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16節

〔思いつくまま反論を試みようとしたところ、制止されて逆に次のような通信が来た。〕

これまで述べてきたところをまとめる意味で今少し述べてみたく思う。そなたは宗教というものが人類全体としては大した影響力をもたぬことを十分に理解しておらぬ。そして、むしろわれらの述べる言説の方が人類の必要性と願望を満たする要素をもつことも理解しておらぬ。どうやら、今そなたが置かれている交友関係とその精神状態では明確に理解し得ぬものをここで指摘しておく必要がありそうである。

人間界に蔓延せる死後の問題の無頓着さが何を意味するかをそなたは理解しておらぬようである。死後はどうなるかについて関心を示す者がたどりついた結論は、これまでの来世観では曖昧にして愚劣であり、矛盾撞着があり、とても得心がいかぬということである。つまり理性的に観れば、神の啓示が全てであるとする聖書には、人間の混ぜものが歴然としており、純然たる人間的産物に適用される判断規準さえも耐えきれぬこと、そしてまた、理性は啓示の判断規準に他ならぬが故に、啓示はすべからく知的判断の範囲外に置き、ただひたすらに信ぜよとの牧師の言葉は、実は決して誤らぬはずの福音の中に数多く発見される誤りと、矛盾を被い隠すための巧妙なる言い逃れの手段であることは容易に知れる。理性という試金石を使用すれば、その程度のことは立ちどころに知れる。理性をもたぬ者のみが盲目的信仰へと避難し、狂信的、偏狭的、そして非合理きわまる盲目的信奉者となっていく。そして教え込まれた通りの因習的教義に凝り固まり、そこから一歩も出ようとせぬ。それもただ、それに疑義をはさむことが恐ろしいからに他ならぬ。

宗教上の問題につきて、理知的思考を禁ずることほど精神を拘束し、魂の発育を歪めるものはない。それは思考の自由を完全に麻痺させ、魂の生長をほぼ完全に阻害する。魂というものはその欲求を満たすと満たさぬとに係わりなく、一つの因習的宗教によりて縛りつけられるものである。魂の生命の糧を自ら選択する自由が皆無となるからである。遠き祖先にとりてはそれで良かったかも知れぬことも、時代を異にして苦悩する魂にとりては全く無意味なことも有り得る。故にその自由を奪われては魂の栄養は誕生する時代と土地とによって決定づけられてしまうことになろう。キリスト教徒となるのも、マホメット教徒となるのも、あるいはそなたらの言う異教徒になるのも、そこに本人の自由選択を行使する余地は皆無ということになる。その神がインディアンの言う大霊となるも、未開人の呪物となるも、あるいはその預言者がキリストとなるも、マホメットとなるも、孔子となるも――要するに、その宗教的観念が世界の東西南北いずれの地域のものであろうと、それが宿命的拘束力をもつことになる。何となれば、いずれの国にありても古来その国なりの神学を生み出し、それが子孫に対して、魂の救済において絶対不可欠の拘束力をもつに至っているからである。

この事実はそなたにとりて熟考を要する問題である。いかなる宗教といえども、地上の一つの国の民族に訴えることはあっても、唯一その宗教のみが神の啓示の全てを包含すると考えるのは、人間の虚栄心と思い上がりが生む作り話に過ぎぬ。いま地上にて全盛を誇る宗教も、あるいは曾て全盛をきわめた宗教も、どれ一つとして真理を独占するものなどは存在せぬ。完全なる宗教などはどこにも存在せぬ。その発生せる土地、そしてまたそれを生み出した者の必要性を満たすそれなりの真理を幾つか具えてはいても、それには同時にそれなりの誤りも多く含まれており、精神構造も違えば霊的必要性も異なる他の民族に押しつけらるべきものではない。それは神よりその民族のために与えられた霊的栄養なのである。それをもって絶対性を主張すること自体がすでに人間らしき弱点をさらけ出している。人間はとかく自分のみが特別の真理の所有者であると思いたがるものである。その妄想にしがみつき、われこそは神の真理を授かれる者なりと思い上がり、世界各地に宣教師を派遣して他の土地、他の民族にもその万能薬を広めねばならぬと真剣に思い込みたる者を見ると、われらはそのけなげなる気持ちに微笑(ほほえ)まずにはおれぬ。もっともその思い上がりを笑われ、その思想を蔑(さげす)まれるのが落ちであるが……

秀れた学識を具えている筈の神学者が、自分に届けられた真理の光をもって唯一無二の真理と思い込み、それに無用の手を加えて折角の輝きを曇らせているが、その光は、これまで地上に注がれた数多くの真理の太陽の光の一条に過ぎぬことに今まで気づかずにきたこと、そして今なお気づかずにいることは、われらにとりて驚異というほかはない。神の真理は太陽の如く、あまりに強烈であり、そのままではとても人間の目では直視できぬ。それは是非とも地上の霊媒を通すことによりて和らげる必要がある。すなわち、光に慣れぬ目を眩まさぬように、人間的伝達手段を通すことによりて幾分か光度を落とさねばならぬ。その中間的介在物を通さずに直接真理の光を見出せるようになるのは、肉体を棄て天上高く舞い上がった時である。

