信じようとしないであろうし、理解しようともせぬであろう。キリスト教の啓示の問題以外にもそなたが目を向けねばならぬものが数多くある。キリスト教以外の神の啓示、キリスト教以外の霊的影響の流れ等々の課題があるが、今はまだその時期ではない。これにて止めよ。神の導きのあらんことを。

(†インペレーター)

〔注〕

(1)

ヨハネ8−32ほか。