地上の全ての民族にそれ相当の真理の光が授けられている。それを各民族なりに最高の形で受け取り、それなりに立派に育て上げられたものもあれば、歪められてしまったものもある。いずれにせよ結局はその民族なりの必要性に応じて変形されてきた。故に地上のいかなる民族といえども、真理の独占を誇り、あるいはそれを他民族に押しつけんとする無益な努力が許される道理はない。地球が存続してきた限りにおいて、全ての宗教――バラモン教もマホメット教もユダヤ教もキリスト教も、それ独自の特異な真理を授かってきたのであり、ただ勝手にそれを真理の全てであると思い込み、わが宗教こそ神の遺産の相続者であると自負したに過ぎぬ。その過ちを最も顕著に示しているのが他ならぬキリスト教である。教会こそ神の真理の独占者であると思い込み、地上全土にそのランプの光を持ち歩かねばならぬと信じておりながら、その実、教会内部において相対立する宗派が最も多いのもキリスト教であるという事実が、それを何よりも雄弁に物語っていよう。キリスト教界内の分裂、その支離滅裂の教義、互いに神の愛を独占せんとして罵り合う狂気の沙汰の抗争、こうしたことはキリスト教こそ神の真理の独占者であるという愚かなる自負に対する絶好の回答である。

が、この人間的無知の霧に新たな光が射し込む日が近づきつつある。その新しき啓示の普及による啓発の前に、そうした宗閥的勢力争いも消滅するであろう。人類はそなたが想像する以上にその啓示を受け入れる用意が出来ているのである。その暁には、各宗教には中心的太陽とも言うべき神の光の一条のみが与えられているに過ぎぬこと、しかも、その光が人間の無知によりて曇らされていること、しかしその奥には真理の芽が隠されていることを知るであろう。故に人間は他民族の信仰の中にも真理を見出し、それなりの教訓を学び取り、邪を棄て善を摂取し、人間的過ちの中にも神を見出し、これまで己の欲求にそぐわぬと思えたものの中にも神聖なるものを認識せねばならぬ。

われらがその普及を使命としているところの壮大なる霊的教訓は、理性的観点からすれば、合理的にして且つ崇高なるものであり、その普及によりて、これまで宗教の名を辱しめ、神学を世間の嘲笑の的としてきたところの宗閥的嫉妬心と神学的暴言、憎悪と悪意、怨恨と偽善が地上より払拭される日も間近い。それにしても、何たる醜態であることか! 本来ならば神の本性を明らかにし、そうすることによりて神の愛を少しでも魂に吹き込むべき神学であるものを。ああ、それが事もあろうに宗派と分派の戦場と化し、児戯に類する偏見と見苦しき感情をむき出しにする不毛の土地と化し、神につきての無知を最もあらわにさらけ出し、神の本質と働きにつきて激しく非難し合う佗しき荒地と化してしまうとは! 神学! これはもはやそなたらキリスト者の間でさえ侮蔑をもって語られるに至っているではないか。神につきての無知の証とも言うベき退屈きわまる神学書は、見苦しき悪口雑言、キリスト者として最もあるまじき憎悪、厚顔無恥の虚言の固まりである。神学! 聖なる本能の全てを掻き消し、敵に向けるベき攻撃の手を同志に向け、聖者の中の聖者とも言うべき霊格者を火刑に処し拷問にかけ八つ裂きにし、礼遇すべきであった人々を流刑にし或いは追放し、人間として最高の本能を堕落させ、自然の情緒を掻き消すことを正当化するための口実とされて来たではないか。何たる悲しきことであることか。そこは今なお人間として最低の悪感情が大手を振って歩く世界であり、その世界より一歩でも出ようとする者を押し止めんとする。“退(さ)がれ! 退がれ! 神学のあるところに理性の入る余地などあるものか”これが神学者の態度である。真摯なる人間を赤面せしめる人間的煩悩の殆ど全てがそこにあり、自由なる思索は息切れし、人間はあたかも理性なき操り人形と化している。

本来ならば神について語るべき叡知を人間はそのような愚劣なる目的のために堕落させて来たのである。

しかし、友よ、われらの目的成就の日も間近い。神学による悪癖をいつまでも放置しておくわけには参らぬ。今はまさにイエス・キリストの降臨前と同じである。夜明け前の漆黒の闇と同じである。無知という名の夜が足早に過ぎ去りつつある。聖職の権能によりてがんじがらめにされた魂がその束縛を断ち切り、常軌を逸せる愚行、無知が生む偽善、そして曖昧模糊たる思索の産物に代わりて、理性を得心させる宗教と信仰を手にする日が訪れよう。その時は神につきてのより豊かな概念と、人間の義務と宿命につきてのより正しき見解を手にするであろう。人間の言う死者が今なお生き続けていること、それも人間より一段と生命の実感をもって生きていること、しかも地上時代と変わらぬ情愛をもって加護に当たっていることを知るであろう。

キリストは地上に生命と不滅性をもたらしたと聖書にある。その言葉は筆記者が意味したより広き意味にて真実である。キリストによる黙示の成就は――今まさに成就されんとしているのであるが――真実の意味における“死”の観念の撲滅であり、生命の不滅性の実証に他ならぬ。その偉大なる真理、すなわち、人間は永遠に死なぬということ、たとえ死にたくとも死ぬことが出来ぬという事実の中に、未来への鍵が託されている。信仰の一つとしてでなく、教義の一項目としてでもなく、生きた知識と現実の事実の一つとして、生命の不滅性は未来の真の宗教の基調であらねばならぬ。われらの説く深遠なる真理も、崇高なる義務の概念も、壮大なる宿命の観念も、人生の真実の悟りも、すベてその生命の不滅性の上に成り立つのである。

今のそなたには理解できぬかも知れぬ。炎に慣れぬ魂は目が眩むことであろう。が、やがてわれらの言葉の中に真理のしるし――神性の一面を認めるようになる日も来よう。

(†インペレーター)